アメリカの1年  
One Year of the Life in America

アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー

1985年11月〜1986年9月

清家 一雄: 重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
Kazuo Seike

ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業

財団法人 広げよう愛の輪運動基金
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
『脊損ニュース』1986年4月号〜
全国脊損連合会

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長
清家 一雄

第12回報告




 今回の最終回で、何故普通の頚髄損傷者が日本で一人暮しができないのか、どの様な条件整備が行なわれれば可能になるのか、日本での展望、を考えてみたいと思います。そして頚髄損傷者などからの声も紹介します。ご意見、ご感想をお待ちしています。
(連絡先:〒81 福岡市・・・、Tel.092-・・・, FAX092-・・・)


頚髄損傷者の自由の達成、日本での展望と課題


★頚髄損傷者の不自由と強さ

 ◆頚髄損傷者の自由達成の具体的な現れとしての仕事

★健康

★介助者サービス

★住居と物的資源

★通信と移動

★将来への展望

終わりに

読者からの声

 ◆頚髄損傷者(他の四肢麻痺者も含む)からの声

 ◆その他の人の声

謝辞

1988年6月16日

The Termination of my Journey
Thanking for Everything



[写真説明1]

[写真説明1]

[1] マクシー。

 メジャーリーグのボールゲームを見るために野球場に行った。

 パラクォッド所長夫人が、
「赤ちゃんを抱っこしなさい。 写真を撮ってあげる」
 と言った。
赤ちゃんは可愛かったが、僕は、
「もしおっことしたら大変だ。
頼むからじっとしていろ」
と必死だった。
ミズーリ州セントルイス、1996年8月



[写真説明2]

[写真説明]

[2] グランドキャニオン遊覧飛行機。
 初めてプロペラ機に乗った。
車椅子で機体の真下まで近づいて、操縦士達が抱え上げてくれた。
機体が小さくて、9人乗りぐらいだった。
乗ったり降りたりも大変だったが、座席も小さく中で座っているのも大変だった。
風船みたいにフワリフワリ飛ぶ。
ジュースのコップが搖れないジェット機とはまったく異なる乗り心地だ。
しかし、低空を低速で飛ぶので機内からの眺めはよい。

 足もとに不毛の大地が延々と続く。
凄い景色。
とにかく雄大。
人生観は変わらないまでも、強烈な印象だった。
双発プロペラ機からラスベガスを見下ろすと、プ−ル付きの家ばかりだった。
グランドキャニオン、1996年9月



[写真説明3]

[写真説明3]

[3] ディズニーランドで栗鼠と。

 ディズニーランドは天気だけは最高に良かった。
僕にとってはディズニーランドはそれほど面白くはなかった。
僕はやはり人間からより多くの刺激を受ける。
大人が楽しむと言う子供向けの遊園地では退屈してしまった。
電動車椅子でなかったせいもあるのかもしれない。
カリフォルニア州ロサンジェルス、1996年9月



[写真説明4]

[写真説明4]
[4]メキシコのチュワナ。

 陸続きの国境は初めてだった。
国境を越えてメキシコに入るのは何も問題はない。

 チュワナは原色が目につく雑然とした町だ。
アメリカに比べるとさすがにゴミゴミしている。
しかし、人間は多く活気はありそうだ。

 アメリカに戻る国境はチェックが行われ、混でいて、どのゲートも長い列が出来ていた。

 国境の物売り。
人形などを買った。
子供が喧嘩していた。
国境のゲートでパスポートを見せた。
メキシコ・チュワナ、1996年9月



[写真説明5]

[写真説明5]

[5] ロサンジェルスの夜。

 ダウンタウンの高層ビル群が見えてきた。
LAの中心街も東の方は荒廃していて見るからに治安が悪そうだった。
が、メインストリートのビルの高さ豪華さはさすがだった。
ニューヨークほどではないがアメリカの富が集中しているという感じだ。
ただLAの方が遥かに広い。
道路も発達していてい、スペースが十分にある。

 ガイドブックに載っていたレストランに行った。
凄く高級そうなホテルの最上階にあった。
丘の上にあるので高さも高い。
ホテルの駐車場の料金が高い。
レストランも覚悟して行ったが、それほどムチャクチャには高くなかった。

 景色は凄く良かった。
LAの大平野が一望できた。
しかもそれが美しい豪華な夜景に変わっていく。
ヘリが飛んでいた。大都会だ。

カリフォルニア州ロサンジェルス、1996年9月



[写真説明6]

[写真説明6]

[6] ハワイのホテルで。

 ワイキキビーチに面した応接間からバルコニーに出て見た。
ダイアモンドヘッドが見えた。
ベッドルームの窓は太平洋に面していた。
窓を閉めるとエアコンがかかる。

ハワイ、1996年9月



[写真説明7]

[写真説明7]

[7] 成田空港。

 日本に帰ってきた。
愛の輪基金新事務局長とリハ協職員が迎えに来てくれていた。

成田国際空港、1996年9月



[写真説明8]

[写真説明8]

[8] 福岡空港。

 福脊連会員の人達、高校の友人、両親が出迎えにきてくれていた。
とうとう家に帰ってきた。

 旅の終わり。すべてのものに感謝。

福岡国際空港、1996年9月


The Termination of my Journey
Thanking for Everything




終わりに


 何もしないで節約・現状維持するのには限界がある。
まして頚髄損傷者の自由達成という問題を解決するためには、頚髄損傷者自身が、活動して人生の行動半径を広げて行き、生産的な人間になるほうがよいだろう。

 そのためにはどうすれば良いだろうか。
[1]障害をもつ個人の生き方と
[2]援助のシステムのあり方が問題になるだろう。

 複数パートタイム介助者体制という援助システムに関してアメリカで実際に生活し実験し、その有効性を実証できたと思う。
それとともに物的資源と精神的にしっかりすることの必要性についても明らかになった。

 現在、日本でアメリカの体験を生かしながら生活している。
そして頚髄損傷者の自由達成という問題に対する、日本での解決策・限界を越えた実践的提言・展望として有料介助者サービスとサービス費用の援助を提言した。

 日本での住居入手などさらにまた限界が生じている。
また個々の問題解決に取り組むことに戻らなければならないだろう。
こういったことの繰り返しにより、頚髄損傷者の自由達成という課題は少しづつ解決され、頚髄損傷者の個人の尊厳、自由の実現、生活の質という目標・価値の実現に向かって少しずつ前進するのかもしれない。


 あまりにも自分自身の問題について書いてしまった。
事実を客観的に把握して伝えているかどうか、主張が視野の狭いものになっていて独りよがりになっていないかどうか非常に不安だ。

 てれもあった。
全部は書いていない。
ただ、ストレートには書いていないが、
「目を覚ませ頚損!」
というメッセージを送り続けてきたつもりだった。



読者からの声


 12回の連載は、楽しかったが、やはり長かった。
続けることができたのは読者からの反応があったからにほかならない。
もし、この「アメリカの一年」が、頚髄損傷者にとって、少しでも役に立つ情報であり得たら、また、なんらかのメッセージを感じ取っていただけたら、それは、執筆中にいただいた読者からのお便り、感想、疑問、批判、励ましなどを初めとするバックアップのおかげだと思う。
ここに感謝の意をこめて読者からの声のほんの一部を掲載させていただく。


 ◆頚髄損傷者(他の四肢麻痺者も含む)からの声


「アメリカの雰囲気が伝わってくる。
アメリカでの生活の方法、試行錯誤、具体的に書いている。
特に介助者を雇って生活を始めるところ、入院のところ。
アメリカで生活を始めようとする人に参考になる。

 以前は、抽象的で、何かがあったらしいとぼんやり分かるくらいだった。
英語、カタカナが多く、読みにくく分かりにくかった」


「忍耐の精神、恥をさらすな、というおしん的精神は日本人特有の性格らしい」


「火事は大変でしたが今思えば貴重な経験になりますか。
自分があの立場の時、どの様な態度をとったかをまず思いました。
一人では逃げられない。
けれど少し歩ける私はギャーギャーと騒いだことと思います」


「この前は色々とインフォメーションありがとうございました。
アテンダントとの関係等、私が来る前に教えてもらっていたらなあーと思いました」


「言うことを聞かない介助者を当然と思った方が良い」


「“一太郎”(パソコンのワープロソフト)ばかりするんじゃない。
介助者に手を合わせて拝んでおけ」


「貴方も波乱万丈、艱難辛苦!を乗り越えて無事に凱旋された事と推察申し上げておりましたが、留学記を拝読するに及んで頚髄損傷者として想像以上に大冒険に果敢に挑まれている事に感動致しました。

 私は、昭和35年春、九州へ出張となり張り切ってやって参りましたが、数メートル墜落して頚髄損傷者となり、以来28年頚損稼業を続けております」


「アメリカ人一般の合理気質はテレビ等で聞いてはいましたが、介護者までもがそれ程までに、給料と徹しきっているというか、仕事と割り切っているというか、びっくりしました。
私たちには有難いような、冷たいような、複雑な気持ちです。

 私には尿閉の話が身につまされ興味があり、アメリカでの医療システムや訪問看護、介護者の考え方、等も良く分かりました。
そして、あまりにも強烈な印象を受け、その夜は寝苦しかったです。

 私自身8年前その経験があり思いだしたからです。
血圧は倍ぐらいに上がり、吐くし、後頭部から首筋がガンガンして、体は身の置き所がないような気だるさにおそわれて、このまま死んでしまうのでは、と往生したことがあるのです。
それだけでなくその後も1ケ月ぐらいは排便のための浣腸をするたびに、頭がガンガンする後遺症におそわれ、
又尿が詰まったのではないだろうか?
今日はどれくらいのガンガンだろうか?・・・
それこそノイローゼだったのかも知れません。

 1.情報センターの設立(広範囲だとぼやけるので頚損者だけのもの)

 2.介護者。各市には家政婦会ぐらいあると思いますが、小さな市では”脊損”を知らない家政婦さんが殆どのようです。
奥さんに入院されて、頼んだ家政婦は排便方法が解らないというので、2週間カロリーメイトを食べ、排便を我慢した頚損者が近くにいます」


「私はC-5の頚損者です。水泳の飛び込みによる学校災害です。

 興味を引かれたのがローホークッションです。車イスに乗っていても座骨のことが気になって、やりたいことの十分の一もできないような状態なので、なんとか解決策を見つけだしたいと思っているところです。
このところ情報がいかに大事か身に沁みて感じています。
電話や手紙を通じて多くの頚損者と情報交換をしたいと思っています」


「アメリカでの一年 大変だったのですね。
僕も、もう一つ、二つ下を傷ついていれば呼吸の苦しみなどから逃れられたと思います。
しかし、生きている以上、死ぬ迄頑張るしかありませんね。
医学が進歩しているので良い事があることを願いたいです」


「私達も(息子)を一日も早く一人で生活出来るようにする事が夢であり、目標です。
(息子)の場合、頚椎脱臼骨折(C4)で四肢マヒ呼吸不全で神経感覚は肩迄しかありません。
ベッドでの体交も一人では出来ません。
せめて片腕だけでも思いのまま動いてくれたらと、願うばかりです。
清家さんの活動の記事、うらやましく思います。
C4とC5、一つ違いですが大変な違いがあると思うのが実感です」


「よく単身でアメリカに行く気になったなーと思います。
私なら、言葉、生活、慣習の違う国にいくら誘われても、お断りします。
国内の温泉くらいなら喜んで行くでしょう。

 清家君の若さがアメリカに行ってなんでも、見て、聞いて、試してやろうとさせたのかなとも思っています。
でも、九州労災病院に入院してた頃はまだ若かったが、もう確か30才過ぎてるよナー、
おじさん族の仲間に入っているわけか。

 私の両親も70を過ぎています、
今の生活がいつまで続けられるか、
それかといって病院の生活に逆戻りするのもいやですし、
なにかよい方法でもないものかと考える日もあります」


「緊急事態、尿閉による入院。
自律神経過反射で私自身、十年近くも尿閉に悩まされているので、その大変さはよーく理解できます。

 京都のメンバーとの話の中で話題になるのは、特に排便の管理についてです。
代償便意も弱く、かんちょう、摘便、そして便失禁のある頚損者がアテンダントを使った自立生活を考えるとき、ではいったいアメリカの頚損者たちは実際にどうなのだろうか、という疑問につきあたります。
(頚損者側の心理的抵抗が根底にあります)

 アメリカの様子がとても具体的に書かれていて、自立生活の厳しさがよく理解できます。
一つ意外だったのは、けっこう不便な生活ぶりだったんだなぁという点です。
たとえば入浴、シャンプーの不便さ等」


「交通事故の受傷から16年、ただなんとなく生きてきた。
しかし9年前、電動車イスの寄付を受けて受けてからは、家に閉じ込もることなく毎日外出し、気分転換している。
それなりに楽しみも見つかった」


「時間外で、電話すれば、都合がつけば来るという介助者。こういうのがぜひ必要。とくに失敗したときに。

 一人暮らしするために、風呂・トイレを改造した15坪坪ぐらいの一軒家が欲しい。

 10年間病院に入っていて、労災から1年200万もらい、2,000万貯めるというのもひとつの方法だ」


「噬Aメリカの一年宸読み、私は一人暮しに踏み切りました。
私はポリオによる1級の身体障害者です。
首以下は左の腕と指しか思うように動かないので、生活はずっと全面的に介助してもらっていました。
一人暮しって夢でも考えられないことでしたが、去年の末から始めました。
一人暮しといってもホームヘルパーとパートの人に週5回来てもらっていますし、友達の助けに頼っているところもかなりあります。
しかし、名義上は一応一人暮しです」


「私は頚損三十年になります。
そして、いつも思うことは、囃mる宸アとの重要さです。
ブッダーもインドの言葉で知るということです。

 昨年、アメリカに行った時も、大変助かりました。
日常生活にも大助りです。
私達の自立は苦しいことが多く、お互いに情報交換の大切さを痛感します。

 眠れぬ夜、眠れぬままに闇を視る」


「米国の頚損も大小便、失禁、じょくそうなど日本人と同じような身体的問題で悩んでいる(No.2)ことを知った安堵感。

 日本の頚損は受忍・忍耐という消極的不作為の方向で苦労するが米国では積極的作為の方向で努力苦労する(No.6)という指摘に、小生、自分はやっぱり日本人だったということをしみじみ思いました。

 施設とか、在宅とかで考えるのではなく、何をして生きるかだ。家に居るのは酒を飲むためという人もいる」


「日本にもCILのような障害者自身を教育していくようなシステムがあればと思います。
日本の現状に合った日本型のIL movement or IL systemを作っていく時期に来ているのではないでしょうか。
又、IL運動の欠点まで踏襲することもないので、CPや精神薄弱の人たちの問題まで考えていく必要があると思っています。

 動いている人間だけの会になってはいけない」


「条件作り。

 頚髄損傷者達に情報が伝わってきていない」


「私達一人一人も心から自分自身の身体をいたわらなくてはならないと思うし、それが仕事のように感じる事もあります。何よりも本人が体を大切に思うことが、他の人が大切にしてくれることにつながる気もします。こわれた体を持っている私達の毎日の課題ではないかしら。

 人と自分との関係 いかに心よく相手の人に手を貸してもらうか・・・と考えているのは、私だけじゃないと思います。自尊心が傷付くからと言って頼むことをやめたなら、一日中、ベッドか、あるいは車イスにいなくてはいけなくなりますものね。どうしても助けが必要です。そしてまたその自尊心が、私の顔をこわばらせるなら相手の人をどれだけ疲れさせることか。そのことが、また自分に帰ってきて自分の体を境遇をなんだかんだとのろい始めたりなんかもします。明朗な声と笑顔が人との関係の中に、どれだけ必要かってことは、身にしみて感じるのですよね」


「アメリカではケア付住宅(スウェーデン・フォーカス・アパートのような)のようなものはないのでしょうか。又、施設は出たいが一人では不安、個室があって4・5人で暮せればという頚損者はいませんか、それとも施設自体が、個室でアパート感覚で暮せてしまうのでしょうか」


 ◆その他の人の声


「どんな困難な冒険でも若さと強い意志で挑戦することは出来るでせうが、やはりそれを達成するためにはその裏には慎重な細かい計画と注意が絶えず行われていなければならないと思います。  特に体調(健康)にはくれぐれも気をつけて下さい。予防のできる事を不注意で失敗しないように。褥瘡を作れば挫折せざるを得ませんのでくれぐれも気をつけること、早めに発見して手当をすることです。  以前に米国のC.I.L. を何ヶ所か訪問しましたがものすごく重度の人がちゃんと生活して居ます。何人かは日本にも来たことはご存知の通りです。先方に出来ることならこちらが出来ないことはないという自信を持って行ってらっしゃい」


「日本にいてはアメリカの実状は本当には分からない。アメリカに来られて良かった。  ミスタードーナツやJSRD(リハ協)が、貴重なお金を出してくれているのだから、一日一日を充実させなければいけない。とくに、いつ帰らなければならないのかが分からないのであれば。  カセットに吹き込むなど、記録を取っているか」


「アメリカの生活にも少しずつ成れてきたと思うが、アメリカは自立、自主を方針としているため、大変な苦労であろうと推察する。しかし、このことは君自身の将来および日本における重度身障者の発展に対して有意義な研究であるので頑張り、頑張って下さい。  健康に注意して所期の目的を達成して下さい」


「研修といっても、レポートの内容とか集めた資料の多さだけが問題なのではありません。”アメリカで日々の生活を実際に体験する。しかも障害者として。”これは貴殿にしかできないことです。だからこそホテル住まいでなく、アパートに住んで自炊していただいているのです。沢山友人を作って、そちらの障害者の生活を本音のところで見てきて下さい。そのためには時間がいるでしょう。  そして、またそのために、アテンダントやボランティアなりをうまくコントロールして利用することや、自分自身の健康管理は自分しかできないと言いきかせて、管理すること、特にエマージェンシーの対処など勉強して下さいね。  私達は、”そこで暮らすこと”、”CILを媒介としてアメリカのいろいろな障害者の生活や考え方を知ること”、こそCIL研修の最大の目的と考えています。  ”生活すること”が研修なのだとぐらいゆっくり考えて、(でも家にいただけでは何も起こらないでしょうから、CILにも通って、)研修して下さい。  また楽しいそして苦しいレポート待っています。しかし、清家さんにとってレポートを書くことが負担になりすぎていないかなと心配しています。(必要最低限のことは知らせてもらわないと困るけど)」


「云いたいことが素直に伝わってこない」


「読ませていただき、そろそろ具体的な提案の必要があるかと思いました。仕事を含めて、自立した生活の必要性を社会に知らせていくことを第1歩としたらどうかと考えています。重度の身体障害でも社会生活をしたいし、条件が整備されればできるということを社会に理解させることが、今、必要ではないかと思います。  (J)後半は大変重い問題提起で考えさせられました。運動の形態としてはどちらか一つという選択ではなく、並行させた運動が必要だと思います。ただ、全国脊髄損傷者連合会、あるいは頚損連絡会という運動体で考えるときに動ける人の意見は反映されるけど、動けない人たちの意見を反映させるにはどうして行ったら良いか、というとき、その人たちの意見を組織する方法が必要と考えています。  清家さんの囎ト国留学報告宸単に報告に終わらせず、今後の運動につなげるような形で問題提起を要求するのも、私自身、全脊連にどう関わっていったら良いのか、示唆してほしいという気持ちからです。」


「キャシー、誰がどのように彼女の生活を支えているのか」


「嚴ゥ分は一日35ドルのサラリーマンだ宸ニ言った、というのに私は鮮烈な印象を受けました。これが囀常のメカニズムとしての福祉宦Aあるいは、日常ビジネスとして機能している福祉なのだ、と感じたからです」


「こうして社会的活動が始まったのはとてもいいことと思います。自分の置かれたところから、社会を見る、きみでなければ見えて来ないところを、大いに書いて下さい。  切り捨てる前に、抱え込んで、悩むところからしっかりした分析も生まれて来ましょう」


「アメリカ、特にベイエリアでこの制度が根付いていくまでの経緯などもっと詳しく知りたい」


「実をいうと第1回の報告を読んだ時、何んといおうか、文章が堅いと言うか、箇条書というか、清家さんなのかなー、と思っちゃいました」


「”事故で障害を”ということは耳にしましたが・・・ あまり障害から立ち直りどうやって ACTIVE な生活にもどった話など聞かない」


「どうしてそんなに導尿介助を拒否したんでしょう。やはり何かあったら損害賠償で裁判ざたになるのを恐れていたのかしら?!。でもその一件がなければ複数介助制への移行ももっと遅れていたかしら」


「前はストレート過ぎた。思い入れを書いていた部分に小難しい言葉が並んでいた」


「ネタが切れたんじゃないですか」


「何故、清家さんが日本で一人暮らしが出来ないのか?。読んでみるとアメリカではそれほど設備の調った家に住んでいたのではなかったようだか。  アメリカの方が物価が安いのではないか。日本の方が物価が高いのではないか。1日35ドルで介助料は足りたか。1日35ドルのサラリーで介助者はやっていけるのか。  コロニーは嫌いだが、頚髄損傷者で共同生活をするというのはどうだろう」


「自律と自立の文字がありますがどちらを用いた方が良いのでしょうか」


「しかし、可能ならば収入に結びつく仕事をしていかなければなりませんか」


「またみんなでアメリカに行きたいよな」


「独立したかろう?」


「(I)何でもできると思っている人にとっては出来ないことや、困っていることが分かるだろうが。以外と色々出来ることが分かる」


「だけど現実には自分もしくは自分にとって近い人がそういう事故にあわなかったら頚髄の何番めを受傷するとどうなるとか、受傷場所の一番差でどんなに身体的に違うか、なんていう事は、ほとんどの人が知らないと思います。  You must be strong は実際その通りだとしても、同じ立場になって自分自身に自信を持って生きている人でないと言えない様な気がします。  あなたが思う様に歩くズボンがあればどれ程いいか・・と私も心からそう思います」


「CPの女の子に見せた。CPの女の子は施設で育って狭い世界しか知らないから、書いてあった広い世界にびっくりした。  私としては、やはり清家さんが、12回目のテーマとしようとしている中身が、楽しみです。他の読者も11回までにアメリカの事を知って、そこで”さーでは日本ではどうしたらいいんだ??!”という所にたどりついたと思いますし、それが、一番の関心事であろうと思います。  書けること、書く場を与えられていることは、幸せな事だと思うし、そういう人は、そうでない人のために、ドンドン書かなくっちゃ・・・」


「優しい読者としてではなく、@同じ仲間として、A技術的に如何に対処し、Bどのようなことを、Cどのように解決したか、D或は解決しようとして思っているか、など具体的興味をもつ読者として、読みました。感心したり、おやと思ったり、質問したりしたくなったりしながら、今日まで読んできました」


「お疲れさまでした!!  ひとつのことを決めて、つらぬき通すのは大変なこと。ほんとうにご苦労さまでした」




謝辞

 「アメリカの一年」連載にあたっては、東京都神経科学総合研究所松井和子先生と井沢隆事務局長にとくにお世話になった。伊藤全国脊髄損傷者連合会会長、白石前福脊連会長のご配慮もあった。また、介助サービスなしには生存さえ不可能な僕の執筆を実際に可能にしてくれたのは日本の介助者達だった。ここにあつく謝意を表する。

 この噬Aメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告宸ノは、アメリカの介助者達を初めとする、数え切れない人達の協力と援助があった。受入れ先のCILバークレー所長夫妻、パラクォッド所長夫妻、アパートで火事に会った時の消防士達、体調を崩した時世話になった医師や訪問看護婦、その他多くの人々のサービスや援助を米国内で受けることができた。また、ピア・カウンセラーとして協力された米国の障害者の方々、ロールモデルとして協力された自立生活運動の活動家の人々や、その他の調査に協力された友人達に深く感謝の意を表する。

 その米国留学に協力援助された日本障害者リハビリテーション協会、広げよう愛の輪運動基金、総合せき損センター赤津隆院長、同センター岩坪暎二泌尿器科部長、松尾清美氏および医用工学研究室研究員、九州リハビリテーション大学アイリーン山口、山口ともね両先生、向坊弘道氏、溝口博外科整形外科病院院長、北島医師、および家族に深く感謝する。


1988年6月16日



The Termination of my Journey
Thanking for Everything









「アメリカの一年」の目次ページへ


第1回報告

  • One Year of the Life in America America(1996/12/3)

    第2回報告

  • One Year of the Life in America America(1996/12/6)

    第3回報告

  • One Year of the Life in America America(1997/1/4)

    第4回報告

  • One Year of the Life in America America(1997/1/10)

    第5回報告

  • One Year of the Life in America America(1997/1/10)

    第6回報告

  • One Year of the Life in America America (1997/2/14〜1994/2/15)

    第7回報告

  • One Year of the Life in America America (1994/2/15)

    第8回報告

  • One Year of the Life in America America(1994/2/15)

    第9回報告

  • One Year of the Life in America America(1994/2/15)

    第10回報告

  • One Year of the Life in America America (1994/2/16)

    第11回報告

  • One Year of the Life in America America (1994/2/16)

    第12回報告

  • One Year of the Life in America America (1994/2/17)






    "WORKING QUADS"ホームページへ




    メールアドレス: Kazuo_Seike@msn.com