アメリカの1年  
One Year of the Life in America

アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー

1985年11月〜1986年9月

清家 一雄: 重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
Kazuo Seike

ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業

財団法人 広げよう愛の輪運動基金
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
『脊損ニュース』1986年4月号〜
全国脊損連合会

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長
清家 一雄

第9回報告




 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)での僕自身の生活のうち生活処理資源の中物的資源の中の改造自動車、資金、情報、人的資源・介助者(複数のパートタイム介助者体制)を中心に報告します。

 今回でこの報告も第9回目になりました。アメリカでの自律生活の実験と介助者サービス事業の実態と僕の考えなどについて、勝手なことを書いていますし、記述に不正確な点も多いだろうと考えています。しかし若年で受傷した高位頚髄損傷者の1人としての率直な声です。御感想、御批判、御助言を頂ければ幸いです。



 [7] 改造自動車、


    2.資金

    3.情報

    4.人的資源−介助者

 [1] 複数のパート・タイム介助体制への移行

 [2] 必要介助と介助者の賃金

 [3] 募集方法

 [4] 採用時の契約条件


[写真説明1]

[写真説明1]
[1]セントルイスCIL所長マックス(Max J. Starkloff)のルノー。
運転はできないが、車椅子のままでの乗降のためのリフトの操作は高位頚損者自身ができる。
ワシントンD.C.、1996年6月



[写真説明2]

[写真説明2]
[2]ジム(Jim)、C5頚髄損傷者。
ボストンCILトランジーショナル・ハウスの短期間プログラム・ディレクター。
トランジーショナル・ハウスで。
彼の電動車椅子の最高速度は時速13マイル。安全ベルトを使っている。
マサチューセッツ州ボストン、1996年6月


 [7] 改造自動車、

 自動車は地下鉄やバスとならんで僕のアメリカでの外出手段の一つだった。僕は一人では電動車椅子から他の座席への移動ができないので、電動車椅子のまま乗れるリフト付バン以外の自動車の移乗には介助者が必要だった。ボストンでは僕と同じ損傷レベルでC-5頚髄損傷者だが自分で改造自動車を運転していたジムと会った。

 1986年6月、ボストンの友人のアパートに滞在していた時、トランジーショナル・ハウスに出掛けた。ボストンCILは、障害をもつ個人を病院、施設、ナーシング・ホーム等から地域社会に出すための通過点としてトランジーショナル・ハウスという居住型のプログラムを持っている。

 アパートから行くのに、電動車椅子のままボストン市内を走っていたバスを使ってみた。ボストンのリフト付バスには2種類あったが、リフトがバスの中央のドアに付いている設備の良い新しい型のバスに乗った。目的地を乗り間違えていたが、親切な黒人のおばさんのドライバーが、彼女のボスの許可を得て、僕達のためだけにバスを動かしてくれた。バスは快適だった。

 トランジーショナル・ハウスでは最初に、チンコントロールの電動車椅子を使っていたC-4頚髄損傷者ともう一人の電動車椅子を使っていたトランジーショナル・ハウスの入所者・利用者・住人に会った。彼らの部屋に入れて貰った。良く設備の整った冬暖かそうな部屋だった。僕自身が電動車椅子を使っているからだろうが、勿論事前の連絡も入れているが、障害者関係の場所では大体いつも僕はフリーパスだった。

 短期間プログラム・ディレクターのジムと会った。彼はC-4・5の頚損者だった。15年前、2人の男に飛びかかられたたかれて受傷し頚髄損傷者になった。ジム自身、古い方のトランジーショナル・ハウスの卒業生だった。

 1万ドル(1ドル200円のレートで200万円)のフォードのバンに1万6千ドル(320万円)の改造費を掛けて、ジム自身が運転できるようにしていた。

「バン自体は自費だが、改造費は職業リハビリテーションの方から出た。
最初に運転免許の申請に行った時は、痙攣が強いと言う事で却下されたが、その後、服薬で痙攣を押さえて再度申請したら認可された。
ブレーキとアクセルを操作する右手は弱いが、短い棒を着けてハンドルに差し込み、それを回す左手はまあまあ強い」
 とジムが言った。

 ジムは特殊な磁気の着いた棒で車の鍵をあけ、リフトを使って電動車椅子のままバンの中に入り、運転席で電動車椅子を最も良い位置でで固定して運転していた。

 彼の電動車椅子の最高速度は時速13マイルで安全ベルトを使っていた。

 僕が、
「そんなに速い電動車椅子があるなら自動車なんか要らないじゃないか」
 と言うと、
「寒い日や雨の日に要るんだ」
 と言っていた。

 ジムは、
「アパートに一人で住み、パート・タイムの介助者が来る。
介助者は週に37時間だ」
 と言った。

 同じ日に会ったトランジーショナル・ハウスの長期間プログラムのデレクタ−の話では、
「通過プログラムのトランジーショナル・ハウスには、9カ月以内の短期間プログラムと3年以内の長期間プログラムがある。
しかし例外で5年居る人(女性)もいる。
私達は追い出すことができない。
最大の問題は住居を見つけることだ。
ボストン市内は、利用可能で、楽しい所や便利な所がたくさんあり、他所からトランジーショナル・ハウスに来た障害者もボストンに住む事を希望するが、住居を見付ける事は難しい。
ボストン(米国)にはセクション8ハウジングと言う法律があって、その建物が建てられた時、政府の援助を受けたものであれば、障害者はその収入の30%を家賃として払えば良い事になっているが、実際にはそのようなアパートに入る事は難しい。
アテンダントは住居程重要な問題ではない。
あと、このプログラムのディレクターとして、トランジーショナル・ハウス内でのアルコールやドラッグの問題などがある」
 ということだった。

 後でジムに、
「ボストン市内で利用しやすいシーフードのレストランを教えてくれ」
 と頼んだら、
「俺はシーフードは食べない。
肉しか食べないんだ」
 と言いながら、他の職員に聞いて教えてくれた。

 ジムと話してみて、また彼を見ていると、バークレーとは少し違うタイプだが、メディケイドを基礎にして、マサチューセッツ州ボストンにも障害者のおとぎ話の国があるんだなあ、と言う気がした。最後にまたC-4頚髄損傷者の人の部屋に寄って、トランジーショナル・ハウスを後にした。

 ジムはC-5高位頚損者でも改造自動車の使用で運転免許を取得でき、介助者なしで外出が可能となり、仕事や障害者運動の参加も可能となるということを体現していた高位頚損者の生活例だった。

 日本、アメリカ、国籍を問わず世界の障害者は、日常生活の自由を拡げてくれるディバイス、グッズなどを必要としている。歩くズボン、握る手袋みたいなのができれば、もう最高なんだけれど。




[写真説明3]

[写真説明3]
[3] ジムが彼の改造自動車・フォードのバンへ乗り込んでいるところ。
ジムは特殊な磁気の着いた棒で車の鍵をあけ、リフトを使って電動車椅子のままバンの中に入る。
マサチューセッツ州ボストン、1996年6月



[写真説明4]

[写真説明4]
[4] 運転席で電動車椅子を最も良い位置でで固定して運転していた。
マサチューセッツ州ボストン、1996年6月



[写真説明5]

[写真説明5]
[5] ジム自身が運転できるようにしていた運転席。
ブレーキとアクセルは右手で操作する。
左手に短い棒を着けてハンドルに差し込み、それを回す。
マサチューセッツ州ボストン、1996年6月



[写真説明6]

[写真説明6]
[6] ボストン市内のバス。
リフトが大きく乗り降りが非常に楽だった。
マサチューセッツ州ボストン、1996年6月



[写真説明7]

[写真説明7]
[7] ボストン市内のバスの中で。
快適だった。
マサチューセッツ州ボストン、1996年6月



[写真説明8]

[写真説明8]
[8] ヒューストンのNASAで。
高校時代の友達と。
テキサス州ヒューストン、1996年6月






[写真説明9]

[写真説明9]
[9] 高校時代の友達と。
テキサス州ヒューストン、1996年6月








    2.資金


 家族や親戚や友達がいないアメリカでは金だけが全てのような面がある。食費、家賃、生活必需品、医療、介助、等は無料ではない。僕がアメリカで留学生活を送ることができたのは広げよう愛の輪運動基金からの留学費用の送金があったからだ。

 僕が入院していた時、
「家族や親戚がいないのか。それは悪すぎる」
 と言った看護婦の刺々しかった態度が、僕が会計に
「アメリカン・エキスプレスで入院費を支払う」
 と言った後、少し和らいだような気がした。

 また、お金にゆとりがあればある程度は健康と時間を買うこともできる。僕も、当時の非常事態に際して、後どれだけアメリカにいられるか分からないが、買えるだけの健康を買おう、と思った。アパートのベッドの回りを清潔にして、2本支柱のオーバーヘッドバーを新たにレンタルし、岩坪先生への国際電話、野菜、十分な睡眠、1日7時間以上の介助者サービス、ノートを買ってワープロを控えること、リフト付タクシーを使うことなどに自費で支出することにした。



    3.情報


 情報は重要な資源であり力だ。適切な判断のためには必要不可欠だ。特に、脊髄損傷者にとって危機管理に対する情報が必要になるだろう。問題把握の後の、問題解決のためのプロセス、人適・物的資源、そのコスト、接近方法、権利義務関係、結果に対する予測などの情報・知識、具体的には医師、病院、救急車、タクシー、家族、友達、福祉関係者などの利用可能な資源に関する情報・知識が必要となる。

 将来に対する不安が、自律生活を妨げる。非常事態に対する解決案を考え、用意することと、解決案に対する情報(緊急時介助者、緊急時サービス事業、尿閉に対する使い捨て導尿セット、持っているだけで使わなくても使えるという安心感)が大事だと思う。

 情報が必要な人の間で共有されることの重要性はいうまでもないが、最初からあらゆる情報を持っている人はいない。逆に、重要な情報が非常にしばしば少数の者達に保有されている現実がある。利用可能な資源に関する情報に接近するための方法・手段に関する前プロセス的な知識・情報もまた重要となる。障害をもつ個人に必要な情報源としてロールモデルとピア・カウンセリングがある。頚髄損傷者にとって情報接近のためのコミュニケーション手段としては電話が有用だと思う。






 介助者と米国の介助者サービス事業に関しては「頚髄損傷者の米国留学生活」(松井和子編集嚶ン宅頚髄損傷者・第3部專結椏s神経科学総合研究所出版、全脊連事務局で送料共1000円)と「アメリカの人々ともう一つの選択肢」(嚴ゥ立へのはばたき−−障害者リーダー米国留学研修派遣報告1985專本障害者リハビリテーション協会、送料のみ)に書いていますので、興味のある方はそれも読んでみて下さい。



 次回はアメリカでの僕の実際の日常生活と米国内での長距離移動を中心に報告する予定です。




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