アメリカの1年  
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー

1985年11月〜1986年9月

清家 一雄: 重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
Kazuo Seike
「アメリカの一年」[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
「アメリカの一年」[2] 1987年5月号 『脊損ニュース』、 pp.18-21、 全国脊髄損傷者連合会、1987

1985年〜1986年、ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業での米国留学時のアパート


ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業

財団法人 広げよう愛の輪運動基金
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会



アメリカの1年
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長
  清家一雄

第2回報告



四 .アメリカの人々

 1.頚髄損傷者の生活と意識の多様性

 アメリカでは、かなりの期間、僕も、アパートに住んで自炊して、しかも重度身体障害者としてアテンダントサービスを利用しながら、日々の生活を実際に体験した。また、アテンダント・サービス・プログラムを利用して生活しているアメリカの障害を持つ人達と友人になり、彼らの生活を見、彼らの話を聞いた。アメリカの人々の生活や考え方、そしてその多様性にも多少なりとも触れる事ができたのではないだろうかと思う。

 アメリカではいろいろなことを体験したり学んだりしたが、その中でも最も印象的な出来事の一つが頚髄の第一番を損傷した人達(以下C−1頚髄損傷者)との出会いだった。1986年の6月にアメリカの首都ワシントンDCで開催された「自立生活全国会議」に参加した後、高校時代の友達が働いているテキサス州のヒューストン市に立ち寄った時、その亀岡という友達が見学をアレンジしてくれたリハビリテーション&リサーチ研究所(The Institute of Rehabilitaton & Researc、以下TIRR)でのことだった。



ジェローム



 C−1・2頚髄損傷者。TIRRに入院していた5歳の男の子。色が白くて可愛い顔をしている。数カ月前に、自転車に乗っていて自動車と正面衝突をして受傷。数時間死んでいたのをレスキュウが蘇生させた。C−1・2頚髄損傷者となる。

 肺の横隔膜をコントロールする神経は頚髄の4番のところにあるが、そこより脳に近いところを損傷しているので、自分で呼吸できない。フレニック・スティミュレーター(横隔膜刺激装置)というフレニックナーブを人工的に刺激する装置を使う。フレニックナーブは横隔膜をコントロールし、従って呼吸の動作をコントロールする神経。一つの電極を鎖骨の近くのフレニックナーブの隣に埋め込む。車椅子に取り付けることが可能な発信装置にはダイヤルとコントロールが付いているので、使用者は彼の呼吸を規制することができる。

 フレニック・スティミュレーターは17,000ドル。ちなみに機械的な人工呼吸装置は8,000ドルから10,000ドル。機械的人工呼吸機ではたんが詰まったりして、より自然の呼吸に近いフレニック・スティミュレーターに劣る。しかし、フレニック・スティミュレーターも故障することがある。TIRRは、ジェロームのように、フレニック・スティミュレーターを埋め込んだ人達を20ケース持っていた。

 ジェロームは言葉を話す時、呼吸動作を脳から直接コントロールできないので、吐く息に合わせて、少しずつ喋る。

 母親が、彼の医療費を稼ぐために、フィラデルフィアで働いていて、5カ月ぐらい前に、一人でヒューストンのTIRRに来ているジェロームは落ち込んでいる。

 優秀な医師と良い設備があれば延命は限りなく可能になってきているようだ。しかし、医学では治せない障害が残った場合、その延ばされた生命にどのような時間を吹き込むか、生活の質(Quality of Life)のようなものが問題にならざるを得ないのかもしれない。僕自身も頚髄損傷者だが、ジェロームに会ってそう思った。

 紹介された時、何と言って話しかけようかと思ったが、とにかく、

「僕はいまカリフォルニアに住んでいる、バークレーにはクレージーな障害者がたくさん住んでいて、ベッドの上に乗ったままでさえ、レストランやコンサートに出かけているよ、テーク・ケア、グッド・ラック」

 と言った。

 ジェロームの写真は僕がジェロームだったら厭だろうと思い、撮らせて下さいとは頼まなかった。



 第一回報告で述べたように、僕はアメリカの在宅介助サービス制度ないしはそれを支える考え方が日本の頚髄損傷者の自律生活にも必要だと思い、アメリカに留学に行ったが、そのことはアメリカの頚髄損傷者達が全て自律して充実した生活を送っているということを意味するものではない。

 脊髄損傷、特に高位の頚髄損傷という障害が個人・人間にとっての非常に重大なインペアメント(機能・形態障害・一次的な障害)であるということは日本人にとってもアメリカ人にとっても変わりはない。頚髄損傷者達は、日本人もアメリカ人も、同じように身体が麻痺し、同じように身体の感覚が失われ、同じように身体の運動機能が制限され、同じように褥瘡、尿路感染、尿閉、大小便失禁などの身体的問題で悩んでいる。

 頚髄損傷という身体障害によるインペアメントが極限の形で現れるのがC−1完全頚髄損傷者だと思う。(日本にもC−3以上の部位を損傷しフレニックスティミュレーターやリスピレーターを使っている頚髄損傷者達がいる。日本ではフレニックスティミュレーターは400万円[1986年10月29日朝日新聞夕刊]、リスピレーターは300万円位[せき損センター]。)そこでは、人間=個人=頚髄損傷者は弱いものであり回りの人間に支えられているという面や、最重度の問題(障害が重度になればなるほど他の機能で補うことが難しくなる、生活の困難さは飛躍的に増す、補えなくなる。常に最後の手段を使う・使わざるを得ない、余裕がない、ということがいえるのではないかと思う)が明瞭に現れていると思う。さらにジェロームの場合には若年障害者の問題もあると思う。

 TIRRの医師が次のように言っていた。

「以前に8歳ぐらいの可愛い女の子がやはりフレニック・スティミュレーターを着けた。彼女はその後ナーシング・ホームか施設かに行ったが、寝た切りで、ただ生きているというだけの生活だった。10歳位になればメンスも始まる。10年位生きたが、結局20歳ぐらいで死んだ。嚼_は何処にいるのか宸ニいうような話ですが。

 アメリカの医療は金次第だということを強く感じる。メディケアやメディケイドがあるにしても、良い医療を受けるためには金が掛かる。治療費によって診療水準が決まる。その点、日本の健康保険制度の方がまだ良いのではないか。ジェロームの母親が働いているのもいつまで持つか」



 同じ日に、同じTIRRでキャシーというもう一人のC−1頚髄損傷者に会った。



キャシー

[写真説明]1 C−1頚損者キャシーとTIRRの彼女のオフィスで:1986年6月、ヒューストン



 彼女もC−1・2の頚髄損傷者でフレニック・スティミュレーターを使用していた。20歳頃受傷して、法学部を出て、現在はTIRRの顧問弁護士。38歳だった。

 彼女は上手に話した。彼女のオフィスにはコンピューターがあり、自分で使っていた。メトロというリフト付きのバンを利用していた。

「あなたの写真を僕と一緒に撮っても良いですか」

 と聞くと、

「もちろん(Sure!)」

 との答えだった。



 アメリカではキャシーの他にも、C−1頚髄損傷者ではないが、自律的に生きているたくさんの高位頚髄損傷者と会った。タフな障害者、強い障害者、卑屈にならない障害者達もたくさんいる。特にカリフォルニアやボストンでは、大きな資産や飛び抜けた才能があるわけではない、普通の頚髄損傷者が、アテンダントサービスを利用して、当り前の顔をして、アパートを借りて街の中で一人で生活していた。僕自身もアパートを借りて住んだ。バークレーやボストンという街は、ある意味では、重度身体障害者にとっての現代のおとぎ話の国のようなところだ。 



 2.留学当初の生活



 アメリカで留学生活を始めた時、僕は28歳だった。想像と実際の生活は非常に違ったものだったが、刺激に満ち溢れた、修行の場としては最高の1年だったように思う。



 ベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)

[写真説明]2 バートという地下鉄のような交通機関の列車の内部:
1985年11月、サンフランシスコ



 僕が最初に留学生活を始めたのはアメリカ西海岸にあるカリフォルニア州のベイエリアと呼ばれているところだった。ベイエリアというのはサンフランシスコ、バークレー、オークランドなどがバートという地下鉄で一つになっているサンフランシスコ湾岸地帯だ。ベイエリア全体では人口450万人を越え、メガロポリスを形成している。僕はオークランド市の41番ストリート517にあるアパートで生活を始めた。

 カリフォルニアは天然のエアコンを備えているみたいだ。冬暖かくて夏涼しい。気候が温暖でとても住み易いところだ。冬(雨期)には滝のような大雨が降るが、夏(乾期)の大空は凄く青い。食べ物もうまくて安い。

 そこに住む人達は、様々な人種、価値観を持つ人で構成されている。色々な少数派達が集まっているところだから、障害者もいっぱいいて、困難な条件を持つ人がひょっこり行ってもスッと受け入れてもらえるようなところがある。

 日本では対麻痺者でもかなり重度に見られるが、もっと困難な条件を抱えている人が普通通りバリバリやっていた。リクライニングの電動車椅子を使っているかなり重い頚髄損傷の人達が高校の先生とか介助者事業のコンピューター・プログラマーをやっていて、たくさんの人が街の中で生活している実態があった。

 治安は日本ほどは良くない。

 ベイエリアでは重度身体障害者による徹底的な自律生活の考え方とそれを支える社会保障・福祉としてアテンダント費用に関するカリフォルニア州のプログラムIHSSが非常に印象的だった。


1985年〜1986年、米国留学時代に住んでいたアパートのベッドルーム




 生活

 アパートは民間のもので、木造2階建ての1階だった。かなり古い建物だったが1階の出入口に車椅子用のスロープが付いていた。クーラーはなかったがセントラルヒーティングがあった。

 単身での生活だったが、最初は、ジャネット・スワントコという電動車椅子を使う障害者の女性のルームメイトが一緒だった。ジャネットにはレイ、スティーブとジェリーという3人のパートタイムアテンダントがいた。

[写真説明]5 ルームメイトのジャネット:
1985年11月、サンフランシスコ

 収入は留学研修生として奨学金・研修費を愛の輪基金・リハ協から送金してもらった。アパートの家賃(1カ月250ドル)、ベッドのリース料(1カ月96ドル)、食費(1日10ドル)、雑費(1日5ドル)、アテンダント費用(1日35ドル)などで1カ月約1、800ドルだった。

 仕事というか勉強は自立生活センターバークレーを媒介としてアメリカのアテンダント・サービス・プログラムを中心としたリサーチをしていた。人に会って話を聞いたり文献を読んだりもしていたが、生活の全てが勉強みたいな面もあった。そしてそれをワープロや写真で記録に取っていた。一応、毎月研修報告をリハ協に出すということが研修費送金の条件となっていた。



 アテンダント(介助者)

[写真説明]6 食事:1985年11月、サンフランシスコ

[写真説明]7 セーフウェイというスーパーで買物。左はアテンダント:
1985年11月、サンフランシスコ

 最初のアテンダントは白人の中年男性だった。最初の1週間は弟の幸治がいたので1日7時間のパートタイムアテンダントとして契約した。1時間5ドルがベイエリアでの相場だったので僕もそれに従った。

 介助者は、

「自分は9時から5時までのパートタイマーではなく、1日35ドルのサラリーマンであり、それを自分で選んで契約したのだ、夜中でも呼ばれれば来る」

 と言う。

 弟が日本に帰った日から、パートタイマーではなくてリブイン(住み込み)アテンダント(介助者)となった。僕はプライバシーなどもあり、どちらかというとパートタイマーの方が良かったが、CIL所長のマイクルやアツコが心配して、

「リブインで様子を見て見ろ」

 と言う。

 介助者は、彼自身もリブインを希望していて、

「9時から5時までは嫌いだからと、リブインでも今のままの1日35ドルでよい、自分はパートタイマーではなく1日単位のサラリーマンとして契約したのだ。食料も自分の分は自分で賄う。ルームメイトのジャネットとも話はついてる」

 と言う。

 この晩から中国製のダウンの寝袋を持ってやって来た。

[写真説明]8 サンフランシスコ市内:1985年11月、サンフランシスコ



写真説明



1 C−1頚損者キャシーとTIRRの彼女のオフィスで



2 バートという地下鉄のような交通機関の列車の内部



3 アパートの正面



4 アパートの僕の部屋。ベッドはレンタル



5 ルームメイトのジャネット



6 食事



7 セーフウェイというスーパーで買物。左はアテンダント



8 サンフランシスコ市内







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