野村望東尼 のむらもとに(-ぼうとうに) 文化三〜慶応三(1806-1867) 号:向陵・招月

文化三年九月六日、筑前国福岡に生まれる。福岡藩士浦野重右衛門勝幸と母ミチの二女(一説に三女)。本名はもと。生来病弱で、幼少より読書を好み、書画を能くしたという。文政十二年(1829)、二十四歳で同藩士野村新三郎貞貫(さだつら)の後妻となり、先腹の三子を養育する。二十七歳の時、夫と共に大隈言道の門下となり、和歌を学ぶ。四十歳になる弘化二年(1845)、長男貞則が家を継ぎ、夫が致仕したのを機に、夫婦で城南平尾村の山荘に隠棲し、ここを向陵(こうりょう/むかいのおか)と名付けた。庭に梅桜楓などを植え、風雅の暮らしを送ったが、嘉永四年(1851)、貞則を亡くし、さらに安政六年(1859)には夫を亡くし、博多の妙光寺で受戒剃髪、望東尼と号した。時に五十四歳。
文久元年(1861)、宿願であった京都旅行に発ち、名所を巡覧、また千種有文(有功の子)・大田垣蓮月らと面会する。この間、諸藩の志士の情報に接して勤王運動に関心を寄せた。ことに「開国の前に倒幕、国内統一を」と唱える元福岡藩士平野国臣の意見に共鳴し、翌年福岡に帰ると交流を深めた。向陵の山荘には高杉晋作ら志士が潜伏したこともあったという。慶応元年(1865)六月、福岡藩の尊攘派弾圧に際し、孫の助作(貞則の子で、家督を継いでいた)と共に捕えられ、自宅に幽閉された。同士の多くが処刑される中、独り玄海灘の孤島姫島へ流される。翌慶応二年九月、高杉晋作の部下により姫島より救出され、下関・山口と移る(この間、孫の助作は獄中に死す)。慶応三年十一月六日、維新を目前にして、防府の三田尻に客死。六十二歳。三田尻の桑山に葬られた。墓は福岡市東堅粕の明光寺にもある。贈正五位。
年代順に歌を収めた家集『向陵集』がある(野村望東尼全集に収録。校注国歌大系二十などに抄出)。他の著書に『上京日記』『比売島日記』『防州日記』など。

以下には『野村望東尼全集』(佐佐木信綱編著、野村望東尼全集刊行会刊)より十九首を抄出した。

野村望東尼影
野村望東尼影

  2首  1首  2首  2首  12首 計19首

春田初雁

雁がねの帰りし空をながめつつ立てるそほづは我が身なりけり(向陵集)

【通釈】雁の去った空を眺めながら立ち尽くしている案山子――それは我が身にほかならないのだった。

【語釈】◇そほづ 案山子(かかし)

【補記】年代順に歌を収めた『向陵集』では、天保十一年(1840)正月、福岡藩主夫人が江戸桜田邸で死去したとの報せを受け取っての歌「浮雲のかかる筑紫もよそよりはのどかに霞む春と見ゆらむ」の直後に載せる一首。題詠の体裁はとるが、我が身を「そほづ」に擬える無力感は、当時の作者の心境を反映したものであろうか。

【参考歌】藤原信実「夫木和歌抄」
かりをだに立てるそほづは甲斐もなしいたづらならば門守りせよ

春の歌とて

桜花あまたにほへる里にても友なき人はさびしからまし(向陵集)

【通釈】桜の花が数多く咲き匂っている里にあっても、友のいない人は寂しいことであろう。

【補記】天保八年(1837)春、作者三十二歳の作。病がち(肺結核だったかと言う)で、親族の不幸も続いていた頃であるが、作者の優しい人柄を偲ばせる一首である。

梅雨の頃

さみだれの晴間の日影うつり来て窓にかげろふ行潦(にはたづみ)かな(向陵集)

【通釈】梅雨の晴間の日射しが反射して、窓にちらちら光っている庭の水溜りであるよ。

【語釈】◇行潦(にはたづみ) 地面に溜まった水。

【補記】詞書からすると即興の詠らしい。なにげない日常の眺めを観察して平明適確に描写しているところ、師大隈言道の感化がよく窺われる歌。『向陵集』の排列からすると、安政六年(1859)、夫を亡くした年の夏の作と思われる。

幽居初秋

つねに見る松の木陰の一つ()火影(ほかげ)さびしき秋は来にけり(向陵集)

【通釈】いつも見る松の木陰の一軒家――その火影が寂しく感じられる秋は来たのだった。

【語釈】◇一つ家 ぽつんと一軒だけ建っている家。◇火影 灯火などの光。家の窓から漏れている光であろう。

【補記】「松の木陰」は出家者が好んで庵を結んだ場所。すなわち「一つ家」は世を遁れて住む隠者の侘び住まいである。話手がその寂しげな有様に一種の憧憬をおぼえていることは、初句「つねに見る」からも感じられるところである。安政三年(1856)夏の題詠。作者五十一歳。

【参考歌】大田垣蓮月「海人の苅藻」
秋寒み小雨そぼそぼふる寺の火影さびしき夜のけしきかな

世の中の憂きこと知らぬ御仏もものさびしらに見ゆる秋かな(向陵集)

【通釈】俗世間の心配事などに関わりのない御仏も、何となく寂しげに見える、秋という季節であるよ。

【補記】『向陵集』の排列からすると、天保九年(1838)秋の作と思われる。この年の春、望東は篤い病に罹り、桜の季節にも病臥は続いて、「おり立ちて庭の桜のもとにだに行くばかりにも何時かならまし」と嘆く歌を残している。秋には歌の師であった大隈言道の歌会に参加するまでに快復するが、仏を拝んでも仏自身に「ものさびし」さを見てしまう程に心は沈んでいた。

【参考歌】大隈言道「草径集」
山寺の秋さびしらに仏達ただならびてもおはすばかりぞ

人影を雪間に遠く見出つつ我が訪はるるに定めてぞ待つ(向陵集)

【通釈】人影を雪の降りしきる隙間に遠く見い出しては、私のもとを訪ねるのに違いないと決めて待つのである。

【語釈】◇我が訪(と)はるる 私が訪問される。

【補記】雪に降り籠められた孤独の中、訪れる人を一途に待望する心を歌い上げた。『向陵集』の排列からすると、天保十二年(1841)頃の作と推測される。

冬日

みち遠く行きて帰りて今朝のこと思へば冬も日永かりけり(向陵集)

【通釈】道を遠くまで行って帰って来て、今朝のことを思うと、冬も日は永いのであった。

【補記】安政三年(1856)冬の作。冬の日は短いというが、遠い道のりを行き来した一日を振り返れば長く感じられるという。平生の実感をあるがままに歌い、蘆庵・景樹・言道の系統を引く所謂「ただごと歌」である。

七月すゑつかた、向陵(むかひのをか)にうつろひはてて住みける頃

山松の木の間の月を眺むればまさに我が身は世をのがれけり(向陵集)

【通釈】山松の樹間に輝く月――その月を眺めていると、本当に我が身は俗世を遠く離れてしまったのだ。

【補記】弘化二年(1845)秋七月、四十歳になる望東は、既に藩士を引退した夫と共に、城南平尾村の山荘「向陵(こうりょう/むかいのおか)」に移り住んだ。以前から庭に梅桜楓などを植え、閑居の暮らしを楽しみにしていたが、ついに実現の日が来たのだった。尤も、その後も病に悩み、世事に追われることも多く、憧れた悠悠自適の生活を送れたわけではなかった。

木立

昔わが間遠に植ゑし梅さくら楓も枝をさしかはしきぬ(向陵集)

【通釈】昔、私たちが間隔をあけて植えた梅・桜・楓などの木が、今では繁って、枝を差し交わすようになってきた。

【補記】向陵庵に移住して十四年後の安政六年(1859)七月二十七日、長患いをしていた夫がついに亡くなった。「諸共にながき病に臥せる間は我もや先と思ひしものを」。『向陵集』には夫に先立たれた悲しみの歌が続く。掲出歌は明けて万延元年(1860)春の作。山の庵に夫と過ごした歳月への思いを籠めた歌であろう。ゆえに「わが」を「私たちが」と釈したのである。

【参考歌】大伴旅人「万葉集」巻三
妹として二人作りし我が山斎は木高く繁くなりにけるかも

貞貫の一めぐりのとぶらひして、在りし世の事ども人に語りあへる時に

ともすれば君がみけしきそこなひて叱られし世ぞ今は恋しき(向陵集)

【通釈】どうかしたはずみに、あの人のご機嫌を損なって、叱られた時が、今は恋しく思われる。

【補記】万延元年(1860)秋、夫の一周忌をして、人々と生前の思い出話をした時に詠んだという歌。

【参考歌】藤原清輔「新古今集」
ながらへばまたこの頃や偲ばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき

山々島々かなたこなたと、見えかはるもおもしろくおぼえて

人げなく思ひし島のめぐりきて(はた)もいできぬ家も見えこむ(上京日記)

【通釈】人の気配もなさそうに思われた島が、だんだん廻って来ると、畑もあらわれて来た。やがて家々も見えて来るだろう。

【補記】出家後、念願果たしての京都旅行を綴った『上京日記』より。文久元年(1861)十二月三日、京へ向かう瀬戸内の船路。安藝の御手洗の港を目指して、のどかな海を快調に進んでいた時の作である。動詞「来」を三度も用いているが、気にならないというよりも、景色の展開に踊るような心を表して効果を上げている。

国臣が「忍びつつ旅立ちそむる今宵とて山かげ深き宿りをぞする」と言ひ出でたれば

ひとすぢにあかき道ゆく中やどに貸してうれしき山のあれ(いほ)(向陵集)

【通釈】ひたすら赤心を尽くして貴方の生きる道――その途中の宿にお貸しして、喜ばしく感ずる、山の荒庵ですことよ。

【語釈】◇あかき道 天皇への忠誠を尽くす道。

【補記】文久三年(1863)六月二十八日、平野国臣が向陵に訪ねて一宿し、翌朝京へ向かって旅立つ時の贈答。当時望東尼は向陵を留守がちで、実際庵はかなり荒れていたらしいが、志士たちの潜伏場所としてたびたび利用されていた。

世にさすらひける事ありて、家に籠りたる頃、七月二十五日に、天満宮に捧ぐとて、二十五咏をものしたりしうちに
瓶花

瓶にさす千草の花の一束をおのがことしの秋と見るかな(向陵集)

【通釈】瓶に挿した様々な草花の一束を、私にとっての今年の秋として眺めるのであるよ。

【補記】慶応元年(1865)六月、福岡藩で討幕派の粛清が行われた際、望東尼は孫の助作と共に罪を問われ、自宅に幽閉された。その間、太宰府天満宮に捧げるために詠んだ二十五首のうちの一首。数度の尋問の後、望東尼は同年十一月、玄海灘の孤島姫島へ流罪に処せられた。

夕日影入りしや消ゆる空の虹いのちと見えし雲は残れど(向陵集)

【通釈】夕日の光が没するや否や消える空の虹――命と見えた雲は残っているけれど。

【補記】同じく慶応元年(1865)七月天満宮に捧げた歌。日が沈むや、雲ばかりを残して消えた虹。望東尼はその光景に処刑されあるいは自刃した志士たちの命を見、また虚しく残された自身の庵――志士たちを匿ったこともある向陵の庵を見たのであろう。

御国の御楯にもなるべき()の子どもは許させ給ひて、あるかひもなき老の身一つによろづ負ふせ給はらば、老の思ひ出になど、啓して帰りたれば

もののふの重荷の罪を身一つに負ひてかろくもなる命かな(比売島日記)

【通釈】勇猛な男子たちの荷う重い罪を、我が身一つに背負うことができれば、軽くなる我が命であるよ。

【語釈】◇かろくもなる命かな 交流のあった志士たちの罪を一身に被れば、自分は重荷を降ろすことが出来、死にゆく命も軽くなる、との心。

【補記】全集所載の『比賣嶋日記』「いきのわかれ」より。慶応元年(1865)、自宅幽閉中、望東尼は藩庁に出向くことがあり、連座した男子たちの許しを請うた。代りに己一身に罪を被れば老身の思い出であると申し出、帰宅後に詠んだという歌。

ひるま過ぎて、いとちひさき菊の枝のけしきばみたるを請ひいでつつ、神仏に奉りなどして、心ばかりの花の香も、いつしか世にはかぐはしからむ

わが世とはつゆ思はねど菊の花ここのへに咲くおほ御代もがな(夢かぞへ)

【通釈】私が生きているうちとは少しも願わないけれども、菊の花が幾重にもかさなり、宮中に咲き誇る大御代となってほしい。

【語釈】◇つゆ思はねど 「つゆ」は「少しも」の意であるが、「露」の意も帯びて菊の縁語となる。◇ここのへ 九重。「数多く重なること」「宮中」の両義。

【補記】自宅謹慎中の日記『夢かぞへ』より。慶応元年(1865)九月九日、菊の節会の日、王政復古を待望して詠んだ歌。

【参考歌】伊勢大輔「後拾遺集」
いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな

酉の時ばかりに乗物ととのへて、迎ひ来たれば、ためらふべくもあらず、いでゆくまでのこと、かくもうるさし。草香江の堤伝ひをゆくに、十四夜の月、すだれの間より、きらきらと射し入りたれば

霜あらし月にたぐひて流れゆく身をさすばかりさゆる夜半かな(比売島日記)

【通釈】霜夜の嵐が吹き、月と連れ立って流れてゆく我が身――その身を刺すばかりに冷える夜であるよ。

【語釈】◇草香江 博多湾にあった入江。今の大濠公園の池がそのなごりであるという。

【補記】全集所載の『比賣嶋日記』の「ながれ木」より。慶応元年(1865)十一月十四日、姫島の獄への迎えの車に乗って草香江の堤伝いを行く時、簾の隙間から月の光が射し入ったので詠んだという歌。

嵐吹きまさりて、山も崩るるばかりの音すれば

住みそむる(ひとや)の枕うちつけに叫ぶばかりの波の声かな(比売島日記)

【通釈】住み始めた獄屋の寝床の枕を打つかのように、だしぬけに叫ぶばかりに打ち寄せる波の声であるよ。

【語釈】◇うちつけに 「(枕を)打ち」「突然に」の両義を掛ける。

【補記】全集所載の『比賣嶋日記』の「ながれ木」より。姫島の獄舎に収監された夜、眠れぬままに書き付けた歌のうちの一首。実際、獄屋の板戸の先、五十メートル程に波打際があったという(小河扶希子『野村望東尼』)。ここで望東尼は病に苦しみつつも獄中記を執筆し、多くの和歌を詠んだ。翌慶応二年九月、高杉晋作の計らいにより救出されるまで、十ヵ月ほどを姫島に過ごした。

やつ時ごろ、竹田君、山口へかへるとて、暇乞に見えたる時に

冬ごもりこらへこらへて一時に花咲きみてる春は来るらし(防州日記)

【通釈】冬の間は引き籠っていて、厳しい寒さをこらえ、こらえしてのち、一斉に花が咲き満ちる春は来るものらしい。

【補記】全集所載の『防州日記』より。姫島脱出後、望東尼は長州に亡命、下関・山口と移り、慶応三年(1867)九月、防州の三田尻に入った。時あたかも薩長連合が成立し、出港する軍船を見送るためであったらしい。商家に宿を借りたが、獄中生活で弱り果てた身はついに病に倒れた。病床にあっても歌を書き続けるが、やがて筆を取ることもままならなくなり、看護の人に書き取ってもらう。十一月六日午後、山口へ帰るという医師の竹田裕伯が暇乞いに来た時に詠んだ掲出歌が絶筆となった。

【参考歌】王仁「古今集仮名序」
難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花


公開日:平成21年02月15日
最終更新日:平成21年02月15日

thanks!