伊勢大輔 いせのたゆう(いせのおおすけ) 生没年未詳

神祇伯正三位大中臣輔親の娘。能宣は祖父、頼基は曾祖父にあたり、大中臣家重代歌人の系譜に連なる。子の康資王母(やすすけおうのはは)・筑前乳母・源兼俊母も勅撰集歌人。
寛弘四年(1007)または翌年頃から上東門院彰子に仕える。新参の頃、「いにしへの奈良の都の八重桜…」の歌を奉って人々の賞讃を得た(『伊勢大輔集』『三十六人伝』『袋草紙』など)。その後、高階成順(たかしなのなりのぶ)と結婚。
長元五年(1032)十月の「上東門院彰子菊合」、長久二年(1041)二月の「弘徽殿女御生子歌合」、永承四年(1049)十一月の「内裏歌合」、同五年(1050)六月の「祐子内親王家歌合」、天喜四年(1056)の「皇后宮春秋歌合」などに出詠。康保三年(1060)頼通主催の志賀僧正明尊の九十賀に歌を詠んだ(『袋草紙』)のが最後の記録になる。
後拾遺集初出。同集に二十七首、新古今集に七首など、代々の勅撰集に計五十一首入集している。家集『伊勢大輔集』がある。中古三十六歌仙女房三十六歌仙

  1首  3首  3首  2首  3首 計12首

一条院御時、奈良の八重桜を人のたてまつりて侍りけるを、その折御前に侍りければ、その花をたまひて、歌よめとおほせられければ、よめる

いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな(詞花29)

【通釈】古い都があった奈良の八重桜は、献上された今日、ここ平安京の九重の宮中で色美しく咲き匂うのだった。

八重桜 鎌倉妙本寺にて
八重桜

【語釈】◇いにしへの奈良の都 かつて平城京があった奈良の地をこう呼んだ。◇ここのへ 九重。中国で王城の門を九重に造ったことから、皇居・宮中をこう呼んだ。八重桜が九重に匂った、というめでたい詞遊びになっている。また「ここの辺(へ)」と掛詞になる。

【補記】『伊勢大輔集』によれば、上東門院彰子一条天皇の中宮だった時、奈良の僧の献上物八重桜を受け取る役を、紫式部が新参の伊勢大輔に譲り、それを聞いた藤原道長が歌も奉るように命じた、という。以下、詞書を群書類従本『伊勢大輔集』より引用。「女院(上東)の中宮と申しける時、内におはしまししに、奈良から僧都の八重桜を参らせたるに、今年のとりいれ人は今参りぞとて紫式部のゆづりしに、入道殿(道長)きかせたまひて、ただにはとりいれぬものをと仰せられしかば」。因みに彰子の返歌は「九重に匂ふを見れば桜がり重ねてきたる春かとぞ思ふ」。

【他出】後十五番歌合、伊勢大輔集、玄々集、金葉集三奏本、新撰朗詠集、後六々撰、定家八代抄、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院・家隆・定家撰)、百人一首、新時代不同歌合、女房三十六人歌合

【主な派生詩歌】
ここのへにひさしくにほへ八重桜のどけき春の風としらずや(藤原実行[金葉])
春を惜しみ折る一枝の八重桜ここのへにもと思ふばかりぞ(飛鳥井雅経)
限りあれば深きみ山もいかならんけふ九重につもる白雪(亀山院[新後撰])
もろ人のけふ九重に匂ふてふ菊にみがける露のことのは(藤原為家[新拾遺])
形見とはならの都の八重ざくら昔もとほくふりぬ色かな(木下長嘯子)
八重桜色はむかしにかよへども奈良の都ぞ荒れまさりゆく(契沖)
世に似ずよけふ九重に咲く菊の花にやどれる露の光は(冷泉為村)
九重を一重散らせし八重桜けふこの里に匂ひぬるかな(遊女玉つる)
奈良七重七堂伽藍八重桜(芭蕉)

永承五年六月五日、祐子内親王家の歌合によめる

聞きつとも聞かずともなく時鳥心まどはすさ夜のひと声(後拾遺188)

【通釈】聞いたとも聞かないともはっきりせず、時鳥よ、人の心を惑わせる、夜の一声――。

【補記】永承五年(1050)六月五日、関白左大臣頼通の賀陽院において祐子内親王が主催した歌合、九番左持。

【主な派生歌】
ききつともいかがかたらん郭公おぼつかなしや夜半のひと声(藤原正家[続後撰])
ききつともいかがかたらん郭公をちの山べのよはのひと声(藤原教長)
ききつともおもひさだめずほととぎす今一声はしのばずもがな(村田春海)

年ごろすみはべりけるところはなれて、ほかにわたりて、またの年の五月五日によめる

けふも今日あやめもあやめ変はらぬに宿こそありし宿とおぼえね(後拾遺213)

【通釈】日付けは同じ五月五日、菖蒲草も同じ菖蒲草。去年と変わりはしないのに、住む家だけは以前と同じ家だとは思えないことだ。

【語釈】◇あやめ ショウブ草(花の美しいアヤメやハナショウブとは全く別種)。香りが高い。五月の節句に、家の軒に挿して邪気を祓った。◇おぼえね 「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形。「こそ」に呼応した係り結び。

【補記】詞書は「長年住んでいた場所を離れて、ほかへ移って、翌年の五月五日に詠んだ」ということで、作者自身が引っ越したように受け取れる。ところが『伊勢大輔集』の詞書を見ると、「としごろおなじところにすみし人のゐかはりにしかば、そのひとはほかにありて、又の年の五月五日いひたりし」とあり、一所に住んでいた人が引っ越してしまって、翌年の五月五日にその許へ贈った歌となっている。

六月祓をよめる

みなかみも荒ぶる心あらじかし波もなごしの祓へしつれば(後拾遺234)

【通釈】上流の水神も荒々しい心はないだろう。波も立たぬよう夏越の祓えをしたのだから。

【補記】半年間の罪穢れを浄める行事、六月晦日の夏越(なごし)の祓えを詠む。「波もなごし」に「波も無き」の意が掛かる。後拾遺集夏歌巻末。

後冷泉院の御時、后の宮の歌合によめる

さ夜ふかく旅の空にて啼く雁はおのが羽風や夜寒なるらむ(後拾遺276)

【通釈】夜も更けた頃、旅の空で啼く雁は、自身の羽ばたく風のせいで夜寒を感じているのだろうか。

【語釈】◇后の宮 後冷泉天皇の中宮、藤原寛子。◇おのが羽風 自分の羽でたてる風。

【補記】出典は皇后寛子が天喜四年(1056)四月三十日に催した「皇后宮春秋歌合」。相模や藤原頼宗・源顕房・藤原範永らが参加した。掲出歌は五番右負。判詞に「まことに身にしむ歌なり」と賛辞を呈されたが、「さよふたつ」すなわち「夜」の語が二箇所用いられている同心病のゆえ負けになった。

【他出】皇后宮春秋歌合、栄花物語、伊勢大輔集、新撰朗詠集、定家八代抄、御裳濯和歌集

【主な派生歌】
あまつ空おのが羽風やはらふらむ雲にわかるる初雁のこゑ(冷泉為尹)

物思ふことありけるころ、萩を見てよめる

おきあかし見つつながむる萩のうへの露吹きみだる秋の夜の風(後拾遺295)

【通釈】夜が明けるまで起きていて、じっと物思いに耽りつつ見つめる萩――その花びらの上の露を吹き乱す秋の夜の風よ。

【補記】萩は鹿の「花妻」とも呼ばれ、殊に恋の風趣薫る花。その花びらに宿る露を秋風が吹き乱すさまは、物思う女の胸中をかき乱す、波瀾の恋の心象風景であろう。

上東門院、菊合せさせ給ひけるに、左の頭(とう)つかまつるとてよめる

目もかれず見つつ暮らさむ白菊の花よりのちの花しなければ(後拾遺349)

【通釈】始終目を離さず、枯れないかと見守りながら一日を暮らそう。白菊の花が枯れてしまえば、そのあとに咲く花などないのだから。

【語釈】◇左の頭 歌合の左の方人(かたうど)の代表。◇目もかれず見つつ カレズには「枯れず」の意を掛ける。◇のちの花しなければ 菊は晩秋に咲き、その後は年内に見るべき花も咲かないことからこう言う。

【補記】長元五年(1032)十月十八日、上東門院彰子が同母弟関白左大臣頼通の後見を得て催した、菊合に添えられた十番の歌合。

【他出】上東門院菊合、新撰朗詠集、後六々撰、定家八代抄、御裳濯和歌集

【本説】「和漢朗詠集」(→資料編
不是花中偏愛菊 此花開盡更無花(これ花の中に偏に菊を愛するにあらず 此の花開きて後更に花の無ければなり)

【主な派生歌】
またもあらじ花よりのちの面影に咲くさへ惜しき庭のむら菊(藤原定家)

秋いひはじめたりし人のいひたりし

けぶりこそたつとも見えね霧まよふ恋にこがるる秋を知らなむ

【通釈】必死で忍んでいるので煙が立つとは見えないでしょうが、私がこの秋から霧に迷うような恋に胸焦がしていることを知ってもらえないでしょうか。

かへし

霧まよふ秋の空にはことごとにたつとも見えぬ恋のけぶりを(伊勢大輔集)

【通釈】霧が立ち込めた秋の空では、いくら人が恋の煙を立てようと、はっきりと区別して見えないでしょうに。

【語釈】◇ことごとに (霧と煙とを)別々に。

【補記】秋から言い寄り始めた男が思いを知ってほしいと歌を贈ってきたのに答えた歌。別系統の『伊勢大輔集』では「秋来人に」の詞書で「けぶりこそたつともみえね人しれず恋にこがるる秋としらなん」とあり、続けて「かへし」で同じ歌が載っている。この場合、伊勢大輔が先に歌を贈り、男が返したことになる。

世の中騒がしき頃、久しう音せぬ人のもとにつかはしける

なき数に思ひなしてやとはざらむまだ有明の月待つものを(後拾遺1004)

【通釈】大勢の人が病没しましたが、私も故人の中に勘定して、あなたは訪問なさらないのでしょうか。私はまだ生きていて、有明の月を待つではありませんが、何カ月もお便りを待っておりますのに。

【語釈】◇世の中騒がしき頃 長徳元年(995)、疫病が流行していた頃をいうか。◇まだ有明の月待つ 「まだ在り(まだ生きている)」を掛け、「月待つ(何カ月もお便りを待っている)」と続ける。

【補記】長いこと音信のない恋人に贈った歌。

成順におくれ侍りて、又の年、はてのわざし侍りけるに

わかれにしその日ばかりはめぐりきていきもかへらぬ人ぞ恋しき(後拾遺585)

【通釈】死に別れた日だけは巡って来るのに、亡き人は生き返らない――あの人が恋しくてならない。

【語釈】◇成順 伊勢大輔の夫、高階成順。◇はてのわざ 一周忌の法要。◇別れにしその日 命日をいう。◇いきもかへらぬ 歳月は行っては帰るが、亡き人は生き返らない。「行き帰る」「生き返る」の掛詞になっている。

【補記】夫の一周忌の法要ののちに詠んだ哀傷歌。

【主な派生歌】
別れにしその日附(ひ)ばかりは帰り来て帽振りし姿つひの幻(村上一郎)

秋の頃わづらひける、おこたりて、たびたびとひける人に遣はしける

うれしさは忘れやはする忍ぶ草しのぶるものを秋の夕暮(新古1732)

【通釈】あなたがたびたび見舞って下さった、その嬉しさは忘れたりするものですか。茅屋の軒に生える忍ぶ草ではありませんが、我が家を訪ねて下さった秋の夕暮を懐かしく偲んでおりますよ。

ノキシノブ
忍ぶ草(ノキシノブ)

【語釈】◇おこたりて 病が小康を得て。◇忍ぶ草 古家の軒に生えるシノブ草(ノキシノブなどの羊歯植物)。自宅を謙遜しつつ暗示すると共に、「しのぶ」を導くために挿入された句。◇しのぶるものを あなたを偲んでいますよ。この「しのぶ」は思慕する意。

【補記】これは源経信に贈った歌。経信の返しは、「秋風の音せざりせば白露の軒のしのぶにかからましやは」(大意:秋風が訪れなければ軒のシノブに白露がかかることもないように、私がお見舞をしなければ貴女から素晴らしい御歌を贈られることもなかったでしょう)。著名な先輩歌人である伊勢大輔から歌を贈られたことを喜んでいるのである。新古今集巻十八雑歌。恋の贈答ではない。因みに伊勢大輔と経信は二十歳以上、ことによると三十歳近い年齢差があったと思われる。

上東門院、住吉に参らせ給ひて、帰るさに人々歌よみ侍りけるに

いにしへにふりゆく身こそあはれなれ昔ながらの橋を見るにも(後拾遺1074)

【通釈】昔の人となって古びてゆく身こそ哀れなことですよ。昔ながらの長柄の橋を見るにつけても。

【語釈】◇ながらの橋 摂津国難波の歌枕。淀川の河口付近に架けられていた橋らしい。たびたび壊れて架け替えられたようで、朽ち果てた様子や橋柱のみ残っているさまなどがよく歌に詠まれた。古今集序に引用されたのが最も早い例。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中にふりぬるものは津の国のながらの橋と我となりけり


更新日:平成17年04月10日
最終更新日:平成19年10月15日