惟宗光吉 これむねのみつよし 文永十一〜文和元(1274-1352)

秦河勝の末裔と伝わり、代々明法家・医家として名高い惟宗氏の出身。医師吉国の息子。権侍医・典薬権助・内蔵権頭・右京権大夫などを歴任。四位に至る。後宇多院の寵臣。「和漢才人」(惟宗氏系図)。法名は玄照。文和元年九月二十八日、七十九歳で卒去。
二条派有力歌人。続後拾遺集撰進に際し寄人をつとめる。また小倉実教撰『藤葉和歌集』の撰にも助力したらしい。二条家の歌会にしばしば参加したほか、元亨年間(1321-1324)頃の覚助法親王家五十首、元亨三年(1323)の亀山殿七百首などに出詠。また自邸でも歌会を催した(草庵集)。公順・道我らとの交流がうかがえる。家集『惟宗光吉集』がある。続千載集初出。勅撰入集は計十九首。

明けぬれば色ぞわかるる山のはの雲と花とのきぬぎぬの空(惟宗光吉集)

【通釈】夜が明けたので、ようやく見た目の区別がついたことだ――山の端にあって見分け難かった雲と花とが、あたかも恋人たちのように別れ別れになる空よ。

【補記】「きぬぎぬ」(後朝)は、共に一晩を過ごした男女が明け方に別れること。雲と花が山の端で別れる様を後朝に見立てたのである。

木寺の草庵にて、雨のふる日、花みたまひしときに、雨後花といふことを

雨はるるなごりの露やおもからし下枝(しづえ)かずそふ山ざくらかな(惟宗光吉集)

【通釈】雨が上がった名残の露が重いらしい。下枝の数が増えたように見える桜だことよ。

【補記】露の重みで垂れた枝々を、下枝が増えたと見た。詞書の「木寺」は紀寺に同じ。奈良春日野の南にあった寺。「みたまひ」と敬語を用いているのは、家集の編者が光吉の子孫であったためと推測される。

【参考歌】大弐三位「新古今集」
わかれけむなごりの露もかわかぬにおきやそふらむ秋の夕露

野夕立

ふじのねははれゆく空にあらはれてすそ野にくだる夕立の雲(風雅1515)

【通釈】富士山を見渡せば、晴れてゆく空に次第に峰は現れて、一方、裾野の方へと下ってゆく夕立の雲。

【参考歌】後鳥羽院「最勝四天王院障子和歌」
富士の山同じ雪げの雲路よりすそ野を分けて夕立ぞする

左兵衛督直義卿日吉社奉納歌に、雪中望

みし秋の尾花の波にこえてけり真野の入江の雪のあけぼの(惟宗光吉集)

【通釈】秋に見た尾花の穂波は素晴らしかったが、それをさえ上まわっていることよ、真野の入江の雪降る曙の景色は。

【補記】足利直義勧進の奉納歌。真野は近江国の歌枕、琵琶湖西岸、尾花の名所。

【本歌】源俊頼「金葉集」
うづらなく真野の入江の浜風にをばななみよる秋の夕ぐれ

二条前大納言家日吉社奉納の百首に

いつしかとほのめかさばや初尾花たもとに露のかかるおもひを(惟宗光吉集)

【通釈】いつかはほのめかしたいものだ。「妹が手枕にせん」と詠われた初尾花の露が――いや実はあの人を思って流す涙が袂にかかる、これほどの思いを。

【補記】「初尾花」は伝人麿作の本歌(もとは万葉集巻十の作者不詳歌)により、新枕を暗示する。「かかる」は掛詞。

【本歌】人丸「新古今集」
さをしかのいるのの薄はつをばないつしか妹が手枕にせん

暁旅行を

夜をこめて山路はこえぬ有明の月より後の友やなからん(続千載833)

【通釈】夜を徹して山道を越えた。有明の月がずっと道連れになってくれたが、月が消えたあと、もう旅の友はいないだろうなあ。

【補記】「有明の月」は夜遅く現れ、明け方まで空に残る月。月を旅の道連れに譬える歌は多いが、「夜をこめて」「月より後の」と時間の推移を歌い込めて情趣が豊かになった。


最終更新日:平成15年03月15日