水無瀬恋十五首歌合(群書類従本)


本文へ 1.23、改訂しました。
本文(注釈付き)へ 3.5、「寄風恋」「勝負集計」を追加しました。

【概要】
建仁二年(1202)の晩秋九月十三日夜、すなわち「のちの月」の宵、後鳥羽院が水無瀬の離宮で開催した歌合である。歌題はすべて恋の十五題。七十五番、百五十首。左右不同の乱合。作者は十人、当代屈指の歌人が顔を揃えている。判者は俊成。衆議判的な色が濃いことは、判詞から窺われる。
後鳥羽院により新古今集撰進の命が下ったのは前年の十一月であり、当時は選歌の真っ最中であった。当歌合からは、十五首もの歌が新古今集に採られている。

【凡例】
底本は群書類従第十二輯所収のテキストを用いた。
歴史的仮名遣いに統一した。濁点・送り仮名・句読点を付した。「殊外」「我身」「此」などの助辞「の」「が」を補った。「哉」「也」「共」「計」など漢字で表記された助辞は平仮名に改めた。「ゝ」など平仮名の繰り返し符号は、同字の平仮名表記を以て代えた。漢字は新字体や通用字に改めた。判詞における引用句は、引用符で囲った。判詞の漢文表記は、片仮名漢字交じりの訓み下し文に改めた。
歌合本文以外の歌の引用は、原則として「新編国歌大観」に拠ったが、一部表記を改めている。また、他出文献として示した歌集に付したアラビア数字は、新編国歌大観番号である。

【メモ】
(1)定家の「明月記」より、歌合当日までの経緯を箇条書きしておく。
建仁2年
・8月29日 「自院給十五首題」。後鳥羽院より題が下される。
・8月30日 「卯時書和歌送清範許」。藤原清範(和歌所寄人の一人)のもとに歌を送る。
・9月9日 「入道殿可令参給由有仰事了、仍参向申此由」。判者俊成に当日の歌合への出席が求められ、定家が俊成邸に報告に出向く。
・9月13日 「夜月清明。巳時許参上…」。判者俊成のほか、後鳥羽院・良経・慈円・有家・公継・雅経・定家の七名が出席。披講され、評定が終了する。

(2)出詠歌人の当時の年齢(数え)
後鳥羽院 23歳    藤原良経 34歳
慈  円 48歳    藤原公継 28歳
俊成卿女 32歳?   宮内卿  不明(20歳前?)
藤原有家 48歳    藤原定家 41歳
藤原家隆 45歳    藤原雅経 33歳

【主要参考文献】
「群書類従」第十二輯(続群書類従完成会)
「新編国歌大観」第五巻(角川書店)
「水無瀬恋十五首歌合 日本大学図書館蔵 親長自筆本」有吉保編(笠間書院 笠間影印叢刊37)
「水無瀬恋十五首歌合 編者蔵」有吉保編(笠間書院 笠間影印叢刊38)

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最終更新日:平成16年2月28日
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