山崎方代 やまざき・ほうだい(1914—1985)


 

本名=山崎方代(やまざき・ほうだい)
大正3年11月1日—昭和60年8月19日 
享年70歳(観相院方代無煩居士)
山梨県甲府市右左口町4104 円楽寺(真言宗)



歌人。山梨県生。右左口尋常小学校卒。南方戦線で右目を失明。復員後、歌誌『一路』をへて『工人』を創刊。「泥の会」に加わる。昭和30年第一歌集『方代』を発表。46年「寒暑」を創刊。『右左口』『こおろぎ』『迦葉』などがある。






  

母の名は山崎けさのと申します日の暮方の今日のおもいよ       

茶碗の底に梅干しの種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ    

地上より消えゆくときも人間は暗き秘密を一つ持つべし

一枚の手鏡の中におれの孤独が落ちていた               

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

手のひらをかるく握ってこつこつと石の心をたしかめにけり

寂しくてひとり笑えば茶ぶ台の上の茶碗が笑いだしたり          

私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう

こんなところに釘が一本打たれていていじればほとりと落ちてしもうた  

なるようになってしもうたようであるが穴がせまくて引き返せない



 

 生地山梨県右左口の隣村・境川村に住んだ俳人飯田龍太は方代の歌の特色を〈煮つめた人生の上澄みをすくいとって、死よりも生の不可思議を鮮やかに示していることではないか〉と評した。
 〈生き放題、死に放題〉という名前の由来自体がすでに伝説の中にあったが、戦争で失った視力はもう戻らない。捨てて捨てて生きてきた命だからと覚悟して、春には肺がんの手術にも応じた。
 〈詩と死・白い辛夷の花が咲きかけている〉、すべてが夢の中の出来事だったのだろうか。昭和60年8月19日午前6時5分、蘇るはずの微かな灯は消え、いま方代は故郷に帰るのだ。〈ふるさとの右左口郷は骨壺の底にゆられてわがかえる村〉。昭和13年、方代24歳、盲目の父を伴い故郷右左口村を去ってから半世紀が過ぎようとしていた。



 

 円楽寺山門、その前に父龍吉の生家・小林家がある。樹齢500年を誇る大公孫樹のある境内横手の緩やかな坂道を、読経の声を聞きながらのぼると、今となく昔となく、幾時代もの風が吹き抜け、この里の諸人が存在した証の碑が建ち並んでいる。
 方代が58歳の時建てた墓もここにある。「父山崎龍吉、母けさ乃、ここに眠る。兄龍男をはじめ若く幼くして死んだ八人の兄弟姉妹ここにやすらぐ。われ一人、歌に志し故郷を出でていまだ漂泊せり。壮健なれど漸くにして年歯かたむく。われまたここに入る日も近からん。心せかるるまま山崎一族墓をここに建つ。方代」と墓碑銘にある。この炎天下、からからに渇ききって悲鳴を上げている土庭の「山崎家一族墓」、方代にとって潤いの一滴となっていることだろうか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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