山本健吉 やまもと・けんきち(1907—1988)


 

本名=石橋貞吉(いしばし・さだきち)
明治40年4月26日—昭和63年5月7日 
享年81歳 ❖健吉忌 
福岡県八女市大字本町283–1 無量寿院(浄土宗)



評論家。長崎県生。慶應義塾大学卒。石橋忍月の子。折口信夫に師事。改造社で『俳句研究』を編集。昭和14年『批評』を創刊。『古典と現代文学』で読売文学賞、『詩の自覚の歴史』で日本文学大賞を受賞。58年文化勲章受章。ほかに『芭蕉』『柿本人麻呂』『いのちとかたち』『最新俳句歳時記』などがある。






  

 野山に咲いている草木の、ありのままの「いのち」を生かす、その生かした「いのち」と直かに対するという静かな喜び——それを措いていけばなの思想、いけばなの美学を考えることは出来ない。花の命の短さは始めから分ったことで、そんな不安定な材料で美しい「かたち」を造形し、彫刻や工藝のような造形藝術と競おうなどという料簡は、さっぱり棄てた方がよいのだ。石のような永遠不変の造形物たろうとすることは始めから断念し、桜の花のような瞬間の「いのち」の発揚にすべてを賭けるのがいけ花の極意ではなかったのか。
 仏への供花に生花の起原を説こうとする美術史家たちは、その前に、花の中に「いのち」、それらを威力あらしめる根原の「たましひ」を認めた、古代の日本人の心構えを忘れない方がよい。仏への供花の造花など、いけばなの根本の心には、たいして意味を持ちはしない。立花は花も花器も、豪華な造形性を誇ったが、それでも花が「時の賞翫」であるという本来の性格を忘れたことはなかった。「時の賞翫」とは、花が命短いものという認識の上に立って、その「いのち」の瞬時の輝きを賞翫することである。

(いのちとかたち)



 

 山本健吉が満を持して書いた評論『いのちとかたち』は日本の、日本人の美意識、美学、自然観、死生観、ひいては日本人論を徹底的に踏み込んで示していった。そこに満たされていたのは一処、一刻における抗いようのない魂のありかたではなかったのだろうか。
 昭和63年5月7日、遠藤周作夫妻、角川春樹夫妻らに看取られながら、肺性心による急性呼吸不全で81年の生涯を閉じた。3月の初め、夢の中で行った知人の葬式で、その人を偲ぶ句会をすることになり夢の中で詠んだという一句がある。
 こぶし咲く昨日の今日となりしかな
 かつて健吉がいみじくも思索した中世の茶人の心の根底にあった「一期一会」の心構えに立脚した辞世の句であった。



 

 福岡県南西部筑後地方、瞬く間に過ぎ去っていく今の世に取り残された古い町並みである。眠りを妨げられた猫が塀際にぽっかりと開いた抜け穴に逃げ込んでいく。蔦の絡まった小さな石橋、山門を潜ると画家坂本繁二郎筆塚や樹齢400年を超えるケヤキの大木がある菩提寺の無量寿院。
 祥月命日の数日後に訪れた本堂裏、歴代住職墓のほかは幾基もない境内墓地の石橋家墓所。暑さのせいか供えられたばかりの花が萎れはじめている。父石橋忍月が大正元年に建てた「石橋家累代之墓」、39歳で逝った先妻の俳人石橋秀野の名も刻されてある。健吉没後に設えられた墓誌には、健吉と平成15年に逝った妻静枝の名。〈一日一刻を充実した時間と化した〉得がたい静寂を感じている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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