山田美妙 やまだ・びみょう(1868—1910)


 

本名=山田武太郎(やまだ・たけたろう)
慶応4年7月8日(新暦8月25日)—明治43年10月24日 
享年42歳 
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種ロ10号9側 



小説家・詩人。江戸(東京都)生。大学予備門中退。明治18年尾崎紅葉らの硯友社に参加。硯友社の中で最も早く世に認められ、20年読売新聞に『武蔵野』を発表。言文一致体の新進作家として認められる。 翌年短編集『夏木立』刊行。晩年は不遇に終わった。『蝴蝶』『この子』『いちご姫』などがある。





 2011年現在の墓


  

 武士は例外だが。只の百姓や商人など鋤鍬や帳面の外はあまり手に取ツた事も無いものが「さア軍だ」と驅集められては親兄弟には涙の水杯で暇乞。「しかたが無い。これ、悴。死人の首でも取ツて胡麻化して功名しろ」と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍畧を皆傳すれバ、「あぷなかツたら人の後に隠れてなるたけ早く逃るがいゝよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛交ぜて忠告する。ても耳の底に残るやうに懐かしい聲、目の奥に止まるほどに昵しい顔をバ「左様ならバ」の二言で聞捨て、見捨て、さて陣鉦や太鼓に急立てられて修羅の街へ出掛けれバ、山奥の青苔が褥となツたり、河岸の小砂利が襖となツたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右左に大將の下知が……そこで命が無くなツて、跡ハ野原でこの有さまだ。死ぬ時にはさぞもがいたらう、さぞ死ぬまいと歯をくひしバツたらう。血ハ流れて草の色を變へて居る。魂も亦身體から居處を變へて居る。切裂かれた疵口からは怨めしさうに臓腑が這出して、其上にハ敵の餘類か、金づくり、薄金の鎧をつけた蝿將軍が陣取ツて居る。はや乾いた眼の玉の池の中にハ蛆大將が勢揃。勢よく吹くのハ野分の横風……變則の匂嚢……血腥い。

(武蔵野)



 

 芝神明前に暮らした頃からの竹馬の友、「徳ちゃん」「武ちゃん」と呼び合った尾崎紅葉らと文学結社の硯友社を創立したのは美妙18歳、紅葉19歳の時であったが、言文一致体の小説の実践で先駆者となった美妙の坪内逍遙と並ぶ文名の高まりとともに、その盟友関係は脆くも綻んで、ついにはたもとを分かち、美妙一人、孤独な道を歩むこととなった。
 紅葉は胃がんによって35歳で先に逝ったが、田沢稲舟との離婚後、稲舟の死をめぐってのスキャンダル〈稲舟事件〉は世間からの非難を受け、美妙の晩年はなお一層淋しく、病と貧困に打ちひしがれたまま頸腺癌腫のため、明治43年10月24日午後5時15分、42年の生涯を閉じた。



 

 美妙は明治28年、新進女流作家田沢稲舟と結婚し話題となったが、稲舟と祖母の衝突や稲舟の病によって別離、稲舟は23歳の初秋に死去した。一説に別離の悲嘆から服毒自殺したともいわれ、そのことで美妙は苦境に立たされたこともあった。
 夕闇が包み始めたこの霊園に「美妙山田武太郎之墓」はその後結婚した妻カネの名を並べて建っている。彼は救いようのない暗鬱とした運命に翻弄される人間模様を好んで描いたが、陽も落ちはじめて、人声もなく深閑とした時刻の中に佇んでこの碑と向かい合っていると、私自身も何かしら得体の知れない不安におそわれて、寒空の濃い闇に紛れ込んでしまうような気分になってきた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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