内村鑑三 うちむら・かんぞう(1861—1930)


 

本名=内村鑑三(うちむら・かんぞう)
万延2年2月13日(新暦3月23日)—昭和5年3月28日 
没年69歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園8区1種16側29番
 



宗教家・思想家。江戸(東京都)生。アーモスト大学卒。明治10年札幌農学校第二期生として北海道に行く。17年渡米。21年帰国後、『余は如何にして基督教信徒となりし乎』を英文で刊行。日露戦争非戦論、足尾鉱毒事件でも活躍。『聖書の研究』『内村鑑三全集』などがある。






 

 キリスト教が異教にまさるゆえんは、それが我々に律法を守らせる点にある。キリスト教は異教プラス生命である。キリスト教によってはじめて律法の遵守が可能になる。キリスト教は律法を生かす霊である。全ての宗教のうちで、キリスト教だけが内面から働く。それは異教が久しいあいだ涙を流して探し求めてきたものである。それは我々に「善」を示すにとどまらず、同時に、我々を「永遠の善」なる神のもとに導いて、我々自身を善にする。それは我々に道だけでなく、生命をも、すなわちレールだけでなく機関車をももたらす。このような働きをする宗教が他にあるだろうか。
                                    
 
(余はいかにしてキリスト信徒となりしか)

 


 

 武士階級の家に生まれ、〈私は戦うために生まれたのであり、揺籃のうちから、生くるは戦うなりだった。〉と自ら記すように、全生涯を十字架と自由のために戦い続けた内村鑑三であったが、昭和4年はじめから心臓肥大の異常を指摘され、逗子海岸逗子ホテルで休養につとめるも甲斐なく、12月22日、「ノアの大洪水」についての講演を最後に病臥した。翌5年3月28日午前8時51分、「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」との言葉を遺して、豊多摩郡淀橋町柏木(現・新宿区北新宿)の自宅、咲き誇る桜木の望める部屋にその生涯を終えた。遺志により『聖書之研究』は終刊、〈内村聖書研究会〉は解散された。



 

 国は「非国民」として、古来教会は「教会荒らし」としてこの無教会主義者内村鑑三を追いやったが、死の前々日、古希祝いのために集まった〈内村聖書研究会〉の人々に伝えた言葉がある。〈宇宙、万物、人生、悉く可なり。言わんと欲する尽きず。人類の幸福と、日本国の隆盛と、宇宙の完成を祈る〉 ——。
 穏やかな春の陽のもと、「内村鑑三墓」はここに在る。妻静子や17歳で世を去ったその死により、鑑三の信仰と思想に大きな衝撃を与えた愛娘ルツ子とともに。碑面には25歳の時、愛用の聖書の見返しに英語で記したという文章が嵌め込まれてあった。
 〈わが墓に刻印されるべきこと。余は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そしてすべては神のため〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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