内田魯庵 うちだ・ろあん(1868—1929)


 

本名=内田 貢(うちだ・みつぎ)
慶応4年4月5日(新暦4月27日)—昭和4年6月29日 
享年61歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園12区2種1側1番



評論家・翻訳家・小説家。江戸(東京都)生。東京専門学校(現・早稲田大学)中退。明治21年頃から『女学雑誌』『国民之友』に評論を発表。批評家として認められた。ドストエフスキー、トルストイを日本に紹介。『罪と罰』『復活』『イワンの馬鹿』などを翻訳する。硯友社の作家たちを批判して27年『文学者となる法』を発表。小説『くれの廿八日』などがある。






 

 「人の運命ッてものは妙ですナ、」と男は悄然として、「天の甘露を齊らす神女を冷淡に看過して茵陳を懐にする妖魔と眠る者がいくらもある。加之も不思議なは自己の才能力量を確信する者は自分が妖魔の迷宮に陥ちた不明を悔ひないで直ちに妖魔と格闘を試みてゐる。加之も愈々不思議なは格闘に負けても菩薩の手に救はれるのを嫌つて甘んじて妖魔の犠牲となつて了うのがある。斯ういふ意地が切めて半分もあると一切を冷笑し去つて了う事が出来るが---情ない---僕は責に意気力漢だ。好んで幸福に背いて得やうと思へば得られた愛を棄てゝ今日の不平不愉快を求めて買つたのは全く自分の罪過だ---と斯う覚悟めると其応報としても煩悶憂苦は忍ばねばならぬ様な気がして、今だに過去の幸福が恋しくて、気に入らない女の面倒を生涯見て面自くなく老朽ちるのかと思ふと、理想も抱負も滅茶苦茶となつて了う」男は愁然として搾出した様な溜息を吐いた。
                                                           
(くれの二十八日)

 


 

 鋭い批評と風刺で、評論活動をつづけた内田魯庵は、52歳で長女の百合子を失い、55歳でまた次男の健を失った。その失望感から自らの死を考えるに至り、自分が死んだらと、死亡通知の葉書を娘の田鶴子に示した。ガンジス川のほとり、沙羅双樹の間で涅槃に入った釈尊伝の一説を図案化した、河の流れと、樹と花と、梵字を組み合わせたものであった。
 4年後、この葉書は縁者、友人、知己に送られた。〈父魯庵内田貢豫て病気のところ養生相叶はず本日午前四時死去致候ここに生前の御知遇を感謝し謹みて御通知申上候敬具 昭和四年六月二十九日 男  巌〉。
 〈豫て病気のところ〉とは、昭和4年2月、執筆中に脳溢血で倒れて言葉が不自由になったことを指している。



 

 晩年の大正14年に刊行された文壇回顧録の『思ひ出す人々』は二葉亭、漱石、鴎外、紅葉、露伴などを取り上げて一級品の文学資料となっているが、『罪と罰』や『復活』、『イワンの馬鹿』などの翻訳でも力を尽くした文学者の碑は、小笹と野草と苔に覆われた緑陰深い武蔵野の墓原にあった。春の初めにホオジロのさえずりは「ピッピチュ・ピーチュー」、一本の忘れられた止まり木の梢は心細くふるえている。路傍のくさむらに、隕石をかち割ったかのような「魯庵之墓」。
 斑模様の碑面に木漏れ日が幽かにプリズム模様を描き出し、黄昏時の冷気がその塋域だけを包み込む。手前に陰だけを持った小さな「巌之墓」(長男・画家)がある。日の終わりの陽光は背後にあった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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