丹羽文雄 にわ・ふみお(1904—2005) 


 

本名=丹羽文雄(にわ・ふみお)
明治37年11月22日—平成17年4月20日 
享年100歳 
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園文學者之墓
 



小説家。三重県生。早稲田大学卒。生家の寺を継ぐのを嫌い、昭和7年『鮎』が注目されたのを機に上京、文学の道にすすむ。戦後は風俗小説を多産、流行作家となる。25年『文学者』創刊・主宰。後年は宗教観の根本を見つめて『親鸞』『蓮如』などの宗教者を描いた。『蛇と鳩』『顔』『一路』などがある。







 

 蝋燭の火は、ゆれていた。無数の燈明が、金箔をした太い柱に反射した。帝煙が、立ちのぼる。小さい厨子の中から、親鸞の像が、宗珠を見つめていた。鎌倉時代風の正面の阿弥陀仏は、香煙でまっ黒になった顔の中から、眼光するどく宗珠を見下している。その眼は、妻に家出をされた月堂宗珠の魂の中を見つめていた。何故がために妻が家出をしたのか、良薫という子供を残してまで家出をしなければならなかったのかを、仏の眼は見透していた。仏の前では、かくしようがなかった。宗珠白身の心の奥の、あいまいな部分まで、仏の眼は峻烈に見通していた。

                                              
(菩提樹)



 

 三重県四日市の崇顕寺、市の中心部にある古刹に生まれたがゆえの苦悩。父の不義、四歳の時に家出してしまった生母、得度し僧侶となってもその苦悩の虜になるばかりであったが、28歳で故郷の寺を出奔して以来、人間の罪、業を問い続け、人間性探求一途の作品を追い求めてきた丹羽文雄。
 平成17年4月20日午前0時25分、肺炎のため東京都武蔵野市の自宅で死去。享年100歳、長い長い人生であった。十数年ものアルツハイマー病を患った晩年のあるとき、ひさびさに書斎に入って原稿用紙に連ねていたという。「丹羽文雄、丹羽文雄、丹羽文雄・・・」、の文字列に、500以上の著書をもつという作家の執念をみる思いがする。



 

 作家の生地である四日市・丹羽文雄記念室の〈ご遺族の意向として、尽力した「文学者之墓」以外には墓を作らない〉というお話を聞くに及んで、久かた振りにこの霊園に足を向けてみたのだが、粉雪を伴って大参道を吹きくだる寒風は都合五度目の墓参者にとってもことのほか厳しかった。
 白樺の木々、枯れ葉を踏み、苔むした緩やかな山肌を縫ったジグザグの細道、無限の意識が交差し彷徨う。その先にある「文學者之墓」、端正に黒光りする碑の囲い石塀に「日本に生まれ 日本の文学に貢献せる人々の霊を祀る」と刻されている。日本文藝家協会会長としての丹羽文雄が尽力したこの墓に丹羽文雄100年の煩悩は鎮まってある。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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