西田幾多郎 にしだ・きたろう(1870—1945)


 

本名=西田幾多郎(にしだ・きたろう)
明治3年4月19日(新暦5月19日)—昭和20年6月7日 
享年75歳(曠然院明道寸心居士)❖寸心忌 
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



哲学者。石川県生。東京帝国大学卒。大正2年京都帝国大学哲学科教授となり、昭和3年定年退官。その間『善の研究』を発表、「独創的な哲学者」「日本の哲学の指導者」といわれ、「西田哲学」を確立した」。15年文化勲章を受章。『自覚に於ける直観と反省』『哲学の根本問題』などがある。






 

 この前、一体われわれの生命というものは必ず生命だけとして成りたつものでない、何か環境というものとの関係において生命というものが成りたつということを言った。われわれの自己というものも何かやはり環境というものとの関係がなくてはならぬ、だからしてただ私というものがひとり成りたつということはできない、汝と私とそれだけのものが考えらるべきものでない、何かその間に私と汝と結びつくものがなくてはならぬ。私と汝というものはそれによって成りたっているものである。(中略)ちょうどこの生命というものが必ず環境というものと関係しなければならぬ、すなわち環境と生命が関係するということは、生命が環境というものを限定する、また環境が生命を限定する。そこに一般と個物というような関係がなくちゃならないように、私というものもやはり何かその環境と関係しなくてはならぬ。
                                                   
(現実の世界の論理的構造)



 

 西洋哲学の伝統は伝統として、日本人の精神的、宗教的な営みに根付いた仏教・禅と儒教などの東洋思想を統合して、西田哲学といわれる独自の哲学を著した近代日本の代表的哲学者であり、大正年代の哲学青年や学徒に与えた影響は多大なものがあった。
 〈絶対矛盾の自己同一〉という一句をみつけるために一生をかけた西田幾多郎は、ドイツ無条件降伏の翌月、昭和20年6月7日午前4時、絶筆『私の論理について』を遺し、鎌倉姥ヶ谷の自邸で尿毒症のため急逝した。
 遺骨は三分し、北鎌倉の東慶寺、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の妙心寺、生まれ故郷の石川県河北郡宇ノ気町森(現・かほく市森)にある長楽寺に埋骨された。



 

 金沢の旧制第四高等学校以来の友鈴木大拙は、西田の遺骸を前に座り込んで号泣、〈永遠の沈黙を守る彼に還ったその姿、自分は思わず慟哭せずには居られなかったのである。
 思い起こせば随分長い間の交際であった。十六、七歳の頃からいままで続いたのであるから、ざっと六十年と見てよい〉と回想している。
 大拙の創設した『松ヶ岡文庫』のある北鎌倉東慶寺。ゆったりとした勾配の細道を辿っていくと、道の左手に白菊と黄菊の供えられた五輪塔、田舎の辻にあるようなひっそりとした佇まいの哲学者の墓であった。
 ——〈個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本であるという考えから独我論を脱することができた〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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