新島 襄 にいじま・じょう(1843—1890)


 

本名=新島 襄(にいじま・じょう)
天保14年1月14日(新暦2月12日)—明治23年1月23日 
享年46歳 
京都府京都市左京区鹿ヶ谷若王子山町 若王子同志社墓地



 
宗教家・教育者。江戸(東京都)生。アマースト大学・アンドーバー神学校卒。上州安中藩士の家に生まれ、漢学、蘭学を学んだが、元治元年アメリカに密航。理学、神学を学んで明治5年岩倉使節団に随行して欧米教育事情を視察。7年宣教師として帰国。8年同志社英学校(現同志社大学)を設立。『新島襄全集』などがある。






 

 ダビデは神の神殿を建てたいと願ったが、できなかった。建てたのは、息子のソロモンだった。
 ある善良なクリスチャンの女性は、息子の一人が宣教師になるようにずっと祈り続けてきた。だが息子たちは誰一人として宣教師にならなかった。しかし彼女が教育を受けさせた他人の息子が、のちに宣教師になった。
 良い目的であれば、それは固執せよ。その目的を成し遂げられない場合には、その思想を外の人々に広めようではないか。だが死に至るまで絶望するな。望みを抱いて死のう。
 
その目的が神の御心にかなうものであるならば、神は必ず私たちの生きているうちに、あるいは死後、その実を収穫できるようにして下さる。忘れてならないことは、私たちが立てる目的が、神の思い、神の真理に一致するということだ。


                                         
(実現しなかった目的)



 

 新島襄にはいくつもの名前があった。女子が続く中で初めて生まれた男子、祖父が「しめた」と叫んだことに由来する幼名「七五三太」(しめた)」。元服して諱を敬幹(たかもと)。アメリカに密航し、その船主で生涯の支援者となるハーディ夫妻のもとで「ジョセフ・ハーディ・ニイシマ」。明治7年、宣教師として帰国、新島襄となった。帰国後はキリスト教精神を持って日本の将来を支える人材育成の学校設立のために奔走する。支援者山本覚馬の妹八重との結婚、旧弊の困難を乗り越えて「同志社英学校」、「同志社女子学校」設立を果たしたが、大学設立の資金集めに奔走中に臓疾患が進行し、明治23年1月23日午後2時20分、神奈川県・大磯の旅館「百足屋」で急性腹膜炎により無念の死を迎えた。



 

 死を覚悟し、遺言を徳富猪一郎(蘇峰)に口述筆記させた翌日に死去した新島の遺体は京都に運ばれ、1月27日、同志社チャペル前のテントで葬儀、生徒たちの手で東山・若王子山頂に土葬された。遺言により当初は木柱であった墓標は一年後に勝海舟筆の碑に建て替えられたが、昭和61年、事故のため崩壊したため、翌年に海舟の碑銘はそのままに、襄ゆかりのラットランド産の大理石で建て替えられた「新島襄之墓」。歴代総長、理事長、学長、功労者などの墓がある同志社共葬墓地の正面に襄、そのすぐ左に妻八重の小さな墓、左列に徳富蘇峰、山本覚馬の墓も見える。麓の若王子神社脇から山道を20分ほど登ったこの聖域庭には、一昨日来の雨に濡れた落葉が散乱し、襄の墓石にもひっきりなしに落葉が降りかかっている。 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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