久生十蘭 ひさお・じゅうらん(1902—1957)


 

名=阿部正雄(あべ・まさお)
明治35年4月6日—昭和32年10月6日 
没年55歳(コルネリオ)
神奈川県鎌倉市材木座2丁目15–3 材木座霊園聖公会廟


 
小説家。北海道生。旧制聖学院中学校(現・聖学院中学・高等学校)中退。大正15年上京。岸田國士に師事。岸田主宰の雑誌『悲劇喜劇』の編集に加わる。昭和4年フランスに留学、パリ市立工芸学校を卒業し8年に帰国。『新青年』に探偵小説を書く。『鈴木主水』で26年度直木賞受賞。『母子像』『ハムレット』『黄金遁走曲』などがある。






  

 太郎は保護室といってゐる薄暗い小部屋の板敷に坐って、巣箱の穴のやうな小さな窓から空を見あげながら、サイパンの最後の日のことを、うつらうつらと思ひうかべてゐた。(中略)
 「そろそろ水汲みに行く時間だ」
 太郎は勇み立つ。洞窟に入るやうになってから、一日ぢゅう母のそばにゐて、あれこれと奉仕できるのが、うれしくてたまらない。太郎は遠くから美しい母の横顔をながめながら、はやくいひつけてくれないかと、緊張して待ってゐる。
 「太郎さん、水を汲んでいらっしゃい」その声を聞くと、かたじけなくて、身体が震へだす。母の命令ならどんなことだってやる。磯の湧き水は、けはしい崖の斜面を百尺も降りたところにあって、空の水筒を運んで行くだけでも、クラクラと眼が眩む。崖の上に敵がゐれば、容赦なく狙撃ちをされるのだが、危険だとも恐しいとも思ったことがない。水を詰めた水筒を母の前に捧げると、どんな苦労もいっぺんに報いられたやうな、深い満足を感じる。
 あれは幾歳のときのことだったらう。ある朝、母の顔を見て、この世に、こんな美しいひとがゐるものだらうかと考へた、その瞬間から、手も、足も出ないやうになった。このひとに愛されたい、好かれたい、嫌われたくないと、おどおどしながら母の顔色をうかがふやうになった……

(母子像)



 

 久生十蘭の起点は、亀井勝一郎・長谷川海太郎(谷譲次・牧逸馬・林不忘と三つの筆名を使い分けモンスターと呼ばれた作家)らを生んだモダンな港町函館であったし、3年余りを数えたその後のフランス留学も、あるいは怪しくも眩暈を撒き散らしたような作品群の回帰先であったのだ。経歴をひもといていけば十蘭は正真正銘の多才な人間であった。探偵小説や江戸捕物帖も書いたし、劇作、演出も手がけた。そのうえ直木賞まで手に入れてしまったのだから。しかしその間にも病根は密かに巣食っていた。昭和32年3月、喉の異状を訴え、6月には食道がんの疑いで癌研究所に入院。楽しみにしていたパリ再訪を果たせぬまま、10月6日午後1時40分、鎌倉・材木座の自宅で死去することになる。



 

 材木座海岸の背面に張り出している墓山の頂上に立つと、眩しさに手をかざした私の眼の前には、落日に彩られた黄金色に輝く湘南のおだやかな海が拡がっている。数キロ先には江ノ島、そのずっと向こうには富士山さえも海原越しに望んで見える。海に背を向けると、山の頂を切り取ったこの霊園の墓地全体が展望でき、管理事務所の近くにある小さな廟が見えている。
 ——〈わたしはよみがえりであり命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる〉と刻された文字の下にその廟に祀られた人々の名前を読みとることができる。「コルネリオ 阿部正雄」、ピンクのカーネーションやスイートピーが飾られた「聖公会廟」、博識、異能の作家久生十蘭はここに眠っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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