火野葦平 ひの・あしへい(1907—1960)


 

本名=玉井勝則(たまい・かつのり)
明治40年1月25日—昭和35年1月24日 
享年53歳(文徳院遊誉勝道葦平居士)❖葦平忌 
福岡県北九州市若松区山手町6–1 安養寺(浄土宗)



小説家。福岡県生。早稲田大学中退。家業の沖仲仕玉井組を継ぐ。昭和12年日中戦争で応召、出征前に書いた『糞尿譚』が12年度芥川賞受賞。軍報道部時代に書いた『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』三部作で脚光を浴びた。戦後「戦犯作家」として公職追放の指定。解除後『花と竜』で復活した。







  

 奥の煉瓦塀に数珠繋ぎにされて居た三人の支那兵を、四五人の日本の兵隊が衛兵所の表に連れ出した。敗残兵は一人は四十位とも見える兵隊であったが、後の二人はまだ二十歳に満たないと思われる若い兵隊だった。聞くと、飽く迄抗日を頑張るばかりでなくこちらの問に対して何も答えず、肩をいからし、足をあげて蹴ろうとしたりする。甚しい者は此方の兵隊に唾を吐きかける。それで処分するのだということだった。従いて行ってみると、町外れの広い麦畑に出た。ここらは何処に行っても麦ばかりだ。前から準備してあったらしく、麦を刈り取って少し広場になったところに、横長い深い壕が掘ってあった。縛られた三人の支那兵はその壕を前にして坐らされた。後に廻った一人の曹長が軍刀を抜いた。掛け声と共に打ち降すと、首は毯のように飛ぶ、血が簓のように噴き出して、次々に三人の支那兵は死んだ。
 私は眼を反した。私は悪魔になってはいなかった。私はそれを知り、深く安堵した。

(麦と兵隊)



 

 昭和47年3月1日、朝日新聞に〈十二年前に世を去った葦平の死因が、これまでいわれていた病死ではなく、睡眠薬による自殺であったことが、このほど、遺族から初めて明らかにされた。〉との衝撃的な記事が載った。
 〈高血圧といふやっかいな病気にとりつかれてしまった。その記録をとっておく。〉と最初の頁に記された『闘病日記』。〈後悔しても追いつかないが、これからは出来るだけ身体に気をつけ、少しでも長生きするやうにしなくてはならない。昭和三十四年十二月七日朝 あしへい〉とあったが、最後のページは〈死にます。芥川龍之介とはちがうかも知れないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください。さようなら。昭和三十五年一月二十四日夜 十一時 あしへい〉で終わっていた。



 

 北九州・若松の高塔山中腹、この寺の本堂前に葦平の直筆刻の碑が建っている。
 〈言葉さかんなればわざはひ多く 眼鋭くして盲目に似たり 敏き耳豈聾者に及ばんや 不如不語不見不聞〉、と三禁の碑、それぞれに口と目と耳をおさえた三猿風の河童の絵が描かれている。
 戦争を書いて、兵隊を書いて、戦争犯罪人という人もあったようだが、葦平の人生観を彷彿させる言葉ではないか。
 碑の前を通り、裏墓地の段をのぼっていくと、葦平の父玉井金五郎が昭和2年に建てた「玉井家之墓」があり、長男葦平(本名勝則)の名も刻まれている。大きな碑を見あげていると、捧げられた小さな赤いほおずきが突然動き出し、茎の間から一匹の蛙が間抜けな顔を突き出して、勢いよく飛び跳ねた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   干刈あがた

   樋口一葉

   久生十蘭

   菱山修三

   日夏耿之介

   日沼倫太郎

   火野葦平

   日野草城

   平塚らいてう

   平野威馬雄

   平林たい子

   広津和郎

   広津桃子