平林たい子 ひらばやし・たいこ(1905—1972)


 

本名=平林タイ(ひらばやし・たい)
明治38年10月3日—昭和47年2月17日 
享年66歳 
長野県諏訪市中洲福島 共同墓地 



小説家。長野県生。諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高等学校)卒。昭和2年『嘲る』が大阪朝日新聞の懸賞に入選。『文芸戦線』同人の小堀甚二と結婚、のち離婚。『施療院にて』でプロレタリア作家として認められる。13年留置場で肺結核を得て闘病。『かういふ女』で女流文学賞を受賞。『鬼子母神』『地底の歌』『秘密』などがある。







  

 私は惑乱して慟哭して運命の悪意を罵った。私のもろもろの感情は噴火のように天を衝くかと思われた。 が、時というものの優しい慰撫が風化のように私から少しずつ少しずつ妄執を削りとって行った。しかし、妄執が削げてとれたあとには驚くほど冷えたほんとうの悲哀の色が生れた。
 やがて、自分の心を焚くのにただ忙しい青春時代が過ぎて、子のない私にあわれにも悲しい母の心が育って来ると、今一度失ったものの姿を求める悲哀が更に切実になった。年のはじめに自分の年齢に一歳を加えるたびに、失ったものにも一歳を加えてやるような愚かなこともやっていた。
 そして、ふとすると、もう大人に近い背丈と心とをもって、もしやどこかの見知らぬ世界を可憐な命の灯で常夜燈のように小さく賢しく照して生きていはしないかと空想してみると、浄い浄い涙が故もなく、流れることがあったのだった。
私は、今のこの瞬間、あの夫とその子供の幻とを一緒にして、
 「夫は私の生んだその子供なのだ」
 と思うのに、何の躊躇も矛盾もなかった。そうして素直な気持の流れに任せて幸福な様な悲しい様な涙を流しながら眠るのだった。

                                
(こういう女)



 

 晩年近くになって〈私はこの十年の間に、子宮結核からはじまって、病気とはいえないけれども、骨折、高血圧、肋骨カリエス、肺炎、糖尿病、乳がんと、短くない病院生活を送る患いをほとんど毎年のようにつづけた〉と平林たい子は記す。病状が厳しく苦痛が激しければ激しいほど闘志が湧いて、むしろ〈病気を熱愛〉していたという〈生きたがり屋〉の彼女は、まさに大宅壮一のいう「女傑」そのものであったが、昭和47年に入って風邪をこじらせて肺炎を併発、2月5日から入院中であった東京信濃町の慶応義塾大学病院で17日午前5時40分、心不全のため死去する。没後、遺言により「文学に生涯を捧げながら、あまり報われることのなかった人に」という意向から平林たい子文学賞が創設された。



 

 平林たい子の過剰とも思えるほどの旺盛な「生きる」ことへの意識は、破格のものであった。〈私はナップの諸氏からは「立場が曖昧」だと評され、文線からは、脱落者と呼ばれて今日まで過してきた。しかし私は、自分の見解には自信をもってとおした。数によって勢力が決定する大衆団体ではない芸術家組織では、自分の主張を歪曲してまで何かの組織にかじりついていなければならない原則はない。孤立してでも自分の主張を守らねばならない時もあるのだ。〉と自らの立場を鮮明、確固たるものとした文学者の墓碑が目の前に建っている。「平林たい子之墓」は、信州の青々とした山稜に囲まれた田圃の中の共同墓地に、どっしりと腰を落ち着けて存在する。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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