成立の経緯から国内唯一の黄金株を発行している国際石油開発帝石が開発権益を持つイランのアザデガン油田から完全撤退することになった。アメリカからの圧力を受けたものとのこと。もともと我が国はこの油田の権益を75%保有していたのだが、2006年、核疑惑を口実に難癖をつけてきたアメリカに屈して10%まで権益を削減した。しかし世界最大級といわれる(夕刊によれば260億バレル)埋蔵量の油田の開発権益を我が国が高率で取得したことを「不都合」とするアメリカは、その後も、巧妙かつ執拗に圧力をかけ、今回は「国際帝石をイラン制裁に関連する対象企業リストに載せる」と脅しをかけてきた由。

 既に放棄した65%の権益はイラン国営石油会社の子会社が引き取ったされているが、その大半の権益は実質的に中国石油天然ガス集団が取得したらしく、今回放棄する分も中国の手に渡る方向にあるらしい。

 「あの国はなんでも盗んで行く」とおかんむりだった某都知事さんなどはどんなお気持ちか。盗まれる前に捨てさせられる(中国は占有権離脱したものを拾うという話ですかな、呵々)というのだからなんとも情けない。米中が裏ではつるんでいるのではないかという話はいつぞやの「常任理事国騒ぎ」の時に経験済みのことなのだから、少しは学習してもいいはずなのだが・・・。

 思い出した記事がある。ついでに書いておく。どれくらい我が国政府とマスコミとそれに誑かされている多くの国民の感覚がアンバランスかという一例だ。

 春暁ガス田の可採埋蔵量は約0.7兆立方フィート。サハリン1の推定可採埋蔵量は約17兆立方フィート。「春暁は小さく、九州への距離も遠い。パイプラインを引くメリットは少なく、日本が権益をとっても中国で売るしかない」というのが専門家の見方。

(2006年8月29日 朝日新聞の切り抜きから)

 春暁ガス田とは東シナ海に中国が建設しているガス田。我が方の「国益」屋さんが「ストロー効果が、ドウタラ・コウタラ」と騒ぎ立てている海底ガス田だ。

 石油と天然ガスは混在することが多い。地層構造のよく似た場所に存在するからだ。手元にアザデガンの天然ガスに関するデータはないが、サハリン1の原油埋蔵量が23億バーレルというから、その10倍以上の原油埋蔵量のあるアザデガンにもそれなりの天然ガスがあってもおかしくはない。少なくとも春暁ガス田の規模は軽く凌駕するのではないか。

 ことが中国となると青筋を立てて怒り狂うが、アメリカが絡むと腹を立てないどころか、いともあっさりと「国益」を放棄する。絶句するほどアンバランスな話だが、これが「日本人」というものらしい。オレもその「オットセイ」の仲間なのだと思うと「向こう向き」にでもならなきゃ、とても「日本人」などやっていられない気分だ。

 きょうはもうひとつ。東京新聞のサイトに興味深い記事があったので書き写しておく。

 【北京=安藤淳】中国の劉洪才駐北朝鮮大使が今月中旬、極秘に訪日し、民主党執行部と会談していたことが二十九日分かった。複数の日中関係者が明らかにした。沖縄県・尖閣諸島沖の漁船衝突事件に絡んで、日中関係について意見交換したとみられる。
 民主党の細野豪志前幹事長代理が同日、中国・北京を訪問しており、劉大使と党執行部との事前調整を土台に、中国要人と接触しているもようだ。
 日中関係者によると劉大使は今月十二~十五日の日程で来日していた。細野氏と親しい関係にあるという。外交筋は劉大使の訪日について「アジア周辺国の中国大使が集まる大使会議のため」としていた。
 漁船衝突事件は七日に発生。中国政府は十二日まで五回にわたり丹羽宇一郎・駐中国大使を呼び出し、漁船、漁民の解放を要求。日本政府は十三日に船長を除く漁船乗組員を帰国させている。
 劉大使が平壌に駐在しており、北朝鮮事情に通じることから、日中関係のほか、北朝鮮の核問題や日朝関係についても意見交換した可能性がある。
 劉大使は一九八九年から約三年間、在日本の中国大使館に勤務した。日本の与野党に太いパイプを持つ知日派で知られる。二〇〇三年六月に中国共産党対外連絡部副部長に就任後、今年三月に駐北朝鮮大使に就任した。日本人拉致問題にも通じている。

 細野が菅首相から「密書」を預かっていたとか、いないとか、たったそれだけのことを大げさに報ずるくらいなら、せめてこのていどの記事をものにしてもらいたい。(9/30/2010)

 また4時前に目が覚めた。眠れないのも同じ。これといって心配なことがあるわけではない。あえて書けば**(長男)・**(次男)そろって依然として色恋の話がないことくらいのものだ。結婚してくれないことには、孫と遊ぶ楽しみすら期待できない。かといって誰でもいいわけではないし・・・などと思いながら起き出して、PCに火を入れ、ぼんやり為替ニュースを見ていたら、「ブラジルのマンテガ財務相は27日、サンパウロにて国際的な『為替戦争』が勃発していると発言した。日本をはじめ、韓国、台湾などが対ドルで自国通貨売りを実施するなか、のろしを上げたかたちだ。28日付けのファイナンシャル・タイムズ紙が伝えている」とあった。言いにくいことをはっきりと言えるというのは経済が好調である証なのかと思いながら読み始めたばかりの「中央銀行は闘う」を読む。毎度のことながら竹森の語り口は秀逸で、あっという間に引き込まれた。

§

 午後になってもオーストラリアドルは81円ちょうどから30銭のレンジで推移している。「きょうはひときわ静かな動きだなぁ。でもこういう時に限って突然ということがあったりして」などと思い、急に「通貨戦争」のタイトルが気になり始めた。検索をかけてみると日経のサイトに件の記事が転載されていた。Alan Beattie という書名入りの記事。

見出し:国家間の対立、「隠れた通貨戦争」で激化
 外国為替市場への介入競争が加速し、影響力のある大国も本腰を入れ始めた最近の動きを受け、ブラジルのマンテガ財務相は、今まさに通貨戦争が進行していると主張した。誰もが感じていることを公式に認める数少ない政府関係者の一人となった。
 大規模な為替介入が金融緩和の効果をもたらすとの見方があるものの、一般的には通貨切り下げ競争で、国家間の緊張が一気に高まるのではないかと懸念されている。
 象徴的なのは、日本が9月に6年ぶりの円売り介入に踏み切ったことだ。日本はG7(先進7カ国)で唯一、過去20年間たびたび為替介入を行ってきた。実質ゼロ金利下では通貨政策の効き目が少ないというその根拠は、今や多くの国に当てはまる。
 介入が世界的な通貨バトルの引き金となった中国をはじめ、複数の経済大国がすでに介入に乗り出した。スイスは、スイスフラン高対策として 2002年以来の単独介入を昨年より実施している。為替市場で大量に売ったスイスフランを国内金融市場で吸収する「不胎化」は行っていない。
 東アジア諸国も軒並み介入するなか、11月に20カ国・地域(G20)会議を開催する韓国も、今年に入りウォンを押し下げる断続的な介入を行っている。経常黒字を出しながら通貨安を誘導するやり方に米政府内では非難の声が上がる。
 一方でブラジル自身も、投機マネー流入によるレアル上昇への懸念を訴えてきたが、最近になって自国通貨を守るため政府系ファンドのレアル売りを許可していたことが明らかになった。
 単独介入の広がりは、G20会議で中国に人民元切り上げを迫る国際包囲網を築きたい米国の思惑にとって不利な前兆となろう。人民元上昇は歓迎すべきことだが、表立って中国と対立することを望む新興国はほとんどないからだ。
 ブラジルのアモリン外相は先週、組織的キャンペーンの一翼を担うことを拒否した。ニューヨークでのBRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)の会合の後、ロイター通信に対し「ある一国に圧力をかけるのは正しい解決法ではない」と語った。「中国とは良い協調関係にあり、対話を重ねてきた。今やわが国にとって(商品を輸出する)主要な顧客だ」と語った。
 エコノミストの一部には、通貨切り下げ競争のために自国通貨を増発すれば、実質的な緩和政策となり、最終的には国際協調に基づく金融緩和に近い効果を生むとの意見がある。
 しかし他方、この楽観的シナリオのようにそれぞれが自国通貨に介入すれば混乱を招き、協調よりも競争の意識が強まると警告する見方もある。米財務省・連邦準備理事会(FRB)の幹部をつとめたピーターソン国際経済研究所のテッド・トルーマン氏は「介入と通貨政策を混同するのは危険だ。介入による影響を正しく知らない者が介入の度合いを決めるのは至難の業だ」と指摘する。
 同氏によると、世界経済の回復の遅れを受けて中央銀行が量的緩和策に動くケースもあるが、外国為替市場への介入よりも国内の短期金融市場で実施するほうがずっと効果的だという。
 当面、国際協調の実現は考えられず、またすべての国が同時に通貨を切り下げることは不可能だ。(規模の大きい)欧米の金融当局が概して自国通貨の介入に消極的であることを考えると、今後いっそうの切り下げ競争が進むことで、為替市場に予想外の急激で不安定な動きが発生しかねない。

 素直に読めば、彼の大恐慌時、各国が国際協調を忘れ保護貿易に走り、事態をいっそう深刻にした話が思い出される。しかしアメリカに基軸通貨の価値を守る責任意識がどこまであるだろう。おそらく世界はドルが単独の基軸通貨である状態から、まだ見ぬステージへの離陸を意識し始めているのだろう。問題はその「ステージ」がありありと見えているわけではないことであり、それ故に経験しなければならない混乱がどのていどのものになり、どれだけの人々の生活を混乱させるかということだ。いずれにしても、アメリカよ、そしてアングロサクソンよ、基軸通貨発行のシニョレッジを独占する時代は終わりつつあるのだ。覚悟することだ。(9/29/2010)

 北朝鮮のお世継ぎが決まったらしい。この国には北朝鮮軍事脅威論が蔓延しているが、20歳代(27歳ないし28歳の由)で「大将」が務まる軍隊とはどのていどのものか。もっとも昭和天皇は25歳で「大元帥」になった。そんな歴史を持つ国から見れば、北朝鮮の軍隊の「強さ」について、いろいろの見方があるのは理の当然ということになるのかな、呵々。

 名高い「貞観政要」の巻一には、唐の二代皇帝・大宗の「帝王の業、草創と守成と孰れか難き」という問いに、創業と守成、それぞれの時代を担った二人の臣下がどのように答えたか、大宗がそれを自らへの指針としてどう解したかが書かれている。王朝に限ったことではない、企業などの組織においても「創業と守成」がそれぞれに抱える問題は、組織の後々の寿命にまで影響する大問題だ。

 また、初代と二代がどれほどうまくマネジメントをしても、往々にして三代目がそれを台無しにしてしまうということもまたよくある話。川柳にある「売り家と唐様で書く三代目」というやつだ。

 かつて尾崎行雄はこの川柳を翼賛選挙の批判として引き不敬罪に問われた。昭和天皇がまさに三代目だったからだ。「太陽が西から昇る」と大声で主張しても誰もそれを咎めることはない。それが誤りであることは明白だから嗤うだけのことだ。しかし「ひょっとすると本当かもしれない」ということを大声で主張すると、時には物議を醸すことになる。件の川柳が「時代の行く末を予言しているかもしれない」という思いがどこかにあったから、尾崎は不敬罪に問われたのに相違ない。

 不安は的中し、大元帥裕仁陛下はまさに「家運を傾けた三代目」になった。尾崎の真意がどこにあったかは別にして、「不敬罪」と大騒ぎした忠臣面した連中が心中「まことに三代目にして傾くかもしれぬ」という心を隠していたとすれば、彼ら佞臣の眼力は正しかったことになる。(ああ、ややこしい)

 さて、創業の金日成、守成の金正日を継ぐことになったらしい金正銀(ジョンウンと読む由)がその「唐様で書く三代目」になるのか、それとも大元帥の肩書をツルリと捨てて飾り物におさまってからは、不思議に国が隆盛に向かった昭和天皇のように「名ばかり統治の三代目」としてかえって名をあげるようになるのか、よそ事ながら興味は尽きない。(9/28/2010)

 白鵬が全勝優勝した。4場所連続の全勝優勝は、朝刊によれば、1場所15日制が定着した1949年夏場所以降ではじめて、かつ、全勝優勝通算8度目というのは双葉山と大鵬と並ぶ記録とか。

 全勝優勝ということは初場所以来続く連勝記録も62になった。先々週土曜、七日目に千代の富士の記録を抜いて単独2位。あとは双葉山の69連勝が残るのみ。

 双葉山の連勝が続いていた頃、ある宴席で吉川英治からこんな句を贈られた。「江戸中で一人さみしき勝ち角力」。この句は吉川の作ではなく古川柳のひとつらしいが、贈られた双葉山は「自分の心境を理解してくれる人がここにいる」と涙した由。

 朝青龍に比べれば優等生、圭角のない人物と思われている白鵬だが、心中はどのようなものか。朝青龍の不在に意識があるか。それでも双葉山の記録に近づいて行く間はまだいい。かりにそれを超えたとき、この句のような心境に至るものか。ちょっと気の早い心配をしてみたくなる。(9/27/2010)

 週末の週間ニュースは「中国」と「検察」。「検察」の方は「改竄」と「釈放」。「改竄」は大阪地検特捜部。「釈放」は那覇地検。

 尖閣諸島の久場島沖で操業していた中国漁船に海上保安庁の巡視船「よなくに」が警告、停船をを命ずるや、あろうことか漁船は巡視船に体当たりをして双方の船が損傷した。海上保安庁は漁船乗組員を全員拘束し、石垣島に留置したのが今月7日のことだった。その後、船長のみを逮捕、その他の14名の船員は解放、13日午後に石垣空港から中国のチャーター機で帰国した。

 それからの中国の高圧的な態度。ガス田開発に関する協議の一方的中止、中秋節や国慶節を利用した日本ツアーのキャンセルくらいまでは嗤ってみていたこちら側も、レアメタルの禁輸、フジタの社員が禁止施設の撮影容疑で逮捕されるに及んで、そのエスカレートぶりにあわてはじめた。

 政府を含めて「まさか、そこまでする」と想定していた人は少なかったのだろう。水曜日、飲みながら、**(友人)に「もしオレが中国ならレアメタルを持ち出すね。たぶん。イチコロだ」と言った。「そうか、あり得るね」というのが**(友人)の答えだった。マーフィの法則はあたる。ここで「事態の悪化を引き寄せる可能性」をもっているのは中国ではない。我が方の「ひとつことをそれのみで考え、いくつかの事柄との関連性をもたせて考えることをしない」という、あまりに天真爛漫な性向のことだ。

 こういう場合、人間は自分の性格的欠陥などに思いを致すことはない。だからほとんどの人が腹を立てている。こうは書きつつも、船長の釈放を決め、身柄を引き渡したにも関わらず、中国外務省が「日本側は謝罪し、賠償すべきだ」という声明を発表するに至っては「盗っ人猛々しい」とはこのことかとはらわたが煮える。愚かな「強硬派」はどこの国にもいるものだ。だが、それを押さえ込めずになんの「共産党独裁」か。これではポピュリズムに引きずり回され、一気に沈みつつあるこの国より悪いではないか・・・呵々。

 ところで、今回の逮捕劇、どこか釈然としないものがある。たしかに、巡視船に体当たりをかましてきた、そして巡視船が損傷した、これを座視するわけにはゆかない。だから「公務執行妨害で逮捕だ」だ。という流れは、一見、自然に見える。

 しかし、尖閣諸島近海での中国や台湾の漁船の操業は今月になって始まったものではないだろう。日常茶飯事の警告、退去といういたちごっこの中で「不測の事態」が発生した場合、どのような措置をとるかについて、海上保安庁がそれなりの検討をしないですましてきたとは思えない。

 けさの朝刊オピニオン欄に神戸大学教授の坂元茂樹が、中国の対抗措置に屈した印象を与えるこの時期の釈放は「最悪のタイミング」だという指摘と「日中両国、とりわけ中国側に、自制的態度を求めたい」といういかにも穏当な意見を書いている。その中で船長の逮捕事由にふれている。

 私は、日本側はこの事件の早い段階から中国側に対してある種の「おもんばかり」を示していたと見ている。逮捕容疑が公務執行妨害だったことがその一つだ。同罪の成立には「暴行または脅迫」や「犯意」の立証が必要だが、今回の事案を報道で見るかぎり、「該当しない」という法的判断の余地はありうるように思えたからだ。
 実は、この事案に適用すべき国内法に「外国人漁業規制法」がある。これは、日本の領海内で大臣の指定を受けない外国人の漁業を禁止する法律だ。こちらの立証は拿捕した漁船を調べれば容易だったろう。だがこの容疑の話は聞こえてこなかった。日本側は領有権の問題が前面に出て、外交的なあつれきが生じるのを避けようとしたのではないか。残念ながら日本側のメッセージは中国側には届かなかったが。

 これとは別に、この事件の前日、海上保安庁は小笠原諸島近海の我が国の排他的経済水域で操業していた台湾漁船を拿捕し、船長を逮捕した。逮捕事由は「漁業主権法(排他的経済水域における漁業等に関する主権的権利の行使等に関する法律)違反」だった。

 つまり「逮捕事由」の候補としては、「公務執行妨害」の他にも、より核心に近い「外国人漁業規制法違反」や「漁業主権法違反」がある。それぞれの罰則は、「公務執行妨害」ならば「三年以下の懲役若しくは禁固又は五十万円以下の罰金」、「外国人漁業規制法違反」ならば「三年以下の懲役若しくは四百万円以下の罰金」、「漁業主権法違反」ならば懲役刑、禁固刑はなく「千万円以下の罰金」となっている。

 これらのどれを適用するかは中国なり台湾に対して提起する問題とその解決をどこに求めるかということに関わる。海上保安庁があえて今回の事件に対して「公務執行妨害」を選択したのにはそれなりの「これでなくてはならない」理由があるはずだ。

 坂元の「ある種の『おもんばかり』」があったという推測は妥当だと思うが、その「考慮」が彼の主張する方向であったのかどうかは疑問だろう。彼の指摘するように「犯意」の立証などの点で成否が微妙であるということは、取調べに時間がかかるということ、そして結果をいかようにも導けるということを意味している。いかようにもできるということは政治決着には向いているが、時間がかかるということはこの種の事件の解決には致命的だ。このていどのことで「武力に訴える」というのは歴史的にはよくある話だったが、既にそういう時代ではない。

 日中両国とも島の土地を貴重に思っているわけではない。少なくとも我が国の場合、地方に行けば耕作放棄地がゴロゴロあるという現実を見れば、土地が問題なのではないことは明らかだ。中国にしても事情が大きく変わるとは思えない。尖閣諸島の領有によって確保される領海と海域の地下に眠ると考えられる地下資源の経済権益にある。それらの経済権益は安全な操業と効果的な探査・採掘を前提としてはじめて確保される。そう考えれば双方の政府が傷つかないうちに経済権益の安定確保を図る方向で政治決着する以外の選択肢はない。

 にも関わらず、海上保安庁ないしはその所管官庁である国交省は「時間」と「決定」にどのような「意味」を与えようとしていたのだろうか。何をどのようにもくろんでいたのかは分からないが、我が国はおおいに傷ついてしまったし中国も相当にミソをつけることになった。

 いまや「検察庁が外交問題にくちばしを入れるのか」だの、「政府筋から検察に圧力がかかったに相違ない」だの、枝葉末節の話が飛び回っているが、その前段、そもそも、「公務執行妨害による逮捕」がどのレベルのいかなる判断によりなされたのか、逮捕後にどのような収拾を図るのかについてのプランがきちんと用意されていたのか、そういうことから検証を始めた方がいいのではないかと思う。それこそが「国益」を大切にすることのはずだが、どうも陋巷の民にも分かる当たり前の議論はないようだ。(9/26/2010)

 為替介入があった15日の翌日、「まことにみごとな介入だった」と書いたとき、書こうと思っていながら書き忘れた一節がある。

 「みごとな介入だったが、画竜点睛を欠くことがひとつあった。記者会見で官房長官が『82円が防衛ラインか』という質問に対して、『財務相がそう考えたのだと思う』と答えたことだ。具体的な数字について言及すれば介入効果は多いに減殺される。この発言で今回の介入のみごとさはずいぶん割引されてしまった。バカなことを答えたものだ」・・・くらいのことを書くつもりだった。

 その後、渡辺喜美が得意そうに「官房長官は82円(台突入)がラインだみたいにバカなこと言っちゃう。私が投機筋だったら必ず狙う。本当にバカだ」と発言したことを知って、渡辺がそういうなら必ずしもバカな発言ではなかったのだなと思い直した。渡辺ていどが「必ず狙う」ということはプロの投機筋はそういう素直なことはしないということだ。

 先日の介入以降、85円80銭から84円40銭の間を推移している。いままで82円台を試す動きがなかったことをもって渡辺発言を嗤っているわけではない。もちろん82円台が介入アラームの目安になることは事実だろうが、日本の財務省が「奇襲を仕掛けた」という実績の方が、「財務相がそうお考えになったんだと思う」という他人事風の言い方をした官房長官よりも、強く「不気味」という印象を与えたらしいことをいっているのだ。あの「奇襲」がどのような効果を生み、プレイヤーに「疑心暗鬼」を与え、いろいろな推測が成立するようになったという一例になりそうなことがきのうあった。

 きのう、週末金曜の1時過ぎのことだった。ドル-円が84円50銭あたりから一気に85円30銭くらいまでに振れた。「再度の介入か?」というニュースが流れた。しかし1時間もしないうちに85円の線に戻り、夕方には元の水準に戻った。興味深かったのは円安に振れたすぐあとに「日銀総裁辞任」という噂が流れていることが報ぜられたこと。

 介入からあるていど時間が経過してから、ドル売りで82円台を試すのもひとつの考え方だが、逆に円売りにより「すわ、介入か」と思わせドル買いを誘発して、時を措かずに売り抜けるというプレイヤーがいてもおかしくはない。その効果を高めるために意図的に「白川さん、辞任するって」などという噂を流す。素直に「82円ラインを狙う」ミスター・ワタナベ(嗤い)的な投機筋より、一捻りして「疑心暗鬼利用」などのトリッキーな仕掛けをする投機筋の方がよほどプロっぽいような気がする。もっともストンと上がったあとの伸びがほとんどなく、持続時間もさほどなかったことからすると、いまひとつよく分からない動きだったことも確か。

 再選直後で組閣前という予想外の「介入」は、実質的な効果よりも疑心暗鬼効果、官房長官の「失言」がある種の紛れまでも生んで、いまのところは十分な円高進行抑制効果につながっているようだ。(9/25/2010)

注)「ミスター・ワタナベ(嗤い)」というのは、とうぜん「ミセス・ワタナベ」との「対句」です。
ミセス・ワタナベ:小生のように、為替取引について高度な専門知識やノウハウを持たず、小口の資金をチマチマと投じている個人投資家のこと。

 イチローが10年連続の200本安打を打った。まことに慶賀の至りだ。よくぞ打ってくれました。

 とにかくここ数週間というもの毎日「イチロー選手はきょうヒットを*本打ちました。これで10年連続200本安打まであと*本です」というニュースが流れる。「猖獗を極める」という表現があるがまさにそれ。

 イチロー・ニュースが奇怪なのは「1本打った」とか、「4本の固め打ち」とかのアナウンスはあるが、マリナーズが勝ったのか負けたのかのアナウンスはないことだ。ヒットだけが「ニュース」かしら。それともベースボールのルールが変わり、「ヒット数」を競うゲームにでもなったのだろうか。

 しかし「ベースボール」もたぶん「野球」のように9人で行う点取りゲームという原点は変えないはずだと気を取り直してマリナーズの成績を調べてみた。なんとまあ58勝94敗、勝率にして3割8分2厘とは恐れ入る。アメリカンリーグ西地区の最下位であるのは当然として、中地区最下位のインディアンズの4割5厘にも、東地区最下位のオリオールズの4割1厘にも及ばない。全14チーム中、ダンペコの最下位だ。道理でイチローのヒットしかニュースにしないわけだと合点がいった。

 日本球界の宝、イチローが在席し、毎日「ニュース」になるほどの大活躍をし、大リーグ市場に燦然と輝く「大記録」を日々更新しているというのに、この勝率はどうしたことか。原因は二通り考えることができる。イチロー以外の選手がすべてプアな選手であるか、もしくは、イチローの記録がチームの勝敗の妨げになっているか、だ。

 慶賀すべき大記録達成後のイチローのコメントが興味深い。「チームメートがみんな祝福してくれて、喜んでいいんだなと思った」。いくら気取らないふりをしながら気取ってみせるのがイチローの真骨頂でも、ずいぶん持って回った言い様ではないか。それには伏線があったようだ。何年か前に日本のマスメディアが今回のような「記録騒ぎ」を繰り広げて、それを苦々しく思った何人かのチームメートが「あいつを埋めてやりたいよ」と地元紙の記者に語ったらしいのだ。

 その気持ちはよく分かる。記録などに縁のないごく平凡な選手にとって、普通、負け試合は気分のいいものではない。そんな気持ちでいるところに、イチローをカメラ・マイクが取り巻いて、なにやら分からない言葉でやり取りをしている、およそ試合内容に似つかわしくないバカ騒ぎだ。「なんだよ、あいつら。おれたちの負け試合がそんなにうれしいのかい」とむくれるのは当たり前のことだ。

 彼らだって、マリナーズがイチローの来る前からたいした成績のない冴えないチームだったことは承知しているさ。であるからこそ、「奴が来てから十年も経つのにワールド・シリーズはもちろん、ポスト・シーズンだって奴が来た最初の年、そうそうあの年にはササキがいたっけ、ショボいヒットよりはすばらしいフォークの方が勝利に貢献するさ、絶対にね。ともかく、あいつはおれたちをポストシーズンには連れてってくれないんだね」となれば、「チーム・プレイを知らないあいつが悪い」と言いたくなるのが人情だろう。おまけに「オーナーになんとかいう日本人が加わっているから、カメラがあるところでは記録の我利我利亡者さんに悪い顔はできないけどな」とくれば、フラストレーションはたまるばかりで、そうでなくとも弱小なチームの成績が悪くなってもなんの不思議もない。

 それにしても、イチローさん、よく打ってくれました。これでしばらく「ヒットを1本打ちました」などという「犬が人間に噛みついた」よりもさらに「ニュース」らしくない「ニュース」を聞かされずにすむというものだ。

 はっきり書いておく、オレをイチローを嫌いにさせたのは、この国のバカマスメディアだと。そして、シアトルの成績がふるわないのも、たぶん「イチロー現象」がひとつの原因であると。(9/24/2010)

 「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。お彼岸の中日になってやっと「今度こそは終わったろう」という陽気になった。

 それにしても今年の夏はすごかった。なにしろ「三冠王」だったのだそうだ。まず、猛暑日が13日で95年と並ぶ最多タイ、真夏日が71日で04年の70日を抜き、熱帯夜にいたっては56日で94年の47日をはるかに超えた。これで「暑さの三冠王」というわけだ。

 きのうのラジオでお天気の森田正光が紹介していたデータはもっとすごい。8月の東京の平均気温は29.6℃。これに対し、グァムの平均気温は26.4℃、以下、カイロは27.9℃、バンコクでも28.8℃。東京を抜いたのはニューデリーの29.9℃だったとか。むかし懐かしいケッペンの記号を調べてみると、東京はCfa(温暖湿潤気候)、グァムはAm(熱帯モンスーン気候)、カイロはBWh(砂漠気候)、バンコクはAw(サバナ気候)。つまり東京だけが「C」、「温帯」のはずなのに。いったいこれはどうしたことだ。

 ついでに書いておくと、森田の予想ではラニーニャが原因となって、この秋は短く、比較的はやく冬が来て、どうも寒い冬になりそうだとのこと。どうやら今年から来年は光熱費のかかる年になりそうで、年金生活者には身体的にも経済的にも「堪える」ことが多そうだ。(9/23/2010)

 きのうからのマスコミ報道、きょうのワイドニュースなどではしきりに、フロッピーディスクの「謎」を取り上げている。わざわざ作成日時データを改竄しておきながら、なぜ起訴状との日付の整合を取らなかったのか、また、改竄の3日後に上村被告に返却してしまったのか、じつに不思議だというのだ。

 しかし不思議に思うなら、それら以前に不思議に思ってもいいことがありはしまいか。

 そもそもなぜフロッピーディスクに凛の会が割引適用を受けられる障害者団体である証明書の原データが載っているのかということだ。ワープロが登場したばかりの時代には「文書フロッピー」という言葉もあった。しかしいまどき中央官庁の公文書の電子原本がフロッピーで保管されているということはあるまい。文書サーバーのハードディスクに保管してあるというのが常識ではないのか。

 改竄前のフロッピーディスクの文書作成日時は2004年6月1日午前1時20分6秒だった由。以下は想像。そもそもこの手の証明書は、タテマエはタテマエとして、事実上、職制の決済などなしに担当レベルの判断で簡単に発行されていたのではないか。担当にしてみてもルーチン化した業務でプライオリティも低い業務となれば、繁忙期には持ち帰り仕事にして自宅のパソコンで片付ける仕事、出勤時にフロッピーで役所に持参、プリントアウトして一丁上がり。そういうていどの業務だったのではないか。

 そう考えると家宅捜査時の押収品であったこと、公文書がフロッピーに載っていたこと、作成のタイムスタンプが午前1時20分などという時刻になっていることのすべてが無理なく説明できる。

 では、前田検事は何を狙ったのだろうか。これも想像。問題の文書の作成日が公判においてあらためて争われるようになったとき、次のような経緯を辿ったらどうなるだろうか。

 基本的には公文書は文書サーバーに載っているはずとして捜査、タイムスタンプは6月1日午前1時20分、上村被告は出退勤記録によれば退庁しているはず、厚労省が「事件発覚」後に文書サーバーを書き換えた疑いがあるとして、上村の自宅を再捜査、再押収したフロッピーを精査すると6月8日の作成と判明、・・・、このようなパスを辿って判明した「事実」を疑う人間は少ない。人間は眼前に展開する時系列の「事実」をそのまま「真実」と思い込みやすいのだ。

 こう考えると、データの改竄をしておきながら日付の整合を図らなかったことも、改竄後にあっさり返却したことも、それなりの説明はできる。

 もちろん、以上はすべてマスコミが報道したデータのみから想像したことで、当たり外れは神のみぞ知る話だが。きょうはこれから飲み会。**・**・**という顔ぶれはじつに久しぶり。銀座まで出かけるのは、いささか億劫ではあるが。(9/22/2010)

 朝日が「郵便割引制度不正利用事件の捜査担当主任検事が押収資料であるフロッピーディスクの文書プロパティ情報を改竄した疑いがある」というスクープを報じたのはけさの朝刊だった。今夜9時すぎ、最高検は記者会見を行い、大阪地検特捜部の主任検事前田恒彦を証拠隠滅の容疑で逮捕したことと、先日一審無罪の判決が出た村木厚子元局長に対する上訴権を放棄する手続きを取ったことを伊藤鉄男次席検事が発表した。

 特ダネ報道が「朝」で逮捕が「夜」。逮捕したのは検察官。検察官といえば一般人でも前歴者でもない、逃亡の恐れは限りなくゼロに近い。にも関わらず即日逮捕というのがすごい。それほど容疑の内容が素早く確認できたこともまたすごい。泳がせておいてマスコミ取材などによりボロが出ることを検察庁は恐れたのではないか。恐るべき早業は腐った組織の自己防衛の現れだ。

 数多くの冤罪事件における我が検察の「武勇伝」については、けっして多いとはいえないが多少の例を知っているからあまり驚かない。押収した資料の中の被告に有利な資料を「紛失」するなどは序の口、被告に有利な証人に圧力をかけるのもごく普通にやってきたことだし、時にはその証人を「偽証罪」で起訴するなどということも、我が検察庁はやってきている。起訴直前、あるいは公判中に補強証拠として提出するために警察の「協力」を得て、「新証拠」を発見してみせたこともあった。しかし、既存の証拠に手を加えるに至っては言語道断、「そこまでやるか」と思うと空恐ろしくなる。

 ここには明らかに被告に対する「悪意」がある。「真実などはどうでもいい。無実であってもかまわないんだ、奴を監獄にぶち込まなければならない」。そういうことだ。しかし前田恒彦に村木厚子に対する私怨があろうとは思えない以上、この「悪意」はどこから生まれたかということになる。いちばん合理的な説明は「検察一体の原則」でまとまっている検察組織の「組織としての意思」がそうさせたのだろうということだ。たった半日で逃亡の恐れのない検察官の逮捕に踏み切った最高検の周章狼狽ぶりが、かえって、この「犯罪」の真相を語っている。

 今回の事件の「見立て」(検察官の作る犯罪シナリオをこう呼ぶらしい)は「料金割引制度の不正使用により儲けをたくらんだ凛の会が、民主党副代表石井一に口利きを依頼し、石井一はそれが不正であることを承知しながら厚労省に圧力をかけ、厚労省のトップから現場に指示が出た」というものだった。

 検察の意思は「凛の会という福祉を食い物にするヤクザな組織」と「民主党に所属する悪徳政治家」のふたつを一気に法網にかけて「国策捜査」の成果を上げることであった。ところが「悪の連環」の厚労省の元課長が「か弱そうな女」のくせに「自分は関わっていない」と言い張って意のままにならない。入り口の凛の会と出口の厚労省上村勉だけが罪を認めることにとどまって、「国策捜査」のターゲットである石井につながらない。取調べ検事は村木に対して「形式犯ですから略式起訴です。認めればすぐに釈放ですよ」と「司法取引」を持ちかけたのは検察庁の組織としての焦りが言わせた言葉だろう。

 夜のニュースによると、フロッピーのデータと起訴状の矛盾を「発見」したのは村木厚子本人だったそうだ。民主党叩きに組織をあげて取り組んだ検察庁にとっては、でっち上げ案件のキーストーンに、沈着にして有能、剛直の村木がいたことはじつにアンラッキーだったとしかいいようがない。(9/21/2010)

 長良川の鵜飼を観てきた。予約を取ってもらったときには「**(長男)も名古屋に行ったことだし・・・」だったのだが、そのあとに**(次男)が10月1日付で市原に転勤ということになり、幸か不幸か、ギリギリのタイミングになった。

 鵜飼。「こもりくのはつせのかわの」までは憶えているのだが、その先が出てこない。「鵜」が出てくればまだしも格好がつくのだが、単なる枕詞のペアでは面白くもおかしくもない。調べておいて博学をひけらかせればよかったのだが・・・、と思ったがもう遅い。

 いま調べてみると、こんな歌だった。**(家内)に教えてやれれば、いっそう効果的だったのに、残念。

隠国の 泊瀬の川の 上つ瀬に 鵜を八つ潜(かづ)け
下つ瀬に 鵜を八つ潜け 上つ瀬の 鮎を食はしめ
下つ瀬の 鮎を食はしめ 麗(くは)し妹に 副(たぐ)ひてましを
投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安からなくに
嘆くそら 安からなくに 衣こそは それ破(や)れぬれば
縫ひつつも またも合ふといへ 玉こそは 緒の絶えぬれば
縛(くく)りつつ またも合ふといへ またも 逢はぬものは 妹にしありけり

 6時前に、すぐ前の川辺から観覧船が出る。盛況で卓の間が狭く座るのが辛い。お重に鮎の塩焼き、ちょっと味が濃い。うちの舟が一番船らしく、橋の向こうからも続々と来る。

 鵜飼は7時半スタート。川から見上げる金華山の左肩あたりに、もう少しで満月になる月がかかる。(中秋の名月の日、鵜飼はお休みになるとのこと)

 鵜飼を観るのははじめてではない。子供の頃。おそらく**(叔父)さんが来たときに連れて行ってもらったのではないかと思う。とすると小学校1年の夏休みのこと、55年も前のことになる。鮮やかなかがり火、それに照らし出される烏帽子に腰蓑という鵜匠の風体が強く記憶に残っている。長良川の鵜匠は宮内庁の職員で完全世襲の由。ということは彼の日に見た鵜匠さんは父か、祖父になるのだろう。

 「狩下り」というのと「総がらみ」というのを見るのだが、観覧船が列をなして順にベストポジションを取る。したがって観覧はほんの数分間程度で待ち時間が長い。まるでパンダの檻の前の長い行列のようだ。記憶には、かがりからこぼれる火の粉や鵜を引き寄せてはかがむ鵜匠など、いろいろのシーンが残っているのだが、それほどじっくり見るヒマはないように感じた。記憶は補強して作られるのに対し、昨夜はシャッターを切るのに追われたせいだろうか。少し消化不良。

 けさは寝坊の**(長男)にあわせてチェックアウト。ロープウェイで金華山に登り、岐阜城からの眺めを楽しむ。暑さのためだろう霞がかかり、いまひとつ遠くまでは見通せなかった。岐阜駅となりのビルで昼食をとって、まだ食い続けている**(長男)・**(次男)と別れ、名古屋へ戻り、2時半のこだま(往復とも「ぷらっとこだま」を利用)で帰ってきた。(9/20/2010)

 小林桂樹が亡くなった。16日、心不全、86歳。

 格別似ているというわけではないのだが、どこか**(父)さんの姿とダブるところがあったのは大正の生まれで二つ違いだったからだろうか。

 事件ものや時代劇、多くのテレビドラマに出ていたが、忘れがたいのは山田太一脚本の「それぞれの秋」だ。ホームドラマという枠の中で、家族一人一人にはそれぞれにシリアスな現実があるという当たり前のリアリティをきっちり描いたドラマだった。語り手は小倉一郎が演ずるいささか頼りない次男。それはちょうど大学紛争で尻小玉を抜かれた団塊世代の我々そのもの。小林桂樹はその父を演じていた。団塊世代の父、息子たちに歯がゆい思いを持ちながら、それでも民主的「パパ」であらねばならぬと念じている。その父が脳腫瘍になり、通常ならフタをしてけっして見せないはずの心の内が露出しはじめる。

 その一連のセリフの中に、「ジーパンをはきたい。ダブダブにではなく、スラッと。ブルーのジーパンをはきたいんだ。スラリとした脚の長い女の子と街を歩きたい。長い脚を目立たせて歩きたい。ガラス張りの喫茶店かなんかで、ふたりでコーヒーを飲みたい」というのがあった。手元にシナリオがないから、ずいぶん創作が入っているかもしれないが、おおむね、こんなセリフだったと思う。中年を過ぎつつある男の生々しい言葉。じつに切ないセリフだった。しかし、当時、まだ二十代だったオレにもツーンと沁みてくる忘れがたい小林の演技だった。

 ・・・でもね、若者だからって、みんながみんな、ブルージーンをスラッと履くほどの背があるわけではないし、当然のこと、それに似合う脚の長いガールフレンドなど持ち合わせているわけでもない、うん、それはおじさんとおなじように、夢なんだなぁ、そんな気持ちだったような・・・。とは思いつつ、渋谷の公園通りあたりだったと思うけれど、ガラス張りの喫茶店を見つけて、いつの日か、夢をかなえようとはしていたかな。(9/18/2010)

 この国の劣化がどこまで進んでいるかということを思い知らせた件。朝刊の記事。見出しは「橋下知事 弁護士業務停止へ/2カ月 TV発言巡り処分」。

 弁護士の橋下徹・大阪府知事(41)が知事就任前の2007年5月、山口県光市で起きた母子殺害事件の被告弁護団の懲戒請求をテレビ番組で呼びかけた問題で、大阪弁護士会(金子武嗣会長)は「弁護士の品位を害する行為にあたる」と判断し、2カ月の業務停止処分とする方針を決めた。近く橋下氏側に通知する。処分に不服があれば、日本弁護士連合会に審査請求できる。
 母子殺害事件では犯行当時18歳の元少年が起訴され、弁護団は07年5月に広島高裁で始まった差し戻し控訴審で一・二審の主張を変え、殺意や強姦目的を否認した。橋下氏は同月に放送された読売テレビ(大阪市)の番組に出演し、「あの弁護団を許せないって思うんだったら、弁護士会に懲戒請求かけてもらいたい」などと呼びかけた。
 この発言に対して、12都府県の市民約340人が07年12月、「刑事弁護の正当性をおとしめる行為だ」として大阪弁護士会に橋下氏を懲戒処分するよう請求していた。
 関係者によると、第1段階の審査にあたる同弁護士会綱紀委員会が「(発言は)弁護団への批判的風潮を助長した」と判断。これを受けた懲戒委員会が今月上旬までに審査し、処分を決めたという。
 橋下綜合法律事務所の関係者によると、橋下氏は実質的に業務をしておらず、顧問契約は橋下氏名義ではなく、弁護士法人名義で結んでいるという。業務停止処分を受ければ事務所に出入りできなくなるが、弁護士個人としての影響はないとみられる。
 橋本氏のテレビ番組での発言をめぐっては、元少年の弁護団の4人が07年9月、橋下氏に損害賠償を求めて広島地裁に提訴し、一審と二審・広島高裁判決はいずれも橋下氏の責任を認定。双方が最高裁に上告している。

 橋下はまだ「弁護士」の看板を上げていたのか。軽い驚き。弁護士の存在理由を根本から否定しておきながら、弁護士を名乗り続けられるという神経が分からない。橋下は東條英機の弁護人をどのように評価するのだろう。東條はかなり特殊な例としても、裁判手続きにおける弁護士業務をどう理解しているのだろう。七面倒な職業理念などはどうでもいい、弁護士資格は飯のタネ・・・、橋下はおそらく弁護士の理念なんぞはクソ食らえ、世の中の安直な正義感に乗っかってバカとアホウからウケをとり、ギャラをもらうのがオレの生き方、・・・そう思っているのだろう。自分のような「弁護士」には光市母子殺害事件のような事件の弁護は引き受けられない。だからそれを真摯に引き受ける弁護士が彼は気に入らないのだろう。

 橋下が看板を下ろしていないということは「橋下型弁護士」に報酬を支払う依頼者も・・・いるんだね。まあ、あのていどの人物が知事に選ばれる(それにしても大阪府民というのは如何物好きだ、「痴漢屋」さんを知事にしていた時代もあったっけ)時代なのだから、世の中の半分はカモにされるお人好しとすれば成り立つ話か、呵々。(9/17/2010)

 半月ほど前、SBI証券のFXニュースに転載されている荻野金男「侃々諤々」にこんな記事が載っていた。

 2003年溝口財務官の指揮のもと巨額なドル買い介入で30兆円を超える額を最前線で指揮していた山崎達男氏(当時の為替課長)が、金融庁審議官から国際局次長として財務省に戻った。当時辣腕を振るい国内外のディーラー達との熾烈な戦いを繰り広げた山崎氏の復帰により、これで財務省の陣容はしっかり、また財務省の介入経験担当者も現場に戻り、現在24時間体制で準備万端というところだ。

 介入の可能性はプロの間では十分に認識されていたわけだが、介入がまさか菅再選の翌日にあると予想する向きはプロでも少なかったのだろう。

 もともと小沢待望論の一部には「小沢ならば円安誘導が強力に行われる」という期待があった。裏返せば菅の続投なら「口先介入」はあっても重い腰はなかなか上がらないと見られていたわけだ。かりに介入があるとしても少なくとも組閣が完了したあとのこと、それまではよほどの円高進行がない限り介入はない・・・、「よほどの円高」とは80円ジャストといったようなシンボリックな水準ではないか・・・、こんなところだったのではないか。

 もしそうだったとすれば、今回の介入はまことにみごとな介入だったということになる。みごとと言えば、円売り・ドル買いを東京市場のみならず、ロンドンタイム、ニューヨークタイムでも継続したこともみごとだった。そして、朝刊によれば、円売りにより流出した円を放置することにした由。これを「非不胎化」と呼ぶのだそうだ。つまり前回の介入、あの2003年1月から翌4年3月の「大介入政策("Great Intervention")」と同様の措置。あの「大介入政策」こそが小泉政権末期の景気回復のひとつの原因であったことは立場の異なる人々がそれぞれに著した本にも記されている。

 小泉政権時代、円高傾向を抑えると同時に、金融を緩めるという明確な目的を持って、当時の財務省の溝口善兵衛財務官を中心として、アメリカの財務次官であったジョン・テイラーの容認の下に、市場の通貨を増やす「非不胎化」による協調介入が実施されたのです。
 財務省は二〇〇三年から一年近くにわたり、莫大な資金を投じて為替市場でドルを買い、円安誘導を行います。これにより、それまでの円高傾向が反転するとともに、市場に大量の円が放出されました。
 加えて二〇〇三年には、円高論者で金融緩和に消極的だった速水優日銀総裁が退任、福井俊彦新総裁に代わっています。
 福井総裁もまた、量的緩和に対して否定的な発言をしていた人物ですが、就任に当たってはおそらく小泉政権との約束があったのでしょう、就任初期の段階では数十兆円レベルの追加的な量的緩和を進めています。もっとも福井総裁は政府との為替介入と量的緩和の協調があったことは明確に否定していました。
 量的緩和と非不胎化による円安誘導介入の両方を行うことで市場に円が放出され、円の流通量が増え、それがかなりの金融緩和効果を見せて、日本はこの時期、それまでべったり張り付いていたデフレ不況から、短期間ながら抜け出しかけたのです。

田中秀臣「デフレ不況-日本銀行の大罪-」から

 ・・・(前略)・・・2003年1月から04年春にかけて、外国為替市場で大規模な介入政策を行った これは過去に例をみない大きさなので「大介入政策("Great Intervention")」と呼ばれている。
 ・・・(中略)・・・それは、一定水準以上に円レートが切り上がることを阻止する政策であった。溝口善兵衛財務官による介入は、榊原英資元財務官の市場を驚かす派手な介入とは異なり、市場には目立たないかたちで行われた介入であったので「潜水艦型介入」であると評する人もいた。
 日本の為替レート政策の基本方針は、為替レートが過度に一方方向に不安定化することを阻止する「風に逆らう(leaning against wind)政策」であるとされている。しかし私の推測では、デフレを克服し、物価安定を回復するという暗黙の目標を溝口財務官は胸に懐いておられたのではないかと思う。・・・(中略)・・・
 2003年1月から04年3月にかけての財務省による介入金額は、およそ30兆円(3200億ドル)であった。政策金利が正である通常の状態では、介入資金は日本銀行の市場操作によって自動的に回収される。回収しないと一定の政策金利の水準を維持できないからである。・・・(中略)・・・
 ところが、量的緩和政策の下で政策金利はゼロであり、これ以上市場金利が低下することはない。仮に日本銀行が、介入政策実施中に量的緩和政策を強化して、目標とする当座預金残高を増加させる場合には、日本銀行は新たな目標を達成する上で市場に流入した介入資金を回収する必要はない。
 2003年3月に福井総裁になってから、日本銀行は17-22兆円から30-35兆円まで当座預金目標を13兆円引き上げている。仮に当座預金目標金額の引き上げと介入がほぼ同時点で行われた場合には、30兆円のうち13兆円は、必ずしも不胎化する必要がなく、「非不胎化介入」が実施されたのと同じ効果が発生することになる。より一般的にいえば、為替レート政策と金融政策が同じ時期に同じ景気拡大方向で実施されれば、市場や経済に与える効果はそれだけ大きなものになる。
 渡辺・薮論文(二〇〇九)は、介入資金の40%が実際には不胎化されなかったことを実証している。この金額は、福井総裁の下での当座預金目標金額の引き上げ額にほぼ相当している。さらに興味深いことは、この不胎化されなかった介入が為替レートに与える影響は、市場参加者が介入資金は回収されずに市場に残存すると期待する限りにおいて、不胎化された介入よりも大きいというファクト・ファインディングを検出していることである。
 もちろん、為替レートに与える効果が大きかったとすれば、一般均衡論の観点からすると、市場金利に与える効果も大きかったと推論される。日本銀行の政策の対象となるのは、あくまで国内の金融市場である。日本銀行は、結果的には、量的緩和政策のみならず、為替レート政策の助けも借りながらデフレ克服への道を歩んだといえる。・・・(中略)・・・
 3月はじめにグリーンスパン議長は、「部分的に不胎化されない介入政策は、金融政策の基本要素である基礎貨幣拡大の手段として用いられているが、デフレ状況の改善がみられるようになれば、その必要はなくなるはずだ」と述べ、日本の介入政策が長期化することに対して警告を発した。

岩田一政「デフレとの闘い-日銀副総裁の1800日-」から

 つまり「大介入政策」とセットで行われた福井日銀の当座預金目標の引き上げという量的緩和が小泉政権末期の一時的景気回復をもたらしたということ。

 きのうからマスコミは円高対策としての市場介入が効果的であるかどうかばかりに注目しているが、先月30日の日銀の臨時会合での決定(「10兆円の資金供給量積み増し」と「貸出期間の3か月延長」)とあわせてこの介入の意味を考えた方がいいようだ。

 なお、ロイターの記事には「円売り介入の原資となる外国為替資金特別会計の借入限度額145兆円から外国為替資金証券(為券)残高などを差し引いた円売り介入枠は40兆円程度とみられている」というくだりがあり、岩田の「2003年1月から04年3月にかけての財務省による介入金額は、およそ30兆円であった」という記事とおおむね附合する金額になっている。

 もし意図して「大介入政策」と「量的緩和措置」が採られたのだとしたら、こんどこそ日銀には2006年3月の過ちを繰り返さないでもらいたいと心から思うが、そのような期待をすること自体が間違いなのかもしれない。だいたい「コイズミ構造改革が一時的景気回復を実現した」などという的外れな言説が未だにマスコミを通じて語られているという哀れなこの国では。(9/16/2010)

 おととしの2月購入した南ア債が償還された。その頃は退職前だったから、まだ投資口に向ける資金が整っていなかったし、なによりポートフォリオ構成と配分比率については決めていたものの、具体的にどのような商品で構成するかについてはイメージがまとまっていなかった。単純に年利が9.6%、さらに償還年がワールドカップの年で、それに向けて為替差益も見込めるのではないかという希望的観測があって購入してみただけ。為替レートは手数料込みで14円85銭、実質13円台後半から14円台だった。

 最初こそ変動はあるものの日本円への支払いレートは12円30銭から13円50銭だったから、税引き後でも毎月それなりの利払い収入があった。しかし、レートは08年9月10日の13円20銭を最後にあっという間に8円91銭まで低下した。リーマンショックが起きてすぐに利金を円にすることをやめてランドのまま持つことにしたので為替差損をそのままかぶることは避けられた。ほどなく南アランドのMMFが利用できるようになったので多少の救いはあったわけだが、本日現在、元本割れの状況。当初円でもらった利金を含めても12円27銭以上にレートが上がらない限り、ゲインはマイナス。償還金は全額南アランドMMFにした。長期低落外貨はドルとポンドくらいのもの。鳴くまで待てばいいのだ。

 その後、FXをはじめるようになって分かったことは、かなりの高利率でも外国債券をそのまま購入するのは得策ではないということ。外貨預金・定期も同じ。これらは銀行や証券会社を儲けさせるだけ。つまりリスクはこちら持ち、儲けは為替手数料で持っていかれるし、たぶん金利もピンハネされている。さかんに外貨商品の売り込みがあるのは、彼らにとってそれが非常においしい商品だからに他ならない。

 高金利通貨を対象に買い持ちでレバレッジを1にすればリスクは外貨預金と同じ。外債や外貨定期は期限が来るまで元金も利金も手に入らない。外貨普通預金なら換金時期は自由だが利払いは決められた日までなされない。FXの買い玉ならば、毎日日払いで金利差分(スワップポイント)がもらえる。あとは為替レートを見ていて「その気」になったら決済すればいい。色気を出してレバレッジを効かせなければハラハラドキドキするほどのことはなにもない。

 たとえば、いま現在ならば、78万円の保証金を入れてオーストラリアドルの買い玉をひとつ建てれば、一日あたり90円、一ヶ月で2,700円、一年で32,850円、年利にして約4%強のスワップが得られる。オーストラリアドルの外貨定期預金の一年ものはせいぜい3%台半ばぐらいまでだろう。しかも為替手数料を往復で数十銭はとられる。もし80円台まで円安に振れてくれることがあれば、日銭をずっともらい続けるのか、即時に決済して数万ていどの為替差益を稼ぐかを悩めばいい。

 いくら円高に進んだところでオーストラリアに革命でも起きない限り、オーストラリアドルが一桁円になることは「ほぼ」絶対にない。たしかにリーマンショックのようなことがあれば50円台になる可能性はある(その時にはスワップも少なくなる)が、保証金の評価額が50万円になるだけのこと。レバレッジを1にしておけば「没収される」ことはないのだからパニック売りしなければよい。いずれいまの水準ていどには戻る。なにしろ数年前オーストラリアドルは100円を超えていたこともあるのだから。

 日豪の金利差が逆転すれば、スワップが「受取」ではなく「支払」になる(リーマンショックのようなことがあると、一時的に買い玉も売り玉もどちらもスワップポイントが「支払」になることはある)わけだが、彼我の国の経済体質と状況を考慮すれば、数年以内に逆転する可能性はほとんどないだろう。仮にそうなるときには「外貨預金」はまさに踏んだり蹴ったりの状況になっているだろう。FXは必ずしもバクチの道具と限ったわけでない。使い勝手のいい外貨預金として使う手もあるのだ。為替手数料で往復ピンタを食らうことがないだけでもいい。気をつけるのは税金だけだ。

 ・・・と、ここまで書いて為替レートを確認したら、とんでもないことが起きていた。政府が円売り・ドル買いの為替介入をしたらしい。我がオーストラリアドルは久々に80円台を回復した。これはちょっと高めになっている買い玉の「重心」を下げる「改善」の好機。ついでに5月から積み上げてきたスワップポイントを引き出してもいい。(9/15/2010)

 民主党代表選、結果は菅直人。マスコミ全般の根拠薄弱なバッシングに対する反発、そして、いまや財務省・外務省をはじめとするオール霞が関に絡め取られた感のある菅よりは小沢の方がアメリカに対しても「ガツン」と言ってくれるのではないかという根拠のない期待、そんなところから小沢一郎を待望する気持ちがなかったわけではない。

 が、一方で、やはり小沢が出てこなくてよかったという気持ちもある。けっして「政治とカネ」の問題からではない。むしろ「カネ」は表面的な問題に過ぎない(小沢がゼネコンから賄賂をもらっているという疑いは、東京地検特捜部の1年以上もの必死の捜査にもかかわらず、現在までのところ、まったく立証されていないのだ)。

 では「小沢問題」とは何か。それは、小沢がめざし、実現したいものが明確ではないために、「カネ」によって彼が実現しようとしているのは、単に自らの権力欲を満足させるというそのていどのことなのではないかと思わせていること、その曰く言い難いモヤモヤが人々の「小沢問題」なのだ。

 最近読んだ中島岳志の「保守のヒント」にこんな一文が収められていた。タイトルは「小沢の考えを忖度するな!」。

 民主党政権がスタートして以来、みんなが小沢一郎の顔色をうかがうようになっている。
 「小沢の議論を批判すれば、人事で要職からはずされ、次の選挙で冷遇されるのではないか」と恐れる議員たち。「小沢の意向に沿わなければ、自分たちの組織は潰されてしまうのではないか」と恐れる業界団体の幹部たち。「小沢批判をすれば、民主党政権への影響力を保持できなくなるのではないか」と恐れる有識者たち。・・・(中略)・・・小沢の人心掌握術は巧みだ。
 彼と浅い付き合いの人物の口からは、「小沢さんは愛想のいい好人物」との印象を聞くことか多い。事実、彼は初対面に近い人たちや関係を良好に保っておくべき人たちの宴席では、自らお酌をしてまわり、丁重に愛想を振りまく。
 しかし、直接の利害関係が絡む人たちに対しては、直接面会する機会を極端になくし、側近を通じてメッセージを発する。彼に批判的な発言や行動を起こした人間に対しては、無言のまま人事でペナルティを与え、批判を封殺していく。
 彼は姿を見せないことによって、相手に過剰な忖度をさせ、その行動をコントロールしていく。みんなが「小沢の考えていること」に想像をめぐらせ、それに準じた行動を取ると、自らは明確な指令を出すことなく、人々を意図する方向へと誘導することができるのである。
 これは、フーコーが近代的支配の象徴とした監獄システム「パノプティコン」(一望監視システム)に似ている。「一望監視システム」では、監視している側の姿が見えないことがポイントだ。囚人たちは、いつ自分たちが監視されているかがわからないため、常に権力のまなざしに怯え、従順な規律化が進む。権力の姿が見えないほど、権力に恐怖心を持つ者の従属化は進むのである。

 つまり、そんな小沢の「政治手法」が「小沢問題」を生んでいる、ただそれだけのことだ。(9/14/2010)

 SBI証券のニュースヘッドラインに、BIS(国際決済銀行)要人の発言として「日本以外の先進国にデフレの懸念ない」という日本人にとっては強烈な発言を見つけた。こういう「ひとこと」は、通常、懸念があっても安全方向に語るものだ。一種の「フェイル・セーフ」。しかしもうこれでかれこれ十数年以上もデフレ状況にありながら、それでも泰然としている国のことについては名指しで明言せざるを得なかったというわけだろう。いや、「無責任な中央銀行による目を覆うほど無策な金融措置を真似る国などは他にはない」ということを前提に「あれほど度し難い連中は少なくとも先進国と呼ばれる国の中央銀行の首脳にはいないのだから安心しなさい」と強調したかったのかもしれない。じつに説得力のある発言だ。

 それほど「世界的に著名なデフレ」が現に進行しているというのに、この国では根本問題を忘れて二次的な問題で大騒ぎをしている。たとえばフジマキ先生。彼はことしカナダで開かれたG8で先進各国は2013年までに財政赤字を少なくとも半分に減らすというという首脳宣言がなされたことを取り上げて、日本だけが例外扱いになった理由を「どう転んでも無理な目標だからだ。日本は落第生扱いされたのだ」と断じ、マスコミも右から左まで口をそろえて「財政赤字を放置する日本はかくもダメな国だ」と論じたてている。

 おそらく日本以外の先進各国は「日本が真っ当な金融政策をとれば、さほどの困難に直面することなくデフレ状況を脱し、その持てるファンダメンタルを活かして財政赤字を解消できるはずだ」と考えて、GDP比200%近い債務残高をさほど深刻なものと見ていないのだろう。慢性的かつ進行的なデフレを怖がらずに、対GDP債務残高の増大だけを怖がるという、本末を見誤ったこの国の滑稽な状況を世界中の経済学者とエコノミストは嗤っているに違いない。かくして、下心ありありのフジマキ先生のような「トレーダー」さんや「投機屋」さんは舌なめずりをして日本が沈んで行くのを待っているわけだ。(9/13/2010)

 谷啓、自宅階段で転倒、脳挫傷で亡くなった由。78歳。朝刊には犬塚弘のコメントが載っている、「本当につらい」。クレージー・キャッツのメンバーで生き残っているのは、これで残るは彼と桜井センリの二人になった。

 残業をしていて、ひとりふたりと帰るごとに照明が消され、まわりがだんだんに暗くなる。すると、追い立てられるような気分になって、適当なところで切り上げようかなどと思ったりする。あんな感じだろうか。できるなら、まだ惜しんでくれるメンバーがいるうちに逝きたいものだ。

 永六輔が紹介していた谷啓のエピソード。「彼のスーツのネームは、ね、『オレの』っていうの」。独特の美学というか、笑わせる工夫・手間を惜しまない徹底したコメディアン・・・だったのだろう。(9/12/2010)

 またしばらくホームページのメンテを怠っている。もともと自己満足ていどのものだから、アクセス数が減ると「やらなくちゃ」という気持ちが失せる。いっそのこと、もうそろそろやめてしまおうかと思わぬでもないが、どうにも腹の立つこと、バカじゃないということが多過ぎる。「おぼしき事言わぬは腹ふくるるわざ」、どこかで「王様の耳はロバの耳」と書き散らし、少ないながら幾人かの人が聞いてくれていると思うのが心の平衡に役立っている。まさに自己満足。

 二ヶ月ごとに掛替えている「玄関飾り」、これが最近は負担。昔と違って、最近は、あまり詩集・歌集の類は手に取らなくなったし、所詮、高校の教科書以外の「教養」はないに等しいのだから「在庫」が底をついてしまって、これという愛唱歌などはもう全部吐き出してしまった。

 しばらく前に知った堀口大學の訳詩集「月下の一群」グウルモンの詩、とくに「シモオン」と呼びかけるいくつかの詩は繰返し繰り返すうちに心の中にしみこんでくるようで、そのどれかをまた使おうかと思ったが、取り落として床から拾い上げるときにたまたま開いたページの詩がちょっと想像力をくすぐった。今回はそれを使うことにした。

 フランシス・ジャムという詩人の詩。「雨の一滴が」。

雨の一滴が落葉を打つてゐる
静かに、ゆつくりと、さうして同じ一滴が
何時も同じ場所をあかずに打つてゐる・・・。

お前の涙の一滴が哀れなわたしの心を打つてゐる、
静かに、ゆつくりと、さうして同じ苦みが
何時も同じ場所に時間のやうに執念になり響く。

落葉は雨の滴に勝つだらう。
心は錐のやうなお前の涙に勝つだらう。
何故なら落葉の下にも、心の下にも空があるのだから。

 ずっと昔から本を読んで、いろいろな人生をつまみ食いしてきた。危ないことは何もせずに、つらいことはひたすら避け、厄介なことは抱え込まないように、ずっと逃げ続けてきた人生の中でちょっとだけ、本を読むことによって、そういう面倒なことをバーチャルに「経験」してきた。

 だから、ただ一点に錐をあてて、ひたすらに攻めてくるような、そういう思いは経験しなかった。もう少し、正確に、正直に言えば、経験することを避けてきた。でも灰になる前に、集めた骨のただ一箇所、まるで抜き差しならない思いに絞った血涙がしみこんで、ほんのり赤く染まったのかと思わせる、そんな跡を残すような経験をしてみたい。そんな気がちょっとだけする、いまさら遅い話ではあるが。(9/11/2010)

 3時前に目が覚めた。悩むことなど何もないのに輾転反側、寝付けないので起きてPCを起動した。すると朝日のサイトに「振興銀行破綻、ペイオフへ」という記事。日経、毎日、読売、東京、共同通信と順にアクセスしたが載っていない。朝日のガセかと思ったが、ほどなく日経にも載った。他紙は完全にまだ寝ている。

 去年、年金生活の開始に際して、当初10年間の年金補填分を1年ごとに算出し、毎年の必要分を1年から5年の定期預金にする際、振興銀行の定期預金も検討をしたことがある。ただ、三菱UFJに振り込み専用口座を作れとか、預金のための送金手数料はこちらで負担しろとか、あまりに「すごい内容」で見合わせた。木村剛の身内への情実融資疑惑など、あまりフェアとはいえない「経営」にもアブナイ匂いがプンプンしていたせいもあった。結果的にはその判断は正解だった。

 青年会議所のボンボンと金ピカの口先エリートによるいかにもタケナカ好みの銀行。破綻は必然だったのかもしれない。金融危機などというテーマになると、いつもは饒舌極まりない竹中平蔵先生だが、「本件についてのコメントなどはすべてお断りさせていただきます」とコメントしているとか。振興銀行を認可したときの金融庁の所管大臣は他ならぬタケナカ先生だった。当時「異例の速さでの銀行免許」と報ぜられた裏事情などをつつかれて何かが出てきては困るとなれば、沈黙を守らざるを得ないのだろう。きょうはこのうさんくさい銀行設立に関わった「お偉方」の名前だけを記しておく。竹中平蔵金融相、五味廣文金融庁長官、田辺昌徳日銀信用機構室審議役、そして福井俊彦日銀総裁。皮肉なことに田辺昌徳は、きょう、預金保険機構の理事長代理としてニュースに登場していた。

 きょうは記録しておくべきニュースがもうひとつ。

 郵便割引制度不正利用事件の被告・村木厚子元局長に対し、大阪地裁は予想通り無罪判決を下した。数日前からマスコミはほとんどいっせいに無罪判決が出されるという前提での報道になった。それはそうだろう43通の検面調書の34通が証拠不採用などということはこの国の法廷では前代未聞のことだったのだから。

 特捜と略される特別捜査部は東京・大阪・名古屋の三地検にある。長期低落の自民党が政権を手放す可能性が濃厚になった昨年、東の特捜が手がけたのが「小沢一郎」だった。西の特捜も組織のレーゾンデートルをかけて、「凛の会」→「石井一民主党副代表」→「塩田幸雄(元部長の肩書きで報ぜられる村木の上司)」→「村木厚子」→「上村勉(「偽の」証明書発行の事実は動かないらしい)」という「悪の連環」を暴いて「民主党叩き」の実績を作りたかったのだろう。名古屋の特捜にも同様の「お手柄」をあげさせたいとして、「市民団体」さんがマルチ商法絡みで前田雄吉を刑事告発していたが不発に終わったらしい。

 今夜のニュースでは、「凛の会と石井議員の接触に関する裏付け捜査すらしていない」などと、大阪地検特捜部はまるで「阿呆の見本」のように報ぜられている。

 しかし今回の取調べ担当検事だけが阿呆だったとは思えない。大昔からこの国の検察官はこんな方法を当たり前にしてきたと考える方が自然というものだ。警察を含めて「取調べの可視化」に対する強い抵抗は「臑に疵持つ」ゆえのことに違いない。恐ろしいことだが、彼らには「強制捜査権」があり、同時に「罪に問わないという決定権」がある。今回の事件でも村木に対して、容疑事実を認めれば略式起訴ていどですむという「誘惑」をしたとか。石井一につなげることが最終目的とすれば、そのためにはこの国独特の「司法取引」も「あり」ということだ。

 このような恣意的な捜査をやられれば、好き勝手に「国策捜査」ができる。この国の検察がすごいのは自分たちに都合の悪い証拠は「なくしてしまう」ことを平気で行うことだ。古くは松川事件における「諏訪メモ」の例がある。今回の取調べ担当検事さんも取調べ時のメモを「廃棄しました」と公判廷で証言して裁判官や傍聴人をあきれさせた。おとといの新聞にきょうの判決に向けたこんな記事が載っていた。

 取り調べメモについては、最高裁が2007年12月、警察官の備忘録について「個人的メモの域を超えた公文書」として証拠開示の対象になるとの初判断を示した。
 これを受けて最高検は08年7月と10月、検事や副検事が容疑者の発言や質問事項などを記すメモの取り扱いについて各地検に通知。取り調べ状況が将来争いになる可能性があると捜査担当検事が判断した場合、(1)メモを公判担当検事に引き継ぐ(2)公判担当検事はメモを一定期間保管する――ことを刑事部長名で求めた。
 ところが、今年1月に始まった厚生労働省元局長の村木厚子被告(54)=10日に判決公判、無罪主張=の公判で、昨年2月以降の特捜部による捜査で村木元局長の事件への関与を認めたとされる元部下らの取り調べメモがないことが発覚。3~4月に証人として出廷した特捜部の6人の検事と副検事が「必要なことは調書にしたので、メモは破棄した」と説明した。

 都合が悪いから「捨てた」と言わざるを得ないのだろう。それを平然と公判廷で答えるこの厚顔無恥ぶりには絶句させられるが、これがこの国の検察官の「常識」なのだ。林谷浩二、國井弘樹、坂口英雄らだけが特別に狡猾だったり、無能だったとは思いにくい。

 しかし、それでもなお、彼らだけが特別に悪質な検察官だというのなら、どうだろう、彼らは村木厚子に罪を被せるために「違法な手続き」を行使するという「犯罪」を行ったのだから、彼らから法曹資格を剥奪した上で懲戒免職にしたらいかがか。つまり飯のタネになるりっぱな資格を取り上げた上で、退職金も支払わずに丸裸にして放り出すのだ。これぐらいのことをしなければ、この国の検事が安易に権力尽くで冤罪を作り上げるという悪弊は根絶できないだろう。

 もしこれが実行されるとなれば、自己防衛の検知から警察官や検事さんたちも「取調べの可視化」について諸手を挙げて賛成してくれるに違いない。(9/10/2010)

 あの911から9年、フロリダにある教会の牧師(テリー・ジョーンズという名前らしい)が「犠牲者を追悼する行事として9月11日の午後6時から9時までの間にコーランを焼却する集会を開催するので心ある人は参加するように」という呼びかけをしていることがちょっとした問題になっている。

 独善的なのはイスラム教の専売特許かと思っていたが、キリスト教も負けてはいないようだ。「嫉む神」を唯一神とする以上、これは必然的な話なのかもしれない。アラーもヤハウェももとは同じだったというから正当争いをするのはバカバカしい話だが、「我は嫉む神なり」と宣言する存在に認められたいという心の奴隷になれば、その「寵愛」を争って相手を憎むようになるのはいかにも下種っぽい人間のやりそうなことでじつに分かりやすい。

 夕刊の「人脈記」のテーマは先週まで「イラク深き淵より」であった。こんな部分があった。

 社会と人間をめぐる様々な問題を深く考察してきたのが、社会学者の見田宗介(73)だ。
 「報復戦争という方向でいく限り、アメリカは、地球の果てまで勝利をかさねても、『核の自爆テロ』という悪夢から自由になれない」
9・11同時多発テロについて、見田はシンポジウムなどでそう発言してきた。
 イラク戦争を考える時、見田には忘れられない映像がある。
 一つは、イスラエルを支援する米国への憎しみを募らせたパレスチナの民衆が、世界貿易センタービルが崩壊するのを、躍り上がって亭ぶ映像。
 もう一つは、米国の爆撃でアフガニスタンやイラクの子どもたちが死んだことに対し、ニューヨーク市民が「かわいそうだが、仕方がない」とインタビューに答えている映像だ。
 「二つの映像は、一見すると正反対だが、自分たちが受けた被害に対する憎しみのあまり、『相手には何をしてもかまわない』という感情にとらわれている点では、同じだ」
 見田は、憎しみや復讐の感情が、抑制のきかない力として人間を支配してしまうことを、思想家吉本障明(85)の用語をふまえて「関係の絶対性」と呼ぶ。
 「人類の歴史を縛ってきた、この『関係の絶対性』の対立のうちに、イラク戦争の最も困難な本質と核心がある」

 自らの神の理解を絶対のものと思い込み、そこに「政治の原理」である「奴は敵だ、敵を殺せ」という囁きが忍び込めば「関係の絶対性」は完成する。

 信じ込んだ思想によって立場の異なる思想を折伏せんとするときに行われてきたのが「焚書」という行為だったことを思い合わせると、アメリカという国がどのていどの「文化国家」であるかということがよく分かる。(9/9/2010)

 予報では午後からと思っていた雨が8時前から降り出した。いったいいつからだろうと「雨」で日記の検索をかけてみたら、先月12日に「にわか雨」という記録があった。しかし「雨かぁ」という記憶は7月の中頃以来ない。

 音をたてて降っている。ありがたい、雨がありがたいのではなく、その降り方。これならきょうのウォーキングはむりと決断できる。そう決めた途端、ホッとしている自分に気がついた。どうやら自発的なウォーキングでさえ「日課」にすると「仕事」になってしまうようだ。

 この台風の進路が、おそらく、太平洋高気圧と大陸性高気圧の境界線になるはずだ。どのくらい南下するかによって、この酷暑の残り期間が推定できる。「台風よ、来い。秋よ、来い」という心境。

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 台風9号の進路は予報以上に南に振れた。台風7号は日本海から北海道に抜けた。あの時はまだ強かった太平洋高気圧の勢力が予想以上に減退しているということだろう。これで一気に秋に・・・なればよいのだが。もう、ことしは十分に暑い暑い夏だった。

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 最高裁第一小法廷が昨日付けで鈴木宗男の上告を棄却する決定を行った由。これで網走市の島田建設からの受託収賄、帯広市のやまりんからの斡旋収賄の他、政治資金規正法と議院証言法違反の計4件についての実刑が事実上確定した。(鈴木の即時に行った異議申し立てが棄却されて確定になるのだそうだ)

 本人は記者会見で「業者側からは賄賂ではないという文書をもらっている」と言っていたが、カネをもらっていることは否定していないのだから、賄賂であることは明らかだろう。もっとも自民党という「賄賂をもらうことのどこが悪いんだ」という政党の議員秘書を振り出しにのし上がったのだから、「業者からカネをもらうのは当然のこと、それをいちいち賄賂と言っていたら政治なんかできるものか」という「常識」に凝り固まっていたのは想像に難くない。逮捕、起訴、下級審の有罪判決、一匹狼化などがあって、最近はまともなことをいうようになったことは事実だが、「国策捜査」の標的にならなければ、いまも自民党の中で政治屋稼業にいそしんでいたことは間違いなかろう。

 それにしても、民主党代表選の最終盤に差しかかったこの時に、狙ったように上告棄却決定が発表されるとはね。いま思い出したのだが、あの小沢の秘書、大久保隆規に対する「西松建設政治資金」裁判はどうなったのだ。公判延期のまま棚晒しになっているのはいかなる理由によるものか。これらと、小沢一郎に対する検察審査会の再議決の意図的な遅延行為などを考え合わせると、この国は本当に「法治国家」なのかと疑いたくなる。自らの権力維持のみを目的に恣意的な運用を行う法務官僚に対して、そろそろ誰かが鉄槌を下す時期が来ているのではないか。(9/8/2010)

 土曜日、河口湖の「オルゴールの森美術館」でトンボを見た。ことしはじめてだなと思った。そんなに温度差があるようには感じなかったが、やはり高低差の違いで少しは秋に近いのかなとも思った。さっきウォーキングをしていたら、トンボが目の前をスッーと横切っていった。なかなか涼しくならないが、やはり季節は確実に移ろうとしているのだろう。

 そればかりではなかった。西武線のガードを越えたところで遊歩道の前方にくっきりと富士が見えた。気温も湿度も高めで、草いきれで少し霞んでいるように感じていたので意外だった。富士五湖から忍野へまわっても見えなかった富士がこんな条件で見えるのはずいぶん不思議な感じがした。

 最近、富士のことを書いているのを読んだぞ・・・。ところがすぐには思い出せない。どこで読んだのか、やっと思い出したのは東久留米高校にさしかかるところだった。きのうの「天声人語」。

 ついきのうのことを思い出すのに10分近くかかったわけ。おいおい、大丈夫か。

 江戸の天才絵師、葛飾北斎の「富嶽三十六景」は眺めていて飽きない。その世界的な名品とともに、北斎は富士山を川柳に詠んでもいる。〈八の字のふんばり強し夏の富士〉。誉れ高い絵と違って、これなら下手の横好きもお近づきになれそうだ▼その富士の「ふんばり」も、この夏はひとしおだったことだろう。なにせ大勢が登った。7月の山開きから8月末までに、山梨側からは約26万人を数え、空前のブームでにぎわった。静岡側からも14万人を超えた。さすがの「八の字」も、ずいぶん重たい思いをしたに違いない▼・・・(中略)・・・▼ところで、あの「八の字」の形を、裾野の広さの割に低いと腐したのは太宰治だった。もう1.5倍は高くなくてはいけないと、こちらは「富嶽百景」に書いている。この名短編で太宰は、富士山をけなしたり、ほめたりと忙しい▼・・・(略)

 天声人語にはふれられていなかったが、「富士詣で」は中国人観光客には大好評なのだそうだ。

 五合目まで観光バスで行き、そこにある郵便局から中国の知り合いに絵葉書を出し、また観光バスで帰って行くというのが定型パターンとか。かつての日本人よろしく、団体で大挙して繰り込み、記念写真を撮りまくり、旋風の如くあたりの空気をかき回して引き上げる。

 日本人との違いは五合目から頂上が見通せなくても落胆しないということらしい。「泰山」と姉妹提携をしている富士山は一種の聖地、ないしはパワースポットらしく、詣でるだけで満足するのだそうだ。(9/7/2010)

 夕刊にアフガニスタンの武装勢力に拘束され、5か月ぶりに解放されたフリージャーナリスト常岡浩介の記事が載っている。

 【イスラマバード=五十嵐誠】アフガニスタン北部で武装勢力に拘束され、4日に解放されたフリージャーナリスト、常岡浩介さん(41)は6日、犯行は反政府武装勢力タリバーンとは違う勢力によるものだとの見解を示した。「腐敗した軍閥集団がタリバーンになりすまして日本政府をゆすっていた」としている。常岡さんはドバイ経由で、同日夜にも帰国する予定だという。
 常岡さんはアフガン出国後、インターネット上の簡易投稿サイト「ツイッター」への書き込みで、拘束の背景や拘束されたときの状況について一部明らかにした。
 常岡さんは書き込みのなかで、自分を拘束したのは北部クンドゥズ州の軍閥で、タリバーンとは別の反政府勢力ヒズベ・イスラミ(イスラム党)と関係のある組織だと説明。アフガンのカルザイ大統領に近い人物の影響下にある組織で、「アフガン当局は事実を公表するはずがない」との見方を示した。
 拘束中は「日本政府への脅迫が終われば処刑されると覚悟していた」という。しかし、腐敗した上級司令官に対して「末端の兵士や地域の一般の人たちはまともな人たち」で、部下たちからの批判の強まりで、司令官がうまく処刑の理由づけができなかったことから、処刑されずに済んだのではないかと推測している。また「(6日夜に)羽田に帰国」と今後の予定も書き込み、「ご心配くださった皆さま、本当にありがとうございます」と謝意を表わした。

 なんでもかんでも悪役はタリバーンとアルカイダで、これに対抗するのが親米派のカルザイだなどという単純な二色の色分けですませられるわけではなさそうなことが分かるニュース。

 ところで、4月の拘束以来、どこからも「自己責任論」が噴出しなかったのはどうしてだろう。まず、三流週刊誌を中心とするマスコミが大騒ぎしなかったから。そしてネット右翼が「下野した」ために「政府に迷惑をかけるな」というアホらしいキャンペーン(カネをもらって書いていたという噂話あり)をしなかったからに違いない。もちろん政府関係者や与党関係者が「厄介な人がいる」とか、「迷惑な話だ」とか、積極的に愚痴をこぼさなかったのがいちばん大きかったのだろうが。

 それは小泉政権や当時の与党自民党が「国民保護」という国家の重要な責務に対する「自己責任」を「放棄」するが如き、国家にあるまじき「大醜態」を晒したことが反面教師になったのかもしれない。いやいや、鳩山政権と民主党にとっては「それどころではない話」がたんとあったからかな。どちらかというとそんなことには気が回らなかったというのがあたっていそうな気がしないでもない、呵々。(9/6/2010)

 夕方、河口湖から帰ってきた。昨夜は**(家内)と**夫妻とで河口湖ステラシアターの森山良子のコンサートを楽しんだ。ほんとうに心から楽しんだ。良子さんのトークはうまい。それはその通りなのだが、それにレバレッジをかけたのはゲストとして出演した清水ミチコ。幕開けそうそう、下手から顔を隠し「禁じられた恋」を歌いながら登場する。主役より先にゲストが登場するというのがすごい。「・・・禁じられても真似たいの・・・」。もうそれだけで拍手と爆笑。

 もうひとりのゲストは藤澤ノリマサ。どこかしぐさが韓流スターっぽい。彼にはマイクは要らない。「ダッタン人の踊り」をアレンジした曲はほとんど「スポーツ」そのものだった。その昔、尾崎紀世彦が「また逢う日まで」を歌って売り出してきたとき、「何もそんなに汗をかきながら、リキ入れて歌うことないじゃん」と思ったものだが、あれが児戯に類するほどの「格闘技的歌いぶり」

 そのまま湖畔のホテルに泊まり、けさはレンタサイクルを借りて湖を半周。電動自転車にはじめて乗ったが楽でいい。「一台、買おうか」と言うと、**(家内)、「いつ乗るの」と返された。「そういう風に言うと、すべてがつまらなくなるよ」と、言おうかと思ったがやめておいた。

 朝食後、まず本栖湖まで行き、精進湖、西湖、河口湖、山中湖と五湖を順に巡って、忍野八海へ。早朝は見えていた富士が五湖でも忍野でもまったく見えなかったのが残念だった。道志村の道の駅で**夫妻と別れて、相模湖インター経由で帰宅。渋滞は相模湖-小仏トンネルの間だけつきあう感じ。道志道から相模湖までの県道はかなりくねくねした山道だったが、このルートがベストだったと思う。(9/5/2010)

 朝刊の「週刊首都圏」の欄に緩速濾過方式についての紹介がされている。浄水場は沈殿、濾過、滅菌の各工程をこなす施設からなる。現在の主流は戦後アメリカから伝わった急速濾過方式だ。

 水源が地下水である場合を別として表流水の場合はまず沈殿池に入る前に凝集剤を注入する。水質によっては、凝集剤の効果を高めるために苛性ソーダでpHを調整し、有機性アンモニアを除去するために塩素も注入する。いずれにしても化学反応を動員して浄水処理し、濾過池に入る前の沈殿池で「勝負」を決めてしまおうという考え方だ。急速濾過池の役割は決戦が終わった後始末をつけるところにある。この国の上水道管理者は「沈殿池勝負」にとらわれているのではないかというのが、現役時代の印象だった。だから原水濁度が極端に低く、マイクロフロック法が適用できそうな場合でもなかなか採用しようとしないのだ。

 緩速濾過方式では前段の沈殿池はイメージとしては土砂・ゴミの除去のみを担当し、濾過池が浄水処理の主役を担う。緩速濾過池は濾層に生息する微小生物に細菌や有機物を食べてもらうことにより浄水処理を行う。薬品は濾過後に滅菌のために塩素を注入するだけだ。

 急速濾過はあれこれの薬品を入れるわけだから、それにともなう問題が隠れている。比較的知られている問題がトリハロメタンという発がん物質の生成だ。急速濾過方式により作られる水は「厚化粧」、当然のこととして「おいしい水」にはならない。活性炭の注入・回収など工程を追加したり、オゾンを注入したりしているのは急速濾過の弊害対策という側面もあり、それは浄水コストの上昇にも反映される。

 緩速濾過方式は湧水と同様の「自然が用意する仕組み」によってできるわけだから、おいしく、清浄、かつ安全な水が得られる。短所は単純に「遅い」こと、「広い敷地が必要」なことくらいだ。ただ、急速濾過方式は薬品メーカーにとっていいお客さんというだけではなく、沈殿池、濾過池にフロキュレータ、クラリファイア、表洗ポンプ、逆洗ポンプなどの施設メーカーを喜ばせるいろいろな装置が必要になるため、メーカーと設計会社などは必死になって「緩速濾過方式を時代遅れのカネと人手のかかる方式ですよ」と宣伝している。もちろん大都会の浄水事業者にとっては、緩速濾過は理想ではあっても簡単には採用できない方式であることは事実だが、給水人口の少ない事業者までが施設費、ランニングコストをかけ、わざわざ、不味くて、比較問題として安全性に劣る急速濾過にこだわる理由はないのではないか。この問題、ちょうど集中下水処理に莫大な施設投資をする愚かしさにどこか似ている。(9/3/2010)

 朝刊一面トップはきのうの菅直人・小沢一郎の共同記者会見。その横に「暑い夏113年間で1番」の見出し。その下には初代若乃花の訃報。

 まず、菅・小沢の党代表争い。何も書くことはない。彼らの争いも、そしてマスコミの報道も内実があるわけではない。空騒ぎそのものだ。空疎なる争いを空疎そのものの手口で盛り上げているのだから世話はない。批判する方にも批判される方にも確固たる思想も気概も展望すらもない。

 そしてこの暑さ。例年ならば高校野球が終わるころの朝夕には「なんのかんの言っても、もう夏も終わりだな」と思わせる風が吹くものだが、ことしばかりはその気配すらない。気象庁の発表によれば、統計を取り始めた1898年以降でことしの夏、6~8月、3カ月の平均気温が一番高かった由。北海道は平年比+2.3℃、東北も同じ+2.3℃、関東甲信は+1.9℃、北陸は+1.8℃、東海は+1.6℃。西にゆくほど平年との差がなくなる。テレビに登場する気象予報士は偏西風の蛇行と解説しているが、むしろ黒潮の流路の変化による海水温の上昇と見る方がぴったりくるのではないか。

 最後に、若乃花。テレビで見た若乃花はまるで背中に酸素ボンベを背負っているような体つきだった。彼のあとでいえば千代の富士がいちばんそれに近かったが、記憶の中の若乃花の方がすごいと思うのは子供時代の記憶だからだろうか。**(父)さんは若乃花が好きだった。**(祖父)さんのことも影響してか、権威・権力には終始反抗的な人だったから、判官贔屓という以上に、花籠という小部屋で辛酸をなめたといわれる若乃花に自身を投影するような気持ちがあったのだろう。**(父)さんに限らなかったのかもしれない。貧しさを貧しさで跳ね返すような時代の空気の中に若乃花人気はあったように思う。

 あえて「後期」という接頭辞をつけたい「昭和」を代表する人がこれでまたひとり去った。(9/2/2010)

 アメリカ時間8月31日、日本時間けさ未明、オバマ大統領は大統領執務室から「『イラクの自由』作戦は終わった」と宣言した。イラクから手を引くが、アフガンには注力しなければならないというのがオバマの判断。戦争中毒症のアメリカは常に地球上のどこかで「戦争」をしていないと「不安」らしい。

 たぶん常にあまりに大規模な人員を抱え、毎年、多額の予算をつぎ込んでいる関係上、どこかでその「力」を行使していないともたないのだろう。鼻血ブーで治まらないというわけか、呵々。

 夜のニュースはハンコでも押したように、「治安維持が心配」と報じていた。「無差別テロ」が治まる気配がないというのだ。ブッシュ前大統領が宣したイラク戦争の大義だった大量破壊兵器はついに出てこなかった。90年代の終わりごろ以後のイラクにそんなものがないことは、ほかでもないアメリカ海兵隊の情報将校のキャリアを持つスコット・リッターが国連査察団として行った調査で明らかにされていたのだから話にもならぬ。しかし彼の証言を伝えたマスコミはあまり多くはなかった。アメリカ政府と軍の発表することなら何でもそのまま伝えるウケウリ新聞(「読売新聞」と自称している)などが、こうした情報をどう伝えていたのかは購読したことがないのでよくは知らない。

 ほとんどの人々はイラクの「現場」を知らない。したがって、わけの分からない「テロリスト」さんたちが「無差別テロ」を繰り返しているという報道を素朴に信じているが、案外それは単なるウケウリ情報なのかもしれない。ナチスドイツに抵抗したフランスのレジスタンスのように、外国人であり異教徒であるアメリカ軍を侵略軍と見なしてこれに抵抗している可能性も否定できない。

 レジスタンスが同胞を殺害するのかという疑問はある。だが「血」に対する信仰が強い者ほど「近親憎悪」は激しく煮詰まったものになりやすい。「漢奸」は嫌われる。パリ解放時に対独協力市民がどのような目にあったかはドイツ兵のオンリーになった女性の髪を切り坊主頭にする様などが記録映像として残されているが、それほどコミカルなものばかりでなかったこと、まして戦時中の対独協力者はレジスタンスにとっては危険な存在であったから「食うか食われるか――殺すか殺されるか」だったことは想像に難くない。「同胞」であっても「敵方」についたものに対しては「死」で報いるのは、なにも「テロリスト」さんたちの専売特許ではない。

 ・・・というよりは「テロリスト」はアメリカの命名であって、イラクからパキスタンにあっては一種の「レジスタンス」であるのかもしれない。「テロとの戦い」が単なる「イスラム文化とその地域に対する侵略」ではないのかという見方は常に幾分かもっているべきだ。どこぞの国のようにきのうまで「鬼畜米英」・「七生報国」でやってきた看板をあっさりと下ろして、あっという間に米軍向け慰安施設を作るような「あきらめのいい国」は人類史上ではどちらかというと珍しい方に属するのだから。(9/1/2010)

 きのう、日銀は臨時会合を開いて、資金供給量を現在の20兆円に10兆円積み増しすることと、貸出期間を3か月延長し6か月とすることを決定した。あわせて政府は家電と住宅のエコポイントの実施延長を決め、国内投資促進プログラムのとりまとめと「新成長戦略推進会議」なる会議の設置などの「検討」を進めることなどを発表した。

 きのうの夜からけさの報道は、これらの決定前に振れた円安状況が発表後にストンとほぼ元に戻ったことをとらえて「効果は限定的」としている。この指摘が妥当なものかどうかは、素人には確信を持っていえることではない。しかし、この指摘は要するに「戦力の逐次投入」レベルの対策だということ。もちろん、これは「戦略としては下策中の下策」とされている。こんなことをやる軍人は阿呆の見本ということになっている。大日本帝国陸軍はこれをあちらこちらで繰り返したわけで、その意味では「逐次投入」はこの国の伝統的な「お家芸」なのだろう、呵々。

 もっとも、この国のエコノミスト様やマスコミ様のご指摘の信頼性については「一目置いておく」方がいい。あのリーマンブラザーズの破綻が伝えられたとき、ほとんどのエコノミスト様とマスコミ様は「邦銀のサブプライム関係債権保有は少ないので日本経済への影響は限定的」と宣っていた。それだけではない。リーマンブラザーズのアジア部門の買収に動いた野村證券や三菱UFJ銀行などの「素早く積極的な決断」をプラス評価していた。オレもその頃は「おっ、やるじゃないか」と思っていたのだから、彼らの「専門家としての判断」は素人の「素朴な感情論」と変わらなかったということだ。

 「影響は限定的」という言葉がどれほど能転気なものだったのか、いまでは誰でも知っている。我がマスコミのお抱えエコノミスト様はまことに「一目置くべき」お方たちなのだ。

 これには「おまけ」もついている。しばらくして日本経済への影響が甚大になるや、件のエコノミスト様とマスコミ様は手のひらを返したように野村證券や三菱UFJ銀行の「決断」を「早まってとんでもない借財を抱え込んでしまった」と評した。これほどの素早い身のこなしはとても素人にはできないことだと、なかばあきれながら感心したことを憶えている。まあ、これなどは「感心」と書くよりは「寒心」と書く方が的確かもしれないが。(8/31/2010)

 よもやと思っていたが、小沢一郎が民主党代表選に立候補するらしい。先々週末、鳩山が軽井沢の別宅でグループ研修会を開いた。それに小沢一郎が参加して以来、にわかに「小沢出馬」の話が出て来た。マスコミが面白可笑しく報じているだけで、未だ検察審査会の二回目の判断が出ていない以上、出馬などあるはずはない、そう思っていた。

 ところが豊里から帰ってみると、あるはずがないと思っていたことが起きていた。この週末、マスコミはさっそく菅と小沢の支持率調査をやった。すべて菅の圧勝(読売:菅67%に対し小沢14%、毎日:菅78%に対し小沢17%、共同通信:菅69%に対し小沢15%)となっているのだが、不思議なことにネットのあちこちで行われているマスコミに管理されていない支持率調査のほとんどは逆に小沢の支持率が高いのだ。たしかに、リーンと鳴った電話で突然「菅さんと小沢さんどちらが首相にふさわしいですか、菅さんという場合は1を、小沢さんという場合は2を」などと尋ねられて答えを促される不特定多数の「パッシブメンバー」とネットにアクセスして意見表明をする「アクティブメンバー」では意識に大きな違いがあるという事情はあるだろうが、それにしてもマスコミ発表の「支持率」の差はいささか「異常」なくらいに大きくて、眉に唾をつけたくなる。

 異常といえば、誰も問題にしないのが不思議でならないが、検察審査会だ。憲法第37条には「すべて刑事事件においては、被告人は公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」と書かれている。この春、検察審査会は検察庁が起訴するに足る情報を集められなかったという中をあえて、根拠らしい根拠も示さずに「起訴すべきである」と決定した。一年以上もいじくり回して小沢を「有罪」に追い込む証拠も証言も得られなかった検察庁は、再度、起訴できないと回答する他はなかった。それが5月21日のことだった。

 憲法の規定の精神に従えば、検察審査会は再度の「議決」を「迅速」に出すべきであろう。ところがこれがもう既に3か月以上も経っているにもかかわらず何もしていない。いったいどこの誰がサボっているのだろう。サボタージュを決め込んでいる責任者は誰なのか。検察からのリーク情報を垂れ流したインチキ報道機関の面々よ、いささかの反省を込めて、そのあたりを追求してもバチは当たるまい。それとも、うさんくさい小沢ならば、「アヤシイ」というだけの状態にハングしておくという「報道リンチ」が許されるとでもいうのか。もしそうだとしたら、日本の報道関係者はクズだ。(8/30/2010)

 朝刊の「ワールド経済」は「フェルドスタイン氏に聞く」。フェルドスタインはハーバード大学教授。全米経済研究所の所長、レーガン政権の大統領経済諮問委員長などを歴任、現在もオバマ政権の経済回復顧問委員会の委員である由。

 インタビューではふたつの質問をし、「アメリカの景気が二番底をつける確率は『三つに一つ』」、「日本経済に対するアドバイスは消費税の増税と所得税の減税をセットで」という答えをもらった。

 前者についていえば、「大幅なデフレに見舞われることはない」としつつ、高水準の失業率は深刻だとしている。二番底の確率を三分の一とし、デフレという言葉を出したところに、ほんとうの「回答」があると読むのが「正解」だろう。後者については面白い言い方をしているので書き写しておく。

――米経済が、日本のような長期の低迷に陥るという議論があります。
 「私はよく日本に行くが、日本の失われた10年についてはよく分からない。日本経済は、米経済とは、いろいろな面で大きく違う。日本の不動産の状況や、銀行システムの立て直しの緩慢さなどだ。日本の経験が、米国に持ち込まれるとは思わない。ただ、日本についてはちょっと意見があります」
――ぜひ、聞かせてください。
 「日本銀行は、物価水準を上昇させることをできないでいるようだ。物価が上がると思えば、人々はいまモノを買おうとする。一方で、日本には大規模な財政赤字がある。私は、日本は消費税に手をつけるべきだと思う。消費増税は経済に打撃を与える可能性があるが、例えば、1%ずつ、3カ月や6カ月ごとに上げ、それを数年続ける。その一方で、その分を所得減税すればいい。この増減税の組み合わせなら財政赤字を増やすことにはならないし、家計には『消費増税で価格が上昇する前に買うべきだ』というメッセージを送ることができる」

 日本とアメリカとは違う。しかし、「日本の銀行システムの立て直しの緩慢さ」はあるていど事実としても、「不動産の状況」つまり「不動産価格の戻り」が遅いのはデフレによるものであるから、アメリカにとってもとても他山の石と見ることはできないのではないか。アメリカ経済の躓きはまさに「不動産価格」によるものなのだから。

 面白いと思ったのは日本経済に対する彼の処方箋だ。彼はたったひとつのことしか言っていないのだ。すなわち、「消費を刺激しなさい」ということだ。「大規模な財政赤字」については「削減すべきである」とは言っていない。消費税増税と所得税減税を組み合わせるならば「財政赤字を増やすことにはならない」から、税金の取り方で消費拡大を促せば現状を改善できるという指摘だ。

 所得税が課せられている人々の税金は安く、所得税が免除されるほどの低所得者にも「平等に」消費税によって税金を負担させようという案は、いかにも「アメリカ的な」というか、「共和党的な」考え方だが、とくに「消費税率」を小刻みに上げることによってカネを使わせようという案は「不動産」などの大型消費には効くかもしれない。だが、所詮、それは「エコポイント」などと同じで税率を永遠に上げてゆくわけにはいかないのだから、単なる需要の先食いにしかならないような気がして、なんだハーバード大学教授などといってもこのていどの知恵かと嗤いたくなった。

 先日書いたクルーグマンにも、フェルドスタインにも共通するのは「日本はヨーロッパ(そして彼らは口をぬぐって言わないがアメリカ)に比べればよいポジションにいるんだよ。財政赤字などに目を奪われないで、単にマクロ経済の教えるところに従えばよいのだから」ということだ。

 おそらく、日本にとっても、リーマンショック後に財政出動を強いられたアメリカを含む各国にとっても、打つ手は「通貨発行量の増加」、意図的で管理されたな「インフレ」しかないのではないか。消費税率を上げるなどという持続性のない政策よりはインフレターゲットの方がはるかに長持ちする政策ではないのか。もっともオバマ政権にとっては日本がフェルドスタインのアドバイスに従う方がうれしいに違いない。ドル安によりアメリカの対外競争力が確保されるからだ。とくに愚かな税制改悪でもやってくれて、日本経済がますます変調をきたすのはアメリカの望むところだろう。

 いずれにしても財政赤字と景気刺激の隘路を歩まねばならない各国が取り得る政策は「インフレにより国家がした借金の価値を下げる」ことに収斂してゆくことだろう。独裁国家を別にすれば、常に愚かな選挙民のご機嫌を取りながら政策を遂行してゆかなくてはならない民主国家にとっては「緩やかなインフレ」こそがほとんど唯一の政策のような気がする。

 もっともそんな状況の中でアメリカだけは別の事情を抱えていることを忘れてはならない。「ドル」は既に自国の経済インフラをはるかに超える通貨発行量になっていると思われるからだ。各国並みに「お札の刷り増し」をすることはアメリカにとってはいつ「王様は裸だ」と言われるか分からないというリスクと相談しながら行う話なのだ。タイトロープの上にいる「アメリカ合衆国」、その現実に目をつぶることはできない。とても恐くて口に出せないのが、フェルドスタインの心境かもしれない。(8/29/2010)

 **(家内)が高校時代の友人たちと歓談する間、「さくらの湯」の休憩コーナーで藤田日出男の「隠された証言」を読む。日航123便事故に関する本。はらわたが煮えくり返る思い。

 1時前に田尻を出て、古川インターに入ったのが1時半。郡山あたりで前方にいかにも夏雲らしい綿雲を見る。南明町の家からよく見えた懐かしい形状の雲。それが少しムクムクと入道雲に成長しかかっていた。果たして矢吹を過ぎたあたりから猛烈な夕立。雨を抜けて那須高原のパーキングで休憩を取っていたら、ポツポツと雨粒。夕立が追いかけてきたらしい。「これが夏だよね」などといいながら、早々にパーキングを出た。

 浦和には5時半。外環が混んでいて6時半過ぎに帰宅。土日休日、高速千円と思っていたが加須からこちらは割引区間外のため、東北道1,700円、外環350円。(8/28/2010)

 8時半に出発。那須高原と菅生で休憩を取って、墓参りのためにしばらくぶりに仙台宮城のインターで下りる。永昌寺に着いたのは1時半ごろ。

 最近は墓石の下からこの風景を見る時がそれほど遠い先のことではないのだなと思うようになった。たぶんこうしてじわりじわりと亡き人々と心を通わせる気分が醸成されてゆくのだろう。

 2時すぎに寺を出て泉から東北道に入り3時前に古川で下りる。池月駅近くの道の駅に寄り、鳴子温泉は4時すぎの到着。造りは古いのだが落ち着いた旅館で感じがいい。無線LANがありインターネットアクセスできるのもグッド。

 最近は珍しくなった部屋食。食べきれないほどのボリュームが少しばかり田舎風。(8/26/2010)

 **さんは予算時期に差しかかっているとかで欠席だったが、いつものメンバーで飲み会。8時過ぎたところで、「あしたは長距離ドライブなので」と帰ってきた。

§

 バカほど「バカ」と指摘されると怒るものらしいなぁ・・・と、朝日のサイトに載っている記事を読みながら、そう独りごちた。

見出し:横審が相撲協会・伊藤理事に抗議書/「文春記事で侮辱」
 日本相撲協会の横綱審議委員会は25日、「文芸春秋」9月号に掲載された協会の伊藤滋理事(早大特命教授)のインタビューに横審を侮辱した記述があるとして、放駒理事長(元大関魁傑)を通じて抗議書を出した。横審が協会幹部に抗議書を出すのはきわめて異例。記事の中で、伊藤理事は野球賭博問題や角界改革について横審から不満の声が上がっていることに触れ、「横審は横綱の品格や見識を問うていればいい」「権威主義的な昭和の遺物」などと述べている。

 横綱の品格についてはうるさかった横綱審議会だが、相撲協会に蔓延する野球賭博や暴力団とのおつきあいについては頓着しなかった。ふつうの感覚ならば、ちょっと真っ当とは言いかねるギャンブルに入れ込んでいたり、タニマチの陰に見え隠れするヤーさんの匂いぐらいは分かりそうなもの。

 そういう空気について気付かなかったとすれば鈍感の極みというほかはない。そのていどの感覚で他人様の品格についてとやかく言ったところで「フフン」てなものだろう。逆に、うすうす感づいてはいたのだとすれば、他人様の品格を云々する「資格」が自分たちにあるかどうか、胸に手を置いて考えてみるべきだったろう。

 いずれにしても品格以前の問題が見えなかった節穴同然の眼の持ち主である人々に「横綱の品格や見識を問うていればいい」と言ってくださったとすれば、ずいぶん心優しい話で感謝するのが当たり前ではないか。それを「侮辱した」などと騒ぐのはお門違いもいいところ。恥を知るなら即刻委員を辞任しても可笑しくないはずだが、横審の品格委員さんたちも身の不明がよほどに分からないという点では相撲協会の理事さんたちとどっこいどっこいの「時代の遺物さん」だよ。(8/25/2010)

 週末には**(義父)さんの五七日で豊里に行く。相続に関する話もあるらしい。その関係で遺留分について民法を読んでいたら、面白い条文に行き当たった。

第1036条 受贈者は、その返還すべき財産の外、なお、減殺の請求があった日以後の果実を返還しなければならない。

 「果実」。民法にはお隣の竹林の竹から張った地下茎によって、生えたタケノコの所有権に関する条文があると聞いたことがある。「果実」がいったいどういう意味を持つのかは分からないが、タケノコの話といい、この「果実」といい民法が制定された頃の日本はまだ農業が主体の国だったのだなぁということを想像させる。(8/24/2010)

 これほど暑い日が続くといっそのこと北海道にでも引っ越そうかなどと考える。

 そんなことを思ったところに札幌の**さんからメールが来た。天候のことが何もないのは、こちらの状況を思いはかってのことか。彼女のところは92歳のお母さんが存命中とのこと。まだ一人暮らしでがんばっているのだが、最近は病院への付き添いが増えたとか。

 「今日もこれから眼科の付き添い。加齢性黄斑変性症で眼の硝子体に1瓶176,000円の注射しにゆきます。これを3回連続注射ですが老人医療費はなんてありがたい! 月額負担8,000円ですよ、私達なら3割・・・」。**さんはレセプト処理のアルバイトをしているから薬価に案内がある。ふつうの患者は病院の出す領収書も健保から送られてくる通知もマジマジと見ることはあまりない。新薬の開発はめざましいわけだが価格の方もめざましい。最近、何回か、加齢性黄斑変性症の名前を聞いた。一回、17万6千円の注射。なるほど全国紙に全面広告を出すだけの意味は十分にあると、認識を新たにしたメールだった。(8/23/2010)

 夜9時からのNHKスペシャル「灼熱アジア:第1回タイ"脱日入亜"日本企業の試練」を見た。

 FTAのハブになっているタイ。番組は金型技術をテーマにしてふたつの企業を取り上げていた。大田区で創業65年の伝統をもつ金型部品メーカー「南武」と地元タイの自動車部品メーカー「タイサミット」。量で勝負のメーカーから技術で勝負のメーカーへの脱皮をめざすタイサミットは金型技術の獲得のため、群馬県太田市の金型メーカー「オギハラ」を去年の3月に300億を超える金額で買収した由。

 番組は南武の同業他社との受注競争の激しさとタイサミットにおけるオギハラの技術者からの技術移転状況を追いかけていた。ずいぶん前に聞いた八色印刷機メーカー「アキヤマ」の買収劇によく似ている印象を受けた。金型技術というのは「ものづくり」の中でも技術移転の難しい高度なものとされてきたはずだが、その技術伝承がすんなりと国内ではなされない状況に「ものづくり大国」を自負してきたはずの日本の危機がある。

 「失われた十年」以降、いわゆる「識者」の多くは「ものづくり」への回帰に日本復活の希望を託してきた。企業の部署名はその企業の「世界観」あるいは「市場理解」を反映しているものだ。いくつかの企業の部署名に「ものづくり**」という看板が採用されたのはそういう意識の現れだったはずだ。

 しかしもはや単純な「ものづくり回帰」ていどでいまの「現実」に対応することはできないことを番組は伝えていた。08年の統計によると日本から海外に移転された製造業は生産額にして35兆円、雇用にして96万人だという。「高すぎる賃金」の切り下げに血眼になり「額に汗する人が報われる社会」などという御為ごかしの標語を掲げたコイズミ・タケナカ政治の支援により「人材を疎略に扱う経営」が実現したものは、日本企業を不健康で貧弱な頭脳による経営者が「考える作業者」に報いないのみならず切り捨て、いつでも交換可能な「考えない部品」(「派遣」と呼ばれているようだ)に代えたことだった。

 番組は昨年の技能オリンピック旋盤部門の金メダリストの紹介で始まり、「南武」で異種金属の溶着をやってのける技能者の紹介、そして「タイサミット」が高度な金型製作に目途をつけたことのアナウンスで終わった。タイは着実にグレードを上げてきている。もっとも日本で起きたことはいずれタイでも起きることなのかもしれない。経営にたずさわる者が「人材」と「処遇」について知恵を発揮しないアメリカ型経営を金科玉条のものとする限り、「焼き畑式」の経営は常に人件費のフロンティアを求め続けるわけだから。それまでにどれくらいの人々が踏みにじられ続けるのかと思うと絶句せざるを得ない。(8/22/2010)

 高校野球決勝戦は神奈川の東海大相模対沖縄の興南だった。結果は13対1で興南。大差がついたのはほんのひとつプレイが分水嶺になったから。勝負事にはありがちな話、とくに高校野球には。

 4回裏、興南の先頭打者が四球を選び出塁。次打者はバント失敗で送れなかったが、三人目がヒットエンドランを決め、ランナー二、三塁。続く打者がセンター前にゴロで抜けるヒットを打って先制。一死、一、三塁で打席にはピッチャーの島袋、カウント1-1からスクイズ。しかし東海大相模バッテリーはウエスト。スタートを切っている三塁ランナーを少し三塁に追い込んでから、キャッチャーがサードに投げた球が典型的な悪送球。これで2点目が入り、結果的にはこれが分水嶺になった。島袋はアウトになるものの、ここからヒットが連なり、あっという間にこの回だけで7点が入ってしまった。

 東海大相模のピッチャー、一二三(ひふみ、これが名字)は2点目が入ったところで、多少気落ちしたのだろう単調になり、初球ないしは二球目を打たれていた。どこかで間をとっていたらと思われるところがあり、残念だった。

 興南はこれで春・夏連覇。史上6校目(過去:作新学院、中京商業、箕島、PL学園、横浜)の由。沖縄勢はいままで春の優勝のみで、夏は初めてとか。これは意外。(8/21/2010)

 地デジのテレビ視聴者のほとんどは気がついていないかもしれないこと。地デジテレビをオンにして、テレビ音声を受信できるラジオで同じチャンネルを選択すると、ラジオから聞こえる音声が地デジテレビよりわずかに先であることが分かる。

 ラジオが「菅総理大臣は・・・」と言うと、いっこく堂の「宇宙中継腹話術」のような感じで、テレビがそれを追いかけて「菅総理大臣は・・・」とアナウンスする。テレビが「・・・関係大臣に指示しました」と言い終わる頃には、ラジオは「次のニュースです」などと言っているという具合だ。

 たぶん、デジタル信号を映像信号と音声信号にデコードする処理時間が、アナログ放送に遅れをとる結果を生んでいるのだろう。

 ほんの1、2秒の遅れなので、通常はどうということはない(最近、定時ニュースの前に時計を映し出し、時報を伝えてからニュースを始めなくなったのはそのせいではないかと思っているが、定かではない)のだが、報ずる内容によっては多少問題となるようだ。朝刊の以下の記事はその例にあたるのだろう。

見出し:地震速報の遅れ設備改良で解消-地デジ 在京各局、運用へ
 テレビの地上デジタル放送への完全移行で懸念されていた緊急地震速報の表示遅れ問題は、テレビ各局の設備改良で解消するめどが立ったことが19日わかった。NHKと在京の民放キー局は23日にも新システムの運用を始める。
 緊急地震速報は、気象庁が地震の発生直後に揺れの強さなどを予測し、速報する仕組み。地震の揺れがくる数秒から数十秒前に予測を知らせ、避難を促す狙いだ。だが、地デジでは信号の処理に時間がかかり、テレビに映るまでアナログ放送よりも1.0~2.5秒遅れる。このままではせっかくの速報が役に立たなくなる恐れがあると、総務省が各放送局に対策を求めていた。
 NHKと民放キー局は研究の結果、通常の放送とは別の信号を電波で送るシステムの導入を決定。緊急地震速報の警報音やテロップを別建てで送信する設備を整えた。NHKによると遅れは0.5~0.7秒に縮まるという。
 NHKは23日から東京や大阪、名古屋、福岡など27局で運用を始める。10月末までには全国で実施する予定だ。民放では在京キー局が先行して運用することになった。(村瀬信也)

 中国や北朝鮮、イスラム国などがオリンピック中継に際して、意図的に国際映像を数秒遅らせ、「都合の悪い」映像や音声をカットしていると嗤う人々がいたが、ひょっとすると自由のはずのこの国の放送にもその手の「見えない検閲」をしようというのが地デジ切り換えの隠された理由なのかもしれない・・・ということは頭の隅に置いておいた方がいい。当局の検閲が当然なされていると思ってテレビを見る国民、そんなことは夢にも思わない国民。いずれの方が御しやすいかは書くまでもなかろう。(8/20/2010)

 月曜日、「ええい、当分の間、円高が続くなら、それを利用してやるよ、オレは」という経営者が現れてもいいはずだと書いた。現れた。日本電産の永守重信。きのう、永守は「アメリカのエマソン・エレクトリックのモーター部門を買収する」と発表した。日経によると、「エマソンのモーター事業は上下水道や住宅用空調機器向けなどの大型モーターや家電用中型モーターが主力で、精密小型モーターが中心の日本電産とは補完関係にあ」り、「買収金額は500億~600億円とみられる」由。彼はこうも言ったそうだ、「円高のいまがチャンスだ」と。買収コストがこの円高で1割程度軽減されていることは間違いない。経団連などに名を連ねる名門にしてお行儀がいい一流と呼ばれる企業の毛並みのいい経営者にはこういう発想は浮かばないかもしれない。

 では、「ドルなんかで決済するから円高で苦労するんだ、バカじゃないか」というのはどうだろう。ロイターのサイトにこんなニュースがあった。

 [北京17日ロイター] 中国人民銀行(中央銀行)は17日、貿易決済や中銀の外貨スワップを通じて海外で保有されている人民元を、本土の銀行間債券市場に投資することを認める方針を表明した。
 これは、投機筋から中国経済を守る資本規制を維持する一方で、世界における人民元のプレゼンス拡大を狙った戦略的措置とみられる。
 人民銀行はこの措置について、人民元による貿易決済を促し、人民元の国際的な役割を高めることが目的としている。 
 スタンダード・チャータード銀行のエコノミスト、ケルビン・ラウ氏は「中国はこれまで、すでに海外にある人民元については、本土に還流させない限り、どんな用途に用いることも認めてきた。今回はさらに一歩進め、海外から人民元を国内の銀行システムに持ち込むことを認めた」と述べ、これは小さなステップだが正しい方向に向けた措置だ、との見方を示した。
 人民銀行がウェブサイトを通じて明らかにしたところによると、本土の銀行間債券市場に投資できるのは、1)香港およびマカオの人民元決済銀行、2)中国と人民元のスワップ契約を結んでいる海外の中央銀行(現時点で7行で、スワップ枠は合計8000億元)、3)国境を越えた人民元の貿易決済を行っている海外銀行。

 斜陽の通貨ドルを抱え込んで意識しないリスクを抱え込むのもひとつの判断なら、GDP世界第2位の国の通貨に分散のウィングを拡げるのもひとつの判断だ。たしかに現在のところ人民元はNDF通貨、つまり、常にドルを介在する「翻訳」がされているわけだから、いまひとつ扱いにくいのかもしれないが、それをどのようにか「解決」してこそということもある。「価値の歪み」につけ込むことこそは「儲けの源泉」なのだから。

 もちろん、日中あるいは日本と東南アジア諸国の政府間でドルを介在させない外国為替制度を取り決められればそれに越したことはないわけだが。しかしそうなれば「価値の歪み」は解消してしまう。それでは「ボロ儲け」はできなくなる。政府が無策であることは悪いことばかりではないのだ。(8/19/2010)

 朝刊の国際面のいちばん隅の小さな記事。

見出し:米国務次官補「尖闇も日米安保適用」
 【ワシントン=村山祐介】米国務省のクローリー次官補は16日の会見で、中国も領有権を主張する尖閣諸島(中国名・釣魚島)について、日米安全保障条約が適用されるとの従来の米政府方針を改めて確認した。米政府が同条約適用を「対外的に明言しない方針を決めた」とする一部報道への質問に答えた。

 おそらく黄海から南シナ海にいたる海域への中国海軍の動きを牽制する意図からの発言と思われる。

 こう言ってくれるのなら、どうだろう、口先の言葉でない証拠をアメリカさんに示してもらったら。前にも書いたが、普天間基地の移転先を尖閣列島にしてもらうのだ。その提案に対してどう答えるか。アメリカがいかなる場合にも日本を守るかどうかの踏み絵になるだろう。

 我が国の熱心な「安保条約」支持論者の皆さんは、踏み絵でアメリカを試してはならないと主張なさるだろう。まるでキリストがサタンに答えたように。なぜなら所詮安保条約は日本政府が素朴な国民に信じさせたいような内容のものではないことをいちばんよく知っているのが彼らだからだ。

 「核の傘」だって?、どこの世界に自国が核の報復を受けるリスクを冒して、他国を守るために核兵器を使うバカな国があるものか。夢でも見ているのじゃないか、自称「現実主義者」の皆さんは、バカバカしい。(8/18/2010)

 ウォーキングの友、iPodのバッテリーが寿命を迎えた。初代のiPod-nano、4ギガタイプ。もう5年ほどになる。オーディオテクニカ製のイヤホン付きのペンダント型ケースに入れて使っている。nanoはすでに第5世代になっているが、この初代のかっちりしたデザインと表面の仕上げが好きで容量の点を除けば不満はない。第3世代のぽってりした横長のデザインは積極的に大嫌いだし、その他の世代のiPod-mini風の仕上げも好きにはなれない。

 初代は幾たびも発熱騒ぎを起こしている。先週は朝の通勤時間帯に異臭騒ぎを起こして田園都市線を止める騒ぎにもなった。派手に発熱してくれればリコール処理をしてくれるのだろうが、残念ながら熱くて持てないほどにはならない。

 アップルのホームページによると6,800円払えばバッテリー交換と称して同型品と交換してくれるらしいが、最新の第5世代の16ギガタイプをAmazonで買えば16,990円。デザインの件を別にすれば、いかにも高い。

 そんなこんなで、心は新規購入に決まりつつある。しかしiPodの新製品は毎年9月に発表されている。付加機能については何も期待していないが、容量コスト・パフォーマンスについては無視できない。来月まではなんとかだましだましでも愛機を使い続けることにしようと固く決心している。それにしても毎回、毎回、リセット操作をしなければならないとか、充電が常に「Very Low Battery」から始まるのはかなりのストレスだ。(8/17/2010)

 第2四半期のGDPの速報値が発表された。物価変動を考慮した実質GDPは前期比0.1%増。年率換算で0.4%増になった由。今月に入って4勝6敗の日経平均は、きょうも56円79銭下げて、終値は9,200円を切った。なぜかあまり大きく取り上げられていないが、どうやらGDP世界第2位の座は中国に譲ることになりそうだ。

 財政赤字ゆえに大暴落すると「予言」されている国債の価格は上昇し、10年ものの国債金利は7年ぶりの低水準(0.950%)になった。我が家のポートフォリオで国内債券パートを担当するノムラ短期債券オープンの基準価格は、ここ一年あまり値動きがなかったのだが、5日、6日の二日間にそれぞれ2円、1円下げただけで一貫して上昇トレンド。月初めに比べれば12円上げている。

 先週、85円を切って大騒ぎした円ドルは、週明けのきょう、86円20銭で始まったが、この時間には85円33銭をつけている。週内にはまた84円台をつけそうな雲行きだ。

 それにしても日銀の不作為、政府の無策をなじる声ばかりが聞こえる。それはまったくその通りなのだが、ふり返ってみれば、この状況はきのうきょう始まったことではない。むしろ、この国ではこんなことは「所与の条件」と考えるべきなのではないか。

 とすれば、お上が然るべきことをしないから悪いのだと不平を鳴らしていても始まらない。「ええい、当分の間、円高が続くなら、それを利用してやるよ、オレは」、そういう経営者が陸続と現れたっていいような気がする。けれど、どうもこの国の「経営者」さんたちにはそんな発想法はとんと浮かばないもののようだ。課題をそのまま部課長さんに投げて、その報告をそのまま会社の施策にする「経営者」さんばかりでは、なかなか発想を転換することは難しいのだろう。つまり「経営者」さんたちも地位保全ばかり考えている「日銀エリート」さんと何も変わらないということだ。(8/16/2010)

 左足の痛みが治まらない。甲の部分がかなり腫れ上がっている。先週の日曜からきのうまでの7日間の総歩数は149,548歩。64キロ台に突入して気をよくし、少しばかり無理をしすぎたかもしれない。きょうはウォーキングを見合わせた。

 「ご飯」という声に時計を見ると、12時をまわっていた。読みさしの本に夢中になり、うっかり戦没者追悼の黙祷を外してしまった。居間に下りてテレビをつけるとたまたま明徳義塾と興南のナインが整列して黙祷をするところだった。試合の繰り合わせで正午にあわせられなかったのだなと思いながら、一緒に黙祷した。

 死は誰にも訪れるものだけれど、できるなら強いられるような死や不自然な死は迎えたくないものだと、ほとんどの人はそう思っているだろう。そういう不本意な死を迎えざるを得なかった人々の死に報いるためには、なんとしても二度とそういう事態を招かないように行動する、そういう義務が我々にはある。やたらに「大義」、時によっては「悠久の大義」などと寝惚けた空言を繰り返す愚かなネクロフィリアたちの跳梁跋扈を許さない意識だけは忘れるまい。(8/15/2010)

 少し早めの昼食をとってから**(家内)と松岡美術館に行く。「モネ・ルノアールと印象派・新印象派展」。お盆でかえって空いているのではという**(家内)のもくろみは外れて、六本木から流れてきたのだろうかと思わせるほどの混み具合だった。

 マルタンの「ラバスティド=デュ=ヴェールの教会」がいいなと思ったくらい。どうも落ち着かなくてあまり時間をかけずに出てきた。ちょっともったいなかったかもしれない。

 雅叙園にまわって、カフェラウンジで一息入れてから、百段階段に展示された「肥前・唐津の陶磁器展」を観てきた。いくつか眼を引くものがあったがどうも焼き物の作品名はなかなか頭に残らない。即売コーナーにも手もとに置きたいと思わせるものがあったけれど、すべて二桁万円、組み物となると数十万円では、庶民の衝動買いの対象にはならない。

 **(家内)は物産展の方をのぞいてみたいということで、先に帰ってくることにした。少なくとも山手線に乗るまではそのつもりだったのだが、代々木で途中下車して紀伊國屋に寄った。ちょっとのつもりが例の如くでハードカバーばかり7冊ほど購入して戻ると、**(家内)の方が先に帰っていた。(8/14/2010)

 朝刊一面トップの見出しは「不明100歳以上279人/兵庫・大阪に集中」。

 発端は先月28日、東京都内最高齢男性とされていた足立区の111歳の老人が自宅居室でミイラ化した状態で見つかったことだった。最初は年金の不正受給を疑われる例として、厚労省はさっそく100歳以上の老人について所在確認をせよという通達を出した。

 するとまあ全国あちらこちらで所在不明の高齢者が続出。住民登録の住所へ係員が出向くとその場所はすでに公園になっていたとか、同居しているはずの子供が出てきて「父は(あるいは母は)、ここにはいない、別の子供のところにいる」だの、「何年か前に家を出たままになっている」だの、およそ考えられない話がボロボロと報ぜられている。

 老人の見守りは家族がやるものという前提で運用されている仕組みなのだから、その老人の年金収入が頼りだったり、ボケや徘徊などが原因で帰宅しなくとも関心を引くほどの財産のない老人であれば、家族が義務を果たさないために公的文書上は生きていることになったままとされる可能性は十分にあるのだろう。制度設計が前提とする社会の枠組みが変化しているということを露呈したに過ぎない。

 100歳以上の高齢者と限定せずに所在不明となっている「住民」を対象に確認作業を進めれば、法治国家日本の素顔がじつは放置国家のそれであることが誰の目にも明らかになるだろうよ。まことに「美しい国」ニッポンであり、「とてつもない国」ニッポンだ。韓国メディアなどでは「長寿国家日本の化けの皮が剥がれた」と報ぜられたそうだが、嫌韓族やネット右翼のみなさんたちはこの一連の事態をどうとらえるのだろう。左右を顧みて他を言うほかはないかな、呵々。(8/13/2010)

 先週、木曜の夕刊から始まった「私たちの戦争-2010年夏」。2回目のきょうはテッサ・モーリス=スズキ。タイトルは「北朝鮮の未来 想像を」。

「時間を2025年8月に設定したとする」と彼女は書き出す。その15年後の夏、日本で開催された「アジア・太平洋戦争終結80周年を記念する討論が行われ」たとき、「2010年を極めて重要な転換の過程にあった年ととらえることはまず間違いあるまい」と予言する。

 2010年時点で東北アジアで起こりつつあった転換に関し、なんと狭隘で想像力に欠けた分析しかおこなわれていなかったのか、と2025年のコメンテーターたちはきっと呆れるにちがいない。
 日本にせよ米国にせよ、ほとんどのメディアと学者たちは短期的危機のスペクタクルへの対応-それは北朝鮮の軍事力、金正日の健康状態、といったものだーにくぎ付けとなっていた。こうした「終わることなき危機」のレトリックは、その時点だけに焦点を絞り、過去と未来の像を不明瞭にする作用をもたらす。そしてそれだけではなくて、変化を想像し受容する能力をも殺してしまう。
 北朝鮮にかかわる報道は、それがあたかも質の悪い戦争報道であるかのように、「脅威としての敵」か「笑止の沙汰としての敵」の姿しか提示しない。隣国である北朝鮮市民の日常生活についてはほとんど教えられることがない。
 2025年の東京やピョンヤン、あるいは北朝鮮と中国の国境地帯に目を移す。その時、そこの住民たちがどのようにつながり、どのような変貌を遂げているかを想像してみよう。北朝鮮経済の「下からの市場化」、国内的・越境的な人間の移動などがどこまで進むか想像してみよう。その変貌が、周辺国にどのような影響を与えているかを考えてみよう。
 未来を想像することは、長期的な歴史の視座で現在をとらえ直すことでもある。その長期的な歴史の視座では、2010年は、危機の時代としてではなく、記憶と希望にかかわる歴史的決定の時代だったとして登場するよう望んでやまない。

 末尾はいささか緩い感じがするが、「やたらに恐い北朝鮮」と「やたらに愚かな北朝鮮」という、これこそまさに「やたらに愚かな『観察』」ばかりがまかり通っている現状に対する、貴重な「警告」にはなっていると思う。(8/12/2010)

 **(家内)と「きよしこの夜」を見ていたら臨時ニュースが流れた。ロンドン市場で1ドル84円80銭をつけたというものだった。85円が心理的な節目になっていることはわかるが、臨時ニュースとして流すほどのことかと思った。

 騒ぐならば、きのう、日銀が金融政策決定会合で「無策」を決めて発表した時点か、未明にFRBが事実上の追加金融緩和を発表した時点(もっとも午前3時では臨時ニュースの意味はなかろうが)で、騒ぐべきだったろう。

 それにしても日銀のこの感覚にはあきれ果ててものも言えない。あえて弁護するとすれば、日米の金融政策会合の設定が同日、時差ゆえに半日、日銀が先になるというのは不幸だったかもしれない。しかし、このいまの経済状況を、「景気は緩やかに回復しつつある」と認識し、「判断を大きく変える材料はない」などとして、バカでもわかるほどの「変化」がない限り「変える」勇気を持たないのならば、せめてFRBの会合のあとに自分たちの会合を設定するくらいの「意気地なさ」を発揮して欲しかった。中途半端なプライドなど、いまの日銀はもつべきではないし、そんな資格もない。

 どうだろう、日銀首脳の給与を為替なり、景気指数にリンクさせ、金融政策に失敗したらサラリーのゼロ査定もあるようにしたら。そうすれば、デフレになればなるほど自分のもらう俸給の価値が上がると見込んで、デフレは歓迎、不景気も大歓迎という自分たちの利益最優先の風潮を日銀から一掃できるかもしれない。

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 アメリカのバス事故の続報を記録しておく。日本人運転手は留学中のアルバイト学生。委託されたアメリカの旅行業者はさらにバス運行会社に再委託。バス運行会社は州間をまたがる運行に必要なライセンスを受けていないことも判明。

 そして日本側旅行会社は早くも「一定の補償は約款に従って行うが、最終的責任は現地旅行会社にある」と責任回避姿勢に入った模様。懸念した通りの「悲劇」にならねばいいがと思うが、マーフィーの法則に従う公算は大きい、「悪くなりうるものは必ず悪くなる」。(8/11/2010)

 ラスベガスからブライスキャニオンに向かう高速道路で日本人観光客を乗せた小型バスが横転、3人が死亡、12人が重軽傷を負う事故が発生した由。バスは近畿日本ツーリスト、日本旅行、HISの旅行業者3社がチャーターしたもので乗客14人は全員日本人、運転手も日本人。事故現場は見通しのいい直線路、日没前で好天、客観的条件は絶好ということで、居眠り運転が疑われているとのこと。先月もスイスで「氷河特急」が曲線路におけるスピードの出し過ぎによる事故で日本人観光客1名が死亡、38名が重軽傷という事故があったばかり。

 先々週のTBS、土曜夕方の「報道特集」では海外パッケージツアーでの事故被害補償の問題を取り上げていた。番組が指摘していたのはパッケージツアーにおいて事故が発生した場合の補償責任に関するものだった。事故原因が現地の運送業者など旅行業者が委託した先の業者にある場合には、旅行会社は一定額の被害補償金を一時金として支払う義務しか負っていないということ。後遺症が残るとか、休業補償を含めると一時金では不足する場合、被害者は旅行業者ではなく直接の自己責任を負う相手に対して、個別に請求しなくてはならない仕組みになっている。

 国内パッケージツアーならともかく海外パッケージツアーとなると、被害者が勝手の違う外国の業者に被害補償の請求を個人レベルで行えというのはいかにも酷な話だ。番組では外国の旅行業者の例を取り上げていた。インタビューを受けたイギリスの業者は、「日本ではそれでいいのかい。我々、業者とすればその方がいいね、コストを抑えられるからね」と答えていた。じつは旅行業法の改正が行われた際、委託先の業者との保証金交渉は旅行業者が行うように改正する案が検討されていた。しかし当時の小泉政権は旅行業者の負担が大きくなるとして、その案は採用しないことにしたそうだ。いかにも「規制緩和」と「自己責任」を看板にした小泉時代らしい話だ。

 そうだよ、海外に遊びに行こうなどというおヒマとおカネがある人たちならば、「自己責任」で旅行保険に加入しなちゃ・・・ね。「円高のいまこそ、お安く海外旅行を!!」というキャッチフレーズにのせられるなら、まちがっても「自己責任」は忘れないことだ。デフレ基調の当今、「規制緩和」をフルに利用した危険な商品ばかりが出回っているのだから。(8/10/2010)

 改正臓器移植法により開かれた可能性の適用例の第一号。ドナーカードによる本人の意思表示はないが家族承諾が得られたということ。

 オレは保守主義者だ。輸血は認めるし、角膜の移植も認める。肝臓にしても腎臓にしても、それが生体間で行われるのなら異論はない。しかし臓器欲しさにわざわざ「脳死」という紛れのある概念を持ち込んでまで行おうとする臓器移植を認める気にはなれない。

 どうしてもというのなら前にも書いたように死刑を執行された人の臓器を対象にしたらいい。刑の性格上、脳死が人の死であるかどうかがまったく問題にならないからだ。元死刑囚の臓器でもこだわりなく受け入れる気持ちのあるレシピエントのみが移植手術を受けるがいい。

 ところで通常人の死は心肺機能の停止した後に脳機能が停止する形でおとずれる。つまり「臓器移植」同様、「脳移植」も可能なわけだ。しかし「脳移植」についての話は聞かない。なぜなのか。臓器には「心」がない、つまり臓器は道具、脳の奴隷だと考えられているからなのか。

 「やれることは何でもやってしまおう」というのがいまの風潮だ。子供が欲しければカネを払って「借り腹」することも厭わない。「精子は夫のものであり、卵子も妻のものです。単に子宮を借りるだけのことです」という人がいたら尋ねたいものだ。では類人猿の子宮を借りるのはいかがでしょうか、と。

 「やれること」であっても、人間が手を出すべきではない領域というものがあるはずだ。昨今の「欲望」のみが拝跪すべき唯一の神という風潮を認めることは絶対にできない。

 そうだ、この際、宣言しておこう。脳死を前提とする臓器提供は拒否する。心肺機能の停止、脳機能の停止後に可能な臓器提供は許容する。関連事項として、人工心肺などによる延命措置は不要・・・この最後の項目が限りなく脳死判定に近づくことが、多いに悩ましいところではあるけれど。(8/9/2010)

 いろいろな人が宰相・菅直人にがっかりさせられている。

 さきおとといの参議院予算委員会では川田龍平(いまは「みんなの党」所属)が、「厚生大臣として薬害エイズ問題に取り組んだ頃のあなたとはすっかり違ってしまった」という落胆の言葉で質問をはじめていたし、きのうの朝刊別紙「青be」ではファーストリテイリングの柳井正が「菅さんにはがっかり」と書いていた。

 柳井のがっかりの理由は菅が「みずからぶちあげた消費税の議論を曖昧にしてしまった」ことだというから、いささかこれも「がっかり」な話だが、要するに菅にしろ、民主党にしろ、じつにあっさりと霞が関高級官僚の軍門に下ってしまったことが「がっかり」の根幹にある。

 長い間、この国の悪さ加減の原因は自民党にあると思っていたのだが、どうやらそれは大きな誤解だったようだ。政権与党が何党であろうが将来に関する希望の芽を摘んでいるのは官僚機構なかんずく官僚の中の官僚である財務官僚なのではないかと思うようになった。

 もっとも「がっかり」なのは菅や民主党や高級官僚に限らない。たとえば柳井正。彼が菅を評価したのは消費税論議を選挙前に打ち出したからだという。そして菅に落胆させられたのは選挙に敗北するやいなや菅がそれを正面から取り上げなくなったことだという。さらには「民主党が選挙に負けたのは、消費税の議論を持ち出したからではない」と主張している。財界人はよほど消費税増税がお好きらしい。経団連の米倉弘昌はたしか参院選の翌日には「消費税論議が選挙の勝敗を決めたとは思わない」と民主党の敗北と消費税論議とのリンクを断ち切ろうと必死のコメントを出していた。

 たしかに民主党の敗北理由の中に鳩山首相の政権運営、とくに普天間基地の移設問題などが影を落としていることは事実かもしれない。しかしそうだとすると菅が首相になった当座の支持率の急上昇は説明できなくなってしまう。菅が上昇気流に乗り損ねたのは、鳩山と小沢についての野党からの攻撃を打ち消すために「抱きつきお化け戦法」として消費税論議を取り上げたことだ。つまり消費税が上昇気流そのものを打ち消してしまったというわけだ。

 財務官僚が増税にこだわる理由はこれはもう「官僚の本能」というしかないが、柳井を含めた財界人が増税、それも消費税増税にこだわるのはいささか異常だ。5日の夕刊にこんなニュースが載っていた。

 【ロサンゼルス=堀内隆】資産の少なくとも半分は慈善事業に――。著名な米投資家ウォーレン・バフェット氏らの呼びかけに、米国を代表する大富豪40人が賛同を表明した。バフェット氏が4日、発表した。全員が約束を守れば6千億ドル(約50兆円)が慈善事業に回ることになるという。全米の慈善団体が昨年受けた寄付総額の倍にあたる。
 約470億ドル(約4兆円)の資産を持ち、経済誌フォーブスの世界長者番付で3位のバフェット氏が6月、資産額約530億ドル(約4兆6千億円)で同番付2位の米マイクロソフト創業者、ビル・ゲイツ氏夫妻とともに呼びかけを始めた。
 バフェット氏は4日、賛同者リストをウェブサイトで公表。中には、国際金融情報会社の創設者で現ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグ氏、米CNN創業者のテッド・ターナー氏、映画監督のジョージ・ルーカス氏、コンピューターソフト大手オラクルの共同創設者ラリー・エリソン氏らがいる。
 資産をどう慈善事業に使うかは個人の自由で、生前、死後も問わない。賛同者は毎年の年次会合に集まり、お互いの活動や意見を交換し合うことが求められているだけだ。
 バフェット氏とゲイツ氏夫妻は、経済成長が著しく、億万長者が急増している中国やインドにもこのキャンペーンを広げる予定だという。

 共同電では「バフェット氏らは、米フォーブス誌の長者番付上位400人に呼び掛ける方針」とあり、この400人の中には日本人は9人、柳井正は89位にランクインしている。

 柳井にバフェット並みの寄付をして欲しいとは思わない。しかし、消費税の導入以来、一貫して緩和され続けた累進税率を、せめて「財政再建」を遂げるまでは以前の状態に戻すくらいのことは考えて欲しい。国家財政についてあれこれ心配する余裕のある財界人が、まず高率の所得税は「当然の責務」として応ずる、それくらいの気概を持ってくれなくては困る。

 柳井さんや役員報酬を億円単位で懐に入れるような人々に貢献してもらいたい。貧乏人にも「平等」に負担させる消費税率のアップにばかり「期待」する前に、まず、高額所得者みずから税負担を担う気概を持つこと。それこそ社会的責任意識を持った財界人のあり方ではないのか。貧乏人の財布をあてにすることしか眼中にないような財界人や高額所得者には「がっかり」だ。そうじゃありませんかね、柳井さん。(8/8/2010)

 菅直人に落胆した人は多かろう。

 きのう、はじめて平和祈念式典に国連事務総長が出席し、アメリカ、イギリス、フランスがオフィシャルな政府代表として駐日大使や臨時大使を出席させ、マグサイサイ賞を受賞してまもない広島市長秋葉忠利が「核の傘からの離脱」を政府に呼びかけたその日の記者会見で、菅は「核抑止力は我が国にとって引き続いて必要だ」としゃらっと言ってのけたのだから。

 別に広島原爆の日にわざわざそんなことをいうことはなかろうなどと思っているわけではない。それがおまえの考えならば、いついかなるときに表明するのもかまわない。ただ、広島の惨状こそが「核抑止力」という屁理屈の空疎さを証明しているのに、それに気付かないか、気付けない愚かさ、というよりは鈍感さにあきれ果てる思いがするからだ。

 「核抑止力」というのは循環論法そのものなのだ。「悲惨な結果をもたらす兵器であるから相手に使用されたくない」と誰もが考える。したがって、「相手(和が方)も我が方(相手)に使用されたくない以上、その兵器を所有している我が方(相手)に向けて相手(我が方)が使用することはない」。

 ごたいそうな呼び名をつけているが「核抑止力」というのはたったこれだけの話だ。だから「核兵器」は使用できない兵器として封印され、やむを得ず戦うときには従来通り「通常兵器」で戦うことになる。つまり戦争そのものが「核兵器」によって「抑止」されるわけではない。

 また「我が方が使用しない限り、相手が使用することはない(はず)」というのは同じように考える(対象な)国家間でのみ成立する話で、最近はやりの「非対象な」関係においては成立するとは限らない。一貫して「核抑止論」という「神学」を信奉してきたアメリカをはじめとする核保有国もその枠組みが崩れそうになって、にわかに「核廃止」に向けた議論をはじめるようになったのはそういう理由による。

 たとえば「北朝鮮」。この国はかつての大日本帝国に酷似している。「主体思想」は「近代の超克論」に似ているし、「金日成から続く金王朝体制の維持」は「天皇を中心とした国体の護持」に等しい。大日本帝国に特徴的であった考え方、「国体護持」のためには「特攻」という「suicide attack」さえも辞さないという精神を受け継いでいる国があるとすれば、北朝鮮はその最右翼かもしれない。しかし、まだ北朝鮮は国家である分、完全に非対象な存在ではない。アメリカが「戦争」理由として作り、育て上げた存在である「テロリスト」はまさに「非対象な」存在そのものだ。

 かりにアメリカが「核爆弾」を使用した「自爆攻撃」を受けたとしたら、アメリカは誰を対象として核報復を行ったらいいのか困り果てるだろう。そのとき、どれほど愚かな「核神学」の信者たちも瞬時に悟るに違いない、「核抑止力」なるものがいったいどのようなものだったかを。そして、アメリカ合衆国の支配者たちは満天下にそのバカ面を晒すことになろう。その可能性が否定できなくなったからこそ、キッシンジャーをはじめとする「核神学の司祭」たちも、最近、にわかに宗旨変えをして「核廃絶」の呼びかけに加わろうとしているというわけだ。まことにいい加減な「神学者」たちだよ。

 ・・・そういうご時世に、菅直人は何をたわけたことをいっているのだ、バカ野郎。(8/7/2010)

 はじめて広島の原爆資料館に行ったのは69年の8月18日だった。もう40年以上も前のことになる。

 その日、受けた衝撃はいまも忘れない。いや、正確に書くと、言葉を失うほどのショックを受けたことだけが記憶に残っていて、個別展示の何をどのように見て、どう感じたのかという詳細は憶えていない。それは40年も経ったからというよりは、その当日、資料館を出たときもそうだったのではないかと思う。個別展示に記憶がないのは、展示物が示す、この世のものとは思えない「もの」・「こと」が頭をしびれさせたからだったのだと思う。

 広島原爆の日。ことし、はじめて、アメリカ政府がオフィシャルな参列者としてルース駐日大使を出席させた。平和祈念式典にはほかに潘基文国連事務総長(事務総長の参列もはじめての由)、イギリス、フランスの臨時代理大使が参列したと夜のニュースが報じていた。

 原爆の投下についてアメリカ国内の大勢は「戦争の終結を早めたもので妥当であり、謝罪する謂われはない」というところにあるらしい。

 たしかに原爆の投下こそが昭和天皇を動かしポツダム宣言の受諾を決めさせたということは認めざるを得ない。そのことは「終戦」の詔書に「のみならず敵はあらたに残虐なる爆弾を使用し」という一節のあることでわかる。それほどに当時の大日本帝国政府は頑迷で愚かであった。一方、投下を決定したトルーマン大統領やアメリカ軍首脳にも、原子爆弾がもつ破壊力について十分な想像力を発揮できない愚かさがあった。大日本帝国の愚かさは理性が教えてくれていることを無視した度し難い愚かさであり、アメリカの愚かさはあるていど「後知恵」と呼べるかもしれないという点で残念な愚かさである。(ついでに書けば日本人は原子爆弾の人類最初の被害者であるとともに水素爆弾の人類最初の被害者でもある。第五福竜丸の乗組員だ。第五福竜丸はアメリカが水爆実験に際して警告した海域の外側で操業していた。つまり、水爆の影響力についてもアメリカは評価し損なっていたわけだ)

 しかし「謝罪」については「残念」で済む話ではない。原爆の被害がどれほどのものであるかが明らかになった時点で、たとえ「軍都」に対する爆撃であれ、許容されるものでなかったことが明確になった以上、それを謝罪することは当然のことだろう。

 きょう、式典に参列したルース大使は、すでに去年、原爆資料館を家族とともに観覧し、相当の衝撃を受けたことを吐露していた。「百聞は一見にしかず」なのだ。とするならば、いまからでも遅くはない、我が国は原爆資料館の展示物をアメリカ国内において移動展示することを企画してはどうか。アメリカ国内にも右翼はいる。職業としての右翼屋さんや感情的な右翼市民はその展示を妨害するかもしれない。ならば日本国政府の公式な催しとして移動展示を行い、アメリカ政府として展示に対するテロ行為を完全阻止させる体制をとらせて行ってはどうか。あの原爆資料館の展示は「核兵器」なるものがいかなるものかを、虚心の眼で見るすべての人々(右翼マインドに凝り固まったほんとうのおバカさんを除くということ)に伝えることだろう。それでもアメリカ人の心に「謝罪」が浮かばないとしたら・・・、そうだなぁ、「核テロ」を期待するしかないかな。もっとも自分の足を踏まれない限り、足を踏まれた痛さを想像もできないというのはいささか哀しい人間(どこの国にもわずかながらこういうバカがいるものだ)ということになる。そんな「人非人」に謝ってもらっても無意味かもしれない。

 ところで、なぜ、原爆資料館を訪れた日が69年8月18日とわかったか。先週、寝室の書棚の文箱に、大昔のユース・ホステルの会員証を見つけたから。

 宿泊スタンプを見ると、69年8月は9日から20日にかけて山陽から山陰を旅行している。たぶん均一周遊券を使ったのだろうがメチャメチャなルートだ。宿泊は、生口島、秋吉台、青海島、仁摩、松江、三朝、鷲羽山、新見、上下、広島、宮島、上下。「上下」というのは広島県甲奴郡上下町、そこに東のいろり荘、西のMGと並び称されたユース・ホステルがあった。備後矢野の駅からずいぶん歩いたところの丘の上。新聞記者として広島で被爆した夫の療養地として移り住んだところで夫婦が始めたユースだった。その頃、すでに親父さんは亡くなり、奥さん(MGのママとして有名人になりつつあった)が継いでいた。はっきりした記憶はないのだが、広島行きはその「ママ」に奨められたのかもしれない。(いま調べると、いろり荘は既にないがMGはまだあるようだ。ママはおととし亡くなっている)(8/6/2010)

 きのうの続き・・・「円高」の不思議ではなく、「長期金利1%割れ」騒ぎを嗤う話。

 あしたにも我が国はギリシャと同じ運命をたどるぞ(国債価格が暴落し、高金利でなければ売れなくなるという指摘)と予言してくれた「オオカミ少年」の皆さんに、すぐにでも説明をして欲しいことがある。なぜ、ギリシャと同じだという日本の国債は低金利でもさばけるのか、それを明快に説明して欲しいのだが、そういう話はきのう・きょうの新聞、テレビニュースには登場しない。単なる一時的現象だという説明すらないのだから可笑しい。

 ところで、きのう、きょうのニュースのトーンとは正反対のニュースもちょっと前にはあった。

 先日も、「国債金利が上昇!」という報道が駆け巡って、「すわ財政危機か!」と盛り上がったことがありました。2009年11月9日に以下のような記事が出始めます。
長期金利、一段と上昇 1・475%、4カ月半ぶり高水準
 長期金利が一段と上昇する気配を見せている。9日の債券市場では、指標となる新発10年物国債利回りが前週末比0・025%高い1・475%まで上昇。約4カ月半ぶりの高い水準となった。財政運営の不透明さに伴う国債増発懸念がぬぐえないことが主因で、近く1・5%台に乗るとの予測も多い。市場は金利の面から新政権への「けん制」を続けている。
 10年債利回りは約1カ月で0・2%以上も上がった。単純計算で国債の利払い費が1カ月で3000億円以上も膨らんだことになる。金利の上昇が続くかどうかは来年度予算案がカギ。年末までに予算案の姿が見えてくれば「投資家の心理は落ち着く」(岡三証券の坂東明継氏)ため、銀行勢の買い需要が戻り、金利は一気に低下するとの見方も出ている。
(2009年11月9日 日経NET)
 しかし、その4日後、「今度は金利が下がりました」というニュースが淡々と報道されました。4日前の大騒ぎはどこに行ったんでしょう?
長期金利が1・37%に低下
 12日の東京債券市場で、長期金利の代表的な指標となる新発10年物国債の流通利回りは前日より0・06%低い年1・37%まで低下(国債価格は上昇)し、取引を終えた。1・3%台を付けるのは約1週間ぶりだ。財務省が12日実施した5年物国債の入札が好調だったことを受け、買いが優勢となった。政府の「事業仕分け」で国債の増発懸念が弱まったとの見方が出ていることも、影響しているとみられる。
(2009年11月13日 読売新聞)
 「政府の『事業仕分け』で国債の増発懸念が弱まったとの見方が出ていることも、影響しているとみられる」などというのはとんだヨタ話です。結局、一連の騒動で儲けた人は「債券市場において国債を安く買いたい」と思っていた人です。いわゆる財政破綻懸念という根拠の無い風説で盛り上がった債券市場で、国債を安値で仕入れた人は、4日後に労せずして多額の利益を得ることができた、というそれだけの話です。

 上念司の「デフレと円高の何が『悪』か」に紹介されている「ニュース」だ。

 なにごとも悪いニュースとして料理するのがマスコミの病気なのかもしれないが、きのうのニュースをあわせ読むと素人としては、「これはいったい何なのだろう」と思う。「事業仕分け」ひとつで財政破綻の懸念が雲散霧消するなどという話は嗤える「説明」だが、別に読売新聞のレベルが低いから書いた「ヨタ話」とは限らない。経済が専門のはずの日経にはこんな「ヨタ話」が為替や株の値の上がり下がりがあるたびにもっともらしい「分析」として、常時、書かれている。ドルの独歩安というときでも、日経は平然と「円高、いっそう進む」などという見出し(たしかにウソではない。「円」しか見ていない近視眼というだけのことだ)をつけて、読者を迷妄の世界に誘い込んだりする。

 まるで、一昔前、「株屋」がやっていたことそのまま。それをいろいろな「エコノミスト」様たちや、ビジネスマン必読の看板を掲げた「経済専門紙」様がやってくれているのだからおおいに嗤える。日本もギリシャも一緒くたにした話など、業界関係者が素人衆を誑かしてカモにするための「ポジショントーク」だと思って、話半分と笑い飛ばしておく方がいいのかもしれない。

 たまたま買った週刊現代にポール・クルーグマンへのインタビューが載っている。その末尾で彼は「赤字国債は九割以上が国内で買われ、日本全体の金融資産は14兆ドルもあるから財政再建を急ぐことはない」という考え方の是非について問われてこう答えている。

 一般的に国債を持っているからと言って、投資家が愛国的だという証拠はない。国庫を信用すればとどまり、不信感が高じれば逃げる。まあ、他の人々が逃避しても日本人の多くは国債を持ち続けるかもしれませんが、いずれにせよ、その点を必要以上に重大に考えてはいません。
 私が言いたいのは、やはり日本はGDP比で197%の債務残高を抱えているとはいえ、財政再建を急ぐ必要はない、ということです。自国通貨を持つ先進国として、日本は安定した政治システムと、状況や環境の変化に対する高い適応力を有しています。
 ちなみに、イギリスの歴史を見ると、借金だらけの状態だった時期は少なくありません。債務残高がGDP比250%までいった時もありますが、何ら国内問題にはならなかった。イギリス人は母国が負債を支払う道をいずれ見出すだろうと信じていたからです。
 赤字や債務といった数字だけを見る限り、アメリカ、日本、イギリスの3カ国は、スペイン、ギリシャ、アイルランドと同類に見えます。
 しかし、自国通貨を有する先進国である以上、先の三国はきわめて低利の借款が可能です。財政再建を今の時期、まったく急ぐ必要はない。長期間にわたって巨大な債務を背負ってきた日本が、例えば加年9月、突如、市場から猛反発を受けるとは考えられません。

 なぜ自国通貨を有するアメリカ、日本、イギリスは別格か。それはおそらく通貨の発行にフリーハンドがあるという考えからであろう。PIGSにはその権限がない、ユーロという共通通貨をベースとしているからだ。書き添えるとすれば、なぜ先進国に限定するかというと、それは生産設備が完備しているが故にハイパーインフレが発生することはあり得ないからだろう。(クルーグマンの話で、唯一、疑問符がつくのはドルの発行が円やポンドと同一に考えられないということではないか。ドルはいまやアメリカの生産力をはるかに超えて過剰に発行されており、いつ「王様は裸だ」という一声で信認が吹き飛ばされてもおかしくないのではないかと思われるからだ)

 要するに、財政再建を優先して課税を強化することこそが、日本が沈没するための道だということなのだが、おそらくきっと我が政府はそれを選択し、マスコミはこぞってそれを支持するだろう。まるで「大東亜戦争」に官民こぞって突き進んでいったように・・・。

 なぜそんなことになるのか。あの戦争が旧日本軍の高官たちによって推進されたように、これから起きることも「財務官僚」と「日銀貴族」たちが自分たちの地位の保全に汲々としてノーブルオブリージュの求める「責任」を忘れているからだ。まあ愚行の葬列を観察するのも、それはそれで楽しかろう。(8/5/2010)

 暑いことは暑いのだが、かなり風があって、それも乾いた感じの風で救われる。空は澄んでいて、これほど暑くなければ、秋の空と言ってもいいくらい。週末は立秋だもの、気付かぬうちに秋はこの陽気の下に忍び込んでいるのかもしれない。

 夕刊トップの見出しは「長期金利1%割れ――国債投資が加速」。すでにきのうからドル円は86円を割り85円台をつけている。これが眼前の厳然たる「事実」だ。

 ギリシャ危機がさかんに報ぜられた頃から、これまで以上に強調されて聞かされている話・・・。曰く、「日本政府の借金はGDP比二桁を超えギリシャ並みになっている」、「このままでゆけばギリシャのようになる」、「まず、円は信任を失い暴落する」、「国債も暴落し、プレミアム金利をつけなければ売れなくなる」・・・。

 土曜日の「青be」の「フジマキに聞け」、先週の質問は、「国は財政危機だというのに円高が進んでいます。かねて『円安』になると公言しているフジマキさん、どう思いますか?」というものだった。フジマキ先生、このように回答した。

 国力と通貨の関係とは学力と通倍簿の関係だ。国力が落ちれば通貨も弱含む。世界中の人々は、弱い国の通貨など誰も欲しがらないからだ。
 先日、カナダで開かれた主要8カ国(G8)首脳会議で「2013年までに財政赤字を少なくとも半分に減らし、16年までに政府債務の国内総生産(GDP)比を安定させるか減少させる」という首脳宣言がなされた。
 ところが日本だけが例外扱いになったのだ。どう転んでも無理な目標だからだ。この目標は他のG8諸国にとってはユルすぎる目標と言われている。つまり、日本は落第生扱いされた、というわけだ。
 なのに、その直後から円が買われた。どう考えても円高は一時的だとしか思えない。だから、私は「おかしいな~」と思いながら、相変わらずおなかいっぱいになるほどのドル買い・円売りを続けている。それこそゲップが出るほどだが、みんな、外に出ちゃうことはない・・・はずだ。

 たしかに「一時的」かどうかは「想定する時間幅」によって何とでも言える。しかし、円の価値が低下することは「長期的」かつ「相対的」には確実だろう。では「ドル」の価値は確実に上がるのだろうか。それは「アメリカ経済」に対する「幻想」がどのていど持続するかにかかっている。「紙幣」に対する「幻想」と同様に持続し続けるのだろうか。そうは思えない。いずれ「ドル」の実態がいま以上に明らかになることによって、国際通貨としてのドルの信認は失われるに違いない。フジマキ先生が死ぬまでにそういう事態が訪れなければ、「ゲップが出るほど」買い続けた先生の勝ちということになるわけだが、さあ、そうなりますかどうか。あらゆる企業の衰退の理由はつまるところ「稼ぎ頭の商品」にこだわり続けることにあるように、「伝説のトレーダー」の躓きも「ドル」信仰によりもたらされるような気がする。

 円高の話ではなかった。眠くなると本論を忘れる。肝心の長期金利についてはあした書こう。(8/4/2010)

 きのうの朝刊の広告を見て、週刊現代を買ってきた。「JAL機墜落25年後の真実」という見出し、いや、副見出しの「初公開:機内から撮影した6枚の写真は何を語るのか」に引かれたからだ。

 25年前の墜落事故の原因に対する公式報告は圧力隔壁の破壊をトリガーとする垂直尾翼と方向舵の破壊ということになっているが、専門家の間でこれを是認する者はひとりとしていない。事故後の機内写真として有名な写真がある。酸素マスクが下りている状景を撮った写真だ。この写真一枚で「圧力隔壁の破壊により急減圧が発生し、機内から機外に爆発的な気流を生じ垂直尾翼と方向舵が吹き飛ばされた」という公式報告が荒唐無稽なものであることは明確なのだ。だいたいいちばん強靱に設計されている垂直尾翼が吹っ飛ぶほどの急激な減圧が発生しながら、後部座席の乗客のひとりとして機外に吸い出された者はないのだから話にならない。それだけではない。操縦クルーは30分以上も正常に会話を続けながらなんとか着陸をしようと操縦を続けたし、乗客のうちの何名かは遺書となる家族宛のメモまで書いている。酸素マスクをつけたクルー同士でいかなる会話ができるのか、冷静な記録を残した乗客は事故発生前からあらかじめ酸素マスクをつけていたのだろうか。バカバカしい。(酸素マスク越しに会話はできない。酸素不足の状態が一時的にもあると思考力は減退する)

 公式報告書に対する有力な反証となる事件がある。JAL事故の1年後、86年10月26日、タイ国際航空620便で乗客が持ち込んだ爆発物がトイレで爆発し圧力隔壁を損傷するという事件があった。しかし垂直尾翼はもちろんのこと方向舵にも影響は与えなかった。まあ、公式報告書にとっての救いは当該機がエアバスA300でジャンボ747ではなかったということだが、そもそもJAL機の圧力隔壁はお椀方の原形を残したまま発見され御巣鷹山からの搬出のためにいくつかに切り分けられたものなのだと知ったなら、大方の人は「ナニ、ソレ?」というに違いない。

 公式報告書は「夢物語」を書いているのだ。なぜ、こんな白々しいウソを書かなければならなかったのか。それは真の原因を隠すことが必要だったからに他ならない。

 その真の原因に迫るファクトが、週刊現代が掲載した「機内から撮影した6枚の写真」だ。上に書いた酸素マスクの下りている機内状景の前に撮られている写真。週刊現代はなぜか写真の提供者を「A氏」としているが、これは小川領一さん。撮影者は彼の父で小川哲さんだ。

 6枚の中に窓外の雲の上に黒い点のようなものが映っている写真がある。

 63ページの写真を見てほしい。窓の中央やや左よりに、黒い点のようなものが写っている。この点を拡大していくと、この点は黒ではなく、オレンジ色の物体がうっすらと浮かび上がるのである。
 青山氏の依頼でこの写真を見た画像処理を専門にする大学教授はこう話す。
「黒っぼい円形のかたまりの領域内は中心から右側へ帯状、もしくは扇状にオレンジがかっているのがわかります。円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えますが、データ量が少なく定かではありません。黒い何かに西から太陽が当たってオレンジに見えるのかもしれません」
 実はこの「オレンジ色の物体」については、事故直後にも報じられたことがあった。
 『週刊ポスト』'85年9月20日号に寄稿した作家の吉原公一郎氏は、独自に入手したビデオをもとに、墜落現場に「オレンジの金属片があった」とし、これが機体にまったく使用されていない色であること、自衛隊のミサイル実験のための無人標的機が衝突した可能性を指摘した。当時自衛隊が保有していた「ファイアー・ピー」「チャカⅡ」などの無人標的機は、全体が赤みがかった鮮やかなオレンジ色に塗装されており、これが事故に関与したのではないか、というのである。
 しかし翌9月27日号では、防衛庁から強い反論があったことを伝えている。
 その後も繰り返し多くの論者が無人標的機との衝突の可能性を取り上げて検証している。

 ここに登場する「青山氏」というのは元JALキャビン・アテンダントで、この5月に「天空の星たちへ-日航123便あの日の記憶-」を出版した青山透子のこと。この本の口絵には週刊現代63ページ掲載の写真がカラーで収録されている。(その写真でも問題の物体は「黒い点」にしか見えない)

 現代の記事のポイントは事故死した小川哲さんが24枚撮りフィルムに撮影された10枚のうち6枚を費やして窓外のその物体を撮ろうと連続シャッターを切り続けたのは「事故の真相」を記録しようとしたからではないのかということと、その画像データをきちんと解析すべきだと主張していることにある。

 画像解析の技術は日進月歩している。もし単に太陽光線のいたずらなのではないとすれば、これは墜落現場で発見された同色の金属片とともに重要な手がかりになる可能性がある。

 すでに「心理的な証拠」はあがっている。通常、日本国内の民間航空機事故には無関心な在日米軍がかなり熱心に墜落までのトレースをし続けたこと、そのくせ、墜落が確定してからは一貫してその行為を隠蔽し続けたこと、さらには、アメリカ企業の常として自社の責任を容易に認めることなどないボーイング社が早々と自社の修理ミスを「自白」したことなどがそれだ。

 この記事で始めて知ったことがひとつある。「遺族に対する補償は、機体を作ったアメリカ・ボーイング社とJALの話し合いの結果ボーイングが82.5%、JALが17.5%を負担することで決着している」ということ。こうなると、その後、数年間のどこかで、ボーイングの負担した補償費用が何らかの形で「補填」されていなかったかどうか、それが気になる。(8/3/2010)

 夕刊の「ニッポン人脈記」。一面、新聞の割り付けではタブーとされてきた「ハラキリ」をあえて行ったところにこの連載は配置されている。先週から「イラク 深き淵より」というタイトルでイラク戦争をテーマとした「人脈記」。きょうの登場人物はドミニク・ドビルパンと川端清隆。

 ドビルパン、イラク戦争当時フランスの外相。サルコジと争うはずだった07年の大統領選直前に首相の地位を利用して政敵であったサルコジのスキャンダルを探らせたとの疑惑(後に刑事訴追され、無罪が確定)が浮上したため立候補を断念したが、最近のニュースでは12年の大統領選出馬に備えた活動に入っている由。記事からドビルパンの言葉。

 パリで会ったドビルパンは、当時を振り返っていった。
「戦争とは涙であり、血であり、子どもが死んでいくことだ。だから戦争はあくまで最後の手段でなければならない」
 03年1月20日には、外相級会合が国連安全保障理事会で開かれた。ドビルパンはその前日、コリン・パウエル米国務長官(73)と意見を交換した。
 その結果、「戦争へ向けた米国の動きはもはや止められない、とパウエル自身が考えていることがわかった」という。
「米国に対して、はっきりとものをいうべき時が来た」
 ドビルパンはその後、安保理で武力行使容認の決議案が採決された場合は、常任理事国として拒否権を行使する構えを表明。ドイツやロシアなども仏の姿勢に同調し、これらの国々と米国との溝が決定的になった。
 2月14日、国連安保理。
「武力行使は、現時点では正当化されない」とするドビルパンは熱弁をふるった。
「この国連という殿堂で、我々は理想の守護者であり、良心の守護者である。我々がもっている重い責任と巨大な栄誉をもって、平和のうちにイラクを武装解除することを優先しなければならない」
 あの時の演説内容は、どうやって決めたのですか。ドビルパンに、そうたずねた。
「シラク仏大統領や仏外務省とも事前にずいぶんやりとりをしました。そうやって出来上がった下書きを携え、米国行きの飛行機に乗り込んだのですが、機内で全部書き換えてしまったのです」
 高校時代をニューヨークですごしたドビルパンはいう。
「ニューヨークが近づくにつれ、私は米国の人々が大好きで尊敬しているからこそ、米国に直言する義務があると感じた」
 そして聴衆の前に立った瞬間、最後まで迷っていた演説内容が瞬時に固まったという。
「あの場で話したのは、私の声ではあったが、それは同時に、戦争に反対して世界中でデモを繰り広げた、世界の人々の声だという意識がありました」

 もうひとりの川端清隆は国連本部政治局政務官。当時の国連の状況を間近で見た人物。記事から川端の言葉。

「どこまでが許される戦争で、どこからが許されない戦争なのか。そのことが国連の中で激しく問われ、揺れた末に、事務聡長は『もし、安保理が武力行使容認を決めた場合はこれに従い、開戦を支持する』と覚悟を決めた。その葛藤が、日本からは伝わってこなかった」
 ある時、日本の記者が川端に電話をかけてきた。
「国連では『非戦闘地域』をどう考えていますか」
 川端は、すぐには何のことかわからず、内容を聞いて絶句した。国会では小泉純一郎首相(68)が「自衛隊が活動する地域は非戦闘地域だ」と訴えていた。
「まさに日本国内でしか通用しない、虚構の議論でした」
 イラク戦争では、同盟国としての日本のあり方も問われたと川端はいう。
「米国にとってほんとうに信頼できる同盟国とは、いわれたことをやるだけの国か、時に米国に対し苦言を呈する国か」
 川端の問題提起は、ドビルパンがイラク戦争開戦直前の03年3月、米テレビとの会見で話した「常に米国を支持し『イエス』というのがよい友人か」という問いを思い起こさせる。

 その国会答弁があった頃、小沢遼子がラジオでこんなことを言った。「すごい理屈ね。オレが小便するところが便所だってことでしょ」と。それを書いた日の日記にはこう続けた。「この答弁を咎めたのはわずかに朝日新聞の社説と東京新聞の筆洗だけだった。読売新聞の社説はこの答弁を引き出した岡田を批判し、サンケイ新聞のサンケイ抄は『小欄も苦渋とともに首相発言を支持し、一日も早い作戦終了を祈りたい』などとまるで他人事のような書き方をしている」と。

 読売新聞やサンケイ新聞を「車夫新聞」とあざ笑うようなことをホームページに掲載すると、たまに「そもそも、車夫を差別しているではないか」などとメールで指摘するお方がいる。オレの日記にどう書こうがオレの自由だというのがこちらの本音だが、要らぬ喧嘩をすることもないから当たり障りのないところで「そうですね、車夫の方たちがよっぽど迷惑しますね」とご返事をさし上げることにしている。

 そういえば、読売新聞などはイラク戦争を心から支持していた(「大量破壊兵器」を名目にしたにも関わらず、ついに「それ」は出てこなかった、いま、少しは恥ずかしく思っているのかしらね)らしく、当時、バグダッドからいの一番に記者を待避させた。「いったいどのように報道をするつもりか」と、アメリカメディアからさえも嗤われたものだった。

 閑話休題。

 記事の末尾はありがちな締めくくりとなっている。「ドビルパンのことばは、今も私たちに向けられている」と。せっかくの記事をこのような紋切り型の言葉で終わらせては記者の現実認識が疑われるというものだ。そもそも友人というのは対等なものだ。日本とアメリカは端から対等ではないというのが正しい現実認識というものだ。つまり小泉純一郎からウケウリ新聞・サンケイ新聞にいたるまで、両国が対等であるなどという「現実認識」はもっていないのだ。

 だからこそエイプ・ブッシュの言葉を無条件に受け入れることができたのだよ。猿並みの下劣な野郎でも「アメリカ合衆国大統領」の言葉となれば、バカバカしい「大量破壊兵器という神話」が「戦争目的」であるといわれても無批判に受け入れたということ。

 これほど国辱的な話はないのだが、この国の右翼方面の方たちはアメリカに対しては「米つきバッタの精神」でいることに何の不思議も痛痒も感じておいでではない。きっと、心のネジが数本抜けているんだろう、バカな連中だ、呵々。(8/2/2010)

 驚いたことに洗濯したタニタの歩数計、復活した。時刻設定が狂っているほかは格別問題なし。きょうはは新旧ふたつの歩数計を右ポケットと左ポケットに入れて歩いてみた。すでにきのう、シチズンの歩数計は消費カロリーが小さめ、燃焼脂肪が大きめに出ることがわかっていたが、歩数値には多少差がある。シチズンの方が多めにカウントされるようだ。歩きながらそれぞれのインクリメント状況を見ると、タニタの方に少しカウントミスがあることがわかった。たいした差ではないのだが。

 ウォーキングを再開して一ヵ月、**(義父)さんの葬儀の関係で豊里に帰った4日間のブランクがあったものの、総歩数は40万歩に1,064歩足りないものの、一日一万歩のノルマ達成率は87.1%で、7日間移動平均値で1.72キロの減量、体脂肪率は1.65%マイナスだから悪くはない。このトレンドでゆければ第3クォーター終了までに目標が達成できる。内臓脂肪レベルの方は「標準」圏にはまだまだだが。

 もっとも経験的に知っていることによれば、単調に減少することはない。歩き続けているのに、減らない、それどころかリバウンド気味に若干増加することさえあるのだ。その時にくさらずにペースを守れるかどうかが、すべてを決めることになる。(7/31/2010)

 **(家内)が帰るのは初七日が終わってからだろうから、あしたになると思っていたら、夕方にはもう帰ってきてしまった。

 どういうものか「かみさんがいない」という状況には気分を浮き立たせる効果がある。隠れてしたい格別のことがあるわけではないのだが、開放感があって、冷凍食品などが確保されていて食うことの心配がない場合には独りというのも悪くはない。鍋・釜を使いさえしなければ、洗濯も食器洗いもスイッチさえ押せばすむ。面倒なことは何もない。むしろ食事もお茶も書斎で好きなときに好きなようにできれば、その方が自由でいい。朝だけではなく昼も炭水化物をとらない方が体は楽だ。

 新聞もその日のうちに、好きなペースで、この部屋で読める。パソコンのある部屋で、気の向くままに読めるのはなによりの環境。茶の間との往復は面倒だ。まあ、帰ってきたものは仕方がない。また、いつもの生活に戻せばいいだけのことだから。**(家内)さん、感謝してますよ。(7/30/2010)

 夢というのは不思議なものだ。細かな場面でのリアリティは十分にあるのに、全体を通してみるとまさに「夢」であって、時間的なつながりも、登場人物相互のつながりは、場所的なつながりも荒唐無稽そのもの。しかしその中には自分の「意識」と「無意識」がみごとに投影されている。

 見た夢は***(省略)***。

 きのう、うっかり歩数計を短パンのポケットに入れたまま、洗濯してしまった。気付いたのは、予洗、洗い、すすぎ、脱水、乾燥、ふんわりキープまでのフルコースのほぼ終わりごろ。もののみごとに歩数計くんは昇天していた。アマゾンでシチズンの歩数計を注文したが、まだ届かない。仕方がない、きょうは歩数計なしで、いつもの2時間コースを忠実に歩くことにした。

 5日ぶりのウォーキング。予報は雨、止み間を狙っていつもより1時間ほど遅らせてスタート。たいした降りではないが、間断なく小降りの雨。キャップのひさしから水滴が垂れる。日射しがないのが救いだが、かわりに蒸し暑さがのしかかってくる感じ。さすがに川沿いのコースにも人影はなかった。

 歩数、消費カロリー、燃焼脂肪などのデータはきのうの数値をそのままとする。

 夕方に新しい歩数計が届いた。USB経由でデータを専用ソフトに転送できる。歩行距離を日本一周コースに展開できるのも楽しい。最初のタニタのピッチオン付きの歩数計から数えるとこれは4代目。

 夢の続きを見たいことがあるものだ。けさの夢などはそんな夢だった。見られないかなぁ。(7/29/2010)

 8時半に松島の「壮観」を出発して2時に到着。蓮田のサービスエリアまでは**(次男)が運転してくれたので、かなり楽ちんだった。彼も明日からは仕事ゆえ、家には上がらずに直帰。

 朝日の専売所にはあしたの朝刊からといってあったが、夕刊から再開することにして、不在中の新聞も持ってきてもらった。以下、その間の記事の拾い読み。

 数学者の森毅が24日に亡くなった。**(義父)さんと同じ命日だ。童話屋から出版された「すうがく博物誌」があったはずと探したが見つからない。

 大相撲名古屋場所は白鵬が3場所連続の全勝優勝。優勝の天皇賜杯授与はなし。連勝記録は48で継続中。すでに大鵬の記録を超え、千代の富士の記録まであと6。双葉山まであと22とか。それにしても双葉山の記録はすごい、年に6場所も開催するような時代ではなかったのだから。

 宮崎県の口蹄疫騒動、やっと移動制限解除。スタンドプレイに熱心な知事とゴネて傷口を拡げたバカ町長、半分は「人災」だった。集中豪雨がなければ、もっと悲惨なことになっていたろう。秋以降に再発生しないことを祈るばかりだ。もし引き続いて発生するようなことがあれば資金援助などは無意味。宮崎の畜産農家の多くが「蒸発」することになるだろう。

 辻本清美衆議院議員が社民党を離党して無所属になる由。理念に重心を置くか、実現に重心を置くか、政治を家業としてやらないほんとうの政治家にとっては難しい選択だ。実現に重心を置くというなら、思い切って民主党に移るべきだろう。そこまでできないのは社民党の尻尾を残しているからだ。それでは結局何もできないことになる。中途半端。

 死刑囚ふたりの刑が執行された。千葉景子法相は死刑廃止議員連盟のメンバーだった由で、就任以来、一部の熱心な「死刑大好き族」からは「死刑執行という責任を果たせ」という非難が集まっていた。今回、千葉は刑の執行に立ち会った上で、死刑に関する根本からの議論が必要だと記者会見で述べた。後藤田正晴も言っていたように、死刑制度がある以上、どのような信条があるにせよ法相の職に就けば、その執行を命ずることを避けるわけにはゆかない。千葉の判断に文句をつけることはできない。

 ところが自民党の大島理森幹事長は「千葉産は選挙において議員にふさわしくないとして落選した議員だ。そんな人物が死刑執行を命ずるのは問題だ」とコメントしたそうだ。選挙において落選した人物は議員にふさわしくないのだろうか。とすれば、昨年の総選挙において選挙区選挙において落選した人物が比例において「復活当選」したことは、議員にふさわしくない議員を自民党は議員にしたことになるが、これについてはどう考えるのだろう。

 もうひとつある。数ある大臣の椅子でも、法務大臣と同格ないしはそれ以上に重職とされている大臣職に外務大臣のポストがあるが、小泉内閣において長く外相を務めていた川口順子はいったいいつ議員バッチをつけたのか大島は忘れたのだろうか。バカないちゃもんをつけて己の無見識を晒すことは、いくら取るに足らぬ野党に成り果てた自民党の、バカでも務まる幹事長職としても、避けた方が無難というものだと思うがいかがか、呵々。(7/28/2010)

 **(義父)さんが亡くなった。さきおととい**(家内)が行った時にはこの夏を越せるかどうかという予感はあってもまだ元気で、**(義姉)さんが「大丈夫だから」と言うこともあって、きょうまでいる予定を日帰りで帰って来ていた。きのうもまだ見舞いの人と結構しゃべっていたというのに・・・。頑健な大木も倒れる時はこんなものかという感じ。

 これで四人の親はすべて亡くなった。一番若く、一番早く逝った**(義母)さんが春四月だったのみで、**(父)さんが夏の始まり、**(母)さんが夏の終わり、そして**(義父)さんが夏のさなか。みな、暑い盛り。老齢に暑熱は生きようという気力を失わせるのかもしれない。あした、早くに出発するのに備えて、給油と洗車に行ってこよう。(7/24/2010)

 チェックアウト期限は11時。きのうのような時間帯に移動するのは「自殺行為」なので、9時にチェックアウト。池袋について10時半。すでに死ぬまでにはとても読み切れぬほどストックがあるのだから、本を買うのは無意味かつ浪費そのものなのだが、ちょっと時間があると本屋に寄りたくなる。もうこれは病気。いつものごとく「これ以外に道楽というものを持たないのだから」と自分に言い聞かせる。

 新刊状況を見るだけのつもりが、保阪正康の「田中角栄の昭和」エドワード・B・バーガー/マイケル・スターバードの「カオスとアクシデントを操る数学」の二冊を購う。電車の中で「田中角栄と昭和」を読み始める。保坂には後藤田正治の評伝があったが語り口は似ている。ただし両者の隔たりは天と地ほども違う。

 吉本隆明は小林秀雄を論じて、「なぜ、小林秀雄は、人がさまざまな可能性をもってうまれてきながら唯一の真実(宿命)をしか所有できないために、小林秀雄は文学者となり、Xは靴屋となり、Yは大工となりといったさまざまな宿命にばらまかれる外ないにもかかわらず、これをばらまいている現実が同じただひとつの現実だということに驚かないのか、いぶかしくおもわないわけにいくまい」と書いていた。

 田中と後藤田、ふたりの「政治家」の「違い」についておそらく大方の人はなんとなく納得してしまうだろうが、やはり、これほどにみごとに人間を振り分ける「ただひとつの現実」に驚かざるを得ない。(7/23/2010)

 暑気払いをかねて、吉野竹林院ツアー世話人会。関係者のほとんどが神奈川在住。これにあわせて、横浜ローズホテル内、重慶飯店で。6時半スタートならば終電を気にすることになるだろうと思い、ホテルを予約しておいた。ローズホテルにはシングルの設定がないようなので別にとった。東横インの隣のダイワロイネットホテル。グーグルマップには出てこない。

 早めにチェックインして、シャワーを浴びておこうと、暑いさなかを移動。本当に暑い。

 新しくてきれい。システム化されているが、フロントメンバーの応対も丁寧で、悪い感じではない。料金も5,800円と手頃。真向かいは横浜スタジアム。なかなかいい立地だ。

§

 予想どおり、ツアー規格の打合せはほんの少しで大盛り上がり。予約の9時をはるかにオーバーして、それだけでは足りず、ホテルのティールームに場所を移して歓談。やっといま上がってきた。**くんや**さん、終電に間に合ったろうか。(7/22/2010)

 いつも下げたときのことしか書かない。たまには株価が上げたときも、記録しておこう。

 きのう、ニューヨーク市場はマイナスに大きく振れて始まった。寝るときにはマイナス133ドルほど、悪くすれば1万ドルを割るのではないかという感じだった。

 「ジャスト」という数字には意味はない。気取り屋のイチローがいつも言う通り「通過点」に過ぎない。しかし市場というものがケインズのいう美人コンテスト原理に従っている以上、「ジャスト」は「通過点」などではなく「里程標」なのだ。旅人がそのまえに立ち止まるとき、休息をとるかどうかは別として、「里程標」はその時点で視界に入らないところまで思いを馳せるきっかけになる。

 けさ起きてみると、結果的には75ドルほど上げて(10,229ドル96セント)終わっていた。しかし、一時は10,007ドル76セントまで下げたらしい。

 いまの市場心理は疑心暗鬼のまま。順調に元に戻るとは誰も思っていない。ただ二番底を確信しているかと問われれば、必ずしも大多数が強くうなずくわけではない。大局的にアメリカ経済が世界の主役の座を失うことは分かっていても、いずれ「ウォール街」が「シティ」のようなポジションを得るだろうと予想しているのだ。だから、まだドルには信認があるし、ニューヨークの株価は世界経済の指標になると思われている。

 ところで、世界経済の軸の移動を第二次大戦後にパラフレーズするとするならば、心得ておくべきなのはあれがアングロ・サクソンの枠の中での「禅譲」だったということだ。

 以下はちょっとした根拠なき夢想。どれくらいの時間がかかるのかは分からないが、アメリカ合衆国はいずれ現在持っている覇権を失うことだろう。その過程でどれほど醜いあがきを見せるのか、それともかつてのソ連のように予想もしないほど脆く崩壊するのかは分からない。悲観主義者としては前者にチップを積んでおく。あとを襲うのが中国とは限らないが有力な候補であることは間違いない。

 では漢民族がすべてを奪い尽くそうとするか。漢民族には相手次第というところがある。だから皮肉なことに目的のためには手段(HIVの創造、テロとの戦いの演出など)を選ばず、いまもマモンに仕える連中の「心がけ」こそが「彼ら」の運命を決めることになるのではないか。もっとも、その間に中国がアメリカ式の拝金主義と謀略による世界支配に骨の髄から毒されるようなことがなければ・・・ということが絶対条件になる。その心配はけっして小さくはない。主の精神が変わらなければ、それが創り出す災厄も変わることはない。(7/21/2010)

 87年11月29日の大韓航空機爆破事件の実行犯とされる金賢姫が、けさ未明、日本政府のチャーター機で羽田に到着、23日まで軽井沢にある鳩山由紀夫の別荘に滞在の予定とのこと。

 死刑判決が確定した後、韓国政府が彼女の利用価値を認めて特赦を与えた事情は理解できるが、その割に彼女は「利用」されることはなかった。金大中-盧武鉉と「北に優しい政権が続いたからだ」と言うのが主な理由とされるが、特赦になったのは90年、金大中が大統領になったのは98年のことだ。約8年ものあいだ、「北傀」(始めて韓国に出張した82年ごろ韓国の人は北朝鮮のことをこう呼んでいた)に対するアンチ・キャンペーンに出番がなかったことは別に大きな理由があることをうかがわせる。

 すっかり「あの人はいま」になったその彼女が、にわかにスポットライトを浴びるようになったのは、おととし李明博が政権についてから以降のことだ。といってもそれは日本側から見たときのことで、韓国国内での金賢姫の存在感は現在でもそれほどあるわけではないらしい。つまり彼女は国内向けにはほとんど「出番」がなく、もっぱら日本向けに「利用」されているということ。

 横田めぐみに対する彼女の証言が「そういう人がいることを聞いたことがある」というものから、「会ったことがある」というものに変わっているのは、彼女を「利用」する「主体」に対するリップサービスではないのかと疑われる所以でもある。

 23日の離日までの間にどのようなことが「新証言」が飛び出すか、いささか楽しみではあるが、少なくとも彼女から得られる証言は87年の秋までのものに限定される。夕方のニュースでは、彼女を辣腕工作員のようにいっていたが、スパイとしての彼女の技量はその日本語力ていどのものだと思う。誰でも気がつくと思うが、彼女の日本語は事件直後の報道の頃よりはごく最近の方がはるかに達者になっている。北の「養成所」で叩き込まれた直後よりも、20年近く日本語と縁がなかった生活を経た、いまの方がうまくなっているというのは興味深い。場合によっては「新証言」なるものも、彼女の日本語のように、87年年末以降、韓国で鍛え上げたものである可能性も否定しがたいことには十分に注意した方がいい。ほんとうに日本政府関係者が「真実」に迫るつもりがあるのならば。

 金賢姫については払拭しがたい疑問がある。事件後、韓国に到着し、タラップを降りてきたときの猿ぐつわをはめられた女性と、その後の記者会見以来の彼女はほんとうに同一人物なのだろうかということ。たしかに「スッピンの八代亜紀」という話があるくらいだから、女性の顔はメイクひとつなのかもしれないが、たった数週間でずいぶん美人になったなと、当時、思ったものだった。

 先日、アメリカで検挙された「美しすぎる女スパイ」の例でも分かるように、こういう「宣伝したいスパイ事件」の主役は眼を引く美人である方が「効果」があるのだ。「アピール」という効果以上に、「カムフラージュ」というより大きな効果が。(7/20/2010)

 梅雨明け三日という言葉の通り、晴れ上がり、頭に「クソ」をつけたくなるくらい暑い。ウォーキング中はなるべく直射日光の当たらない側を歩くことにした。家々が作る影の輪郭がくっきりしている。堀田善衛が、ゴヤの評伝だったかに、スペインの日射し、その日射しの作る影の鋭さについて書いていたことを思い出した。こういう光景をいうのだろう。

 残念ながら、その本は書棚にはない。立ち読みか、新聞連載のときか、そのときの記憶。急に読みたくなった。すぐに読まないとしても、余裕さえあれば買っておくにしくはない(もっとも、あの頃はカネも時間もなかった)などと思いながら、安松小前に続く坂を上る。武蔵野線の陸橋上まで、ほとんど一気の上り。これはけっこうきつい。きのう、うっかり充電を忘れたためにiPodは沈黙してしまった。イヤホンからはドックンドックンという鼓動が聞こえる。こうなると聴診器のようだ。

 音楽がないならないなりに、いろいろの記憶が噴出してくる。所沢の家近くの坂を下る。この坂を、毎日、朝は仕事の段取りを考えながら下り、夜はその日一日の首尾について満足したり、後悔しながら上った。浮き立つような気分の日がなかったわけではないけれど、だいたいはため息まじりだった。このコースは先週金曜日から付け加えたのに、きょうはじめて、そんなことを思い出してしまった。こんなウォーキングも悪くないが、帰ったら、きょうは必ず充電しようと思った。あのまま徳永英明の歌声が聴けていれば、砂をかむような日々のことは思い出しもしなかったろう。

 おおむね2時間、約12キロ、歩き続ける間、とりとめもないことが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。見上げる空は青く、白い夏雲がぽっかり浮かんでいる。脳裏には夏の空の数々・・・。

 **(祖父)さんと金魚の水汲みに行った夏。**叔父さんに入道雲のことを教わった夏。最終日になってもついに泳げなかった向ヶ丘遊園の水泳教室。海水浴ぐらいと連れて行ってもらった江ノ島でメガネを引き波にさらわれた夏。「子供ね」と笑われてすごく落ち込んでしまった羽根木公園での夏休み写生会。「次はあの子」というところで曲が終わってしまったフォークダンス。スイカを片手にぶら下げて、「結婚式、出てくれる?」と言われた夏。冷房の入らない夏休みの工場、汗でトレペが汚れないようにしながら、ひたすらリレー・シーケンスを書き続けた夏。・・・さまざまの夏空の下、いろいろの夏雲を見上げた記憶。そして61歳の・・・この夏。(7/19/2010)

 朝日のサイトに「自力で電子書籍」という話が出ている。

 本やコミックの背表紙を切り落とし、全ページをスキャナーで読み込んで自家製の電子書籍を作る人が増えている。新型情報端末iPadなど、電子書籍を読める機器の登場が追い風になり、裁断機やスキャナーの売り上げも伸びている。
 大阪府豊中市の会社員の男性(24)は6月から、持っている本や雑誌の「電子化」を始めた。背表紙を大型の裁断機で切り、バラバラになった本をスキャナーにセット。1冊数分で自動読み取りが完了し、PDF形式で保存する。「作業は予想以上に簡単」という。
 蔵書は増え続け、部屋を占拠してしまうのは時間の問題だった。裁断機とスキャナーで7万円近くかかったが、「出張時に何冊分もの本を持ち歩けるし、パソコンで処理すれば全文を検索でき、知りたいことが書かれているページにすぐたどり着ける」とメリットを挙げる。

 磯崎哲也のiSOLOGUEの当該記事のことも紹介されているので、久しぶりに見に行ってみた。スキャンスナップは両面読み取り、「文庫本1冊だと、ボタンをぽんと押して2~3分後には読み取り完了」、「あまりにサクサクとスキャンが進むのが気持ちよくって、一日中スキャンばかりしまくってしまう『スキャン猿』という症例も見受けられ」るくらいだとか。

 モニタ画面で「読む」のはどうだろうという気がする。会社勤めの頃の経験からすると、すっきりと頭の中に入ってこない、どうしても上滑りしてしまうのではないか。そういえば年齢が上の人のほとんどはいったんプリントアウトして読んでいた。おかげでちっとも電子化によるコストダウンはできなかったっけ。紙媒体にはリアルなページの見通しの良さという捨てがたいメリットがあるのだ。

 ただ、どれほど書棚を確保しても、さほど時間をおかずにスペースのやりくりに苦労すること、さらに、最近とみにどこで読んだかを思い出すのにも苦労しつつあることを考えあわせると、きれいに片付いたシンプルな書斎、検索機能を縦横無尽に使える快適さは大きな魅力だ。

 それでもハードカバーを片っ端からザックリ、ギロチンにかけるのには躊躇がある。とりあえず日経ビジネスなどの雑誌あたりから試行してみる、そんなことでテストしてみようか。しかし、スキャナーと裁断機のセットで73,979円(AMAZON価格)、すぐには決断できないなぁ。(7/18/2010)

 日本時間のけさ方、終わったニューヨーク市場、かなり下げた。1万ドル台ではあるものの、1万1千ドルを割って、終値10,097ドル90セント。261ドル41セント下げだった。

 マーケットコメントは、GE、シティ、バンカメなどの2Qの決算が「悪かった」ことと、いくつかの経済指標が悪かったため・・・という筋立てになっているが、GEもシティもバンカメも赤になったわけでも、前期より下げたわけでもない。市場予測より弱い、あるいは伸び悩んだというのが実情。そのあたりを考え合わせると、ほんとうの懸念材料は別のところにあるのではないかという気がする。

 ゴールデンウィーク明けころからのたびたびの2百ドルの以上の下げ、225.06(5/4)、347.80(5/6)、376.36(5/20)、323.31(6/4)、268.22(6/29)などは反騰の戻りとか、ユーロショックというには少し大げさな反応で「真の原因」とは言い難い感じがぬぐえない。

 アメリカ経済はCDSの地雷原からは脱したとされるが、たまにしか報ぜられないファニーメイとフレディマックの状況はとても楽観できるものではないらしい。アメリカの不動産市場の落ち込みはまだ現在進行形で、けさのニュースでは地方銀行の破綻は既にことし96行に達している。つまり世界経済は依然として、だらしないアメリカに足を引っ張られ続けているというべきなのだ。

 週明けの東京は「海の日」でお休みだから、20日の早朝に終わるニューヨークの週明けがどうなるか、株価についてはどう動いてもいいけれど、豪ドルへどのような影響が出るかがかなり心配。来週末にはヨーロッパの銀行のストレステストの結果も出る。場合によってはウォーキング効果ではなく減量することになるかもしれない。

 気象庁、梅雨明け宣言。(7/17/2010)

 じつにみごとな売り込みだった。なにしろ読売嫌いのオレに読売の購読を契約させたのだから。

 まずインターホン越しに「いつもお世話になっております、新聞の敗売店の者です・・・」。いつもの美術館のタダ券の抽選に当たったのだなと思って(誤解その1)玄関に出た。「あっ恐れ入ります、こちらご購読いただいてどれくらいになりますか?」。暑い中、悠長にそんな質問につきあわねばならぬ理由はなかったが、「1年半くらいかな。でも、母の入院で中断したけど、ここに来てからとなると、もう40年くらいには・・・」と答えた。**(家内)が「最近、タダ券、あまり当たらない。サービスが悪くなった」と言っていたのが頭にあって、ちょっとプレッシャーをかけてやろうと思った。

 「ありがとうございます。最近、洗剤とかビールとかは持ってきてますか?」、「いや、そんなものはもらってない、美術館のタダ券ぐらいだよ」。「ああ、長くご購読になると、サービス、行き届かなくなるんですよ。わかりました、ご主人、ビール、お飲みになりますよね。ちょっと手配しましょ。現在の契約、いつ、更新になりますかね?」、「さあ、よく分からないけど」、「じゃ、私の方で販売店に確認します。その更新の時、ビール、お持ちしますから」。

 こうして思い出しながら書いてみると、ここでちょっと不審に思うべきだった。

 「いったん、現在の契約を打ちきりにするんですよ」。「なんで?」。「ひとつきとか、みつき、別の新聞に変えると言って」。「いやだよ。紙面の構成とか変わるとなじめないから」。「そうですよね。でも、すぐまた元に戻せば・・・。切り換えをお世話すると、私、一件三千円、入るんです。すると、子供におもちゃも買ってやれるし、ご主人は、ビールとか、販売店のサービスを利用できますし・・・」。「でも、ひとつきとかで、また戻すの面倒だよ」。「あっ、そのときは私に連絡いただければ、やりますよ。そうすると、私また手数料入りますし・・・。このあたりじゃ、皆さん、そうして、みつきくらいでいろいろもらってますよ」。新聞販売の口利き業なのかと思った(誤解その2)。

 「変えるとしたら、どこになさいますか?」・・・いま考えるとこれは引っかけで、この男がわたった唯一の危ない橋(つまり「偽計」)だったと断言できるが、彼は間違いなくこう言った。

 「変えるなら、東京新聞だね」。「すみません、東京新聞はできないんです」。「じゃ、毎日新聞」。「すみません、毎日も」。ここがキーだった。そこでオレは余計なことを言ってしまった。「長くとってきたけど、最近、ちょっと朝日には感心しないところがあるんだよ。消費税についての社説。まあ、東京にしても、毎日にしても、そのあたりは同じだけど・・・。うちで死んでもとらないのは読売とサンケイだね。じいさんから車夫新聞はとるなと教えられたからね・・・」。その時、はじめて、男はしゃべっているオレの言葉を遮るように言った。「読売でしたら、いまご契約いただいてすぐにスーパードライを1ケース、契約の開始のときに1ケース、お持ちしますよ。もし読売が気に入らなければ三ヵ月したら朝日に戻せばいいんです。またそのときにはお世話させていただきますから」。

 ここからは我ながら嗤ってしまう。完全に男のペースに嵌ってしまった。

 「うちはスーパードライじゃないよ、エビス」。「エビスですか・・・。(絶妙の間をとって)差額は、私、負担にしましょ」。ははあ、プレミアムビールにするのは、ちょっと経費問題があるのだな・・・オレの頭は完全に「あっちの方向」に働いていた。「じゃ、いまの契約期間については確認しますが、一応、来年の1月から3月でご契約お願いします」。男は伝票のようなものに記入を始めた。「こちらに認め印を」と渡されると、伝票の頭には「読売新聞購読お申込契約書控え」と印刷してあった。

 そこで断るべきだったのだが、勢いに押されたことと、ちょっと頭の隅にエビス2ケースだと、安売り店でも1万円弱・・・いや、ミニ缶だと・・・。そのとき、絶妙のタイミングで、男が「ご主人、3・5缶でいいですよね?」と言った。じつに恐ろしい奴だ。三ヵ月で購読料がたぶん1万2千円弱、それなら手元で読み比べるのも悪くない、そう思い、みごとにオレは嵌められてしまった。

 書斎に戻るとさほど時間をおかずに読売の販売店から電話が入った。少し冷静になっていたから「トリッキーな勧誘」で不愉快だということは伝えたが、「まあ、この暑いときに、営業をかけて取れたつもりでいるのを、いまからキャンセルするのも可哀想だからね。それに読売の勧誘部隊は恐いからさ。いまから断って車でも傷つけられると困るし。以前さ、所沢にいたとき、勧誘を断ったら門柱を蹴飛ばして帰ったんだよ、子機を使って話しながら二階から見ているのを知らなかったんだね」と捨て台詞のような嫌みを言ってやって、少し溜飲を下げた。

 それにしても、まあ、みごとなやり口だった。こうして朝日だけを狙い撃ちにしているのだろう。読売の購読数第一位という裏側はこんな詐欺まがいの営業に支えられているというわけだ。いや、朝日は朝日で同じようなことをしているのかもしれないが。

§

 上記を書いてから、水技の飲み会に出かけ、先ほど帰ってきた。

 玄関に入ると、**(家内)がエビスの1ケースを「これ」と言いながら、「おとう、読売、とるの?」と訊いたので、顛末を話してやった。販売店さん、クーリングオフを防止するため、早速に持ってきたらしい。何から何まで行き届いたシステムだ。(7/16/2010)

 宮崎の口蹄疫はようやく終熄しそうな形勢。殺処分がほぼ完了したことにもよるのだろう。しかし、あまり言われていないようだが、一連の処置の効果にいちばん寄与したものは、「天の配剤」だったような気がする。それは「豪雨」だ。インフルエンザが冬に流行することが多いのはウィルスが乾燥した条件を好むからだ。口蹄疫はウィルスによる。豪雨が口蹄疫の拡大を抑制したのだ。

 だいたい今回の口蹄疫の蔓延、マスコミは政府対応の遅ればかりを指摘するが、最大の責任は宮崎県のお粗末極まりない対応にあった。検査確認の遅れについては現在の国の体制に問題があるとしても、現場に危機感があれば漫然と検査結果を待つようなことはなく、徴候が現れてから一ヵ月以上も空費するようなことはなかったろう。

 口蹄疫と判明してからも愚鈍な(と書いておく)宮崎県は迅速な殺処分に入らなかった。

 もっぱら「苛立つ東国原知事」として繰返し報ぜられた映像があった。記者会見で処置・対策について質問する記者に対し、知事は「あんた、いくらかかると思ってるんですか」と食ってかかった。最大の震源地となった川南町の内野宮正英町長に至っては国の農水省の係官に対し、「補償を単に『検討する』では現場は動けない」と「しつこくゴネ」ていた。前にも書いたように、目前で家が燃えているというのに、消火活動もせずに保険金が支払われるかどうかばかり気にしているようなものだ。ここまで行政の長がバカでは救われるものも救われない。口蹄疫の蔓延防止に対して殺処分以外の対策を持っている国は世界中のどこにもない。東国原や内野宮が「ゴネた」その時間に比例して被害は拡大した。厳しく言えば、宮崎県の惨状は半分くらい自業自得。つまり悲劇の「半分」は同情に値しない。わざわざ災厄を跳梁跋扈させたのだから。

 宮崎県の醜態はそればかりではなかったことが、きのう、報ぜられた。

 殺処分作業が進められていた先月末、対象の中に口蹄疫の発症を疑われる牛が見つかった。作業中の10人の獣医師から確認検査をすべきだという声が上がったにもかかわらず、県の現場責任者は対策本部と連絡した後、確認検査をせずに殺処分を進めることで獣医師たちの意見を押し切った。農水省担当セクションへの報告は当初なされず、数日後に事後報告として行われた。おそらく、この日(6月25日だったという)に発症例が確認されれば、移動禁止措置の解除が遅れてしまうことを懸念したからだろう。もっとも県当局によるこの姑息な処置は、今月4日になって宮崎市内で感染の疑いのある牛が見つかったことにより、「実」を結ばなかったわけだが。(宮崎での「疑い例」の公表は度重なる発見に恐れをなしたからとも思われる。それぐらいのことをしそうな宮崎県当局だ)

 ついでに書けば、東国原知事はこの前日、7月3日には、札幌のホテルにいた。公務出張ではない。企業合併を仕事とする「日本M&Aセンター」なる民間会社の開催したセミナーで講師のアルバイトをしていた。なんとまあ、ごりっぱな知事さんだ。彼の危機感とはこのていどのものだったと断じてよい。

 ここ数日の口蹄疫ニュースは民間の種牛の殺処分に関するもの。

 高鍋町の農家が160頭の牛の殺処分には応じたものの種牛6頭の殺処分を拒否し、今後の復興に備えて無償で県に譲渡するとしている件。拒否しているのは薦田長久、72歳。たぶん人生のすべてをかけて種牛を育成した来たのだろう。心中は察するにあまりある。ポピュリスト知事・東国原、ここはいちばん存在をアピールするチャンスと判断したのだろう。いったん出した殺処分勧告を取り下げ、老・種牛育成家とともに助命嘆願の挙に出た。

 薦田には同情する。ほんとうに気の毒なことは事実だが、それで法律の運用を枉げていたら社会が成り立たないのは自明のことだ。既に殺処分に応じた各農家にしてみれば「種牛」の印籠で国が「ハハー」となるのなら「二度と協力はしない」、「何か種牛に類する主張を探せばいいのでないか」という気持ちにもなるだろう。また新たに発生したときに、この手のお涙頂戴話が出てきたら窮することになる。

 政治でいちばん避けなければならないことは「正直者はバカを見る」という「常識」を蔓延させることだ。もちろん、東国原のようなウケ狙いのポピュリストにそんな真っ当なことは金輪際分からないし、理解する気もないに違いあるまい。政治は自分のギャラを高くするための方便とでも思っているのだろうから。

 山田正彦農水大臣の対応は冷たいように見えるが当然のことだった。彼は「宮崎県が行わないなら、国による代執行も辞さない」と伝えた。一方、農水省の事務方からはいかにも役人らしいアドバイスがあったらしい。「熟し柿は待っていれば落ちるものですよ」と。そして「殺処分が完了しないうちは移動制限の解除は認められませんと言えば、それですみます」とでも付け加えたのだろう。ポピュリスト知事にはこれは打撃だった。東国原は、またまた、寝返った。件の老・種牛育成家に殺処分に応ずるように頭を下げた。もとより安っぽい頭なのだ、下げることにはいささかの逡巡もなかっただろうよ。たぶん、薦田老人も応ずることだろう。彼にしても抜いた刀をいつ鞘に収めるか、メンツだけの問題になりつつあるくらいのことは分かっていようから。

 この事態、なにやら普天間移設に関する前宰相のウロウロを想像させないでもない。鳩山にはまだ沖縄の基地負担の不条理という実があったが、東国原にはウケだけを考えるタレントのセンスしか見えない。今回の宮崎県のドタバタ行政は東国原ていどの人物、ひいてはそんな人物を知事に選んだ県民に淵源している。

 農水省が種牛殺処分にこだわった理由は、新たに口蹄疫が発生したときのことだけではなかったらしい。朝刊には「日本は口蹄疫の『汚染国』と認定され、肉などの輸出の大半が止まっている。再開には国際獣疫事務局(OIE)に『口蹄疫発生の恐れがない清浄国に戻った』と認定される必要がある」という解説が載っている。老・種牛育成家の感傷は是認できるとしても、ポピュリスト知事は、少ないとはいえ、ようやく海外に「サシ肉」の市場を切り開きつつある状況を台無しにしているわけだ。(7/15/2010)

 ハクション大魔王をイメージキャラクターにした日本振興銀行の前会長、木村剛が検査妨害容疑で逮捕された。竹中ブレーンだった頃はマスコミに大もてで、ニュース番組やワイドショーに出てはさかんに銀行批判をしていた。その銀行批判の口が滑って「20億もあれば簡単に銀行が作れるし、大手の銀行が手がけない中小企業向け融資で十分にやって行ける」と豪語、これにお金持ちのボンボンがたむろする青年会議所や怪しげなノンバンク業者が寄り集まって、この銀行を作った。

 木村の頭にあった「中小企業に、担保を取らずに、高利で貸し付ける」というビジネスモデルの着想は、おそらくノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスのグラミン銀行(ユニクロと合弁会社を設立するというニュースが報ぜられたばかり)から得たものだろう。

 そのビジネスモデルがどのような「壁」に阻まれたのかは分からない。しかし、親族が経営する会社に日本振興銀行の非公開の株を担保に融資するという「頭が腸捻転を起こしそうな」トリッキーな融資を平然と行う感覚では行き詰まりは「約束された必然」だったのかもしれない。(この朝日の記事に「提訴も辞さない」と息巻きながら、ついに提訴はされなかったというお粗末)

 たしかに「銀行は簡単に作れた」が、「十分にやってゆく」ことはできず、窮した木村は悪名高いSFCGの債権を下取りすることで儲けようともくろんだらしい。しかし、SFCGの大島健伸は日銀エリートだった木村よりは一枚も二枚も上手だった。大島が木村に売った債券は複数の相手に売られており、傷口は一気に広がったというところ。絵に描いたような転落劇で、素人にも分かりやすい。

 そういえば、「親族への情実融資」が報ぜられたとき、「何が悪いの?」などとバカ丸出しのブログを書いていたあの「主婦」さん、木村の逮捕を聞いてどう思っていることか。当時、そのブログを読みながら、わざわざ己のバカさ加減を公開してみせることもなかろうにと嗤ったものだった。あの主婦さん、この逮捕のニュースを聞いて、やっと剛センセの「情実融資」の胡散臭さに目が覚めたか。それともいまだに愚かな「主婦の生活感覚」とやらを書き連ねているのか。他人事ながら気にかからぬでもない。(7/14/2010)

 つかこうへいが亡くなった。先週の土曜、肺癌だった由。

 本棚にある「娘に語る祖国」をざっと再読してみた。この本で、つかは「在日韓国人」という「問題」について、娘に語るという形を借りて、ふつうの、したがってこの「問題」について鈍感な、日本人に語っている。姜尚中の「在日」という本はもっと細かく、重く、それを書いているが、つかはやさしく、分かりやすく、幾分は通俗的に書いている。なるほど、優れた劇作家であり、演出家だったのだということがよく分かる。

 娘への手紙風に書き出されたこの本は、中盤に差しかかる前に、「熱海殺人事件」の韓国バージョンをソウルで公演したときの話になってゆく。リハーサルが始まったある日、通訳の李さんが、アシスタントを務めるため日本から同行した青年、菅野くんとつかを「イヌ料理」に誘う。辞退をするふたり・・・。

 李さんは、イヌの件は許してくれましたが、来週のサッカーは一緒に見に行ってもらう、と言います。
 パパは、首をかしげ、
「おい、菅野、サッカーが何かあるか」
 菅野君も、顔を曇らせながら、
「よくこの国の人たちは、オリンピックが楽しみですね、と言うんですよ。なんのことかと考えていたんですが、オリンピックでこてんぱんに日本を負かして、昔の怨みを晴らしてやろうということなんですよ。で、来週のサッカーってのは、そのアジア予選らしいんです」 これにはパパもゾツとしました。
「しかし菅野、いまの日本に、金メダルの数で韓国に負けて悔しがるやつは、いるか?」
「いませんよ。ああ、負けたのかって、感じですよ。韓国に負けて悔しがるやつは、一人もいやしませんよ」
 ほんとに日本は、裕福になったのでしょうね。
「でもよ、韓国の人が、日本人はなんも感じないなんてことを知ったら、ショックを受けるだろうな」
「そうですよ、共産党だ、学生運動だと言ってて、突然ベルリンの壁がなくなっちゃうみたいなもんですからね。仇討ちの敵を十年探していて、見つかったときは死んでたってもんですからね」
「まずいよ、これは」
「まずいですよ、ほんとに」
「とんでもないことになったな」
「負けて、日本が一生懸命悔しがってあげたら、意外と韓国は過去のことをスッキリ忘れてくれるんじゃないですかね」
「だから悔しがってくださいなんて、オレが日本に帰って頼めるか」
「せめてぼくたちぐらいは悔しがるふりをしときましょうよ。韓国の人に悪いですもんね」
「ぼくらって、オレは韓国人だぜ。日本が負けてオレが悔しがったら、おかしかねえかい?」
「そうですね」
「オレら、どうしたらいいんだろう?」
「とにかく韓国が勝ったら、狂喜乱舞するしか手はないんじゃないですか」
「でも、しらじらしくねえか。それに、オレ、顔に出るぜ」
「とにかく日本から芝居を観にくる長谷川たちに、まず『今度のオリンピッウじゃ、韓国には絶対負けません』って言えって、電話をしときましょうよ」
「そうだよ。参加することに意義があるなんて言ったら、殺されるよ」
「しかし、韓国側は三万人ぐらいの観衆がいて、日本人はぼく一人ってのもさみしいな。下手に勝ったりしたら、ぼく、ふくろ叩きにされるでしょうね」
「日本は、サッカーはどうなんだ?」
「サッカーが強いって話、聞いたことないから安心はしてたんですが、下手にベタ負けしても、手を抜いたなんてことになって、またバカにしてるってことになるし、困ったな、ぼく」
 サッカー場は、三万人の観衆に沸いていました。
 日本人と日本人関係は、パパと菅野君の二人だけです。あのもの静かな全茂松さんまでも、
「われわれは戦争では負けましたけど、サッカーでは負けません。つかさん、あなたはどっちを応援するんですか」
と、おかしな冗談を言い出します。
「ハハハ……」
と笑うパパの顔は、ひきつっていました。
 日本がコテンパンに負けて、
「どうです、つかさん」
と、顔をのぞきこまれたとき、菅野君が、
「チキショウ、チキショウ」
と、死ぬほど転げまわってくれて、パパを助けてくれました。
 サッカーで、この有り様です。オリンピックのときには、一体どんなことになるのでしょう。
 それにしてもパパは、本当にどっちの国の人間なんでしょうね。この問いかけをこれまでの人生の中で何度も何度も繰り返してきました。でもパパは、韓国人というフィルターを通さずに、この世の中を見、人と対してきました。

 つかが韓国に行ったのは87年、ソウルオリンピックの前年らしい。「ドーハの悲劇」で、日本人の多くがサッカーに目覚めるのは93年のことだ。ついでに書けば、バブル景気は86年に始まるというのが定説らしいから、つかが韓国に行った時期は日本経済が自信満々、経済人は「政治は三流でも経済は一流」とそっくりかえっていたころだ。

 その頃を思い出してみると、この会話は納得できる。しかし、その頃に比べれば状況はずいぶん変わってしまった。まずサッカー。すでにこれほど恬淡とはしていられなくなっているだろう。サッカーに限ったわけではない。経済も、技術も、状況はがらりと変わっている。一例だけあげておく。

 先々週号の日経ビジネスに載った「サムスン最強の秘密-日本が忘れた弱肉強食経営」という特集はいまや日本のメーカーを振り切った形のサムソン電子に関するものだった。何だったらオレがこの書斎で代筆できそうな平凡で退屈な記事だった。というのは、記事にはサムソンの強さについての冷静な分析は何もなく、単に「韓国はすごい競争社会なんです」というバカみたいなものだったから。つまり、高度成長期のモーレツ経営に代わるものを何も打ち出せないままに、ただただイライラするばかりの日本企業の状況と、それを取材する日経BP編集部の素人でも書けそうなおざなり記事。溜息三斗。経済状況が悪くなるとビジネス誌もつまらなくなるようだ。・・・どうも話が情けないことにしか行かないのは、歳のせいかしらん。

 先週土曜日の講座でクォン・ヨンソクが言っていた「変わりつつある日韓関係」を明確な意識の中で方向付けるためには、せめて「在日」という「問題」に一応の「解」を与えておくことが不可欠だと思うのだが、たぶん、それはできないまま、成り行きに任されることになるだろう。もちろん、それはそれでもいいのだ、日本が外交においてアジアのリーダーの一角を占めることをめざさないのならば。つかこうへいはそんな日本こそ日本らしいと言いたかったのかもしれない、やさしい人だったようだから。(7/13/2010)

 選挙速報についてはあまりの「順当な」結果判明に、昨夜は10時前に床に就いた。ワールドカップの決勝、スペイン対オランダ戦を観るためだ。目を覚まして時計を見ると3時20分。飛び起きて書斎へ。ギリギリ、キックオフに間に合った。月曜の未明にこれを観られるのも年金生活のおかげ。

 オランダがホームポジションでオレンジのジャージ、スペインはネイビーブルーのジャージ。サポーターはそれぞれのチームカラーをまとっているから、オレンジ対赤。オランダのサポーターの方が若干多いというのは目下の経済力のせいか。この大会の名物になったブブゼラの音がきょうはあまりない。

 開始4分半、スペイン、フリーキックからヘッディング。枠内だったが、キーパーがクリアして試合は始まった。・・・と、ここまでは適宜PC入力をしながら観たが、そのあとはほとんどテレビに釘付けになった。両チームのフォーメーションというか、選手の離合集散が美しい。美しいと言えば、スーパースローで観る選手たちのプレイ。人間の体の美しさを存分に見せている。

 前・後半、各45分を終わって0-0。延長も後半になり残り数分、PK戦になるのではと思われたその時、スペインのイニエスタという地味目の選手が決めて黄金のカップはスペインのものになった。オランダは予選リーグから6戦全勝で最後の試合に負け、スペインは初戦スイスに1敗の後7連勝で優勝。初戦に負けたチームの優勝は初めてのこととか。

 オランダのロッベンは「良いサッカーをして負けるくらいなら、悪いサッカーでも勝ちたい」と言ったと中継開始早々にアナウンサーが紹介していた。悪いサッカーとは言わないがオランダはずいぶんイエローカードをもらい延長後半には累積で退場者まで出してしまった。やはり、オランダにとっては、いっぱいいっぱいの戦いだったのかもしれない。

 閑話休題。あのドイツはオーバーハウゼン在住の予言ダコ、パウルはついに三位決定戦、決勝戦と勝者を的中させた。なんと864分の1の確率。もはや神の領域、いや、恐ろしい「偶然」と書いておくことにする。

§

 さてすっかり影の薄くなった、きのうの参議院選挙。まず、結果から。

選挙前 新勢力 当選者 選挙区 比例区 改選議席
民主 116 106 44 28 16 54
自民 71 84 51 39 12 38
公明 21 19 9 3 6 11
共産 7 6 3 0 3 4
国民 6 3 0 0 0 3
改革 6 2 1 0 1 5
社民 5 4 2 0 2 3
たちがれ 3 3 1 0 1 1
みんな 1 11 10 3 7 0
幸福 1 1 0 0 0 0
諸派 0 0 0 0 0 0
無所属 4 3 0 0 - 1
241 242 121 73 48 121
(欠1)

 去年、衆議院選挙の翌日

 民主党は勝ったわけではない。自民党が負けただけ。民主党にとって辛いところは、来年夏に参院選が待っていることだ。つまり2010年度予算編成の手際がどうか、その一回で最初の評価をされるということ。ほとんどの国民は新米・民主党の技量を疑い不安感をもっている。それでも民主党に投票したのは自民党の4年間で眼前に現れた現実がそれ以上に不安なものだったからだ。
 だから、民主党よ、憶えておけ、彼らは待ってくれないぞ。一つでも二つでも「オッ、やるじゃないか」というものを積み上げなければ、すぐに捨てられる。なぜなら今回の得票は「アナウンスされた政策」を評価してのものではないからだ。

と書いた。予想は当たった。鳩山政権の一挙手一投足はまことに拙劣だった。理想を掲げることは悪いことではないが、理想の現実化には相当の政治的力量を必要とする。鳩山を含め、民主党にはそれがなかった。同じ日、こうも書いた。

 要するに「冷たい新自由主義」に「暖かい互助主義」を対置させればよい。「なんでも『自己責任』という冷たい社会をお望みですか」、これだ。自民党とその支持勢力をさりげなく「冷血動物」のイメージをかぶせ、小泉時代のはやり言葉「抵抗勢力」のように使えばよろしい。小泉ぐらいの「あくどさ」がなくては自民党と互角に戦うことはできない。小泉手法は大衆社会における「政治手法」そのものだ。せいぜいガンバレ、民主党。もしも選挙民が「小泉手法の底の浅さ」に気がつけば、それがいちばんいいのだが、所詮、衆愚政治は一朝一夕には変わるまい。

 それでも民主党として、具体的には何と分からぬまでも「新しい取組みの姿勢」だけでも打ち出せれば良かったのだろうと思うが、鳩山を引き継いだ菅には鳩山の「負の遺産」が大き過ぎ、一か八かの「抱きつき戦略」を選択してしまった。賭は外れた。(必ずしもそうも言えないかも。朝日が行った出口調査で、都内では53%が「消費税引き上げは必要」と回答している――「そうは思わない」は38%)

 「なんだ、民主党も変わらないじゃないか」と思われれば、「風」は維持できなかったのだ。少なくとも消費税率アップ志向は「冷たい新自由主義」なのだ。あえて言えば、菅は土俵を別に設定すべきだったのかもしれない。バブル崩壊後の日本経済デフレに陥っている。これはひとえに通貨政策の誤りであるのだからまずそこから着手すると宣言し、自民党も公明党も煙に巻くという戦略があったのかもしれない。議論はかみ合わなくても(もともと議論らしい議論などできないのだ、候補者も、選挙民も)、「景気が良くなる」という匂いをばらまけば、それなりの効果は期待できたろう。ちょうど「みんなの党」の「アジェンダ」なる毛鉤のように。そういえば、かつて渡辺喜美の親父の美智雄は「野党に投票する選挙民は毛鉤に引っ掛かるバカな魚のようなものだ」と言っていたっけ。ついでに書けば、その美智雄は怪しげなスープで癌が完治するというインチキ療法の片棒を担ぎ、効果なく癌病死するというマヌケな最期を遂げた。毛鉤に引っ掛かるようなアホが美智雄本人だったと知って、当時、世間は大嗤いしたものだった。

 閑話休題。我が選挙民は「合成の誤謬」を犯してしまった。これで最低3年、最悪6年もの間、日本の政治は「ねじれ国会」故に停滞するだろう。個別の議員、個別の政党の選択にこだわるあまりに、よりいっそう政治を絶望的な方向に向けてしまったというわけだ。これは誰が悪いわけでもない。すべての人が近視眼で考える結果、必然的に起きる現象なのだ。もっと簡単な問題にすら知恵を働かせることができないのが大多数の人間なのだ、仕方がないと言えば仕方がない。しかし阿呆な結果を招いたものだ。(7/12/2010)

 おととい、大相撲の行く末を案じたとき「学級会民主主義」と書いた。この国の政治状況やそれを報じ、それを論ずるマスコミのありさまを見ながら、いつも子供のころのふたつの情景を思い出していた。

 ひとつは学級委員選挙のこと。田代小学校でのことだった。学級委員などというものを選ぶのは中学年か高学年になってからのことだから、たぶんそれは小学校の3年か、4年の時のことだったのだろう。2年から4年までは同じ担任、同じクラス編成だった。すでに1、2回委員の選挙があり改選があったあるときの選挙で当選したのは「クラスの人気者」だった。成績はあまり良くない。というよりは最低クラス。だが、おちゃらけやいたずらではクラスを主導する連中がすべての委員に選ばれた。担任の中川先生は激怒した。どういう言葉を使ったかは憶えていないが、「真面目にやりなさい!」の一喝があって、選挙はやり直しになった。やり直し選挙は先生の期待通りに、いつものごく常識的メンバーが当選した。選挙が、強権者である先生の一喝でやり直されるものだということを、かなりの子は「ヘンな感じィ~」(これははやり言葉だった)と思った。オレの場合、その「ヘンな感じィ~」の中には「フクザツな感じ」も混じっていた、やり直し選挙の「再選組」の中にはオレも含まれていたからだ。

 もうひとつはそれよりももっと大人になってからのこと。中学3年のときだった。ある日、「掃除は女子がやること」という議題が提案された。共学校ではほとんど男子が女子を数的には上回るものだ(これは生物学的に言えること)。3年15組も具体的人数比は憶えていないが、男子が全員賛成に回れば可決されることは間違いなかった。いったいどんないきさつがあってそんな議題がかかったのか、結果、どのように議決されたのか(「良識的」な結果に落ち着いたことはたしか)は、まったく記憶がない。記憶にあるのは、そのとき女子から上がったほとんど感情的かつ非論理的な反対意見にイライラさせられて、「そんなに感情的になって、非論理的なことしか言えないんなら、弁護してやる気にはならないね」と思ったこと。「バカをバカとして処遇するのもアリではないか」と考える自分に、内心、驚いていたことだった。

 強権者から許された民主主義、それが学級会民主主義だとすれば、アンフェアなことも正当化しうるのも大人の社会における民主主義だ。こうしてみれば「学級会民主主義」にも取り柄はある。とすると、いまこの国に蔓延しているのは「学芸会民主主義」なのかもしれない。

 そろそろ、投票に行こう。そして、今夜は早めに寝よう。あしたは決勝戦だ。(7/11/2010)

 哨戒艦「天安」沈没に関して、安保理はきのう議長声明を全会一致で採択した。先月、議長国であったメキシコのヘラー大使が北朝鮮と韓国双方の見解を聞いた後、記者団に対して述べた「朝鮮半島の緊張が高まることがないよう南北ともに自制するよう求める」とした「プレス・ステートメント」で終わらなかったことに韓国としては胸をなで下ろしているだろう。

 しかし報ぜられている議長声明の骨子は、朝刊によれば、

  1. 安保理は哨戒艦を沈没させた攻撃を非難する。
  2. 哨戒艦沈没の責任は北朝鮮にあると韓国の軍民合同調査団の結果にかんがみ、安保理は深刻な懸念を表明する。
  3. 無関係と主張している北朝鮮を含む、他の関係国の反応に留意している。
  4. 安保理は朝鮮戦争の休戦協定の完全履行を求める。

というもので、わずかに哨戒艦を沈没させたのが「攻撃」であったという点が38度線より少し南寄りと思わせるていどの表現になっている。昨夜のNHKニュースを含めて、しきりに北朝鮮の名指し非難に対して中国が難色を示したと報じているが正しくは中国とロシアであるし、議長声明では「休戦協定の完全履行」よりは「六カ国協議」再開をエンカレッジ(促す)することに力点が置かれた書き方になっている。なぜ直接の利害関係によるバイアスがないニュースについてまで、こんな妙な伝え方をするのかまったく理解しがたい。ファクトはファクトとして報じてもらわなければ困る。

 もっともこの国の「外交」的視点はもともと無いに等しいのだから、ファクトだけポンと目の前に出されてもかえって落ち着かない気分になってしまう人が多いのかもしれない。しかし、だからマスコミ関係者はそのニーズに応えているのだなどとは言わせない。彼ら自身、そのようにしか目前のファクトを見ることができない片端者なのだ。春の講座(7月にもなって春もないのだが)最終講。きょうのテーマは「東アジアにおける日韓関係-歴史的総括と展望」。講師のクォン・ヨンソク准教授の話を聴きながら、つくづくそんな感じがした。

 朝鮮半島の人の方がはるかに複眼的に国際関係を捉え、その中での外交の軸について考え、常に問い直しをしているのかもしれない。いや、それがあたりまえの話で、十年一日、アメリカとの距離ばかり考え、アメリカの世界理解を何の根拠もなしに無批判に受け入れる、それで足りているのだからなんともおめでたい国、おめでたい国民だよ。(7/10/2010)

 大相撲の「賭博騒動」。名古屋場所の開催こそなんとか確保したものの、NHKは実況中継を取りやめ、協会は天皇賜杯をはじめとする22ものの外部表彰(たかが相撲ごときにこれほどの数あるとは)をすべて辞退することにした。野球賭博、なかんずく暴力団との関わりこそが唯一にして最大の問題であるはずなのに、「叱らないから正直に」という、まるで子供並みの「アンケート」で出てきた賭け麻雀から花札に至るものまでが問題視されて、横綱・白鵬までが頭を下げる話になった。

 ワイドショーやらニュースショーに登場する「識者」は口をそろえて「この際、ウミを出し切れ」だの、「公共放送が中継を取りやめたのは当然の処置」だの、「こんな状態で天皇賜杯や内閣総理大臣杯などを授与することができるわけがない」などとしゃべっている。「そんなに身綺麗で、清廉潔白なのかい、あんたたちは?」と訊きたくなる。

 野球賭博が素人さんだけで運営できるものではないというのが常識だとすれば、おなじように地方での興行の取り仕切り、茶屋の営業権などに地回りがかんでいることも常識だ。つまり前者の「常識」に寄りかかって「身綺麗な」大相撲の実現を主張するなら、後者の「常識」による「大掃除」も必要になるということだ。その時、現在の大相撲関係者のどれほどが生き残れて、その時、大相撲はどんな風景になると思っているのかしら。

 NHKが単なる事なかれ主義から中継の取りやめを決めた6日の翌日の朝刊、オピニオン欄の「大相撲は何に負けたのか」というタイトルに、小沢昭一がこんなことを言っていた。

 昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
 しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。
 しかし、文部科学省の管轄下にあるんじゃ仕方ありませんか。これでまた一歩、大相撲もクリーンとやらの仲間入りか。寂しいなぁ。

 本来こういう声は「保守主義」の看板を上げている人々からあげられて然るべきものだ。しかし「保守本流」を名乗る人たちからも、やたらに「ホシュ」「ホシュ」と連呼するネット右翼の方たちからも聞こえてこない。「反日」スタンプを押してまわることばかりに熱中しているからだろう、バカ野郎。

 相撲が格別好きなわけではないし、何があろうともNHKの中継はやるべきだと思っているわけではない。どうでもいいことのひとつなのだ。しかし「学級会民主主義」とでも名付けたくなるような子供っぽい理屈ですべてのことがパタパタと決まってゆくのを見ると薄ら寒い気分になる。(7/9/2010)

 ある好事家がパーティーでこんな話を耳にする。「6匹のチンパンジーにタイプライターを与え、でたらめにタイピングさせれば、百万年後には大英博物館にある本をすべて打ち上げる。もちろん大量のムダ紙は出るがね」。確率論によるジョーク。「面白いじゃないか」と、この好事家は自宅に6匹のチンパンジーを飼い、タイプライターを与え・・・。驚くべきことが起きる。なんとチンパンジーたちは一枚のムダ紙も作らずにディケンズの「オリバー・ツイスト」、コナン・ドイル、サマセット・モーム・・・の作品をタイプアウトし始める。最初は、「コインを百回投げて、毎回表が出続けても、驚くことじゃない。いずれ長く続けるうちにはちょうど半々に落ち着くんだ」と言っていたジョークの主である数学者だったが、数週間経ってもチンパンジーたちはムダ紙なしに、アウグスチヌスの「告白」、モンテーニュの「エセー」・・・を打ち続けていると聞くに至って、ついに・・・。

 そんな小説だった。高校の修学旅行の時、京都の古本屋で買った「第四次元の小説」という短編集に収められていた。この作品(ラッセル・マロニー「頑固な論理」)を思い出させたのはタコのパウルくんだ。ドイツのオーバーハウゼンという町の水族館で飼育されているパウルくん、ワールドカップの予選リーグ三試合のみならず決勝トーナメントに入っても二試合連続でドイツ戦の結果を的中させてきたことで注目を浴びていた。対イングランド戦、対アルゼンチン戦の勝利予言と的中。ドイツ国民はご機嫌だったのだが、対スペイン戦ではスペインの勝利を予言していた。けさ、起きてシステムを立ち上げてみると、パウルくんの予言はまたまた的中。たしかに小説には及ばないが、この確率はすごい。予選リーグは引き分けありだから、一試合当たり3分の1が3試合。決勝トーナメントは2分の1が3試合。つまり216分の1の確率を選び取ったことになる。

 スペイン戦の直前、「やっぱりタコはタコだよ」と言っていたドイツサポーターの中からは、「パエリア(スペイン料理)にして食ってしまえ」という声が上がっている由。そう、小説の中では、6匹のチンパンジーはジョークをとばした数学者の手によって射殺されていたっけ。

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 ところで「第四次元の小説」だが、原題は「Fantasia Mathematica」。単に「数学幻想曲」とでもタイトルする方がよかったような気がする。訳者の三浦朱門、出版社の担当さん、いずれのネーミングかは分からないが文科系に共通する数学コンプレックスが、こんな「いかにもタコにも」という書名を選ばせたのかもしれない。ついでに書けば、「第四次元の小説」は原書の第2部「Imaginaries」から10編を抜き出した抄訳に過ぎない。第1部「Odd Numbers」の第1編にはハクスリーの「Young Archimedes」(邦訳では「神童」というタイトルになっている)も入っている。朱門先生もつまみ食いをしたなら「つまみ食いをした本です」と正直に「あとがき」に書いてくれないと困る。不正直なシモンではペテロが迷惑する、呵々。(7/8/2010)

  いま「みんなの党」の渡辺喜美がテレ朝の「報道ステーション」に出ている。最初から見なかったのが残念だが、見始めてからたった数分間に5回以上「小さな政府」を連呼しているから、これがたったひとつの政策なのだろう。「みんなの党」のやり口は「なんとなくいけ好かない」と思い嫉妬している対象をスケープ・ゴートとしこれを集中攻撃する方法。これはナチスがユダヤ人を公衆の敵にした手法そのもの。いわば衆愚政治の基本中の基本。いよいよこの国にも天才ヒトラーの亜流が出現したというわけだ。

 公務員を10万人削減するのだという。なかなかけっこうな話だが、このご時世に10万人の失業者が新規に生まれたら、ちょっとしたパニックが起きることだろう。まず削減された公務員が支払っていた所得税が一気になくなり、彼らに対する失業保険の給付が発生する。公務員は地域によっては「期待される消費者」ナンバーワン(だからこそ、ポピュリストがこぞって「親方日の丸の公務員は遊んで暮らしている」と目の仇にするのだが)としてカネを使ってくれているのだが、これが一気にシュリンクしたらどんなことになるだろう。ものごとは単純ではないが、単純なアジテーションこそが衆愚政治の基本。

 渡辺はこともなげに「馘首になった10万の公務員はすぐにハローワークに行っていただく」と言っていたが、そうなると現在でも熾烈な職探しはもっと困難なものになり、新卒の学生の就職活動にも相当の影響を及ぼすことになるだろう。「カネとお天道様はどこでもついてくる」と思っている気楽な二世政治家の「現実感覚」はこんなものだ。民主党のマニュフェストを嘲笑ったマスコミがこのパッパラパーの馬鹿話をこぞって持ち上げているのだから開いた口がふさがらない。

 渡辺の話で唯一聞くに耐えたのは、流通する通貨量を増加させデフレ対策をうつと言ったことくらいだが、それを実現させるためにはまず政権を取らなくてはなるまい。古舘がしつこく「民主党とは組まないんですね?」と問うたのに対し、渡辺は組まない理由として民主党攻撃をするばかり(「組めない」とは言ったが「組まない」とは言わなかったところが嗤わせる)。

 「民みん連立」が絶対にないとしたら、11日の選挙ではなにも片付かないということになる。渡辺のもくろみはこういうものらしい。まず参院選で民主党が大敗北する。すると民主党が割れて政界再編が起きる。しかる後に、自分たちが中心の政党が衆院選で勝利する。いったいこんな呑気なシナリオが実現するまでにどれくらいの政治的空白時間が必要になるだろう。渡辺には平均レベルよりちょっと能力の低い大衆にウケる才能はあるようだが、ホンモノの政治家に必要な現実感覚や政治感覚には乏しいようだ。彼の親父もどこかネジが一、二本抜けたようなところがあったが、息子はどうやらそれにもはるかに及ばないようだ。早いところ政治家を辞めて、ワイドショーのコメンテーターにでも転職した方がいい。

 それにしても・・・と、つくづく思ったこと。

 我が国に限らず新自由主義者すべてに共通することだが、彼らは「小さな政府」をぶち上げるくせに、最大のムダ、最大の金食い虫である「軍事支出」、「軍隊」については口をつぐむ。これほど憎むべき「大きな政府」的な存在について、まるでそんなものはないような顔をするのがじつに不思議でならない。サッチャーも、レーガンも、ブッシュも、「小さな政府」の「大きな軍隊」を矛盾とは思わなかった。渡辺も「自衛隊」の「自」の字も、「思いやり予算」の「思」の字も口にしなかった。孔子様は「兵を去らん」と仰ったのにね。(7/7/2010)

 梅棹忠夫の逝去が報ぜられた。3日に亡くなった由。

 夜のニュース、あるいはサイトに掲載された新聞各紙の訃報記事には、二つの著書があげられている。ひとつは「知的生産の技術」、もうひとつが「文明の生態史観」だ。

 我々の世代には前者がなじみ深い。紛争に疲れ果て、やっと本来の学問の世界に戻ろうとしたころに出た本だったから、書かれていること以上に格別の思いで迎えた本だったという記憶がある。京大式カードはパソコンでまともな処理が可能になるまではずいぶん利用したものだ。

 後者は我々が本を読み始めるころにはスタンダードナンバーになっていたが、はっきりいってたいしたもののようには思わなかった。なにしろ「文明の生態史観」には南北アメリカ大陸にも、アメリカ合衆国という国に対する言及もまったくないのだ。

 しかしある一定の世代にはこの本は「覚醒効果」があったようだ。今晩のニュースには「日本が自信を取り戻しつつあるときに発表され、注目を集めた」という「解説」が目につくのはそれだろう。

 ずっと以前の日記(1999年5月30日)に書いたことだが、「日本は他のアジアの国々とは異質である」という梅棹の説に飛びついた連中がいる。おそらくいまでも「日本は中国と異質であり、むしろ西欧との類似性が大きい」と書けば、ヨダレを流して喜ぶ手合いがいることだろう。

 梅棹が「文明の生態史観」を含むいくつかの関連論文をまとめて出版した際に自らつけた解説にこんなくだりがある。

 いくつかの連鎖反応のうち、いまわかっているおもなものをつぎにあげておく。わたしとしてほ、これらの批判や意見、関連記事のあるものについては、いいたいこともたくさんあるが、いまはいっさい論評をくわえないでおく。
 まず、「文明の生態史観序説」がでたすぐ翌月の『中央公論』に、加藤周一氏の「近代日本の文明史的位置」という論文がでた。わたしは、加藤氏および堀田善衛氏と、文明論の座談会をやった。
 まもなく、日本文化フォーラムの人たちが「生態史観」を問題にしはじめた。『心』が座談会をひらき、竹山氏は『新潮』に論文を発表された。それを中心にして、シンポジウムがひらかれたようで、その記録はのちに単行本として刊行された。
 これらの人たちの論説は、その後も論議のまとになっているようで、ときどきわたしもひきあいにだされるのだが、この人たちの思想とわたしの理論との問には、似ている点もあるけれど、基本的な点で、ちがいがある。それを指摘されたのが、竹内好氏であった。

 梅棹が「それを指摘されたのが、竹内好氏であった」と書いたものは「ふたつのアジア史観-梅棹説と竹山説-」という論文だ。以前の日記から再録しておく。

 竹山の方は最初から、日本は他のアジア諸国と異質だというドグマから出発し、いつもそのドグマの周囲を回っている。日本がアジアでないという命題が、歴史の帰納から引き出されたのではなくて、逆にこのドグマから出発して彼の歴史は組み立てられている。その点で竹山説は「脱亜論」の嫡出子である。
 自分の目で見て、どうにも納得がいかない、というので出てきたのが梅棹説だが、見るまでもなく自明な命題として、むしろ要請として、使命感として竹山説は出されている。
 だから、この動機のちがいは、両者を正反対の結論にみちびくことになる。日本は他のアジア諸国と異質である、だから、と梅棹は考える。日本の先例は他のアジア諸国には役立たぬ、と。ところが、竹山の方は「日本の先例は、これから日本が今までやってきたようなことをやろうとするほかの国のためには、ずいぶん参考になるでしょう」と考えるのである。
 一見してわかるように、この口吻は、岸信介や外務官僚にそっくりである。・・・(中略)・・・そこにかもされる雰囲気は、新しい学問をよそおいながら、その底に流れる感情がどんなに古いかを示している。
 日本はアジアではないといいながら、アジアにおける支配権を失いたくないのである。西欧(その今日のチャンピオンはアメリカだ。)とアジアの中間に立って、買弁としてサヤを取りたいというのが隠された本心である。これは今日のアジアの動きとは正反対だ。
 日本人がどんなにアジアを知らないか、という梅棹の警告は、竹山や竹山説に賛成する人々にこそ当てはまる。

 竹内好の竹山道雄に対する批判は的確で痛烈である。梅棹は「いっさい論評をくわえない」としながら、「文明の生態史観」の「人気」に便乗した「心」グループ、なかんずく竹山道雄の主張は「似ている点もあるけれど、基本的な点で、ちがいがある」と書き、さらり竹内が指摘してくれたと書いている。なかなか、世渡りがうまかったような気がする。

 そんなことはさておき、「文明の生態史観」、書かれていることの一字一句ではなく、ざっくりと世界を考えるときの一つの視点を持つためには、いまも十分に読む価値があると思う。こういう視点はいまや木を見て森を見ることができなくなった最近の「学」にとって貴重である。二年ほど前、朝河貫一の「比較封建制論」を読んだとき、梅棹のこの本のことを思い出した。梅棹が朝河を読んでいたのかどうかは分からないが、優れた知性の目の的確さに驚いたものだった。(7/6/2010)

 今月に入ってからウォーキングを再開した。中断期間5か月。沖縄旅行で途切れた後、風邪、雪、飲み会、そして、花粉の季節といいわけには事欠かず、いつしか時が過ぎた。それでも65キロ前後を保っていたので、あまり気にならなかった。先月のなかぐらいから7日間の移動平均が66キロ台にのり、ピーク69キロという記録値をマークするに至って、やっと「危機感」が生まれた。

 **(母)さん譲りの「ジャストタイム」癖(勉強のスタートは4時ちょうどからとか、就寝は9時ちょうどとか)はいまもあり、第三四半期のスタートにあわせるというのがいいと思った。

 コースの風景が少し変わっているのに驚く。建設中だった大東建託のアパートは完成し、ほぼ全部埋まっている模様。清瀬園の隣、病院跡の分譲地はすべて完売したのだろう、すべて家が建っていた。薬科大の坂の途中、印刷会社があったところにはセブンイレブンができていた。他にも建て替えるのだろう、解体業者が作業しているところも。世の中、不景気一色というわけではないらしい。

 **(長男)は名古屋に転勤。午後、引っ越し屋が来て、手際よくまとめて発送。よる、**(長男)の「壮行会」を秋津の奴鮨で。トロがじつにうまい。行き帰りとも凄まじい雨。パチンコ屋の前は「水深20センチ」。板橋では一時間に107ミリの降雨だったとか。(7/5/2010)

 意外に脆かったブラジル同様、アルゼンチンも意外に歯ごたえがなかった。開始早々、ドイツが得点して、前半は1-0。後半を楽しみにさせるような、なんと書いたらいいだろう、リズムのようなものがなく寝てしまった。あさのニュースでドイツが勝ったと聞いてもさもありなんと思い、わずかに4-0というスコアに驚いたくらい。粒ぞろいのベストエイト激突というのは難しいようだ。

 参議院議員選挙もあと一週間。来週のきょうは投票日。だがあまり盛り上がっている感じはしない。それでもきょうぐらいになると埼玉の外れであるこのあたりにも選挙カーからの声が聞こえてくる。廃品回収の車の音声が混じる。さっきなどは思わず笑ってしまった。「こちらは廃品回収車です。ご不要になりました、国会議員がいれば、回収いたします。大きなものや重たいものなど、このような民主党にはとてもまかせられません、どんなものでも回収いたします。壊れていてもかまいません」。

 「みんなの党」が台風の目になるらしい。共産党・社民党を除き、民主党を含むほとんどの政党が連立するなら「みんなの党」といっている由。不況にも、高齢化にも、少子化にも、アジアにおける存在感にも、・・・すべてことがらに対して、すべての政党が的確なビジョンがないというのが今の状況だ。硬派、硬直化といった方が適切か、二政党(共産・社民)以外はおおっぴらな大衆迎合に余念がないし、押し隠した財界迎合にも神経を使っている。

 その中で「みんなの党」は、ポピュリズムにおいてちょっと前までの民主党とまったく同じ(「役人が隠している30兆円を取り戻します」、ホント、ビデオテープを見ているみたいだ)、新自由主義において小泉時代の自民党そのもの(「額に汗する人が報われる社会」だってさ)なのだから、民主党が勝とうが自民党が勝とうが、おそらくどちらも決定的に勝てないという点でも、「みんなの党」は最大の適応能力を発揮するだろう。どちらの色合いを強くするかだけでいいのだから。まるでイソップ童話に登場する「コウモリ」そのものだ。

 もちろん、コウモリ戦略でこの国が浮上することは絶対にない。つまり、「みんなの党」がそこそこの得票をした時点で、失われた十年を主導した末期自民党、ここ一年、島国的狭量につつき回されて萎縮、すっかり変節した民主党による低迷は決定的なものになるだろう。衆愚政治というのはこんなものだ。

 では「腐っても自民党」か。自民党が「腐っても鯛」だったのは橋本ぐらいまで。菅の抱きつき戦略にうろたえた谷垣が「自民党の答案をカンニングした」と言っていたが、これは半分しか正しくない。「自民党も、民主党も、財務官僚の書いた模範答案をカンニングした」というのが正しい。もはやそのていどの自民党には「評論家」がお似合いだろう。

 だからといって民主党が多数を制すればいいとも思っているわけでもない。どうやら民主党の主流となったのは松下政経塾上がりのエリート臭をプンプンさせた「成り上がり」野郎だ。彼らに描けるグランドデザインなど「児戯」に類する。国民を不幸にしてもまだ国家が体をなせばいいが、奴らにはそれもできないだろう。なぜなら「アメリカ」という迷妄から醒めないのだから処置なし。なにより腹立たしいのは菅直人までがそれに与していると思われることだ。

 しかしとりあえず民主党が参院過半数をとれば、その失政は100%民主党の失政と断ずることができるようになる。はっきりいって、どのような政策がこの国をなんとかできるのか誰も確信が持てないというなら、小党分立の愚を避けて、とりあえずは乗りかかった舟にかけるしかないというのが、現実的な知恵ということになるのだが、たぶん、あれこれ衣装を取り替えたがるのが「女性的大衆(ヒトラーは「大衆は女性と同じ」と言った由)」の特性というものだ。かくしてまだまだこの国の「浸水」は続くのだ。(7/4/2010)

 春の講座、第四講。テーマは「パキスタン部族地域と国際テロ」、講師は水谷章教授。

 歴史状況、識字率、ウルドゥー語、・・・、考えてゆくためのキーワードについてはいろいろ説明を受けたが、どうしても「欧米側から見たイスラム・テロリズム」ではないのかという疑問が抜けない。基本的にはイスラム教に対する相当の知識がないと「国際テロ」というイスラムにとっても新しいステージについて考察することはできないのではないかと思う。あえていえば、それにキリスト教がイスラム教に対して隠し持っている「近親憎悪」についての視点も必要なのではないか。

 新宿にまわって東急ハンズでCD郵送用の封筒を購入。清瀬のダイソーで「棚にある分だけです。お取り寄せは2週間ぐらいかかります」とつれなくされたやつ。50人分となるとけっこうかさばる。それでも紀伊國屋へまわる。やっと出た宮下志朗訳の「エセー」の第4巻を買うため。

 探し回る途中で「ソロスの講義録」「なぜ自爆攻撃なのか」を買ってしまった。「なぜ・・・」は、きょうの講義を受講しなければたぶんに手に取ることも購入することもなかったのではないか。ああ、また興味の網がふくれてしまった。もうとっくに破れんばかりになっているというのに。

 9時からのNHKドラマ「鉄の骨」を観た。土木の場での談合を舞台にしたもの。滑り出しは好調。なかなか良くできている。電装品は工事金額のせいぜい数パーセント。土木・建設となれば金額のスケールが違う。なかでの虚々実々、熾烈さは想像する以上のものに違いあるまい。次回以降、どのていどまでリアリティを出せるか、楽しみ。・・・いいね、「楽しみ」などと書けるのは。さて、そろそろワールドカップ、おそらくこの大会でいちばんのビッグゲーム、ドイツ対アルゼンチン戦が始まる。(7/3/2010)

 きのう、就寝前、急に為替が動き始めた。豪ドルがたった30分くらいの間に74円から73円6銭に振れた。ユーロはと見ると、夕方1.230ドルだったものが、11時半現在、1.246ドルに迫っている。ドルは対ポンドでも大幅に安くなっている。

 ところが日経のサイト記事の見出しは「円、独歩高強まる」という見出しだった。一瞬キョトンとするような「現実理解」。素直に現実を見れば、これはドルの独歩安という以外の表現はない。「バカじゃないの、日経さん」と嗤いながら床に就いた。

 けさ起きてから、ニューヨークタイムエンドにおける主要通貨の対ドルリターンを確かめてみた。こんな具合だ。

1位 ユーロ +2.31%
2位 デンマーク・クローネ +2.31%
3位 スイスフラン +1.64%
4位 ポンド +1.57%
5位 スウェーデン・クローナ +1.50%
6位 ノルウェー・クローネ +1.06%
7位 +0.94%
8位 NZドル +0.77%
9位 加ドル +0.40%
10位 豪ドル +0.26%

 10カ国の通貨すべてがプラス。これで「円の独歩高」かい。日経の記者はよほど眼が悪いのか、読者を欺きたい特段の事情が日経にあるのか、どっちだろう。こんな与太をわざわざカネを払って読んでいる日経電子版の読者がお気の毒というものだ。

 1日のニューヨーク、ダウは9732ドル53セント、24日以来、連続6営業日下げ続けてことしの最安値をつけた。これはギリシャがどうこうではない、アメリカ経済自身が「自力」で落ち込んでいるのだとみるべきだろう。つまりドルが先進各国通貨のなかで「自力」で値を下げているのだ

 ふつうに考えればこれはアメリカ産業にとってはいいことなのだ。ドルが下落すればアメリカ製品の価格競争力は上がり、人民元にうるさい注文をつけなくても「自力」で競争有意を回復できる。オバマの「輸出振興政策」もうまくゆくはずだ。しかし、残念ながら現在のアメリカはとっくの昔にものづくりにおいては「空洞化」している。iPadがどれほど好調でも、その利益がどのようなルートで環流するのかを考えてみないといけないだろう。ドル安がダイレクトに有利な材料にはなっていないのではないか。

 我々はこの国がギリシャ化していることに危機感を持つより、むしろアメリカ化していることに危機感を持った方がいいのかもしれない。

 それはそれとしても、豪ドルがいちばん上がらない。もうこれは1年以上スワップポイントをためる以外になさそうだ。気長にいこう。(7/2/2010)

 朝刊の経済面。右ページには1億円以上の報酬を受けた役員に関するもの。左ページには経済危機のたびに買われる円についての話。

 2010年3月決算から報酬が1億円以上の役員の氏名と報酬額を開示することが義務づけられた。記事には「金融庁は当初、『該当者はさほど出ないだろう』と見込んでいた節がある。日本の上場企業の役員報酬は平均約2500万円。『米国の上場企業トップの報酬は1億円前後が多い』(同庁)という理由から、開示基準を1億円に決めた経緯がある。それにもかかわらず、ふたを開けてみると国内の『1億円プレイヤー』は300人弱に達した。『報酬水準の米国化』も同庁の『想定を超えていた』(幹部)形だ」とある。

 思ったよりこの国もアメリカ化しているようだ。しかしそのわりにその高額報酬をもらう連中のマインドはまだアメリカナイズされているわけではないらしく、「開示基準は3億円以上が望ましい」とか、「この流れが行きすぎれば、欧米の経営者を日本企業に引っ張ってくることができなくなる」とかという声が上がっている。これは「役員報酬は高いけれど、配当は冴えないね」、あるいは「ずいぶん高い給料をふんだくりながら、そんなに企業体質が強くなり、業績が好転したわけじゃないでしょ」という指摘が恐いからだろう。「欧米の経営者云々」に至っては噴飯もののいいわけで嗤ってしまう。経営にも「銀の弾丸」はあるはずはない。百歩譲って「銀の弾丸」があるとしても、それが高コストであれば、そのコストに食い潰されるのがオチだ。要は舶来迷妄に韜晦する屁理屈に過ぎぬ。

 8億円プレイヤー(カルロス・ゴーン&ハワード・ストリンガー)を擁する日産自動車の配当は10円(今日の終値は606円、配当利回りは1.65%)、ソニーなど配当25円、終値2296円だから1.09%の配当利回り。高額な役員報酬に対置してみると、じつに平凡、冗談のような配当だ。また、配当が低額なのは内部留保を重視するという理屈も理解できるが、そうならば経営者自身の給付も低額に抑え、ストックオプションでイロをつければいい。

 8億円プレイヤーは令名のみ高いご両人だが、さて両社の体質は改善されて、開発力の高い魅力あるプロダクトを続々と提供するエクセレント・カンパニーに戻れたかだろうか。トヨタやアップルに比べて、是非、日産の**を、ソニーの**を、と言わせる商品が続々と出ているだろうか。今の両社の商品は平凡そのもの。役員報酬だけが非凡なのだから大嗤い。自分にだけ甘い役員など要らない。

 インタビューを受けたゴーンは「欧米に比べて高くない」と言っていたが、そんな日本的な抗弁はあんたには似合わない。コストカッターならコストカッターらしくリアルな数字で示してくれ。

 もうひとつは「円」の人気に関する話。いまや「有事の円」といってもいい。そういう図が載せられている。「同時多発テロ」、「エンロン破綻」、「リーマンショック」、そして現下の「ユーロ危機」。VIXが30を超える跳ね上がり方をしたのはここ10年で4回、そのいずれの時も「円高」になったことをあげ、その背景を解説している。その解説にもちょっとした素人的疑問があるのだが、末尾はこんな文脈になっている。

 国債は政府が借金するために発行している債券。今は発行残高の95%を日本国内の投資家が買っている。最近は銀行が預金で集めた資金を企業への貸し出しに回すことができず、余ったお金を国債購入に振り向けているため、国債は安定して買われている。
 だが、人口が減り続けると、銀行は預金が集まらなくなり、国債市場に流れ込む資金が細る恐れがある。国債価格が下がり、円への信認を保てなくなるのを防ぐため、国の赤字を減らして国債の発行量を抑えることが検討されている。消費増税もその一つ。
 上野泰也・みずほ証券チーフマーケットエコノミストは「参院選後に、消費税引き上げが実現できなさそうになれば、一気に国債と円が売られる可能性がある」と指摘する。「有事の円」はいつ崩れてもおかしくない危うさがあるのだ。

 人口が減り続けると預金は集まらなくなるというのはほんとうか。風が吹くと桶屋が喜ぶという話は因果の連鎖をきちんと説明しなければ、そういうこともあるかもしれないという「お話」に過ぎない。国債価格が下がる原因を大きいものから順にあげれば、預金量が減少することはずいぶん下に順位するのではないかと思うがどうだろうか。

 権威付けのために登場させた上野だが、エコノミストではなくアジテーターなのではないのか。もしくは、みずほ証券が国債を安価で購入するためにブラフをかましているのだろう。彼が言う「売られる国債」とは何をさしているのだろうか。既発行の国債のことだとするなら、消費税引き上げが実現できないというたったひとつの条件ていどで、誰がどれくらいの価格で保有する日本国債を売り、どこの誰が買い手になるのだろうか。

 そもそも、これはバカでも分かることだが、税収は消費税だけでまかなわれているわけではないし、消費税だけをいくら上げてもトータルな税収がすんなり増加するわけではない。このことは橋本龍太郎が率いた自民党が既に実証してくれている。まさかそんな素人でも知っていることを忘れて、「チーフマーケットエコノミスト」が務まるとは思えないが、そのていどのものかい。先生が仰る「日本国債」と「円」が一気に(同時にという意味だろう)売られるというのはどういう「必然」なのか、恣意的な仮定はおかずに誰の目にも明白な論理できっちり説明して欲しいものだ。

 それにしても「参院選後」だってさ、この言葉だけでお里が知れるというものだよ。デマゴーグめ。(7/1/2010)

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