もちろん写楽の描いた似顔絵の「緑青を生じた金色」の・・・

 芥川龍之介のアフォリズム集「侏儒の言葉」の「芸術」の中にこんな一節があります。
 わたしはいつか東洲斎写楽の似顔画を見たことを覚えている。その画中の人物は緑いろの光琳波を描いた扇面を胸に開いていた。それは全体の色彩の効果を強めているのに違いなかった。が、廓大鏡のぞいて見ると、緑いろをしているのは緑青を生じた金いろだった。わたしはこの一枚の写楽に美しさを感じたのは事実である。けれどもわたしの感じたのは写楽のとらえた美しさと異っていたのも事実である。こういう変化は文章の上にもやはり起るものと思わなければならぬ。

「大も畏るに足らず、小も侮るべから」ざる国になればよい

 俗に言う「岩倉使節団」の帰朝報告「米欧回覧実記」にある言葉です。維新の混乱を一応のところ収めた明治政府はどのような国家建設を図るべきかについて論議をするための材料として広く世界の実情を見ようとしたのが使節団の主目的でした。

 その約2年にも及ぶ見聞をまとめたものが「米欧回覧実記」です。これは江戸末期に育った支配層がどのようにアメリカやヨーロッパの国々を見たか、そのような世界の中で日本をどのような国にするかを考えたかの記録です。

 ご存じのように明治政府はやがて単純な富国強兵一本槍の政策をとるようになりますがその理由が読めるばかりではなく、あり得たかもしれない別の日本の可能性も見ることができるという点で貴重な文献です。

 岩波文庫で出ているので比較的簡単に入手できます。問題は文語体、漢字カタカナ表記かもしれませんが、慣れると案外心地よい文章だということがよく分かりますよ。

 滴水録に借りたのは、ウィーンで開催されていた万国博覧会を見ての部分、第5編・第82巻の書き出し部分です。
安(いずくんぞ)ソ全洲製作ノ景況ヲ尽スニ足ラン、幸二墺国二万国博覧会ヲ開クニ逢ヒ、其場二観テ、昨日ノ目撃ヲ再検シ、未見ノ諸工産ヲ実閲シタルハ、此記行ヲ結フニ、大ニ力ヲ得タリ、夫欧洲列国ノ大小相分ルヽ、英、仏、露、普、墺ノ大国アレハ、又白、蘭、薩、瑞、嗹ノ小国アリ、国民自主ノ生理二於テハ、大モ畏ルニ足ラス、小モ侮ルベカラス、英、仏両国ノ如キハ、ミナ文明ノ旺スル所ニテ、工商兼秀レトモ、自耳義、瑞士ノ出品ヲミレハ、民ノ自主ヲ遂ケ、各良宝ヲ蘊蓄スルコト、大国モ感動セラル、普ハ大二薩ハ小ナルモ、工芸二於テハ相譲ラス、而シテ露国ノ大ナルモ、此等ノ国トハ、猶其列ヲ同クスル能ハス、墺国ノ列品ヲミレハ、勉強シテ文明国二列スルヲ得ルニスギス、是他ナシ、民ニ自主ノ精神乏キニヨルナリ、噫此等ノ競ヒハ、是太平ノ戦争ニテ、開明ノ世ニ、最モ要務ノ事ナレハ、深ク注意スへキモノナリ、
 各国の漢字表記で、我々にとって読みにくいのは、墺(オーストリア)、普(プロイセン)、白(ベルギー)、蘭(オランダ)、薩(ザクセン)、瑞(スイス)、嗹(デンマーク)といったところでしょうか。

 この部分でちょっと面白いのはロシアについての評価です。国民に自主の気概が乏しいから、あまりいいものが見られないと書いています。後にロシアと戦争をかまえるに際して、その根底にこんな思いがあったのかなと思わせます。

 「保守」の淵源を大日本帝国に見てしまって、そこで終わりという視野の狭いナショナリストさんには特にお薦めの本ですが、残念ながらそういう人には、いくつかの意味で、読みにくい本かもしれません。

おおもとの「春秋左伝」では・・・

 「春秋左氏伝」の「荘公二十八年」(B.C.666)の伝文に、こんなくだりがあります。
 楚の令尹子元は文王夫人だったソクギを誘惑しようとして、夫人の給電の傍に別邸を建て、万の舞を挙行した。このことを聞いて、夫人は泣いて、
 「先君(文王)がこの舞を挙行されたのは、戦の準備のためでした。ところが今、令尹は、これを仇敵に差し向けぬどころか、未亡人(わたくし)の傍で挙行されるとは、おかしなことです」
と言い、夫人の侍者がこれを子元に告げると、子元は言った。
 「婦人が仇敵攻撃を忘れておらぬのに、我は忘れておった」
岩波文庫「春秋左氏伝(上)」小倉芳彦訳から
 この説明を枕に、経文の記述内容につながってゆくという段取りです。
 ここではあきらかに、「夫を失ってなお生きている私ですが」という、ニュアンスをこめて「未亡人」という言葉が使われています。

ちょうどあの「混沌」のように。

 「荘子」の中で、「胡蝶の夢」と並んでもっとも有名なのが、「応帝王篇」にある「混沌」の話でしょう。たいていの漢文の教科書には載っていると思います。
南海の帝を?(シュク)といい、北海の帝を忽(コツ)といい、中央の帝を混沌といった。?と忽とは混沌の地で出あったが、混沌はとても手厚く彼らをもてなした。?と忽とはその混沌の恩に報いようと相談し、「人間には誰にも目と耳と鼻と口との七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この混沌だけにはそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと混沌は死んでしまった。
 じつに荘子らしい、インパクトのある話です。

「小人の過つや必ず文る」とはこのこと。

 「論語」の「子張」にある言葉です。
子夏曰小人之過也必文

子夏が曰わく、小人の過つや、必らず文る。

子夏がいった、「小人があやまちをすると、きっとつくり飾ってごまかそうとする」と。
 ろくに漢字も読めない麻生さんは知らないかもしれません。ずいぶん貴重な警句なのですが・・・。

国立天文台の川口教授に・・・

「滴水録1999」から。
 **さんの頼みで、静岡県立大で開催された「ギガビットネットワーク講演会」に行ってきた。

 静岡の駅に降りるのは小学校1年の夏休み以来のこと。当時駅裏にあった旅館「とらや」はどうなったのだろうかと思いつつ、ラーメンを食べてすぐに私鉄に乗った。県立大は草薙の駅から10分ほど坂を登ったところ。モダンな造りの校舎。看護学部棟の大講義室が会場だった。富士通の**さんが、お偉方とおぼしき年かさの人と来ていた。

 目玉講演の「超高速光通信と最先端天文学」が非常に面白かった。電波望遠鏡の性能は感度と分解能で評価できる。感度というのはどれくらい「暗い(電波だから微弱ということ)」ものを見られるかということで、それを改善するためにはパラボラの直径を大きくする。もう一つの解像度はどれくらい「細かい」ものを見られるかということで、パラボラの配置間隔を広くとることによって改善することができる。遠距離に配置されたパラボラの時刻同期を確保しつつ、それぞれのデータを見比べることによって解像度をあげることができるらしい。このデータ比較をオンラインで行えるようにするのが高速の光通信ということ。この観測レベルを引き上げることにより、ビックバンの後ひたすら膨張を続けているという現在の宇宙観に対して、いずれブレーキをかける力が大きくなり一転して収縮に向かう可能性の有無が確認できるのだという。

 講演者は国立天文台の川口則幸教授。わかりにくいところはどんどん飛ばして、なにが面白いのかについてグイグイと聞くものを引き込んでゆく。なによりいいのはご本人が楽しんでいる、面白がっているということがビンビンと感じられること。久しぶりに、楽しい時間が持てた。(3/19/1999)
 自分が面白いと思っていることを、きちんと伝えられる人の話は、何年経っても忘れないものです。

古くは「北越雪譜」の鈴木牧之

 我が書棚には、かなりの量の積ん読本があるのですが、西の横綱がホイジンガーの「中世の秋」とすれば、東の横綱は「北越雪譜」かもしれません。二十歳台に買い求めて未だに読んでいない本。

 ですから、「北越雪譜」から引くべき箇所も思い当たらないので、ここは彼の「風の恭三郎」が紹介してくれたものをそのまま書き写してみます。
 こうまでして、牧之がこの著を世に送り出したがったのは、「日本第一の大雪なる越後の雪を記したる書」がまだないことを残念に思い、郷土の雪と、その中での人間の暮らしを、広く伝えたいと願ったからにほかならない。自分の文名をあげるつもりなら、京伝や馬琴にあのような悪条件を提示しなかったであろう。
 その思いは、ようやく所を得て一気に爆発しそうになる。それを抑えに抑えた凝縮度の高い文章が、この随筆集のいちばんの魅力になっているといってよろしかろう。初編巻之上の「雪意(ゆきもよい)」の章などは、殊に名品というに足る文章である。

 (前略)九月の末に至ば殺風肌を侵て冬枯の諸木葉を落し、天色霎々(しょうしょう)として日の光を看ざる事連日是雪の意(もよおし)也。天気朦朧たる事数日にして遠近の高山に白を点じて雪を観せしむ。これを里言(さとことば)に嶽廻(たけまわり)といふ。又海ある所は海鳴り、山ふかき処は山なる、遠雷の如し。これを里言に胴鳴りといふ。これを見これを聞て、雪の遠からざるをしる。年の寒暖につれて時日はさだかならねど、たけまわり・どうなりは秋の彼岸前後にあり、毎年かくのごとし。

「毎年かくのごとし」という結びは何でもない語句のようだが、雪意という、豪雪との戦いの開始の合図をうけとる、雪国の人々の深い嘆息が、そこに聞こえるのである。このほか「往古(むかし)より今年にいたるまで此雪此国に降ざる事なし」とか、「鳥獣は雪中食尤(なき)をしりて雪浅き国へ去るもあれど一定ならず。雪中に籠り居て朝夕をなすものは人と熊と也」といった語句にも、同様の嘆息がこめられており、このように凝縮された思いは、その中で生きてきた人間でなければ、表出し得ないにちがいない。
百目鬼恭三郎 「風の文庫談義」 から

見ぬ世の人とはどうつきあっているのだろうか。

 漱石は「草枕」の冒頭で、芸術の生まれる所以を書いています。人の住む、この世が「アーア、ヤダヤダ」というときに、目を転ずる先が書・画だというわけです。

 徒然草の第十三段も、そんな気持ちの表れでしょう。
 ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。

 文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。
 「南華」というのは「荘子」のことです。たしかに「見ぬ世の人」は死んでいますから、生きているわたしたちがどれほど頓珍漢な解釈をしても、クレームをつけてくることがないので安心というところがあって、手前勝手に自分のアイドルにするのに便利というあたりには、多少、気をつけないといけませんが(^^;)。

沖縄戦の開戦前、第32軍の参謀長であった長勇は・・・

沖縄戦における第32軍の「守備隊」が「守備」したのは島民などではない。

 沖縄戦の実態について、系統的な読書はしていません。ここでは、比較的手軽に、その概略を知ることができる本として、田中伸尚「ドキュメント 昭和天皇5」(緑風出版 1988)の一部を紹介します。
 なお、梅沢裕が「守備」していた座間味島は慶良間諸島の中の一つの島です。

************(太字は引用者)************

 このように慶良問の日本軍は、その構成を見れば分かる通り、あくまでも特攻のための部隊で島の人びとを守るために配備されたのではなかった。たまたま慶良問諸島が特攻基地として適地であったから、その地を利用したにすぎないのである。しかも特攻は出撃と同時に消滅するわけで、慶良問の部隊には地上戦を想定した火器類はほとんどなく、まともな戦闘訓練さえしていなかった。

 ところが慶良問の人びとは陸軍部隊の配備によって戦争が身近に迫りつつあることを肌で感じる一方、「友軍はこんな小さな島まで守ってくれる」と感謝していた。住民は日本軍を「友軍」と呼び、絶大な信頼を寄せ、住家や労力を惜しみなく提供し、食糧の供出に進んで協力した。軍の命令や指示は「天皇の意」と理解していたから、たいていの要求、注文に積極的に応じた。この「天皇の軍隊」に対する親しみや絶大な信頼感は、慶良問の人たちの特殊な感情ではなく、当時の沖縄県民に共通していた。そこには献身することによって「ヤマト」からの長い差別と抑圧から脱却したいという屈折した、しかし必死の思いも込められていた。

 だが海上挺進戦隊の任務は、前述したように住民保護のために戦うことではなく、特攻作戦の準備、実施、成功だけだった。もちろん住民の生命や財産の保護を天から考慮しないのは、特攻基地という慶良問の特殊事情からきていたのではなく、外征用、つまり侵略のために建軍された「天皇の軍隊」の特色であった。軍人勅諭通り、天皇の手足となって天皇を守るためにのみ命を投げ出すのが「天皇の軍隊」であったからである。沖縄戦ではこの特徴がさまざまな場面でむき出しになった。

 第三十二軍の参謀長、長勇(ちょう いさむ)は県紙の「沖縄新報」(沖縄日報、琉球新報、沖縄朝日の三紙の統合紙)紙上で沖縄戦の開始前から「一般県民が餓死するから食糧をくれといったって、軍は、これに応ずるわけにはいかぬ。軍は、戦争に勝つ重大な任務の遂行こそが使命であって、県民の生活を救うがために、負けることは許さるべきものではない」と強調したが、これも「天皇の軍隊」の特徴を端的に示していよう。

 また県内での疎開についても住民の安全をほとんど顧みない軍の姿勢が浮き彫りにされた。たとえば主戦場からいくらか遠くなる、と予想された本島北部への疎開の輸送手段は県営鉄道だったが、鉄道は軍が管理しており、疎開に使用させなかった。このため住民は「徒歩によるしかなかった」のである。こうして多くの県民が主戦場に置き去りにされたままになった。

 慶良問では、特攻基地づくりに島民を協力させたために、秘密が漏れるとして島外への疎開は許されなかった。米軍は沖縄の住民保護のために数千人の軍政要員を配置したり「住民用の食糧や医薬品まで、わざわざ別途に用意」し、運び込んでいる。実際に米軍の食糧によって餓死から救われた住民も多数いた。もちろん米軍が民間人対策をした最大の理由は、戦後の沖縄占領を前提にし、政治的な効果を考慮していたからだが、「天皇の軍隊」が侵略地の住民保護のために要員や物資を用意したことはなかった。

 沖縄の「天皇の軍隊」は、当初から住民を別の角度から捉えていた。戦力化することである。「一木一草」を戦力にして戦うことを目ざし、その通り実行した。子どもであろうと年寄りであろうと、また女性であっても、体を動かすことのできるすべての県民を防衛隊、学徒隊、義勇隊、救護班として組織し、さらにスパイ監視班などに動員し、土地や住家を徴発し、食糧を供出させ、あらゆる生活用具を動員させ、戦力化した。文字通りの国家総動員であった。

 慶良問諸島でも「一木一草」の戦力化が図られはしたが、挺進戦隊は地上戦闘用の部隊ではなかったから、住民に支給するような武器はない。竹槍やカマ、クワなどを住民に用意させるしかなかった。阿嘉島で青年義勇隊にさせられた当時一五歳の中村仁勇は『沖縄県史』の中で証言している。

 「私らには銃はくれませんでした。手榴弾二個とカツオ節一本と乾メン包二袋ずつ渡されて、合言葉を教えられました。『一人』と呼ぶと『十殺』とこたえるわけです。この合言葉は部落民にも徹底して教えられました」  ・・・(以下、略)・・・

************

 食料を提供したのは、沖縄の住民です。皇軍は兵站を重要視せず、「現地調達」を原則にしていました。それを知った上で、参謀・長勇の言葉、
一般県民が餓死するから食糧をくれといったって、軍は、これに応ずるわけにはいかぬ
を読むと、思わず、嗤ってしまいませんか。

サン=テグジュペリは「ほんとうに大切なものは目には見えない」と書いた

サン=テグジュペリならば、どんな言葉を引くつもりだったのだろうか。

 わたしの場合、サン=テグジュペリ、読んだのはただ「星の王子さま」だけ。その中からしか引けません。以下に、昔のノートの書き抜きから。
砂漠が美しいのは
どこかに井戸を
かくしているからだよ・・・・・・

人は、
気のきいたこといおうとすると、
なんとなく、うそをつくことがあるものです。

「なぜ、それ、売ってるの?」と、王子さまがいいました。
「時間が、えらく倹約になるからだよ。そのみちの人が計算してみたんだがね、
一週間に五十三分、倹約になるというんだ」と、あきんどがいいました。
「で、その五十三分って時間、どうするの?」
「したいことをするのさ・・・・・・」

「さよなら」と、キツネがいいました。
「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目に見えないんだよ」

呑み助は、空のビンと、酒のいっぱいはいったビンを、ずらりと前にならべて、
だまりこくっています。
王子さまは、それを見て、いいました。
「きみ、そこで、なにしてるの?」
「酒のんでるよ」と、呑み助は、いまにも泣きだしそうな顔をして答えました。
「なぜ、酒なんかのむの?」と、王子さまはたずねました。
「忘れたいからさ」と、呑み助は答えました。
「忘れるって、なにをさ?」と、王子さまは、気のどくになりだして、ききました。
「はずかしいのを忘れるんだよ」と、呑み助は伏し目になってうちあけました。
「はずかしいって、なにが?」と、王子さまは、あいての気持ちをひきたてるつもりになって、ききました。
「酒のむのが、はずかしいんだよ」というなり、呑み助は、だまりこくってしまいました。
 ずっと昔、誕生日プレゼントに「何がいい?」ときくと、「星の王子さまの原語版」といわれて、なぜか、(あっ、こりゃ、だめだ)と思いつつ、贈ったことを思い出しました。その予感は当たったのですが、あの本、まだ、あの人の本棚のどっかにあるのでしょうか・・・、と、確かめようもないことですが(^^;)。

ピアースはこれを「最初の拠り所」と直すべきだと書いた。

 高校の頃から愛読してきたピアースの「悪魔の辞典」は、アフォリズム集の中ではどちらかというと異端の部類なのかもしれませんが、おそらくいちばん有名ではないかと思います。「愛国者」と「愛国心」を紹介しておきます。
愛国者(Patriot)[名詞] 部分の利害のほうが全体のそれよりも大事だと考えがちな人。政治家に手もなくだまされるお人好し。征服者のお先棒をかつぐ人。

愛国心(Patriotism)[名詞] 自分の名声を明るく輝かしいものにしたい野心を持った者が、たいまつを近づけると、じきに燃え出す可燃性の屑物。
 ジョンソン博士は、あの有名な辞典の中で、愛国心を定義して、「無頼漢の最後の拠り所」と言っているが、この博識ではあるが、辞典編纂者としては二流どこにしかすぎない博士にたいして、当然、払うべき敬意は十分に払いながらも、あえて私は、「最後の」ではなく、「最初の」と言いたい。
西川正身選訳 「悪魔の辞典」 
 手もとの「悪魔の辞典」は西川正身がはじめて邦訳を出したときのもの(岩波書店 1964)で、現在の岩波文庫版が50音順に編集されているのに対し、原典版通り、つまりアルファベット順になっています。(ちなみに、箱入りで300円です)

 手もと版のあとがきに西川はこんな風に書いています。少なくとも、この「愛国」マターに関する限り、まったく同感です。
 ビアスの定義は、あるいは、一見、気のきいた思いつき程度のものとしか思えぬ場合もあるかもしれない。しかし、ビアス自身からすれば、どの定義にしても、単なる筆のすさびではけっしてなかった。彼自身の人生体験から生まれた、きびしい倫理観とロマンティックな理想主義の裏づけのあることを、読者は忘れてはならない。ビアスの諷刺は、物事の外見とその真の姿とを見分け得る鋭い目を前提にしているのである。そしてそういう目こそ、時と所のいかんを問わず、私たちにとって、何にもまして貴いものなのだ。
 ピアースは志願して南北戦争に加わっています。そして彼が「悪魔の辞典」を書きついでいた頃はアメリカ史上もっとも恥ずべき時代といわれている「金めっき時代」でした。(もう少しすると「金めっき時代」は「二番目」になるでしょうね、どのように呼ばれることになるかは分かりませんが、いまのブッシュの時代がアメリカ史上でもっとも恥ずべき時代になるでしょうから)。時代が彼の筆を研いだのだと思います。

2ドルの寄付者の話

 岩波文庫の「新島襄書簡集」の末尾には、書簡ではないのですが、「同志社設立の始末」という新島の一文が載っています。1874年(明治7年)新島がアメリカでの勉学を終え帰国する時、たまたまバーモント州ラットランドでアメリカ海外伝道協会の大会が開催され、別れのスピーチの機会をもらいます。新島は教育の大切さに思い至ったこと、それ故新興の祖国のために大学を設立する志を抱いており、できるならば賛助を願いたいと演説を行います。以下は、新島の一文の「現代訳」です。
 わたしは、このようにのべ且つうったえながらも、感慨のあまり、おぼえず壇上で涙を流したのであるが、情あふれ、胸はふさがり、いくたび演説を中止したかわからなかった。しかるに、わたしの演説がまだ終るか終らないうちに、聴衆の中で、わたしのうしろにいた一人の紳士がたちあがって、声高くいった。〝新島君、わたしは、あなたが設立したいと、ただいまのべられた、その学校のために、一千ドルを寄附しよう″と。この人こそワシントン市の医学博士パーカー氏であったのだ。すると、この言葉がまだ終らないうちに、こんどはバーモント州の前知事ページ氏もまた立ちあがって、一千ドルの寄附を約束せられた。これにつづいて五百ドル、三百ドル、二百ドル、一百ドル、あるいは五十ドル、三十ドルと、寄附の約束があって、いままで静まりかえっていた会場は、にわかに会衆の声がわきあがった。
 やがて、わたしは丁寧に諸氏の好意を感謝して、別れのあいさつをのべ、そうして、ちょうど壇上からおりようとしていたときのことである。粗末な衣服をまとうた、やせた一人の老農夫が、しずかにわたしの前にでてきて、しきりにふるえながら、懐中から二ドルをとり出し、ハラハラと涙を流していうには〝わたしはバーモント州の北部のもので、まずしい百姓であります。この二ドルは帰りの汽車賃にもって来たのでありますが、さきほど、わたしは、ご演説をききまして、あなたの愛国のまごころに、感激を禁じることができなかったのであります。たとえわたしは年老いてはいても、まだわたしの両脚は歩いてわが家へ帰ることができます。これは、申すまでもなくわずかなもので、とりあげられるほどのものではありますまいが、あなたが将来建てられる大学の費用の一部にでも加えて下さるならば、わたしにとって、こんなうれしいことはありません″と。かくて閉会後、わたしがラットランドを出てまだ一里もゆかないうちに、とつぜんうしろのほうから、わたしに呼びかけるものがあった。ふりかえってみると、それは一人の老婆であったが、彼女は急いでわたしのほうに近づいて、〝わたしは、この近くの村に住んでいるひとりもので、ひどく貧乏はしておりますが、こと教育に関しましては、少しなりともあなたのお志をお助けしたいと思うので、いま懐中にわずか二ドルばかり持っているお金を差しあげます。さきほど、会場でこのことを、ことさら申出なかったのは、実はあまり少額なので、恥かしく思ったからであります。どうぞ、わたしのこのささやかな志をおうけ下さい″と、くどくどといい終って泣くのであった。わたしは米人ながらも、わが日本を思ってくれるその親切心に感激と喜びとをもって、これをうけたのであるが、かつてわたしの友人にも、あのラットランドの大会で、最もわたしの心を感動させたものは、さきの老農夫と、このときの老婆の寄附であったと語ったほどである。
 原文は文語です。現代訳が文庫8ページを要するのに対し、文語文は5ページ。いかに文語文が簡潔であるか。上記の部分の少し前、スピーチの部分から紹介します。
 明治七年の秋嚢の将に米国を辞して帰朝せんとするに際し、偶々碧山州ロトランド府に於て亜米利加伝道会社の大会議あり。襄の友人にして此会に与る者頗る多きに因り、諸友襄を要し勧めて臨会せしめ、且訣別の詞を需めらる。襄乃ち会場に赴き演壇上米国三千有余の紳士貴女に見へ、平素の宿望を開陳して日く、凡そ何れの国を問はず、苛も真正の文化を興隆せんと欲せば、須らく人智を開発せざるべからず、社会の安寧を保全せんと欲せば、必ず真正の教育に依らざるべからず、方今我邦日本に於ては現に戊辰の変乱を経て旧来の陋習を破り封建の迷夢を醒して明治の新政を行ふの際、社会の秩序破れ紀綱紊れ、人心帰着する所を知らず。今日に於て我日本に真正の教育を布き、以て治国の大本を樹立し、以て人智を開発し、以て真正の文化を興隆せんと欲せば、宜しく欧米文化の大本たる教育に力を用ひざる可らず。回顧すれば今を去る十一年前、襄の郷国にありしや、当時の国勢日々に危きに瀕するを観て憂憤の心に堪へず、慨然五大洲歴遊の念を発し、一片訣別の辞もなく父母弟妹郷友に別れ、衣食住の計もなく幕府の大禁を犯して一身の窮困を顧みず、愈々蹶て奮ひ、生命を天運に任せて成業を万一に期し、孤行単立、長風万里の波涛を越へ、遂に貴国に渡来せしも亦只真正の開明文化と、真正の自由幸福とを我日本国に来さんことを祈るの丹心に外ならず。顧ふに我邦同胞三千余万将来の安危禍福は、独り政治の改良に存せず独り物質的文明の進歩に存せず、一に教化の烈徳其力を効し、教育の方針其宜を得ると否とに係はること、昭々乎として復疑ふべきに非ず。今や襄貴国紳士諸友と袖を分て恙なく我国に帰るを得ば、必ず一の大学を設立し之が光明を仮りて我国運の進路を照し、他日日本文化の為に聊か涓埃の報を効す所あらんとす。嗟呼、満場の聴衆諸君よ、襄の赤心寔に是の如し、誰か襄が心情を洞察し、幸ひに斯の一片の素志を翼賛する者ぞと、且つ演じ且つ問ひ、慷慨悲憤の余不覚数行の感涙を壇上に注ぎ、情溢れ胸塞り、言辞を中止する其幾回なるを知らず。語末だ尽きざるに聴衆中忽ち人あり、背後に直立して揚言すらく、新島氏よ予今子が設立せんとする学校の為に一千弗を寄附すべしと。是なん華盛頓府の貴紳医学博士パーカー氏にてありし。其言未だ畢らざるに碧山州前知事ページ氏も亦起て一千弗を寄附するの約を為せり。之に次ぎ五百弗・三百弗・二百・百或は五十・三十弗贈与の約ありて、静粛たる場中忽然として歓呼の声宛ら沸くが如し。既にして慇懃に良朋諸士の好意を謝し離別を告げ将に演壇を下らんとする時、一老農夫あり、痩身襤褸を纏ひ徐に進て襄の前に至り戦慄止まず。懐中より金二弗を出し暗然涙を垂て日く、余は碧山州北なる寒貧の一農夫なり、此二弗は今日余が帰路汽車に乗んとして携へし所なり。然れども今子が演説を聞き、深く子が愛国の赤心に感激せられ自ら禁ずる能はず、仮令ひ余老ひたりと雖も、両足尚能く徒歩して家に帰るに堪ゆ、これ固より僅少数ふるに足らざるも、子が他日建設する大学費用の一端に供するあらば、余の喜び何ものか之に過んやと。已にして会散じ襄も亦ロトランド府を出で行くこと未だ一里ならざる時、忽ち背後より襄を呼ぶ者あり、顧みて之を視れば一の老婦なり。急に襄に近づき、絮々語つて日く、嫗は近村の一寡婦にして貧殊に甚し、然れども教育の一事に於ては聊か子が素志を助けんとするの意あり、今襄中僅に有る所の金二弗を呈す、然るに襄に会場に於て敢て之を言はざりしは、誠に其軽少なるを愧て而已、寡婦の微志、幸に領収あれよと、言畢て泣く。襄転た米人が我邦を愛するの懇篤なるを思ひ、感喜之を受け、曾て友人に語つて日く、ロトランド府集会に於て最も襄が衷情を感動せしめたる者は、彼の老農夫と老寡婦との寄附金にてありしと。
 「新島襄書簡集」は、昨年、新しく「新島襄の手紙」が編まれて代えられていますが、「同志社設立の始末」はどういうわけか収録されていません。我が家の最寄り駅前の本屋には不思議なことにこの旧版の方があったので買い求めることにしました。

問題を的確に捉え設定することの方が解決するよりもはるかに難しい

 「ライト、ついてますか」という本のタイトル通りの章を以下に紹介します。
 ジェネヴァ湖を見おろす山々を貫いて、長い自動車用トンネルが、たったいま完成した。その開通式の直前主任技師は、トンネルに入る前にライトをつけるように、との警告を運転者に与え忘れていたことに気づいた。トンネルの中はしっかりと照明されてはいたが、停電のとき大事故が起こるのを防ぐためにライトをつけておく、というのはぜひ必要な心得であったのだ。実際、山の中のことだから、停電も十分あり得るのだった。
 そこで、こんな標識を出した。

      注意 前方にトンネルがあります
         ライトをつけて下さい

トンネルは、入口にこういう標識を掲げた姿で、予定の期日に開通し、人々はみなリラックスした。今や問題は解決したのだ。
 ところが新たな問題が発生しました。トンネルを出て少し行ったところが湖を見下ろす絶好のビューポイントだったため、トンネルを出てからライトを切ることを忘れて、そのビューポイントでたっぷり楽しんだ人々の中に、バッテリーあがりの悲運に見舞われる人が続出したのです。(いったい、いつの時代のことか、最近はちょっとくらいライトをつけっぱなしにしても、バッテリーあがりなんてねぇ?)
 技師は、もっとくわしい標識は考えれば考えられるはずだ、と直感的に感じた。彼女はいろいろやってみたあげく、とうとう次のような、スイス的厳密性の大傑作に到達した。

     もし今が昼間でライトがついているなら
           ライトを消せ
     もし今暗くてライトが消えているなら
           ライトをつけよ
     もし今が昼間でライトが消えているなら
           ライトを消したままとせよ
     もし今暗くてライトがついているなら
           ライトをついたままとせよ

でもこんなものを読もうとしようものなら、車はガードレールにぶつかって湖の底深くごろごろと落ちて行ってしまうでしょうね。こんな解決策はだめだわ。それに、お葬式はどこの責任で出すことになるのかしら? ほかにもっといいやりかたがあるに違いないわ。
 そこで主任技師は、こんなこんがらがったことを考える代わりに、「彼らの問題」方式を採用し、但し技師の方でもちょっとだけお手伝いをすることにした。彼女は、運転者たちはこの間題を解決したいという強い動機を持っており、ただちょっと思い出させてやることを必要とするかも知れないだけのことだ、と仮定した。彼女はまた、およそ免許をもっているほどの運転者なら、何もかもいってやらなければならないほどバカではない、と仮定した。彼らには

        ライト、ついてますか?

とだけいってやれば十分なのだった。もし彼らがそれでは間に合わない程度にしか頭がよくなかったというなら、彼らはバッテリー上がりよりはもっと重大な問題にいくらでもぶつかっているはずであった。
 この標識のお陰で問題は消滅した。またこの標識は十分短かったから、同じことを何か国語かで表示することができた。
 ここで「彼らの問題」方式と呼んでいるのは、そもそもこの問題は誰にとっての問題かという原点に戻ることをさしています。

 さて、滴水録に戻って・・・。この章の教えるところに従えば、安倍官房長官は「Winnyを使わないでくれ」というよりは、「(ネットワークにつなぎながら、なんのセキュリティ対策もしないようなセンスのユーザーは)ネットワークにつながないでくれ」ないしは「盗まれては困るファイルをパソコンにおかないでくれ」とでもいえば、的確に問題の所在をとらえるだけの知力を備えていることが証明できたわけです、ネ。ザンネン。

「二列目の人生」に生きる者には・・・

 二列目の人生というところにカギ括弧をつけたのは、そういうタイトルの本のことが頭にあってのことです。サリエリとモーツアルトという関係ともちょっと違うのですが・・・。

 池内紀の本。本文からではなく、「あとがき」の一部を紹介しておきます。
 もうひとりの南方熊楠にあたる。あるいはもうひとりの上村松園である。もうひとりのラフカディオ・ハーン、もうひとりの棟方志功・・・・・・。勝るとも劣らない資質と才能をもち、同じときに同じ場で力量を競っていたこともある。それが一方は文化勲章や評伝や全集に飾られ、もう一方は忘れられた。何がそのようにさせたのか。
 身近に見ていた人。そういう人が見つかると、訪ねていって話を聞いた。たいていは世俗にうとい「異才」たちをハラハラしながら見守っていた。その人たち自身が、なんとも個性的で、どうかすると主人公以上に世俗にうとかったりするのだった。
 ゆたかな才能と勤勉さ、みずからであみ出した方法。何も欠けるところがなかった。ただ貧しさに足をとられた。あるいはせっかくのチャンスに「中央」へ出そびれた。世間に妥協するのをよしとしなかった。意固地になったり、時流に逆らった。あるいは、わざと無視した。世にときめくよりも、自分の世界を大切にした。
 人それぞれ理由はちがっている。二つ、また三つと、事情が重なった場合もあった。そのうち、その人のいるべきところがなくなった。あるいは、他人がちゃっかり入りこんでいた。

『二列目の人生』といったタイトルは、記念写真になぞらえている。卒業アルバムなどでおなじみだろう。写真の一列目、まん中にクラス担当や学級主任といった教師がいると、その左右に委員長、副委員長、さらに隣合って役つきの優等生がすわっている。
 二列目はどうだったか? 写真では二列目のはしっこでソッポを向いているが、ポスターを描かせると、やたらにうまかった。運動会になると、がぜんスターになった。弁当の早食いにかけては誰もかなわない。なぜか女の子に人気抜群というのもいた。

「二列目の人生」のあとがきから

 小さな評伝というとストレイチーの「てのひらの肖像画」を思い出しますが、ちょっと似たような味わいです。ただし、取り上げられているのは、まさに二列目の人々。けっして二流というわけではありません。まさに「知るからこそ、言わなかった」ような人々。

 そうですね、やっぱり、サリエリとモーツアルトの関係とは違いますね。でも、モラエス・中尾佐助・小野忠重・福田蘭童・橋爪四郎・・・・・・、どれかに「アレっ?!」と思ったら、ご一読を。

刀筆の吏にもならぬ・・・

 こんな語句に注を付けるのもご愛敬と思ってください。広辞苑で「刀筆の吏」をひくと、 ①[史記蕭相国世家、賛]記録を担当する下級の役人。書記。②下っぱの役人。小役人。小者」と出ています。

 岩波文庫版「史記」には「太史公いわく、蕭相国何は、秦の時代にあっては文書を扱う小吏に過ぎず、平凡で格別秀れた行為はなかった(蕭相国何は秦の時に於て刀筆吏と為り録録として未だ奇節有らず)」とあります。

 紙ができる前の記録はもっぱら竹簡ないしは木簡にされていたわけで書き間違いがあれば小刀で削り筆を入れていた由。転じて上記のような意味になったとか。時代が変われば、「刀と筆の役人?」、「なんのこっちゃ??」、ってことになります。

なぜイギリスが車輌の左側通行で固定化したか?

 右ハンドル・左ハンドル。どうして、イギリスはヨーロッパ諸国とは異なり、車輌の左側通行になったのか、たまたま読んだ本に次のようなくだりがありました。
 この一頭立て二輪馬車はその発明者であるジョセフ・ハンソム(1803-1882)の名前を取ってハンソムとも呼ばれたが、特徴は御者台が客席の後方の一段高い所についていて、御者はそこから長い鞭を振って馬を走らせた。英国が左側通行になったのは、このハンソム(キャブ)全盛時代に、御者が右手で振る鞭が脇を歩いている通行人に触れないように御者仲間が自発的に道路の左側を走ったためである。
「シャーロック・ホームズの履歴書」から
 ・・・なるほど、では、なぜ、ヨーロッパ大陸やアメリカ合衆国では右側通行で固定化したんでしょう?

 分かりません(^^;)。

幕府を開くつもりだったシンタロウさん

「滴水録1999」から
 都知事はどうやら石原慎太郎になるようだ。自分に投票する人々のほとんどに対してなにほどの敬意も抱いていないということをあまり隠さない人間、それが石原だ。にもかかわらず彼が当選してしまうということは、時代がそれだけ病んでいるということの現れであろう。

 今回の選挙で一番知りたいことは、4年前青島に投票した人と今回石原に投票した人の間にどれほどの相関があるかということだ。前回青島に投票した人のほとんどすべては裏切られたという思いでいるはずだ。その人たちのいったい何割が今回石原に票を投じたのだろう。その比率こそがこの国がこれから進む方向を示している。

 いずれにしても、選挙の結果はひとつの現実だ。石原がやはりただのデマゴーグに過ぎないのか、それとも「なにものか」であるのかは、さして時を要すことなく知れることだ。次の知事選までの間に横田基地が返還されているか否か、隷属的な基地が存在しているか否か、これを見ればわかるのだから。

 4年後のための記録をひとつ。「幕府でも開く口振り都知事選」(4/7 朝日川柳から)(4/11/1999)
 1999年の都知事選は、それなりに知名度のある候補者が5名も立候補する混戦でした。

 石原、舛添、鳩山、明石、柿沢、・・・。この時いちばん最後に出馬の名乗りを上げたのが石原慎太郎で、彼はかつて彼が屈辱をなめた美濃部のマネをして「東京から日本を変える」をキャッチフレーズにしたのでした。

 彼があまりに国はダメだ、東京だと、繰り返すことを皮肉ったのが、この川柳。

ネクタイを取替えに行って就寝したヒルベルト

 それどころか、演算型の学者にはしばしば健忘症の人がいる。有名な数学者ヒルベルトが自宅にお客を招いたとき、夫人は彼が似合わないネクタイをしているのを見て二階の寝室でとりかえてくるように注意したところ、お客が現れても、一向に下りてくる気配がない。そこで夫人が寝室に行ってみると、彼はねまきに着かえて寝台の中でスヤスヤと寝ていたということである。恐らく彼はネクタイをはずしはじめてからは、いつもの習慣に従ってしまったのだろう。彼の弟子たちは先生は得意の「解析接続」を自ら実行したのだろうと話し合ったということである。
ロゲルギスト 「物理の散歩道」から
 いまは懐かしい「物理の散歩道」。高校から大学を卒業する頃まで愛読した本。身近なことがらを物理学者はどのように見て、扱うのか、いろいろ教えてくれた本でした。隠れた名著だといまでも思っています。

 ちょっとした間違いで、とうとうその道に進むことはなかった、ツンツンと心を責める想い出の本です。

 この本、350円で、箱入りです。奥付は昭和42年。そういう時代だったのですね。

文庫版向けのあとがきの中に・・・

 坪内祐三の「靖国」はなかなか面白い本でお奨めです。現在はハードカバーの時の装丁の雰囲気を残したまま新潮文庫に収められています。この本の客観的な欠点は途中で中だるみになっていること、わたしにとっての主観的な欠点は文庫化する際に追加された「文庫のためのあとがき」です。

 この「あとがき」も書き出しの部分には興味深い事実が書かれていて貴重ですが、後半部分は「なんだ坪内もつまらない奴だなぁ」と思わせてがっかりです。「がっかり」というのは首相の公式参拝を認める主張をしているからではなく、その主張を飾る部分に疵があるからです。

 滴水録に引いた部分とその続きはこのようになっています。
 小泉新総理に私は提案したい。良い機会だから今こそ、総理大臣の公式参拝を、八月十五日ではなく、春秋の例大祭の時に戻したらどうだろう。公式参拝を批判するメディアには、こう言い返してやれば良い。靖国神社には太平洋戦争で命を落した「御霊」だけでなく、明治維新以来、日本の近代化のための数々の戦いで命を落した「御霊」がまつられている。私は太平洋戦争の戦死者だけを特権化するつもりはないから、あえて八月十五日ではなく春秋の例大祭に公式参拝する。そういう私を批判するあなた方は、日本の近代化そのものをきちんと批判するだけの覚悟はあるのか。……と。こういう発言をしたらメディアはどう反応するだろう。そして中国政府はどのようないちゃもんをつけてくるだろう。
 「日本の近代化そのものをきちんと批判」しようとするからこそ、靖国神社にスポットがあてられることになるのでしょう。

 「近代化」という言葉と「御霊」という言葉を併置することになんの違和感も持たない「無神経さ」に目をつぶってあげるとしても、いや、「御霊」なるものに寄りかかるとすればなおのこと、靖国神社に祀られていない「御霊」、たとえば、「賊軍」とされた人々、「官軍」でありながら被差別部落民故に排除された雑兵たち、「戦死」でないとされた八甲田死の行軍の犠牲者、・・・、これくらいは思い出して欲しいものです。

 坪内は、こういう人たちを「日本の近代化のための数々の戦いで命を落とした御霊」とは考えないのでしょうか。ここに「日本の近代化そのもの」の影が落ちています。「批判する覚悟はあるのか」などと威勢のいい啖呵を切りたいなら、まず自分の主張にどの程度の視野と視程があるか、自ら測っておいた方がいいでしょう。それが狭く、浅いものならばたたらを踏むばかりで、威勢のいい啖呵などみっともないことこの上ありません。

 靖国神社は「日本の近代化のための数々の戦いで命を落し」礎となった人々を記念する施設というには、いかにも中途半端な施設です。「私は太平洋戦争の戦死者だけを特権化するつもりはない」と大声で叫びながら、「靖国神社に祀られている戦死者だけを特権化する」ことでずっこけてしまっているなんてバカそのものです。(バカというなら、小泉首相は「心ならずも」という形容詞をしきりに使いますが、あれもバカです。軍人が戦争で死ぬことを「心ならずも」などといったら、そんな軍人なんか要らないと言いたくなりませんか?)

 坪内はこの書かずもがなの「あとがき」で、なんのことはない、ただの右翼ステロタイプと変わることのない「つまらない書き手」に堕ちてしまったなぁ、と、こういう感じでがっかりさせられるのです。

「投機をやらない輩は世捨て人だ」とかいう者まで現われた

 発言の主は長谷川慶太郎です。時にはかなりのトンデモ本まで買うわたしですが、長谷川慶太郎の本は嗤って立ち読みするだけで買ったことがありません。ただ、この有名な言葉については、この言葉が書かれた本が出た頃に書泉の新刊書コーナーで、バブルが弾けて迷妄が覚めた頃に神田の古本屋の店先のぞっき本の山で、読みました。二度目の出会いがいかにもうらぶれた感じで印象的だったことを思い出します。

 ここでは、オポチュニスト長谷川と時代の雰囲気について書いた本を紹介しておきます。
 長谷川慶太郎は 『投機の時代』 (一九八七年、中央公論社刊) を書き、投機の時代の到来にたいして肯定的な評価を与え、投機をしない者を「世捨て人」と決めつけた。いまにして思えば暴論としかいいようのないこのユーフォリア的言説が、八七年から八九年にかけての株式市場の活況の渦中においては、いささかの疑念をもさしはさまれることなく、圧倒的な大衆的支持を勝ち得たのである。
佐和隆光 「尊厳なき大国」から

調子狂いはここに始まった

 司馬遼太郎の「この国のかたち」は文庫本で6冊もあるのですが、彼の他の本同様、原稿料を稼ぐために水増ししたようなところがあって、まあ、それは雑誌に連載されていたからという事情もあるのですが、読んでいると少しイライラします。それでも、我慢して読んでいると、それなりに役に立つ本ではあります。

 で、日比谷騒擾事件について、書かれたくだり。
 ここに、大群衆が登場する。
 江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。
 調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署二、交番二一九、教会一三、民家五三を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるをえなくなったほどであった。
 私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に ー たとえば参謀本部に ー 蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。
この国のかたち 一:”雑貨屋”の帝国主義」から
 せっかくですから、もう少し引きましょうか。
 ところが戦勝の報道によって国民の頭がおかしくなっていました。賠償金を取らなかったではないかと反発して、日比谷公会堂に集まり国民大会を開き、交番を焼き打ちしたりする。当時、徳富蘇峰が社長をしていた国民新聞も焼き打ちに遭う。蘇峰は政府の内部事情に詳しく、〝戦争を終わらせることで精いっばいなんだ″ということをよく知っていましたから、国民新聞の論調は小村の講和会議に賛成にまわり、結果、社屋を焼き打ちされた。・・・(中略)・・・
 この大会あたりから日本は曲がっていきます。要するに、この大会はカネを取れという趣旨であって、「政府は弱腰だ」「もっと賠償金を取れ」と叫ぶ。しかし、もっと取れと言っても、国家対国家が軍事的に衝突しているというリアリズムがあります。いまかろうじて勝ちの形勢ではあっても、もう一カ月続いたら、満洲における日本軍は大敗していたでしょう。・・・(中略)・・・
 日本国の通弊というのは、為政者が手の内-とくに弱点-を国民に明かす修辞というか、さらにいえば勇気に乏しいことですね。この傾向は、ずっとのちまでつづきます。日露戦争の終末期にも、日本は紙一重で負ける、という手の内は、政府は明かしませんでした。明かせばロシアを利する、と考えたのでしょう。
この国のかたち 四:日本人の二十世紀」から
 ただ、日比谷騒擾事件をこの角度からだけ見ていると、見落としてしまいそうなことがあるから、もうひとつだけ、別の本を・・・長くなるので、エピソードだけ。

 山本五十六が、真珠湾攻撃、ミッドウェイ攻撃にこだわったのは、この日比谷騒擾事件の前年に起きた、当時の第二艦隊司令長官上村彦之丞の留守宅への投石事件に見られる、危機に陥るとヒステリックな行動をして当然と考える厄介な国民性を恐れてのことだったといいます。(児島襄「日露戦争 三」生出寿「凡将 山本五十六」など)

 戦勝に浮かれてやたら攻撃的になることもあれば、ちょっとした不安感の代償行為として暴走することも「できる」。客観的に事実の全体像を冷静に見ることができる人の比率が、少しばかり低すぎるのではないかという気がします。ですから、はやり言葉で火をつければ、もうメラメラと燃え上がる、今回の選挙などその好例でした。たったひとつのことで、その他のすべてのことに白紙委任状を預けてしまう。そのことにいささかの懸念も抱いていない手合いが投票者の半分近くもいたんですから驚きですね。

まあ「きちがいじゃが、しょうがない」とでも評しておこう

 もちろん、ここでの「本歌」は横溝正史の「獄門島」の一節です。

 ただ、推理小説のネタばらしは御法度ですから、ここには書きません(^^;)。

瀬島龍三は三点主義の権化だったそうだが、・・・

 瀬島龍三を評価する気にはなれませんが、以下の部分は仕事の上ではずいぶん利用させていただきました。その毒はヘラクレスの着た毒衣のように我が身に染みついてしまったような気がしないでもありません(^^;)。
 ともあれ、その部分を・・・。
 瀬島は「三点主義」の発想を好む。
 マスメディアへのインタビュー記事、それに講演会などの議事録を読んでいると、瀬島は、すぐにこの三点主義をもちだす。それこそあらゆる問題を三点(ときに四点か五点)にしぼりこんでしまう。私は、この二十年間の瀬島のインタビュー記事や講演会の記録の大半に目をとおしてみて、なぜこれほど「その問題には三つの要点があり……」といいつづけるのか、奇妙な感じを受けるほどだった。
 私が瀬島をインタビューした折りにも、そういう習性はいくつもでてきた。「七十五年の人生を支えた人生観とは何か」とたずねると、瀬島は、十四歳で幼年学校にはいってから大本営参謀まで、そしてシベリア収容所、その後の伊藤忠、昭和五十六年からの臨調委員の四つの時期が、自分にはあると言ってから、このすべての期間が「他動的に自分に押しつけられた」と話した。自分が好んでこれらの局面をつくったのではないと補足した。
 そして次のように答えた。
「だから人生観は、ひとつは人間は定めを背負って生きている、ふたつは与えられた場で自己の責務をはたす、そして三つ目はこれは心情になるかもしれないが、若山牧水の『幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく』といった心境だね」
 人生観さえ「三点主義」におさめてしまうのだ。
 なぜ何事も三点で説明するのか。世の中のことは大体が黒か白か灰色かに片づくから、それで三点でいうのか、とたずねると、「いやときにはまず三点といってしまうことがある。それから頭の中で考える」と正直な答えも返してきた。
 とくに最後の所など、仕事上はしょっちゅう使っている手法です(^^;)。

 ところでこのくだりの続きにはコイズミ・ポピュリズムにも関係のありそうな部分があるので、続けて紹介しておきます。
 この「三点主義」に不安をもち、疑問をもっている人は意外に多い。
 先の有田は、臨教審の運営委員会で瀬島を前にして次のような皮肉を言ったことがある。
 戦争が終わったあとすぐに、有田の家にべルリン特派員を長年務めていた記者とパリ特派員を務めていた記者が泊まりにきた。三人で徹夜で議論をした。ベルリン特派員は、ドイツ人はすぐに第一は……第二は……第三は……と分けてはっきりいうからわかりやすいし、説得力があるというと、パリ特派員は、それがおかしいのだ、その三つに分けきれないものだってあるし、落としているものだってあるはずで、フランス人は、これもある、あれもある、といってたとえ少数意見でも拾いあげていく、とベルリン特派員と論争になった。三人は話しているうちに、これは民主主義の根幹にかかわる問題ではないかと気づいた。それで徹夜になってしまった。
保阪正康 「瀬島龍三 参謀の昭和史」から

まるでピーターの法則そのまま。

日本と同じような無能性を発揮するのか、それともそれ以上に「出世」するのか、・・・

その上の職位に進むはずがなかったような「下士官」が、・・・

 このくだりは、お気づきのように、あの有名な「ピーターの法則」を念頭において書いた皮肉です。官僚機構の究極的存在である社会主義政府(共産主義政府)である以上、中国共産党が支配する大陸中国も遠からず、ピーターの法則を実証することになると考えているのですが、社会主義でも共産主義でもない我が国政府の方が、早々とピーターの法則を実証しつつあるというのは、なんとも情けないことです。(いや、正確にいうと我が国政府はピーターの法則を云々する前に、プチ・ナショナリズムという右翼小児病に罹ってしまったというべきなのでしょう。ほんとうにバカな連中が大声で偉そうに世迷い言を垂れ流しているという、この現実)
 職業的な無能はいたるところに存在する。読者はそのことにお気づきだろうか? おそらく、ぜんぜんそれに気づいていない人間はいないだろう。
 はんとうは優柔不断なのに、いかにも断固たる人物であるかのようによそおう政治家。誤った情報を伝えておきながら、それを「計量不能な状況的要素」のせいにする「消息通」。怠惰で横柄な公務員。口先では豪傑ぶりながら、小心な行動がそれを裏切る戦場の指揮官。根が奴隷根性のために、統治という職責を全うすることができない総督。多少とも人ずれがしてくると、不品行な聖職者だとか、堕落した裁判官だとか、いうことに筋が通らない弁護士だとか、「書かぎる作家」だとか、誤字だらけの文章を書く国語の教師だとか・・・そうした欠陥は世の中にありふれたことで、いちいち気にしていたのではこちらの身がもたないことがわかってくる。大学では、りっばな告示をする学長や学部長が、学問や学部内のことをぜんぜん掌握しておらず、教室では意味も不明瞭なら声も聞きとれない講義に学生たちは居眠りしている。
 政治、法律、教育、産業など--あらゆるヒエラルキー(階層社会)のあらゆる階層に遍在する無能を観察するうちに、私はひとつの仮説に思い及んだ。ひとくちにいうなら、そうした無能の原因は、階層社会の構成員の配置を支配する法則と不可分の特質なのではあるまいか、という考えである。階層社会の中で、人びとがどのようにして昇進し、そして昇進の後にどんなことが起こるか、真剣に研究するようになったのはこうしたしだいからであった。
   ・・・(大幅に省略)・・・
 こういったわけで、何百~何千もの職業的無能の実例を分析した結果、私はつぎのような<ピーターの法則>を編み出すにいたった。
階層社会にあっては、その構成員は(各自の器量に応じて)
それぞれの無能のレベルに達する傾向がある。
L・J・ピーター/R・ハル 「ピーターの法則-<創造的>無能のすすめ-」より
 別の言い方をすると、「人は無能さを発揮するようになるまで、昇進・出世する」ということ。一つの社会、国も、おそらく、同じなのではないでしょうか。アメリカ合衆国なんて国を見ていると、とくにそう思いませんか。

 小泉純一郎が首相、つぎの首相候補は安倍晋三だなんて、どこまで無能な国に到達しつつあるということか・・・。

万葉集にある国見の歌

 ここで思い浮かべていたのは、万葉集、巻一の第二歌、舒明天皇御製の歌とされる
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
でした。もっとも、この歌、素直に読もうとすると、けっこう不思議な歌です。大和三山の天の香具山とすれば、海原にカモメが飛んでいるなどというところの解釈には苦しむはずです。

 これについては、http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kaguyama.html に興味深い考察が紹介されています。

下層民の「武士コンプレックス」をみごとに近代国家における国民意識へ昇華するもの

いまは懐かしい橋川文三の「ナショナリズム」の一節

 実家の本棚を探してみましたが、紀伊国屋新書「ナショナリズム」は見つかりません。ないとなると、よけいに再読したくなるという悪い虫にじりじりしておりましたら、なんとハードカバーで再刊されていました。あるはずの本を買うのは、心理的抵抗があるのですが、手もとに置きたい気持ちに抗うことはできず、買ってきました。我ながら、ほんとうに、どうしようもない・・・(^^;)。

 で、浅羽が引いていた前後を以下に。(太文字強調は引用者)
・・・(前略)・・・未だ混沌とした人間的状況の中に一定の国家的政治秩序を実現するためには、何よりまず国家と人間に関する基本的な座標軸が決定されなければならない。しかも当時の日本において、たとえば原子的個人の仮設から契約説的な国家関係を設定することは現実的に不可能であったから、もっとも社会的な実在性が濃厚であり、しかもその社会的機能が経験的に確かめられているなんらかの制度を利用して、それを新しい政治秩序の図式化の基礎とするはかはない。そのためにとられたのが、社会のタテの座標として旧社会における身分制の転換的利用であり(旧身分制の廃止と華・士族、平民制への再編成)、ヨコの座標として「家」制度の利用という方策であった。そして、そのさい、国民全体に通ずる普遍的な「家」の理念は、一般民衆の生活事実としてあらわれている多様な家=関係から帰納することによってではなく、比較的明確な社会形態として存在している武士団の家族制を原型として構成されることになった。明治以降、とくに法律的には明治三十一年の民法公布によって、一般民衆はそれまで知ることのなかった武家法的な家の制度にしたがって、その家庭を形づくることになったのである。いいかえれば、全人口の凡そ二〇%にもみたぬ武士階級においてのみ行われていた家族法を基礎として、民衆全体の家族生活を統制する準則が与えられることになった。民衆の現実の生活事実を基礎としてその立法化が行われたのではなかったわけである。
 ・・・(中略)・・・
 もちろん、明治政府のそうした対家族政策は、初めから「権威主義的パーソナリティ」の養成を意識的に目ざしたものとはいえないであろうし、戸籍法の制定そのものが、そのための布石であったとすることも、いわば結果論からする過剰な類推になるかもしれない。従来の民衆的家族形態が、はじめはたしかに押しつけられた華士族の家族制度をうけ入れようとしなかったことは事実であるが、反面ではまた、民衆そのものの中に、かつての上層階級である武士層の生活様式を模倣しようとする傾向が潜在していたことも否定できないことは、たとえば柳田国男氏もしばしば指摘したところであり、またすでに奇兵隊の場合について、見てきたとおりである。しかし、いずれにせよ、明治政権は、人間生活の根源的な再生産の場としての家を、戸主権・親権・夫権という法的な作用をとおして統制し、そのことによって、いわば法律的に全民衆の人間形成と行動様式のパターンを規制したわけである。いうまでもなく、こうした規制とならんで、国家による「教育」がまた同じように民衆をナショナライズするために強力な作用を発揮したことは、のちの「教育勅語」に象徴されるように周知のとおりである。これらの操作をとおして、作り出された日本のネーションが、序章に引いたハーツの言葉のように、きわめて「人為的な」作品という意味をもつことはもはや多言を要しないであろう。ついでに、その当時における統治単位としての家の数をいえば、明治九年一月一日の統計において、皇・華族が四八一、士族が四〇万八八六一、平民が六八五万四一一一となっている。(『明治史要・付表』)明治政府は、主としてここにあらわれる六八〇余万戸に属する民衆を士族的範型にしたがってナショナライズすることによって、日本的なネーションを作り出そうとしたわけである。
橋川文三 「ナショナリズム-その神話と論理-」から

一月もたたぬ9月11日に不様極まりない狂言自殺を演じ、オメオメとアメリカ軍に捕縛され、

そのピストルを使って自決し損ねた軍人がいる。

茶番の自殺劇を演じ、然る後に占領軍に捕縛された恥知らずの大将さん

当時の国民すべてが侮蔑のまなざしを向けた・・・

 東條英機の自殺未遂については、いろいろなものに書かれています。まだ、生まれていなかったわたしがそのときのことを最初に知ったのは、中学生の頃、高木彬光の「白昼の死角」でした。この小説はご存じのように、実在の高利金融会社「光クラブ」の残党が詐欺師となって・・・というものですが、この中に東條英機の自殺未遂を嘲笑する場面があります。彼の自殺未遂は、当時の日本人にとって、二重・三重の意味で、腹立たしくかつ情けない思いをさせた象徴的な事件だったようです。

 いちばんよく取り上げられる山田風太郎の日記の関係部分を紹介します。(山田の「戦中派不戦日記」は抜群に面白く、一読の価値が十分ある読み物だと思います)

 敗戦の日の前日と翌日の記載は長いのですが、8月15日は短く一行、「○帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とだけ。まず翌日16日の一部から。
8月16日(木) 晴・夜大雨一過
 ・・・(略)・・・
 夜ラジオ、阿南陸相の割腹を伝う。遺書に曰く、「一死以て大罪を謝し奉る。神州不滅を確信しつつ。大君の深き恵にあみし身は言ひのこすべき言の葉もなし 昭和二十年八月十日(ママ:文庫本の誤植?)夜 陸軍大臣阿南惟幾」
 大将よ、御身の魂は千載に生く。
 また敢て思う。敵より見て戦争犯罪者として処刑さるる怖れある人々、ことごとく先んじて自決すべしと。
 ・・・(略)・・・

9月12日(水) 曇
 ・・・(略)・・・
 ○連合軍司令部より逮捕状を発せられた東条大将それを待つことなくピストルを以て自決を計ったが死に至らず、敵幕舎に拘留せられ、アメリカ軍軍医の手当を受けつつありと報ぜらる。
「東条大将はピストルを以て……」ここまできいたとき、全日本人は、「とうとうやったか!」と叫んだであろう。来るべきものが来た、という感動と悲哀とともに、安堵の吐息を吐いたであろう。
 しかし、そのあとがいけない。
 なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかつたのか。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。
 逮捕状の出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない。
 ・・・(略)・・・

9月13日(木) 曇
 ・・・(略)・・・
 杉山元本土防衛総司令官自決。夫人殉死。杉山夫人、戦争中東条夫人のごとく人の目に立つことなし。しかし東条夫人は恬然として生き、ひそやかなる杉山夫人ひそやかに死す。されどその婦道燦たり。
 されど死にし幾十万の兵の母、妻を思わば、軍の責任者の妻として是非もなし。
 ・・・(略)・・・

9月17日(月) 雨
 ・・・(略)・・・
 アメリカ人は、東条大将をヒトラーに匹敵する怪物に考えているらしいが、これは滑稽である。日本人は東条大将を、戦争中も現在も、唯一最大の指導者であったとは考えていない。一陸軍大将だと思っているに過ぎない。
 ただわれわれが東条大将にいさぎよく死んで欲しかったのは、彼に対する恨みでも責任転嫁でもなく、アメリカがそう見ているから、そういう代表的日本人に敵の裁きを受けるような恥辱を見せたくないし、またこちらも見たくないからそう念願したのである。
 が、とにかく東条大将はこれからも敵から怪物的悪漢と誹誘され、また日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書きたてるであろう。
 東条大将は敗戦日本の犠牲者である。日本人はそれを知りつつ、日本人同士のよしみとして、彼が犠牲者の地に立つことを、敵と口を合わせて罵りつつ、心中万斜の涙をのんで彼に強いるのである。
 しかし彼の人間と存在意義は、遠い後に歴史が決定するであろう。
 ・・・(略)・・・
山田風太郎 「戦中派不戦日記」から
 医学生、山田誠也の思いがどの程度平均的な国民の思いと重なっていたかは分かりませんが、「とうとうやったか!」のあと、がっくりした意識は、多かれ少なかれ、当時の国民のうち、かなりの人が抱いた感想だったようです。

 それにしても「東条夫人は恬然として生き」というところは印象的です。これが今に至る東條家の女性のセンスなのでしょうかね、東條由布子さん? 

一年先輩には箱根富士宮ホテルで怪死した・・・

 佐分利公使は公式には自殺として処理されました。「怪死」と書いたのは、自殺というには不自然なことが多く、事件発生時から各種の憶測が飛び交ったからです。(佐分利は幣原外相のもと精力的に日中間の外交問題の解決にあたり、軍部と一部財界、右翼筋に憎まれていたため殺害されたという考え方が当時からあったようです)

 そのあたりの事情は、松本清張のノンフィクション「昭和史発掘」の第三巻、「佐分利公使の怪死」で知ることができます。

 以下は、その書き出しの部分です。
 昭和四年十一月二十八日の夜十二時近いときである。箱根宮ノ下にある富士屋ホテルの玄関に、雨の中を自動車が入ってきた。富士屋ホテルほ客の八割までが外人で、日本人客も知名人が多い。
 事務員の磯崎専次が出てみると、車から降りたのは体格のいい五十前後の紳士だった。
「いらっしゃいまし」
 事務員はていねいに頭を下げた。
「車をどうもありがとう」
 と客はいったが、これは乗ってきた自動車がホテルのもので、彼は仙石原から、電話でよんだのである。客は、賜暇帰朝中の支那公使佐分利貞男だった。このホテルには前からのなじみ客である。

李下に冠を整し、瓜田に履を納れているのだから、

 もちろん正しくは「李下に冠を整(ただ)さず、瓜田に履を納(い)れず」です。

 この言葉は「古詩源」という本にある由。この対句の前には「君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に処(お)らず」とあります。そのことを簡単に理解させる例としてこのふたつをあげたということでしょう。

 つまり、それなりの心得のある人は、スモモの木の下でかぶっているカンムリの曲がりを直すことはしないし、ウリ畑では脱げたクツを履き直すこともしないものだ、なぜなら、スモモの木の下で頭に手をやればスモモを盗っていると疑われるかもしれないし、ウリ畑でかがんでなにやらしていればウリを盗っているのではないかと疑われるかもしれないでないか。そのように他人から疑いを受けやすい場所で、紛らわしいことはしない方がいいという、さして深くもなければ浅くもない、まさに処世の智慧。

 中国の古典からちょっとした言葉を引いてみせることの得意な「ワンフレーズ・ポリティクス」の達人小泉首相のことですから人口に膾炙したこの警句を知らないことはないでしょう。もっとも「知っていること」と「できること」との間には人間としての成長が必要なもの、「知識」が「智慧」として身についていないとすれば、そればかりは如何ともし難いことですけれど。

「日本書紀・武烈紀」の記述の特異性は・・・

 「日本書紀 巻第十六 武烈天皇 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)」は、大きくふたつのブロックの記述から成り立っています。前段が、先帝仁賢天皇の崩御から武烈天皇の即位まで、後段が武烈天皇の事績です。武烈紀はこんな書き出しになっています。(以下は、講談社学術文庫の宇治谷孟の訳です)
 小泊瀬稚鷦鷯天皇は、仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘皇后という。仁賢天皇の七年に、立って皇太子となられた。長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった。日の暮れるまで政務に従われ、知られないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにされた。訴えを処断することがうまかった。またしきりにいろいろな悪事を行われた。一つも良いことを修められず、およそさまざまの極刑を親しくご覧にならないということはなかった。国中の人民たちはみな震えおそれた。
 「不脩一善」というのはなかなかすごい記述です。後段の天皇の事績となると・・・
 元年春三月二日、春日娘子を立てて皇后とした。この年、太歳己卯。
 二年秋九月、妊婦の腹を割いてその胎児を見られた。
 三年冬十月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。
 十一月、大伴室屋大連に命じて「信濃国の壮丁を集めて、城を大和の水派村に造れ」といわれた。よってそこを城の上という。(奈良県北葛城郡広陵町)
 この月に、百済の意多郎王が亡くなった。高田の岡の上に葬った。
 四年夏四月、人の頭の髪を抜いて樹の頂きに登らせ、樹の本を切り倒して、登った者を落し殺して面白がった。
・・・(中略)・・・
 五年夏六月、人を池の堤の樋の中に入らせて、外に流れ出るのを三つ刃の矛でさし殺して喜んだ。
・・・(中略)・・・
 七年春二月、人を樹に登らせて、弓で射落して笑った。
・・・(中略)・・・
 八年春三月、女たちを裸にして平板の上に座らせ、馬をひき出して面前で馬に交尾させた。女の陰部を調べ、うるおっている者は殺し、うるおっていない者は、官婢として召しあげた。これがたのしみであった。
 その頃、池を掘り、苑を造って鳥やけものを満たした。そして狩りを好み、犬に追わせて馬を試した。大風や大雨も避けることがなく、出入りが気ままで、自らは暖衣をまとい、百姓のこごえることば意に介せず、美食を口にして天下の民の飢えを忘れた。大いに侏儒や俳優を集め、淫らな音楽を奏し、奇怪な遊びごとをさせて、ふしだらな騒ぎをほしいままにした。日夜後宮の女たちと酒におぼれ、錦の織物を褥とした。綾や白絹を着た者も多かった。
 冬十二月八日、天皇は列城宮(奈良県北葛城郡志津美村今泉)に崩御された。
宇治谷孟 「日本書紀(上) -全現代語訳-」 講談社学術文庫 1988 の訳による
 「記紀」と並び称する「古事記」の武烈天皇に関する記載は、「欠史十代」にあたるため系譜記事だけとなっています。

 同じ講談社学術文庫「古事記」を書いた次田真幸は武烈天皇の項にこのような解説を付しています。
 武烈天皇には御子が無かったので、応神・仁徳天皇の直系の皇統は、ここで途絶えることになる。この天皇は、『日本書紀』には数々の暴虐を働く残忍な悪帝として描かれている。このことについて、天皇の「若雀命」という名が、仁徳天皇の「大雀命」と呼応することから考えて、中国思想の歴史観によって河内王朝の始祖天皇(引用者注:応神天皇のこと)を聖帝とし、王朝を断絶した天皇を悪帝として描いたのではないかと言われている(吉井巌著『天皇の系譜と神話一』)。
 継体天皇擁立の過程は継体紀にくわしく、大伴金村らによって越前から迎えられた天皇は、二十年の遍歴の後、初めて大和入りをしたという。応神天皇五世の孫という系譜にも疑問があるので、越前・近江を勢力基盤とした一豪族が新たな王朝を開いたのではないかとも言われる(岡田精司「継体天皇の出自とその背景」『日本史研究』一二八所載、吉井巌著前掲書などを参照)。継体天皇と武烈天皇の間には明らかに断絶があり、氏族の動向も異なってくる。こうした事実と、史書の編纂、『古事記』が仁賢天皇以下の物語を記さないこととは、密接な関係があるものと思われる。
 宣長に言わせれば、これこそ「賢しら」の「漢意」なんでしょうね。(残念なことに、手もとには「古事記伝」がないので、「古事記」贔屓の宣長がどのように「欠史十代」に注釈をつけているのかが分かりません)

 ここには「古事記」における、仁徳帝(古事記:大雀命、書紀:大鷦鷯)と武烈帝(古事記:若雀命、書紀:小泊瀬稚鷦鷯)が指摘されていますが、武烈天皇と残虐非道さにおいてはどっこいどっこいの雄略天皇との名前の対比も、なかなか興味深いと思います。こんな感じです。雄略帝(古事記:大長谷若建命、書紀:大泊瀬幼武)。

 「万世一系」ということを大声で叫んでいる人たちがいますが、どこが、「一系」なんでしょうね?

「大行不顧細謹」というつもりか、・・・あるは「ヒップの璧」なり。

 「大行不顧細謹」、「大礼不辞小譲」ともに、「史記」の「項羽本紀」の中でもいちばん有名な「鴻門の会」に出てくる言葉。誰しも漢文の時間に一度は目にしたはずです。意味は「大事をなそうとする者は細かなことには頓着しないものだ」。
 鴻門における宴会の半ば、身の危険を感じた劉邦は厠にたち逃亡しようとする。劉邦が「いま、席を立つとき、(項羽殿に)挨拶をしなかった、どうしよう」と言うと、ハンカイは「大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せずと申します。いま相手方は包丁とまな板ですぞ。こちらを魚、肉として喰おうというとき。なんの挨拶などいるものですか」と言った。
 とかくに「憂国」を鼻面にぶら下げて歩く連中のことですから、気持ちはまさに「チマチマした礼儀をバカにすることこそ国士の心得」などというところでしょうか。そのくせ、チマチマした小遣い銭を稼ぐためにあちらこちらでユスリ・タカリを繰り返しているのが右翼屋さんだということも国民的常識。気持ちと行動はなかなか一致しないもののようです。
 「ヒップの璧」と書いたのは、「匹夫罪無し、璧を懐けば其れ罪あり」。「春秋左氏伝」の「桓公十年」に見える。岩波文庫、小倉芳彦の訳はこんな風になっています。
 以前、虞叔は美玉を持っており、兄の虞公が要求しても譲らなかったが、まもなくそのことを後悔し、
 「周の諺に、『匹夫はたとえ罪なくも、壁を抱けば罪になる』というのがある。吾が持っていてもしかたがない。なにも災難をわざわざ買い込むことはない」と、兄に献じた。するとこんどは、弟の持つ宝剣を要求した。虞叔は、
 「この人はとめどがない。とめどがなくて、そのうち自分の命までほしがるだろう」
と言って虞公を攻め、ために虞公は共池に出奔した。
 ここはハイライト場面でもなく、もともと「左伝」そのものはかなり断片的なものなので、「だから、なんだというのだ」、「ただの故事の誇示かい」という気がすると思いますが、もともと「滴水録」は落ちこぼれサラリーマンの愚痴日記ですから、ご容赦。

 でも、たまには、我慢して読んでいただく方にサービスしようかということで、ちょっとだけ、底意を解説をすると・・・。

 「ヒップの璧」というのは、件の街宣車からがなり立てた国士気取りのあんちゃんが、ただ街を歩いているだけならば罪はないのに、なまじ「英霊」だとか「靖国」だとかのちょいとばかりの光り物に関わろうとするから、気分だけが偉そうになって、あんな生意気な口をきくのだ。こいつらをのさばらせたら、璧の次には剣を欲しがるに決まっているさ。ちょうど「左伝」に書かれているように。なにが「大行」社だ。・・・とまあ、こんな気持ちです。

 もちろん、わが方がもう少し大人の宰相を立てていれば、このことば、呉儀副首相にもぶっつけたいところですが、なにしろ、小泉づれが宰相では、そういう気にもなれません。せいぜい、男尊女卑感覚むき出しで、「牝鶏の晨するは・・・」と悪態をつくていどでしょうか。ああ、それにしても、腹の立つ世の中よ。

ツイアビの言葉も思い出す、

ツィアビもいっていた

ツイアビも言っていた、「知らない方がずっといい。・・・

 ツイアビ、サモア諸島の中のウポル島という島の酋長だったといいます。ヨーロッパを見て回った彼が帰島した後に、住民にした演説を集めたのが「パパラギ」という本です。

 パパラギとは「白人」のこと。そして、この本は、ヨーロッパ文明、白人文明に対する、根源的な批判を書いたものです。

 日記を書くときに、念頭にあった部分は、「パパラギにはひまがない」という章の一節。
・・・私はよく、(パパラギから)何歳かとたずねられた。そのたびに私は笑って、知りませんと答えた。そんな私を、彼らは彼らは恥ずべきものだと考える。彼らの心はよくわかった。「自分の年ぐらいは知っていなくちゃいけない」と彼らはよく言った。私は黙り、そして考えた--知らない方がずっといい。
 何歳かということは、つまり、幾たび月を見たかということである。だが、この計算と詮索には大変な害がある。なぜなら、たいていの人間の一生に、幾たび月の数を数えられるかはわかっている。だからそうなると、だれでもきちんと計算を合わせてみて、もしもうたくさんの月が終わっていると、その人は言う。「じゃあ、私はまもなく死ぬに違いない」するともうどんな喜びも消え、彼はまもなく本当に死んでしまう。
ツイアビ 「パパラギ-はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集-」

粗雑な「強姦防衛論」をぶっただけの話だった。

いつぞや西村眞悟代議士はふんぞり返って・・・

「滴水録 1999」から
 防衛政務次官になったばかりの西村某が、週刊プレイボーイの対談企画で、「国会でも核武装論議をすべきだ」と発言したとかで更迭された。対談のサマリーは以下の通り。
政治家としてのライフワークは国軍の創設ですわ。(自衛隊じゃなくて国軍)もちろんそうです。(地球防衛軍というのはどうですか)そら、オモロイ。全世界への展開。「大東亜共栄圏、八紘一宇を地球に広げる」や。ボクは民族主義者やけど、民族主義者でなかったら政治家の資格はないと思ってるからな。
(今の政治家は特に防衛問題で歯切れが悪いですよね)「攻撃的兵器は持たない」とかね。攻撃的でない兵器ってなんだ? 水鉄砲かっちゅうねん。
(国会でも今までどおりの発言で答弁するつもりですか。例えば「自衛隊は軍隊である」とか)ボクの意見を聞かれたらね。政府としての見解以外に、政務次官たるオレの意見も聞きたいんやったら言うたろうやないけ。
(北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国=の不審船に対して国がとった行動について「2隻の船を花火を上げてお見送りしたようなもの」と発言してましたけど、また来たら、次官としてどうするおつもりですか)今の段階では海上警備行動の発令でしょう。でも、今度はホンマにやる。ホンマに撃って、そんで撃沈する。
(パキスタンのクーデターでインドとパキスタンの間で核戦争の危機が叫ばれてますが、やっぱり危険な状態なんですか)いや、核を両方が持った以上、核戦争は起きません。核を持たないところがいちばん危険なんだ。日本がいちばん危ない。日本も核武装したほうがええかもわからんということも国会で検討せなアカンな。
(政務次官である西村さんが国会で発言するんですか)個人的見解としてね。核とは「抑止力」なんですよ。強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん。けど、罰の抑止力があるからそうならない。
(社民党がまた「いつかきた道」って言うんじゃないですか)まあ、アホですわ、あんなもん。何を言うとんねんと。社民党の女性議員に言うてやった。「お前が強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ」。
 これを見ると問題はタブー視されている核武装論議についてふれたことなどではないことがよく分る。端的に言えば、「強姦防衛論」とでもいうべき粗雑な思考で防衛論議をしようとしている愚かさが職責に適していないこと、そのことこそが問題なのだ。彼は、防衛政務次官に適していないだけではなく、国会議員にも適していない。

 世の中の男の大多数は、仮に罰せられることがなくても、強姦魔にはならない。罰せられなければ、強姦をしまくるというのは、自分をそういう人間だと告白している西村某と、彼の更迭に反発するごく一握りの小児的軍隊マニアにはあることかもしれないが、多くの人にとっては夢想することと実行に移すことには大きなギャップがあるものだ。彼らは自分の下品さに対する自覚が乏しいのだ。だから、他人も自分と同じレベルにあると思っているのだろう。しかし、世の中はもっと広く、人間はもっと複雑で、一発やることがすべてだなどと考えている奴は未成熟な子供かただの阿呆に過ぎず、その数も限られている。でも、そういうことが分らないのだろうね、この手のトッチャンボウヤには。

 いやいや、西村某は弁護士資格を持っているとか。彼は自分の仲間づくりを狙ってプレイボーイの読者に媚びるつもりで「強姦」を連呼したのかもしれない。だとすれば、彼はプレイボーイという週刊誌に対する理解を根本的に誤っているといってよい。週刊プレイボーイは遊びネタに関しては軟派だが、社会ネタに関してはじつはかなり反権力的な硬派の側面をもっている。

 それにしても、テレビを見ていて可笑しかったのは、インタヴューに対して「八紘一宇」を繰り返し「ハチコウイチウ」と発音していたこと。「ハチコウ」などというから、「忠犬ハチ公」や「八高線」ばかりが浮んできて、「八紘一宇」の字がなかなか頭の中に像を結ばないのだ。元号を「ガンゴウ」と読むたぐいで、まったく近ごろの「自称保守」にはあきれるほどバカが多い。

 ここに見て取れるのはなにか。つまるところ、西村某の感覚は偏頗な知識の中で醸成された小児的なミリタリズムであって、ナショナリズムにすら育ち上がっていないということだ。いい歳をして、「ハチコウ」「ハチコウ」を繰り返す彼の顔は、どこか成長の止まった知恵遅れの子供を連想させる顔で、薄気味が悪かった。(10/20/1999)

孫子に「勇怯勢也」という言葉がある。

乱生於治、 怯生於勇、 弱生於強、 治乱数也、 勇怯勢也、 強弱形也

乱は治に生じ、 怯は勇に生じ、 弱は強に生ず、 治乱は数なり、 勇怯は勢なり、 強弱は形なり。

混乱は整治から生まれる。臆病は勇敢から生まれる。軟弱は剛強から生まれる。[それぞれに動きやすく、互いに移りやすいものである。そして、]乱れるか治まるかは、部隊の編成の問題である。臆病になるか勇敢になるかは、戦いの勢いの問題である。弱くなるか強くなるかは、軍の態勢の問題である。[だから、数と勢と形とに留意してこそ、治と勇と強とが得られる。]
孫子 「勢篇 第五」から
(訳は岩波文庫「孫子」による)

入江相政日記のある日の記述から説き起こしている。

 手もとの「入江相政日記」を取り出してきて、「ン?」と、思いました。

 まず、件の昭和45年5月30日の項を下記してみます。
五月三十日(土) 快晴 適 五、○〇 一〇、三〇
 いゝ天気で薄ら寒い。短哥研究の原稿なかなかうまくいかない。難航に難航を重ねる。十時過ぎに吹上で皇后さまお召しとの事。何事かと思つて出たら旬祭はいつから年二度になつたか、やはり毎月の御拝が願はしい、何故かといふと日本の国がいろいろをかしいのでそれにはやはりお祭りをしつかり遊ばさないといけないとの事。貞明さまから御外遊まで動員して洗ひざらひ申上げる。それでは仕方がないといふことになる。くだらない。昼藪重。高島屋岩田藤七個展。大瀬さんのマツサージ。小村徳蔵君四時間もゐる。飽きて疲れた。入浴。少し食べそへて寝る。
「入江相政日記 第八巻」 から
 たしかに、原が書いたニュアンスはあるのですが、 「お上は大事なお方だから・・・」とか、「それでは私がお祭りをやろうか」とか、 「無茶苦茶とはこの事」という記載は見えません。

 我が家にある「入江相政日記」は朝日文庫版です。扉裏の「編集方針」のところに「次の方針に従って編集した」とありました。「これは文庫化する際に一部を編集したのだ」と思いました。この文庫本は「資料」として購入したつもりだったので、がっくり来ました。

 仕方がないハードカバー版に当たろう、そう思って国会図書館まで行き、同じ朝日新聞社刊ではありますが1991年刊行のハードカバー版を閲覧しました。結論を書くと、文庫版とハードカバー版は一字一句まったく同じでした。そしてハードカバーのほうにも、まったく同じ「編集方針」が掲載されていました。

 おそらく、原は、研究者として編集の手が入らない原本を見ているのでしょう。「当時の入江の日記には、皇后を罵倒しているとも受け取れる言葉が散見される」とあれば、できればその生の言葉を読んでみたかったですね。(あえて書けば、昨今、話題となっている朝日新聞による「編集」となると余計に・・・呵々)

太宰治の「富嶽百景」の冒頭を思い出した。

 「富士には月見草がよく似合う」という有名な一節で知られた太宰治の「富嶽百景」はこんな書き出しになっています。
 富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西及南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとえば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのフジヤマを、あらかじめ憧れているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴え得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがっている割に、低い。あれくらいの裾を持っている山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。
太宰治 「富嶽百景」 から

有名な「蜂の寓話」を借りて語られた・・・逆説は

 ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」の書名は、経済の専門家でなくとも耳にしたことはあるはず。この本がいかなる動機のもとに書かれたかも、高校の「社会」の授業でやったこと。それでも、まあ、読まないですよね、経済が専門でもない限り。

 以下は、その本の「第6編 一般理論の示唆する若干の覚書」の「第23章 重商主義その他に関する覚書」の一部。マンドヴィルの「蜂の寓話」についての話のくだりです。
 『蜂の寓話』は諷刺的な詩 - 「不平を鳴らす蜂の巣、すなわち正直者になった悪漢どもの話」 - を本文とするものであって、そこに、貯蓄のためににわかに思い立って、すべての市民は贅沢な生活を放棄し、政府は軍備を縮小するようになった一つの繁栄した社会の驚くべき窮状が描かれている。

   どんなおえら方も これからは
   借金生活 自慢にならぬ。
   質屋に吊られる 家来のお仕着せ。
   馬車は売られる 二束三文。
   名馬は全部 まとめていくら。
   田舎の屋敷も 借金の穴埋め。
   無駄とぺてんは 追放だ。
   やめてしまった よその国への駐屯軍。
   外人からの誉め言葉 戦でえられる空ろな栄光
   そんなもの チャンチャラおかしい。
   戦に立つのは お国のためだけ
   権利と自由が危ういとき。

気位の高い 〔貴婦人〕 クローは

   高価な献立 切りつめて
   丈夫なお召は一張羅。

そしてその結果はどうか。

   見よ 栄えある蜂の巣を。
   見よ 正直と商売の一致のさまを。
   芝居ははねて 急にさびれて
   昔の俤 いまやなし。
   札びら切った常連は
   姿を消して いまはなし。
   それで食べてた連中も
   やむなくするは 同じこと。
   商売変えも 無駄なこと。
   どこもかしこも 人手は余り。
   土地も家屋も 値段は下がる。
   華麗な御殿の城壁は
   テーべのごとく 遊びによってできたもの。
   それがいまでは 貸家に出される。……
   建築業は つぶれてしまい
   職人は 仕事にあぶれてしまい。
   腕で知られた絵師は いまいずこ。
   石切り 彫刻師の名も開かず。

かくして「教訓」は次のとおりである。

   徳のみで 国民の暮らしは豪華にならず。
   黄金時代の再来 望むなら
   正直も どんぐりの実も
   清濁併せ呑む 度量もつべし。

 寓話に続く注釈からの次の二つの抜書きは、以上のことがけっして理論的基礎を欠くものではなかったことを示すであろう。
 「貯蓄と呼ばれるこの思慮深い節倹は、個々人の家庭においては身代を殖やす最も確実な方法であるから、一国が不生産的であろうと生産的であろうと、同じ方法がもし一般に遵守されるなら(彼らはそれが実行可能であると考えている)、一国全体に対しても同じ結果をもたらすと想像している人々がいる。たとえば、もしイギリス人がある隣国の人々のように節倹家であるなら、彼らは現在よりもはるかに豊かになるだろう、というのである。これは、私の考えでは誤りである。」
それとは反対に、マンドヴィルは次のように結論する。
 「一国を幸福にし、繁栄と呼ばれる状態をもたらす重要な方策は、すべての人々に就業の機会を与えることである。その目的を達成するためには、政府は次のことを配慮しなけれはならない。まず第一に、人智によって発明しうるかぎりの多くの種類の製造業、工芸および手工業を奨励することであり、第二に、人間だけでなく全地球が力を発揮するように、農業と漁業のあらゆる部門を発達させることである。国民の偉大と幸福が期待されるのはこの政策からであって、奪移と節倹に関する些細な統制からではない。なぜなら、金銀の価値の騰落がどうであろうと、あらゆる社会の楽しみはつねに地球の果実と人間の労働に依存するからである。両者はあいまって、ブラジルの金やポトシーの銀よりもいっそう確実な、いっそう無尽蔵な、そしていっそう実質的な財宝となる。」
 このようなつむじ曲りの考えが、二世紀にわたって道徳家や経済学者たちの非難を招いたことは不思議ではない。彼らは、健全な救済策は個人および国家による極度の節倹と倹約以外にはないという峻厳な教義をもつことをはるかに道徳的であると考えた。ペティーのいう「娯楽、豪華な催し物、凱旋門など」はグラッドストーン流の一文惜しみの財政政策に地位を譲り、壮麗な音楽や演劇はもとより、病院、広場、壮大な建築、古蹟の保存事業でさえ「賄う余裕のない」国家体制によって取って代わられた。そこでは、こういったことはすべて節約心のない個人の私的な慈善や雅量にゆだねられることになった。
 この教義は次の一世紀の間、後期のマルサスにおいて有効需要の不足という考えが失業を科学的に説明するものとして確固たる地位を得るにいたるまでは、再び有識者の問に現われることがなかった。・・・
ケインズ 「雇用・利子および貨幣の一般理論」 から
 この十数年間のこの国の状況を頭におきながら読むと、ある種の「感慨」が浮かんで・・・、来ません?

水に落ちた犬を徹底的に叩くのが最近のこの国の風潮。

「打落水狗」の伝統

 「打落水狗」とは「水に落ちたイヌ」のこと。「水に落ちたイヌ」(例えば選挙に落ちた汚職議員)にさらに追い打ちをかけるか、それとも、もう十分に惨めなのだから追い打ちをかけるべきではないのか、そういう話。

 この言葉が多少とも有名であるのは、魯迅が「『フェアプレイ』はまだ早い」と題した評論で、水に落ちたイヌを打つべきか、はた、打たざるべきかを論じているからでしょう。

 では、その評論の書き出しの部分を。
 今日の批評家は、しばしば「死んだ虎を打つ」と「水に落ちた犬を打つ」とを、ならべて取りあげ、いずれも卑怯に近いとしている。私の考えでは「死んだ虎を打つ」 のは、臆病者が勇者のまねをすることで、すこぶる滑稽味があり、卑怯のきらいはないわけではないが、むしろ憎めない卑怯である。ところが「水に落ちた犬を打つ」ほうは、それほど簡単ではない。犬はどんな犬なのか、どうして水に落ちたか、それを見てからでないと決められない。思うに、落ちた原因はほぼ三つである。(一) 犬が自分で足をすべらせて落ちた場合。(二) ほかのものが打ち落とした場合。(三) 自分が打ち落とした場合。もし前の二者に遭遇して、人の尻馬に乗って打つならば、それはあまりに曲のない話であることは申すまでもないし、あるいは卑怯にさえ近いかもしれない。しかし、もし犬と奮戦して、みずから水中に打ち落としたのであれば、たとい落ちた後から竹竿でめった打ちしようとも、決して非道ではない。前二者の場合と同日には論じられない。
 話にきくと、勇敢な拳闘士は、すでに地に倒れた敵には決して手を加えぬそうである。これはまことに、吾人の模範とすべきことである。ただし、それにはもうひとつ条件がいる、と私は思う。すなわち、敵もまた勇敢な闘士であること、一敗した後は、みずから恥じ悔いて、再び手向いしないか、あるいは堂々と復讐に立ち向ってくること。これなら、むろん、どちらでも悪くない。しかるに犬は、この例を当てはめて、対等の敵と見なすことができない。何となれば、犬は、いかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さぬのだから。まして、犬は泳ぎができる。かならず岸へはい上って、油断していると、まずからだをブルブルッと振って、しずくを人のからだといわず顔といわず一面にはねかけ、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいないのである。しかも、その後になっても、性情は依然として変らない。愚直な人は、犬が水へ落ちたのを見て、洗礼を受けたものと認め、きっと懺悔するだろう、もう出てきて人に咬みつくことはあるまいと思うのは、とんでもないまちがいである。
 要するに、もし人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと私は考える。
竹内好編訳 「魯迅評論集」 から
 さて、李登輝は大陸中国にとって、どんな「イヌ」であるものか。

その有名な章に彼は・・・と書いた

 「君主論」でいちばん有名(悪名高い?)なのは第18章「君主の契約履行について」ではないかと思います。狐とライオンの例え(どういうわけかこの対比はわたしには聖書の「鳩のように素直で蛇のように賢く」という言葉を思い出させますが)もこの章に出てきます。

 ここではその一部を。(以下は、わたしの本棚にある岩波文庫版、黒田正利訳のもの。最近の岩波文庫版は河島英昭訳のもので、かなり訳注が充実している由)
 ただし、私が上に列挙した諸性質をことごとく備える必要はない。ただ備えているように見せることは絶対に必要である。いやあえて私はいうが、君主がもしこれらの性質を備えてそれを実行するとなると有害であるが、ただ備えているように見せることは有益である。慈悲深く、忠実で、あいそうがよく、敬虔であるように見られること、またそうあることは必要である。しかしそれと同じように、その反対が必要であるならば、その真反対へ転向できるようそしてその転向の仕方を心得るよう、心の準備をしておくことが肝要である。・・・(略)・・・
 君主たる者は、上に上げた五つの性質に欠けているような言葉を、かりにも口から辿らさないようよく注意しなくてはならぬ。そして君主を見たり聞いたりする者をして、君主は慈悲と信義と実直と人情と敬神の権化であるかのように思わせねばならぬ。ことに最後の性質が備わっているように見せかけることは何よりも大切である。
 はじめて「君主論」を読んだのは高校生のときだったと思いますが、その時はずいぶん癇に触る本で、まるで小林秀雄の本のようでした。やはりよく分からなかったのだと思います。得心がいったのは会社に入ってからでした。「上司」という種族の一部には君主論の実践者がいたからです。しかし臣下から見てそれが透けて見えるようでは、じつは君主は失格なのです。わたしの場合、馬脚をあらわさないがゆえに信服できた上司は、ほんの二、三名しかいませんでした。

 わたし自身のこと? ・・・、それは、いいでしょ。

朔太郎は・・・青い猫を想起した

 「青猫」について、萩原朔太郎は、詩集「青猫」の自序でこのように語っています。
 本書の標題「靑猫」の意味について、しばしば人から質問を受けるので、ついでに此所で解説しておかう。著者の表象した語意によれば、「靑猫」の「靑」は英語の Blue を意味してゐるのである。即ち「希望なき」「憂鬱なる」「疲勞せる」等の語意を含む言葉として使用した。この意を明らかにする爲に、この定本版の表紙には、特に英字で The Blue Cat と印刷しておいた。つまり「物憂げなる猫」と言ふ意味である。も一つ他の別の意味は、集中の詩「靑猫」にも現れてる如く、都會の空に映る電線の靑白いスパークを、大きな靑猫のイメーヂに見てゐるので、當時田舍にゐて詩を書いてた私が、都會への切ない郷愁を表象してゐる。尚この詩集を書いた當時、私はシヨーペンハウエルに惑溺してゐたので、あの意志否定の哲學に本質してゐる、厭世的な無爲のアンニユイ、小乘佛教的な寂滅爲樂の厭世感が、自(おのづ)から詩の情想の底に漂つてゐる。
 「青猫」はこんな詩です。
靑猫
この美しい都會を愛するのはよいことだ
この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の並木
そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。
ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一匹の靑い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われらの求めてやまざる幸福の靑い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

東海村JCOの事故から5年になる

ドラゴンズの優勝するとき、相前後して内閣が倒れるとのジンクスあり

「滴水録 1999」から。
 今日のニュースは盛りだくさん。東海村のウラン加工会社で事故。作業員、3人が被曝。うち2人は、かなり重症とのこと。夜になって、半径350メートル以内の住民に避難命令、半径10キロ以内の住民には明日の朝までの屋内退避勧告。東海パーキングエリアは閉鎖、常磐線は水戸-日立間の運転を中止。原発とは施設内容が異なるとはいえ、原子力施設の事故は、原発建設推進派の決まり文句を裏切って、かくも重大なものなのだ。この騒ぎで小渕の内閣改造はぶっ飛んだ。

 薬害エイズ事件のミドリ十字歴代3社長に、禁固2年6月から3年の求刑。オウムの地下鉄サリン事件で実行犯だった横山被告に死刑判決。そして、ドラゴンズ、優勝。(9/30/1999)

そういう領域のことがらについては「語りえぬものについては・・・

「論考」の末尾、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」は・・・

 ほんの一時期、仕事としてプログラムを書いていたことがあります。ディジタルコントローラーの入出力部のファームウェア。担当したプログラムのデバッグをやりながら、いつも、学生時代に読んだ二冊の本のことを思い出していました。

 ひとつはサルトルの「実存主義とは何か」、もうひとつはウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」でした。コンピュータの前ではサルトルの本の一節を、デバッグ作業に一息つくときにはウィトゲンシュタインの本の一節を、思い出して苦笑いしていました。あの言葉の意味するものがここにある、と。

 サルトルについては、また、別に書きましょう。

 ウィトゲンシュタインについては、当時ベトナム反戦を訴えていたラッセルから入りました。(いや、そうではなく、クラシックファンだった忘れがたい友人が教えてくれた、ウィトゲンシュタインの兄の話からだったかもしれませんが、そのあたりの記憶は、なぜか、霞んでいます)

 ウィトゲンシュタインの「論考」とランダウの「解析力学」は、当時のわたしにとっては、ため息が出てくるような本でした。短いフレーズの中に真理が書き尽くされている。人類が行き着いた極点。そして、悲しいことに、ヨ・ク、ワ・カ・ラ・ナ・イ(^^;)。

 その抽象的でよく分からなかった「論考」の命題のいくつかが、プログラムを書くという作業にひきうつすと、ワ・カ・ル!!(分かるような気がする)

 中でも一番有名な命題、他と違って下位の枝を持たない最後の命題が、これです。
7  語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」 から
 つまり、「仕様」として明確に語られないものについては、「機能」を作り込むことはできない。あるいは、明確に語られていない「仕様」を折り込むことは、「バグ」を生むもとであるから慎まなくてはならない。・・・と、まあ、こんな風に読み替えることができるのではないか・・・。

 人間が自然を改造しようとするとき、人間は自分の視野が及ぶ範囲のことしか考えられないのです。人間の視野に入らない部分(語りえぬもの)にどれほどの影響が及ぶものか、少なくともそういう「限界」(滴水録では「壁」と書きました)の存在にだけは気がついているとしたら、自然を改造するなどということは慎まなくては(沈黙せねば)ならないのだと、わたしは、思います。

サーチ&サーチ社の例

 岩井克人の「会社はこれからどうなるのか」は、昨年の小林秀雄賞を受賞した本です。

 おそらく、こんな題名の本は、著者が岩井克人でなかったなら、わたしは買わなかった。いや、平積みの書台から手にとることもしなかった。でも、岩井克人の本となれば、話は別。

 岩井の本が好きなのは面白いから。近頃、ちっとも芸のない噺家が跳梁跋扈する中で、東大教授ながら岩井の語り口はカネを払うに値するものです。例えば、前にも紹介した「二十一世紀の資本主義論」という堅いタイトルの本に収められている「ボッグス氏の犯罪」などは絶妙の例をもって通貨というものの本質を教えてくれます。もし、未読であれば、是非立ち読みでもかまわないので、ご一読を。この滴水録補注まで読むようなあなたならば、かなりの確率で買ってしまうことでしょう。

 前置きが長くなりました。では、「サーチ&サーチ社の例」の発端を語るあたりを・・・。
 「サーチ&サーチ(SAATCHI&SAATCHI)」というイギリスの広告会社があります。創立者は、チャールス・サーチとモーリス・サーチという兄弟で、イラクのバグダードで成功してイギリスに移住したユダヤ系一家の出身です。バグダードで生まれた兄のチャールズは、ハイスクールのドロップアウトでしたが、コピーライトに天分を発揮して、たちまち広告業界で頭角を現します。そして、イギリスで生まれ、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスを卒業した弟のモーリスを誘って、1970年にサーチ&サーチ社を創立したのです。メガロマニアックな拡大欲をもったモーリスは、経営において天才的な能力を発揮することになります。
 ・・・(中略)・・・
 サーチ兄弟、とりわけ弟のモーリスは、その派手な生活スタイルで知られていました。高級な自動車を乗り回し、高価な葉巻をくゆらせ、現代アートで飾られた美しいオフィスを持ち、豪華な内奏をほどこしたお城に住んで、人を驚かすようなパーティをしょっちゅう開いていたのです。1990年代に入って、サーチ&サーチ社の業績が悪化したなかでも、二人は、80年代の拡張的な経営方針と発展的な生活スタイルを続けていました。ところが、そのころ、すでにサーチ&サーチ社の株式の約30%は、年金ファンドなどを中心としたアメリカの機関投資家が所有するところとなっていたのです。彼らは、サーチ&サーチ社の利益率が大幅に低下しているにもかかわらず、サーチ兄弟が破格の報酬を得ていることに不満を抱いており、1994年に弟のモーリスがさらなる報酬の増額を要求したことをきっかけにして、取締役会を通じて、モーリスを会長の座から引きずり降ろしてしまいました。まさに、株主の反乱でした。
 ・・・(中略)・・・
 怒ったモーリスは、「会社は一部の株主に乗っ取られてしまった」という非難の手紙をつきつけて、サーチ&サーチ社を辞めます。そうすると、それまで彼とともに働いていた多くの幹部社員が、モーリスの後を追って辞めてしまったのです。それだけではありません。さらに、それまでサーチ&サーチ社の顧客であった英国航空や米大手製菓メーカーのマースや日本のセガなども、サーチ兄弟との関係を重視して、サーチ&サーチ社との契約を打ち切ってしまうのです。モーリスを追ってサーチ&サーチ社を辞めた役員のひとりが、こういったと伝えられています。「われわれが会社を去るのでない、会社がわれわれを去ってしまったのだ」と。
岩井克人 「会社はこれからどうなるのか」 から
 もう十分、ルール違反になるほど長く引用してしまいました。しかし、既に施設が会社の力の実体ではなくなった「ポスト産業資本主義時代」にあっては、「人」こそが会社の力の実体になりつつあるのということを伝える興味深い例だと思います。

 ところで、こういう「事実」に対する認識がどれほどこの国のサラリーマン経営者にあるでしょうか。小才と器用さで登り詰めた秀才タイプの経営者の多くは、リストラというと「人切り」しか思いつかず、その結果がさらにリストラを必要とするという「ナントカ・スパイラル」に陥っているのではないでしょうか、ね。

アーミテージは、ワシントンの国防大学で開いた環太平洋安全保障シンポジウムで

 「滴水録 1988」から。(2月26日は金曜日にも関わらず、単に書き写したのみになっています)
 朝刊からの切り抜き。

【ワシントン25日=岩村特派員】
 アーミテージ米国防次官補(国家安全保障問題担当)は25日、ワシントンの国防大学で開いた環太平洋安全保障シンポジウムで講演。日本に対し、現在計画している一千海里シーレーン(海上交通)防衛の能力を上回るほどの過大な防衛負担増を要求することは、かえって東アジアの安定を損なう、との考え方を示すとともに、むしろ、経済援助増を求めていくことが望ましい、と主張した。

 同次官補はこの中で、米議会で日本に対し、国民総生産(GNP)の3%を防衛費負担に充てるよう求めるべきだ、とする主張が出ていることに批判を展開。「誤った結論に飛びつく前に、まず事実を点検することが大切だ」と述べて、①日本の駆逐艦保有数は、西太平洋とインド洋全域を守備する米第7艦隊の2倍以上の50隻を超えている②第7艦隊の対潜しょう戒機は23機だが日本は100機を備えようとしている③航空自衛隊はF4ファントム百機のほか、90年までにF15約200機を備えて300機体制になるが、これは米本土を防衛する戦術戦闘機の数に相当する、と指摘。
 そして、90年度までの中期防衛力整備計画で一千海里シーレーン防衛の基礎的な目標は達成され、そのあと、91-95年度の次期中期防衛で超水平線(OTH)レーダー、空中警戒管制機(AWACS)、空中空油機などを装備すると「日本は太平洋の抑止を大変好ましい状況にする」とも述べた。
 その上で同次官補は、「GNP3%とは、ほかに何をやれと言うのか。核兵器か。攻撃能力か。そうすれば東アジアの安定は強まるととでも言うのか」と、GNP3%要求を激しく批判。言外に、一千海里シーレーン防衛を上回る軍事能力を日本が持つことは、かえって米国の国益を損なう、と考えていることを示した。 同次官補はさらに、「もし、日本のもっとも望ましい防衛姿勢が比較的小規模の富の消費しか必要としないのならば、海外経済援助の増額を求めてはどうか」と提案。「ひも付きでない日本の戦略援助増は、日米間に何の政治的な摩擦も引き起こさずに、世界の安定に絶大な効果をもたらすだろう」とも述べた。
 この講演は、米議会のやみくもな対日要求をけん制する狙いで行なわれたが、これまで防衛費増の対日圧力の元締役だった同次官補が、日本の防衛力が既にかなりの水準にきていることを強調し始めたところに、日本の軍事大国化を米国自身が警戒している本音がにじんでいる。
 同次官補は講演の中で「米国はアジア・太平洋地域で安全保障、経済のパートナーとして中心的な役割を持っている」とも強調。アジア・太平洋防衛の主役はあくまでも米国である、との主張を明確にしたといえる。
1988年 2月26日 朝日新聞朝刊

長嶋を「天皇」だと書いた日

 それを書いたのは、公開していない「滴水録 1999」です。以下、その該当部。
 夜のスワローズ対ジャイアンツ戦。結果的には10-7でスワローズが勝ったのだが、テレビ中継からラジオ中継と追っかけながら観戦した印象でいえば、長嶋のめちゃくちゃな投手起用でジャイアンツは勝ち試合を失ったといってよい。長嶋はまさに「天皇」というにふさわしい。今上は象徴天皇であるから別として、先代の裕仁は愚かな天皇であった。しかし、裕仁を公然と愚か者という人はいない。長嶋も同じだ。長嶋の采配はなっていない。にもかかわらず、長嶋はバカだという解説者はいない。しかし、長嶋の監督としての無能ぶりは今日の試合にばかり見られるものではない。昨日の試合だけでもない。そう、連勝して臨んだ先週水曜日の対ドラゴンズ第三戦にもはっきりと現れている。これらの試合は、周到な監督であれば、おそらく落とすことはなかったと思う。

 さて、今日の試合だ。4-4の同点から、6回の表、ジャイアンツはスワローズから、3点をプレゼントしてもらった。押し出しで1点、ワイルドピッチで2点。打者は何もせずに立っているだけで3点もらったわけで、中継を見ていたドラゴンズファンは、「スワローズはジャイアンツからいくらもらっているのだ」と怒り狂ったことだろう。

 先発の川原に代わって投げたのは、ドラゴンズとの2戦目、斉藤のアクシデントで急遽マウンドに登り予想外の好投をした岡島だ。岡島は5回にペタジーニにタイムリーを打たれたものの、6回、7回、そして8回の頭まで、そこそこ安定して投げていた。7回にはブルペンで三沢が準備していたのだが、その回、岡島が三者凡退で切り抜けると三沢はあがってしまった。ところが8回に岡島がワンアウトからツーベースをくらうと、にわかに不安の虫に取り憑かれたカンピュータは、ここで三沢にチェンジした。

 たぶん、7回を終わって、岡島が8回もゆくことになったそのとき、三沢は今日の登板はないと思ったに違いない。ところが、突然の変更。クールダウンした身体も気持ちものらない三沢は、出てくるなりデッドボールで一・二塁のピンチを招き、代打青柳にツーベースを打たれて、2点差になる。ここで、カンピュータは、なんと槇原をたてる。プロ野球ニュースなどで見ると、マウンドに向う槇原の表情は憮然たるもの。それはそうだろう。31日の準完投から中4日、そういう岡島を考慮してのことならば、8回の頭から三沢、そして9回が自分というのなら、槇原も準備のしようがある。しかし、岡島と三沢の間で成り行きまかせのどたばた劇をやり、そのつけをすぐに押しつけられるのでは、気の入れようもない。

 槇原はあっという間に、ヒット2本を打たれ、ついに同点。太股の不調をうったえるやいなや、さっさとマウンドを降りてしまった。そして、今度は木村だ。こういう状態で相手チームの勢いを押さえることは、どんな投手にも簡単にできることではない。木村も連続タイムリーを打たれて、なんとこの回だけで6点を献上することになってしまった。長嶋は勝負の機微も選手の気持ちも分かっていない。つまりこの試合は長嶋の采配で負けたといって差し支えない。

 ラジオの中継はファイターズにいた広瀬がやっていたのだが、「投手交代の時の選手の気持ち、力の出方、大変貴重な勉強をさせてもらいました」といっていた。はっきりいえば、長嶋の投手采配がデタラメだということなのだが、そうはいわないのだ。各局のスポーツニュースのコメンテーターも同じ。「監督の期待に投手陣が応えられなかったということだ」みたいなコメントばかり。「王様は裸だ」と誰もいわない。それは、きっと長嶋が「天皇」だからなのだろう。(9/5/1999)

記憶に引っかかっていたのはその第十三条

 現代訳は便利ですが、翻訳には必ず「不実な美女か、貞淑な醜女か」という悩ましい問題がついてまわるもの。以下に、原文を掲げておきます。「歎異抄」第十三条の一部です。
またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかと、おほせのさふらひしあひだ、さんさふらふとまふしさふらひしかば、さらばいはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼえずさふらふとまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

墨子のようにふるまってはならないのだ。

公輸篇の末尾のエピソードでしめくくれば

 小林よしのりが紹介した公輸盤の話を小説に仕立てたものがあります。魯迅の「非攻」(「故事新編」に収録)です。

 こんなあらすじです。墨子と同郷の男、公輸盤は兵器を考案する才能があります。その公輸盤が新しく考案した雲梯を使って宋を攻めるよう楚の王をたきつけていると聞いた墨子、戦争をやめさせるため遠路をものともせずに楚に駆けつけます。まず公輸盤を説得しますが、理ではやりこめられた公輸盤、「王に進言してしまった」と言い逃れます。ならばと墨子は楚王に会い、これも理で説得しますが王も「公輸盤の進言に従い雲梯を作ったからには」と言い逃れる始末。そこで墨子は公輸盤を相手として雲梯を使った戦いのシミュレーションを行い九度にわたってこれを撃退してみせます。・・・この後の三人のやりとりは、「墨子-公輸篇」なり、魯迅の「非攻」なりを読んでください。こうして楚王は宋の侵略を断念し、墨子は弱小の宋を陰で救うのです。以下は、「非攻」の末尾。
 墨子は帰路はかなりゆっくり歩いた。第一に疲れていたこと、第二に足が痛んだこと、第三に携行食を食いつくして腹がへったこと、第四に仕事を仕とげて、往路ほど気がせかなかったからである。しかし往路より不運な目にあった。宋国へ足を入れたとたん二度も調べられた。都城へ近づいたとき救国義捐金募集隊につかまって、ぼろ風呂敷を寄付させられた。南門外では大雨にあい、城門の下に雨宿りしようとして、矛を手にする二名の巡邏兵に追っ立てられ、おかげで全身びしょ濡れになり、そのあと十日あまり鼻がつまったままだった。
 魯迅は「墨子」の「公輸篇」に主題をとり、「墨子」の別の章のエピソードで肉付けをして「非攻」を書いたようです。ちなみに「墨子-公輸篇」の末尾はこのようになっています。
・・・門番が入れなかった。これは諺にある通り、「ものごとを神妙のうちに運ぶと、衆人は何人(なんぴと)の功績であるかを知らず、功を人々の目前で争うと、衆人はその何人なるかを知る」である。
 大言も壮語もせずに戦を未然に防止し、その恩義を受けたはずのものから邪険に扱われても人知れず微笑んでいるような墨子がイメージされ、好きなくだりです。

 「SAPIO」の小林よしのりはむりやり墨子をビンラディンに結びつけていました。おいしいところだけをつまみ食いして得手勝手な小理屈に利用する姿勢は、コイズミ同様の病気ではないかと思います。この国で「保守」を名乗る連中は、どうしてこんなヤツばかりなんでしょう。


 ここでは「非攻」は岩波文庫版「故事新編」によりました。岩波文庫版では、この短編のタイトルは「戦争をやめさせる話」になっています。インターネットでもここで読むことができます。(同じ竹内好の訳だと思うのですが少し違っています) 「墨子」は東洋文庫所収の藪内清訳によりました。

小便の「しゃぼりしゃぼり」という音から金子光晴の詩を

 その詩とは「洗面器」。「しゃぼりしゃぼり」という擬音語、詩句と錯覚していたのですが、前書きの中の言葉でした。(「南方詩集」所収、のちに「女たちへのエレジー」にまとめられる)

 末尾の二節の迫力は圧倒的。
洗面器
(僕は長年のあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが、爪哇-ジャワ-人たちはそれに羊-カンビン-や魚-イカン-や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし、その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは、嫖客の前で不浄をきよめしやぼりしやぼりとさびしい音を立てて尿をする。)
洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれてゆく岬-タンジョン-の
雨の碇泊-とまり-。

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。

韓非子が「世の顕学は儒墨なり」と書いたこと

「墨子」と「孟子」がそれぞれの相手に対して行った痛烈な批判

 「墨子」と「孟子」が、それぞれに相手を批判したくだりは、
墨子の場合は、非儒篇 下(上は原本が失われている)、公孟篇

孟子の場合は、滕文公章句 下
でしょうか。実際にどのような言葉を使っているかは、墨子の場合は、講談社学術文庫版(こちらは抄訳)か、平凡社の東洋文庫版(こちらは全訳ですが、原文・書き下し文がなく訳文のみ)を、孟子の場合は、岩波文庫の「孟子(上)」をご覧ください。

 ただし「墨子」の「非儒篇」は他章にでてくる「子墨子曰」という書き出しがないことから、墨子の没後、儒家との論争が先鋭化した後に書かれたと推測されているようです。(講談社学術文庫版の「非儒篇」は「非儒篇 下」の末尾近くのみを訳出しています:訳出部分は儒家の偽善性を痛烈に述べたもので一読に値します)

 「韓非子」は「世の顕学は儒墨なり」と書き出して、法家の立場から儒家と墨家を批判しています。韓非子らしい小気味のよい書きっぷりで、一読してなるほど、二読してニコリとさせられます。岩波文庫版の現代訳をほんの少し書き写してみましょう。
 世間で有名な学派は、儒家と墨家である。儒家の始祖は孔丘であり、墨家の始祖は墨テキ(擢のつくり)である。孔子が死んでから、儒家では、子張派・子思派・願子派・孟子派・漆雕氏派・仲良氏派・公孫氏派・楽正氏派が分立している。また墨子が死んでから、墨家では、相里氏派・相夫氏派・鄧陵氏派が分立している。だから、孔子と墨子の後では、儒家は八派に分裂し、墨家は三派に分裂したのであって、それぞれに学説の内容は反対でくい違っているのに、各派ともにわれこそ孔子あるいは墨子の正統だと自称している。孔子や墨子が再び生きかえれないからには、いったいだれに今の世の正統な学派を定めてもらえようか。また、孔子も墨子もともに尭と舜とを顕彰するが、その学説の内容はくい違っているのに、どちらもわれこそ尭・舜の正統だと自称している。尭や舜が再び生きかえらないからには、いったいだれに儒家と墨家の真実性を定めてもらえようか。殷と周は七百余年のむかし、虞(舜)と夏とはさらに二千余年も前のことで、もはや[周公をかつぐ]儒家と[夏の禹王をかつぐ]墨家との真実性を判定することはできない。それなのに、今、尭・舜の道を三千年も前にさかのぼって明らかにしようというのである。恐らくとてもむりな話ではなかろうか。確かな証拠固めもしないで断定するのは、愚か者である。確実に断定できないのにそれを根拠として議論するのは、詐欺師である。だから、公然と古代の聖王を根拠にしたり、はっきりと尭や舜の道を断定したりするのは、愚か者でなければ詐欺師のすることである。愚か者や詐欺師の学説と、雑駁で矛盾した行動とは、賢明な君主は受けつけないものである。
韓非子 「顕学 第五十」 から
 いかがですか。二千年以上も前の人間の書いたものとは思えないくらい(これは我々の偏見に過ぎないのですが)明晰で、整然とした論理だと思いませんか。非情の論理で通すというのなら、これくらいのレベルは維持してもらいたいと思います。

 現代の某国の宰相、コイズミの、まるで夢の中を酔歩するが如き異様な「論理」の方が、はるかに「古代の迷妄」の中にあるような気がしませんか。

スウィフトの「貧民の子女を有用ならしむる方法についての私案」

 正確な題名は、「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」。一言に要約すれば、「赤ん坊のうちに食用として売りに出す」というのが、この私案のエッセンスです。
 そうすれば、貧しい両親には赤ん坊を売った金が入り、かつ子供の将来的な養育費に煩わされることがない。また、社会にとっても、長じて働き口の不足のために乞食になったり、泥棒になったりして、安寧秩序を乱すことを防止することになるのだから、一挙両得以上の効果がある。
 スウィフトらしい凄まじいばかりのブラックユーモア。

 手許のものは、かなり古い岩波文庫で、いまは絶版になっているようです。しかし、ここに、文庫よりもはるかに読みやすく訳されているものがありますので、ご一読してみてはいかがでしょう。ただし、カニバリズムに耐性のない人はやめておく方がいいかもしれませんが。

清水義範に「年賀状小説」と名付けたい掌編があった。

 題名は「謹賀新年」。講談社文庫ならば、「ビビンバ」に収録されています。

 上司の名前は堀江長一郎、部下の名前は西崎進。昭和43年から平成2年に至る年賀状のやりとりを追った体裁をとっています。いや、西崎は昭和63年に亡くなっているのですが、いささかボケの入った堀江老人は、相手の死亡には頓着なく昔懐かしの賀状を平成に入っても出してしまったというのがラスト。

 注意深く読むと、西崎は最後まで室蘭で住所が変わらないのに対し、堀江は三度ほど住所が変わっています。二人が勤める激突鉄鋼において西崎は地元採用の雇員、堀江は本社採用のキャリアであったのではないかと想像されます。そういう間柄でも不思議にウマが合う組合せがあることは事実。これは経験者には分かる話。

 「ビビンバ」収録の小説はどれをとっても抱腹絶倒、機会があればご一読を。

君子といわず愚者ならぬ普通人も「王より飛車をかわいがる」ことはしない

そうした「国益」論を「王より飛車を可愛がるヘボ将棋」と批判し、

 こうした論考は、松尾尊兊編集の「石橋湛山評論集」(岩波文庫)に収められています。引用した「王より飛車を可愛がるヘボ将棋云々」は「一切を棄つるの覚悟-太平洋会議に対する我が態度-」のなかの一節ですが、「評論集」に続けて載せられている「大日本主義の幻想」は数字をあげて、植民地経営(朝鮮・台湾・満州)の不経済を説いたもので、当時の常識的国益論の誤りを理路整然と批判しています。植民地を棄てる道が結局のところは日本に経済的発展をもたらすことになるという湛山の主張の正しさは、敗戦後の日本の経済発展により証明されるところとなりました。

 軍事力に固執し、植民地に固執した、常識的「国益論」は明確に誤りだったのです。湛山の論考を読めば、けっしてそれは叡智にすぐれた人にしか見えないものではなかったことが分かります。事大主義にとらわれることなく、虚心に事実と向き合えば、見ることができたはずのものでした。しかし、目先の「国益論」にとらわれた人にはそれが見えなかった。それはちょうど、いま、アメリカ追随でなくては北朝鮮の脅威から逃れることも安定した経済の運営すら適わないなどという妄想にとらわれている「国益論者」が、自らすすんでアイマスクをして「アメリカについて行くしかない」などと言っているのに似ています。アイマスクを取り去り、自分の目でしっかりと現実を見れば、そんなバカな選択などあり得ないことが明白であるのに。

 湛山の論考の匂いをほんのちょっと書き写してみます。
 これを要するに我が輩の見る処によれば、経済的利益のためには、我が大日本主義は失敗であった。将来に向っても望みがない。これに執着して、ために当然得られるべき偉大なる位地と利益とを棄て、あるいは一層大なる犠牲を払うが如きは、断じて我が国民の取るべき処置ではない。また軍事的にいうならば、大日本主義を固執すればこそ、軍備を要するのであって、これを棄つれば軍備はいらない。国防のため、朝鮮または満州を要すというが如きは、全く原因結果を顛倒せるものである。
「大日本主義の幻想」 から
 湛山を視野におきながら、国のありようを考えるために、手軽に読めるものとして、田中彰「小国主義-日本の近代を読み直す-」(岩波新書)をお奨めします。たしかに、それほど簡単な世の中でなくなっていることは認めるとしても、最初からえらんで混濁した頭でカオスの海に漕ぎ出て行くこともないでしょうから。

岡崎久彦の「国家と情報-日本の外交戦略を求めて-」の無論理性

 この本の読後感が、ずいぶん昔の滴水録(当時はこんな気取った名前は付けていませんでしたが)にあります。以下のようなものです。
 岡崎久彦の「国家と情報-日本の外交戦略を求めて」読了。第1章を読んだ時は期待を持ったのだが、読み進むにつれて落胆させられた。所詮「現実主義」とは「ただそれだけ主義」のことなのだろうか。

 例えばこういうくだりがある。「つまり、『一発沿海州から打ち込まれればもうおしまいなのだから、軍備をしても仕方ないんじゃないですか』という素朴な疑問です。これに対する一番簡単な答えは、『そんなことを言えば、核兵器を持たないドイツも、スイスも、スウェーデンも、韓国も、どこも軍備が要らなくなってしまう。やはり必要だからそれぞれ持っているんだ』と言うだけでも充分と思います。」

 これは結局の所、あなたがた素人は考えるだけ無駄だから我々専門家に任せなさいと言っているのであろう。しかし、一方では「ソ連は中立条約を犯した上に北方領土を返さないということです」といい、他方では「(アメリカだけを頼りにしていると裏切られるぞと言う議論に対して)アメリカはとてもそんな器用なことのできる国ではないということです」という、こんな「情勢判断」がほとんどすべてという「専門家」ではとても任せるわけにはいかないだろう。

 すなわち自らが認知しない「共産国家」との中立条約をいつどんな状況においても維持されると判断した愚かさを閑却し、冷戦状況下で「現実判断」して選択した結果を冷静に取り扱うことをしないのは少しも「現実主義」とは思えぬ。また十分な検討を行わずに「・・・だろう」と判断するのも同様。仮に続けて書かれているように「アメリカの政策は為政者の深遠な計画によるものでなく、パワー・ポリティックスに基づく世論の反映したもの」だとしても、そうであればそうであるほど「裏切り」の危険があるというのが素人にも分かる「現実主義」である。筆者が非難する「空想的平和主義者」とあまり変わることのない「夢想的現実主義者」の本と言うのが読後感。(1/29/1987)

おそらくこのあたりはバナナな日本人・・・

いつまでもバナナ気分を変えようとしない日本

 「バナナ」というのは日系人内の蔑視用語だそうです。ちなみに「アップル」は・・・、下を読む前にあててみてください。
・・・ディック・ウィルソンはパイン・リッジ居留区の中では「アンクル・トマホーク」ないしは「アップル」と呼ばれている男である。「アンクル・トマホーク」は「アンクル・トム--白人に対するおべっか使いの黒人」をもじって使われるインディアン内の蔑視用語であり、「アップル」は日系人内の蔑視用語「バナナ--表面は黄色いが中は白い」と同じく「表面は赤いが中は白い」(インディアンはアメリカ内で赤色人種と呼ばれている)という意味で使われ、双方とも民族の裏切り者の代名詞といってよかろう。
豊浦志朗 「叛アメリカ史」 から
 日本人は「名誉白人」という称号が好きなようですね。「バナナ」という言葉で思い浮かべる人物は「岡崎久彦」です。「日本人はアジア人とは違うんです。アングロサクソンの人々は日本人を名誉白人として遇してくれるくらいですから、薄汚い黄色人種ではないんですよ」なんていいそうですな、彼なら。ホント、バナナな人だから。

ガチガチの保守主義者ならば「貞女、二夫にまみえず」と吐き捨てるところ

 史記「田単列伝」にある言葉。史記には「忠臣は二君に事(つか)えず、貞女は二夫を更(かえ)ず」とあります。
 燕に攻められ、斉の王が逃げたあと、ゲリラ的戦法を用いて国を守った田単のはたらきを記した章で、司馬遷はもう一人の無官の臣の言動を紹介しています。それが王ショクです。「忠臣は・・・」の言葉はこの王ショクが攻め入った燕の誘いを断った時のものです。
 王ショクは「忠臣は二君に事(つか)えず、貞女は二夫を更(かえ)ず、と申す。斉王はわが諫言を聞き入れぬゆえ、わしは隠退して野を耕しておる。国の滅んだいま、わしもながらえることはできぬ。それを兵力をもっておびやかし大将になれとおっしゃる。それでは桀王を助けて暴虐をなすことと同じだ。生きながらえて義を失うよりは、煮殺された方がましだ」と言って首をくくって死にます。
 斉から逃げ出していた大夫たちは、そのことを伝え聞き、「無官の王ショクさえ、義をとおして、燕に仕えようとしなかった。我々、地位につき斉の禄を食んでいたものがこれではいけない」と、同じく逃亡していた王の子を探し出し、斉の再興をはかるという話。

「言う者は知らず、知る者は言わず」だ。

まさに「知る者は言わず、言う者は知らず」なのだ。

 老子道徳経にある言葉。
知る者は言わず、言う者は知らず。
其の兌を塞ぎて、其の門を閉ざし、其の鋭を挫いて、其の紛を解き、其の光を和らげて、其の塵に同ず。是れ玄同と謂う。
故に得て親しむべからず、得て疎んずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴くすべからず、得て卑しくすべからず。故に天下の貴きものと為る。
 ほんとうにわかっている人は、しゃべらない。よくしゃべる人は、わかっていない。
 ほんとうの知者は感覚器官をふさいで知識の出入り口をとざし、とがった鋭さをくじいて、その鋭さから起こる紛糾を解きほぐし、外に輝くきらびやかさをやわらげてすべての塵とひとつになる。こういうのを玄同--不可思議な同一--というのだ。
 そこで、こうした玄同の人には、近づいて親しむこともできなければ、遠ざけて疎遠にすることもできず、利益を与えることもできなければ、損害を与えることもできず、貴い位につけることもできなければ、卑しい身分に突き落とすこともできない。だからこそ、世界中でもっとも貴いものとなるのだ。
 こうして、自分の日記に注釈などつけるわたしなどは、まさに「言う者」の最たる者で、老子の教えの対極にいるわけです(^^;)。 

"till time and times are done"はイェーツの詩から引いた。

"The Song of Wandering Aengus"(さまよえるイーンガスの歌)のこと。
I went out to the hazel wood,
Because a fire was in my head,
And cut and peeled a hazel wand,
And hooked a berry to a thread;
And when white moths were on the wing,
And moth-like stars were flickering out,
I dropped the berry in a stream
And caught a little silver trout.

When I had laid it on the floor
I went to blow the fire aflame,
But something rustled on the floor,
And some one called me by my name:
It had become a glimmering girl
With apple blossom in her hair
Who called me by my name and ran
And faded through the brightening air.

Though I am old with wondering
Through hollow lands and hilly lands,
I will find out where she has gone,
And kiss her lips and take her hands;
And walk among long dappled grass,
And pluck till time and times are done
The silver apples of the moon,
The golden apples of the sun.
 わたしはハシバミの林へ行った
 頭の中の火のような思いのために
 ハシバミの小枝を切り皮をはぎ
 イチゴを糸につなぎ
 白い蛾が飛び交い
 星が同じくまたたくころ
 わたしはイチゴを小川にたらし
 小さな銀色のマスを捕まえた

 マスを床に置き
 火をおこそうとすると
 何かがさらさら音をたて
 だれかがわたしに呼びかけた
 それは林檎の花を髪に飾り
 ほのかに光る少女となった
 少女はわたしの名前を呼び
 明るい空へとけ込むように消え失せた

 谷間と丘陵をさまよって
 齢を重ねたわたしだが
 少女の行方を捜し当て
 その唇に口づけしその手をとって
 長いまだらの草をわけ
 時の果てるその時までつみ取ろう
 白銀なる月の林檎を
 黄金なる太陽の林檎を
 SFファンでしたら、レイ・ブラッドベリの「太陽の金の林檎」という短編集をご存じでしょう。その扉の詩がこれだったはず。(なにしろ、中学のころ読んだままで、その本もいまは実家の本棚にあるかどうか)
 ファンタジックな詩なので、とても滴水録のような連想にはふさわしくないのですが・・・。

ずっと以前の日記(1999年5月30日)に書いたことだが、

買弁としてサヤを取りたいというのが隠された本心・・・

 これは、このホームページに公開していない、滴水録-1999-に書いたものにつながっています。
 こんな内容です。
 日曜の朝の楽しみは新聞の読書欄だ。最近は関川夏央の「本よみの虫干し」というコラムがいい。今日は竹山道雄の「ビルマの竪琴」を取り上げている。ひととおり作品のあらすじを紹介してから関川は
 第一次大戦中のクリスマス、英独両軍の間で歌の交歓があった。この挿話をヒントに、竹山道雄は昭和二十一年夏、「ビルマの竪琴」を書こうとした。
 最初は中国戦線を考えた。しかし中国人と共有できる歌がない。となると、相手は英軍、場所はビルマと自然に決まった。それは、日本近代のなりたちからきた必然でもあった。
と書いている。この話はあるいは創作の経緯として文庫の解説に紹介されているエピソードなのかも知れないが、「それは、日本近代のなりたちからきた必然でもあった」というのは関川の言葉だと思う。ここに明治の興国から昭和の破綻に至る日本が象徴的にあらわれている。

 今はもう過去の人になった竹内好に「ふたつのアジア史観-梅棹説と竹山説-」という書き物がある。副題から知れるように梅棹忠夫の「文明の生態史観」が発表された頃、これに悪乗りした竹山道雄を痛烈に批判したものである。
 竹山の方は最初から、日本は他のアジア諸国と異質だというドグマから出発し、いつもそのドグマの周囲を回っている。日本がアジアでないという命題が、歴史の帰納から引き出されたのではなくて、逆にこのドグマから出発して彼の歴史は組み立てられている。その点で竹山説は「脱亜論」の嫡出子である。
 自分の目で見て、どうにも納得がいかない、というので出てきたのが梅棹説だが、見るまでもなく自明な命題として、むしろ要請として、使命感として竹山説は出されている。
 だから、この動機のちがいは、両者を正反対の結論にみちびくことになる。日本は他のアジア諸国と異質である、だから、と梅棹は考える。日本の先例は他のアジア諸国には役立たぬ、と。ところが、竹山の方は「日本の先例は、これから日本が今までやってきたようなことをやろうとするほかの国のためには、ずいぶん参考になるでしょう」と考えるのである。
 一見してわかるように、この口吻は、岸信介や外務官僚にそっくりである。・・・(中略)・・・そこにかもされる雰囲気は、新しい学問をよそおいながら、その底に流れる感情がどんなに古いかを示している。
 日本はアジアではないといいながら、アジアにおける支配権を失いたくないのである。西欧(その今日のチャンピオンはアメリカだ。)とアジアの中間に立って、買弁としてサヤを取りたいというのが隠された本心である。これは今日のアジアの動きとは正反対だ。
 日本人がどんなにアジアを知らないか、という梅棹の警告は、竹山や竹山説に賛成する人々にこそ当てはまる。
――竹内好評論集 第三巻「日本とアジア」所収――
 評論集の解題によると、書かれたのは1958年8月ということだから、40年も昔のことだ。しかし、その後の日本の経済援助の実態、もたらしたもの、そして被援助国における日本という国への国民的な認識、そういったものを見ると、この指摘は正鵠を得ていたことがわかる。

 さらに書けば、シンガポールやマレーシアといった国々の成長の仕方に見る限り、「日本の先例は、これから日本が今までやってきたようなことをやろうとするほかの国のためには、ずいぶん参考になるでしょう」と述べる日本文化フォーラムのレポートは見当外れだったことが明らかだ。アジアを見損ない続け、日本はアジアの中心たる位置をついに獲得できなかった。その結果が、いま、そこここに見られる。(5/30/1999)

安定な均衡にいる船でも、ひとたびある角度以上に傾いたならば、・・・

 昨年の秋、出版されて、話題になった本、竹森俊平の「経済論戦は甦る」からの孫引きです。
 竹森の本は、現在の日本の経済情勢をどのように分析し、どのような処方箋を出すかということを考える最初の手がかりとして、かの大恐慌に際して、シュンペーターの唱える清算主義(別名:創造的破壊派)とフィッシャーの唱えるリフレ主義(別名:デフレ対策派)とを対比させるところから書き始めています。
 滴水録に書いた場面とは、まったく違う場面のものですが、「復元力」は無制限に働くものではなくて、しなる竹も限界を超えれば折れてしまう、その不安感をあらわすために引いたものです。
 滴水録本編の記事とは無関係ですが、この本、おすすめ、です。

ファウストの言葉、「この世界の深奥ですべてのものを統べている仕組み、それが知りたい」

 この言葉は、第一部のはじめにあります。
ああ、おれは哲学も
法学も医学も、
いまいましいことには、役にも立たぬ神学まで、
骨を折って、底の底まで研究した。
そのあげくがこのあわれな愚かなおれだ。
以前にくらべて、ちっとも賢くなってはいない。
       ・・・(略)・・・
そこでおれは、霊の力と啓示とによって
いくらか神秘がわかろうかと、
魔法に没頭した。
それがわかったら、つらい汗をながして、
知りもしないことをしゃべったりせずにすむだろうと思ったのだ。
いったいこの世界を奥の奥で統べているのは何か、
それが知りたい、そこではたらいているあらゆる力、あらゆる種子。
それが見たい。そうすれば
もうがらくた言葉を掻きまわす必要もなくなるだろうと思ったのだ。 
ゲーテ 「ファウスト」 から
 中央公論社の「世界の文学」、訳は手塚富雄です。この本が配本されたのは高校一年の夏休み前(東京オリンピックの年だった)でした。中谷宇吉郎の「科学の方法」(岩波新書)をあわせ読んだこともあって、ファウストのせりふは強烈に脳髄に染みついたのでした。

母さん、ぼくのあの大量破壊兵器、どうしたでしょうね、   (もうひとつ)

 先刻ご承知とは思いますが、森村誠一の「人間の証明」で有名になった西条八十の「麦藁帽子」をパロっています。もとの詩はこんなものです。
母さん、ぼくのあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏碓氷から霧積へいくみちで、渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
ぼくはあのときずいぶんくやしかった。
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき向こふから若い薬売りが来ましたっけね。
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとしてずいぶん骨折ってくれましたっけね。
だけどたうたうだめだった。
なにしろ深い谷で、それに草が背丈ぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき旁で咲いていた車百合の花は、もう枯れちゃったでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ。
母さん、そしてきっといまごろは
今晩あたりは、あの谷間に、静かに霧が降りつもっているでせう。
昔、つやつや光ったあの伊太利麦の帽子と
その裏にぼくが書いたY・Sといふ頭文字を埋めるやうに、静かに寂しく。

ワーテルロー会戦情報をロスチャイルドがどのように使ったかというあの有名な挿話

 ナポレオンこそ初期のロスチャイルド商会を巨大化するのに最大の貢献をした人物です。ナポレオン自身はそんな意図はなかったというのがおかしいところですが・・・。ところでワーテルロー会戦とロスチャイルドの話ですが・・・。
・・・ワーテルローでもしナポレオンが勝てば、イギリスの命運は風前の灯となり、その国債は暴落して紙切れ同然となる。反対にウェリントン将軍が勝てばイギリス国債は暴騰するだろう。歴史はどう展開するのか。イギリス中が天下分け目の戦いの行方を凝視していたとき、ロスチャイルド家の情報網がいち早くナポレオンの敗北を伝えた。1815年6月19日夜遅く、オステンド(現ベルギー)からウェリントンの勝利を伝えるため船に飛び乗った使いの者を20日未明、ドーバー海峡に出迎えたネイサンはただちにロンドンの証券取引所に向かった。ウェリントン将軍の飛脚よりはるかに早かった。
 取引所に姿を現したネイサンはしかし買いに走らなかった。逆に売って出たのである。その前のキャトルブラの戦いでイギリスが負けたという情報ですでに下落していた公債市場は、ネイサンが売りに出たのを見て”ウェリントンは敗れた”と受け止めてパニックに陥った。相場は暴落に暴落を続けた。そしてワーテルロー勝利のニュースがまさに広まろうとするとき、ネイサンはこんどは二束三文になった公債の買いに転じた--。
横山三四郎 「ロスチャイルド家-ユダヤ国債財閥の興亡-」 から

ケインズの「美人コンテスト効果」

ケインズが有名な主著の中で述べた「美人コンテスト効果」は、

 主著とは「雇用・利子および貨幣の一般理論」のこと。その第十二章に「美人コンテスト」の話が出てくるのだそうです。わたしは経済の勉強などしたことがありませんから、有名な本とはいえ、この大著など読んだことはありません。わたしにこれを教えてくれた本から、その部分を写しておきます。(書き写した部分のすぐ後に、直接「雇用・利子・・・」からの引用があります)
 このパラグラフでケインズが論じているのは、つい最近まで実際にイギリスでおこなわれていたある「美人コンテスト」についてである。それは、新聞紙上に掲載された100人の女性の顔写真の中から読者が投票で六人の美人を選ぶという、一見するとなんの変哲もない美人コンテストである。だが、それが大変な好評を博していたのは、ヒナ壇に座った審査員が一定の基準のもとに選考をおこなう通常の美人コンテストとは異なり、読者からの得票が最も多く集まった六名の美人に投票をした読者に多額の賞金を与えるという、読者参加の度合を最大限にする趣向をこらしていたからであった。
 さて、新聞の読者がこの美人コンテストに参加してほんとうに賞金をかせぎたいと思ったら、いったいどのように投票すべきだろうか。美のイデアを体現しているように見える顔に投票しても、じぶんにとってもっとも美しく見える顔に投票しても無駄である。なぜならば、このコンテストには、じぶんと同じように賞金をかせごうと思い、じぶんと同じように一生懸命に投票の戦略を練っているひとが多数参加しているからである。
岩井克人 「二十一世紀の資本主義論」 から

木鶏ならば故事の通り

「木鶏」たることこそが横綱の理想とされているのか。

 双葉山の連勝記録が安芸の海に阻まれた時、心の師としていた安岡正篤に打った電報「ワレイマダモッケイタリエズ」のこと。木鶏とは字の通り、木製の鶏の像。
 「木鶏」の話は「荘子:達生篇」にあります。書き下し文を書こうとしましたが、区点コードの中にない文字がいくつかあって書けません。大意を書いておきます。
キセイシが王の為に闘鶏を養った。十日して、王が「できたか」と尋ねた。「まだダメです。むやみに威張って気力に頼っています」。十日してまた尋ねた。「まだダメです。音がしたり影がさすとそれに向かってゆきます」。十日してまたまた尋ねた。「まだダメです。相手を睨みつけて気勢を張ります」。それから十日して尋ねた。「できました。他の鶏が鳴いても何の反応もしません。離れて見るとまるで木鶏のようです。そのもちまえは完全で、あえて戦おうとする他の鶏はなく、背を向けて逃げてしまいます」。
 「達生篇」全体がいわゆる達人の境地を述べたものが多く、「無為」を彼らの境地に仮託している挿話が並んでいます。わたしは「達人列伝」よりは、「二」の中にある酔っぱらいの挿話のほうが、荘子らしい感じがしてこれを推したいと思います。こんな話です。
いったい酒に酔った者が車から落ちると、怪我をすることはあっても死ぬことはない。・・・(略)・・・酔いのために彼の精神が完全になっていたからだ。車に乗ったこともわからなければ、また墜落したこともわからない。死ぬことも生きることも、驚きも恐れも、すべて彼の胸中には入らない。・・・(略)・・・彼は酒の酔いによって、精神を全うすることができたのだが、それでもなおこれほどのことがある。まして天地の自然性によって精神を全うできたものでは、なおさらのことだ。
 ところで、相撲取り風情に「木鶏」の挿話を語り、得々としているさまの安岡正篤を想像すると、わたしなぞはなぜか同じ「荘子」の「天道篇:十」にある桓公と輪扁の会話を思い出します。(興味がありましたら、車輪作りの職人「扁」さんの言葉を読んでみてください(^_^))

「治に居て乱を忘れず」

 有名な言葉ですが、出典である「易経」の文は少し違っています。
君子安而不忘危、存而不忘亡、治而不忘乱
君子は安くして危うきを忘れず、存して亡びるを忘れず、治にして乱を忘れず
「易経-繋辞伝」 から

もうひとつの杜甫の名作を書き写しておく。

 杜甫の詩の方は少し意味がとりにくいかもしれません。松浦友久「漢詩」から、おおよその意味を写しておきます。
秋の興い(おもい)
玉のような白露が結んで、紅葉した楓樹の林を凋ませる。ここ巫山巫峡の一帯には、身の引きしまるような秋の気が、深く、きびしく立ちこめた。長江の波浪は、天にとどかんばかりに湧き立ち、塞(とりで)のあたりを流れる風や雲は、大地にふれるほどに低く暗い。むらがり茂る菊の花が二度までも開くのを見れば、過ぎし日々が思い出されて涙がこぼれる。いまは、この一艘の小舟にこそ、ひたすら故郷への望みをつないでいるのだ。冬着の支度のため、あちこちで催かされるように裁縫が始められる。白帝の城壁が高くそびえるところ、夕暮れの砧(きぬた)の音のみが、せわしくも、あわただしい。

「兵は不祥の器」であるというのは人間の古くからの知恵なのだが、

兵は不祥の器にして君子の器に非ず。已むを得ずしてこれを用うれば恬淡なるを上と為す。勝ちても而も美ならず。而るにこれを美とする者は是れ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は則ち以て志を天下に得べからず。
「老子」 から
 武器というものは不吉な道具であって、君子の道具ではない。やむを得ず武器を使用するときには欲を捨てる気持ちで使うのがよい。勝ったとしてもそれは誉められることではないのだ。にもかかわらずこれをたたえる者がいるとしたら、それは人殺しを楽しんでいることだ。そもそも人殺しを楽しむような者に世界を支配するという望みは適うものではない。

ふと福沢諭吉だったかの「帝室思いの帝室知らず」という言葉を思い出し、

 どこに書いてあったかが思い出せず、昔の日記を繰ってみました。言葉そのものは記憶とは少し違っていたので訂正しておきます。(この頃、とみに記憶力が悪くなって・・・)
「保守論者、皇学者流の諸士は忠を尽くさんと欲して之を尽する方を知らず」
福沢諭吉 「帝室論」 から
 まことに痛烈な書きようですが、戦前、天皇親政を夢見た陸軍の皇道派の面々が、昭和天皇には嫌われていたことなどを思い起こせば、福沢の嘲笑、正鵠を得ていたのかもしれません。
 ついでに「地久節」の語源も書いておきましょう。
「天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生」(天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以て、故に能く長生す)
「老子」 から
 「天長地久」は天地の悠久をたたえるめでたい言葉。これを転じて、天皇誕生日を「天長節」、皇后誕生日を「地久節」と呼んでいたようです。わたしも戦後生まれなので本で読んだ知識です。こんなことを知らなくたって「尊王派」を名乗ることはできるわけですが、基本中の基本も知らぬただのミーちゃん、ハーちゃんが「皇后様のご生家」などと身に付かぬことを叫ぶのは「忠を尽くさんと欲して之を尽くする法を知ら」ない典型例かと。
 似非とはいえ、仮にも「保守主義者」風にふるまいたければ、最低限の素養なくしてはみっともないことこの上ない。

思い出したのは「ミセス・メイブリック事件」のこと。

 19世紀末のイギリスで起きた毒殺事件。被害者は夫、被疑者は妻。使用されたとする毒薬はヒ素。メイブリック夫人は大量に購入した蠅取り紙を水に浸すことによってヒ素を入手したとされた。彼女には浮気の相手がおり、ロンドンで逢い引きを重ねていた事実があり、これが夫を殺害しようとした動機だとされた。
 状況証拠は黒だが、被害者がもともとかなりの「薬」愛好者であったことや鑑定医間でも見解に大きな相違があったことなど、にわかに「毒殺」とは判定できない状況もあった。
 この事件の裁判記録をまとめた「疑惑-ミセス・メイブリック事件-」(アーヴィング編 旺文社文庫 1981)のあとがきに後藤昌次郎弁護士は「検察側立証の部分を読んだときにはメイブリック夫人を有罪と思い、弁護側立証と弁護側最終弁論を読んだときは無罪と思った。ついで検察側最終弁論(論告)を読んでいささか動揺し、裁判官の説示を読んで混乱した。そこで改めて私なりに問題を整理し、証言を読み直し、検討した。その結果、メイブリック夫人に疑わしい状況がないわけではないが、しかし合理的疑いを入れる余地がないほど有罪が立証されているわけではなく、したがって無罪となるべき事件だと思ったのである」と書いている。
 陪審はわずか35分の評議でメイブリック夫人を有罪とし、裁判長は死刑を言い渡した。しかし、鑑定医たちの間で「毒殺」であるのかどうかそのものについて意見が一致しなかったことは広汎な死刑執行猶予嘆願につながり、彼女は無期懲役になった。

いまはゲッテルデンメルングなのかもしれない。

レット・バトラーのセリフと思い込んでいた。

アメリカがゲッテルデンメルングを狙う

「つねに一つの文明が崩壊する場合に起こることが、終局においては起こるのだろうと思います。頭脳と勇気のあるものだけが、これをくぐり抜けて生き、それのないものは、ふるい落とされるのです。一つのゲッテルデンメルングを目撃するのは、あまり愉快なことではないかもしれないが、すくなくとも興味のあることですよ」
ミッチェル 「風と共に去りぬ」 から
 スカーレット・オハラの想い人であるアシュレ・ウィルクスはこんな風にいう。それに対する、スカーレットの応答は・・・
「お願いよ、アシュレ・ウィルクス! のんきそうに突っ立って、そんな愚にもつかないことをおっしゃるのはやめてくださいな。あたしたちが、ふるい落とされようという場合じゃありませんか!」
 ここは、圧倒的に、スカーレットが正しい。しかし、どうもわたしの中には、アシュレ的なものが、ずっと昔から住み着いているようで、微苦笑するだけ。

最近はアゼフを思い浮かべることがある。テロリストグループのリーダーにしてオフラーナの放った密偵だった男。

 その後の経験は彼を革命党の花形に押上げて了ったし、同時に露西亜の政府にとって秘密の無二の働き手とした。アゼフが昇ったのは押しも押されもせぬ王座で、時には自分の力に自分が酔うような瞬間さえあった。刻々と彼の地位は昇天を続けて来た。テロリスト達はこの首領に心酔するし資金は勢力に応じて自由に手に入った。誰れが、この老練で危険な仕事に当っている革命家を政府の密偵だったと疑おう。冷静にアゼフは落着きはらっていた。自分が裏切って政府に引渡した犠牲に対して、党はアゼフにくやみをいうのだ。それと同時に政府はテロリストの果敢な活躍に悩みながら、アゼフがいるので何かと喰い止めていられるものと労苦に対して厚く酬いてくれる。気がついて見るとアゼフは実に幸運な男であった。またその運を活用して自分の地位を段々と固めていく上では、ほとんど天才というのに近い腕を示して来た。
大佛次郎 「地霊」 から
 前に紹介した「詩人」の続編にあたるものです。「詩人」の執筆は戦前、「地霊」の執筆は戦後のことで、検閲を意識しないで書いたものが後者と思えばいいかと思います。
 大佛自身、「甘いヒューマニストだった私は、アゼフのような怪物が人間の中から『出る』のを知って驚きの目を瞠った」と書いています。興味のわいた方は、是非、「怪物」ぶりについて、「地霊」なり、サヴィンコフの「テロリスト群像」などで読んでみてください。

しかし「戦に負けるのは将の弱さである」。

「戦に勝つのは兵の強さであり、戦に負けるのは将の弱さである」

 服部正也 「ルワンダ中央銀行総裁日記」(中公新書)の末尾の方にあった言葉と記憶しています。なぜか、本棚に見当たりません。痛快で、心地のよい本でした。

 ないとなると、よけいに再読したくなり、本屋に行きました。しかし、絶版になってしまったようです。どうでもいい本ばかりが残り、キラリと光る本がなくなってゆくように思うのは歳のせいでしょうか。

オレもその「オットセイ」の仲間なのだと思うと「向こう向き」にでもならなきゃ

向こう向きのオットセイは密かに自嘲する他ない。

オレは「オットセイが嫌いなオットセイ」だ。

オットセイの群れよ、オレはあんたたちが大嫌いだ。

ああホントにいやな国だ。「おっとせい」の気分だよ、今夜は。

うらがなしい暮色よ。
凍傷にただれた落日の掛け軸よ!
だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで、
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、
反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おつとせいのきらひなおつとせい。
だが、やっぱりおつとせいはおつとせいで
ただ
「むかうむきになってる
おつとせい」
金子光晴 「おつとせい」 -詩集「鮫」から
 詩集「鮫」の刊行は1937年、昭和12年といえばこの国が本格的に戦争に突っ込んでいった時。いや、もっといえば、順調な侵略に国をあげて浮かれていた頃。詩人は醜い日本人を軽侮しながら、絶望しているように読めます。
 最近の「プチナショナリスト」などは、こういう客観性を「自虐的」などといって、悦に入っているようです。鏡に映してみなければ、おのれの醜さに気がつかない、想像力を持たない愚か者はそんなものです。
 収録されている作品は、「おつとせい」、「泡」、「塀」、「どぶ」、「橙台」、「紋」、「鮫」、計7編。いずれも長文で、いささかの読解力を必要とするかもしれません。
 ここに紹介したのは「おつとせい」の第三連、後半の部分です。

シニョレッジを独占している感のあるアメリカが・・・

恐ろしいのは、その事態に立ち至る前に・・・

・・・そして、君主の数多くの特権のなかでも、この貨幣鋳造権ほど君主に大きな利益を与えた特権はほかになかったのだろう。いつのまにやら、シニョレッジという言葉が、君主が君主であることによって得る「貨幣発行の利益」という卑俗な意味に転じてしまったのである。君主であるから貨幣発行の利益を独占しうるのではない。貨幣発行の利益を独占するものこそ君主である、というわけである。・・・(かなり略)・・・
 そしていま、アメリカという名の「君主」が、ヨーロッパ中世の王侯や日本近世の将軍家と同様の誘惑に身をさらしている。なにしろ、ドルを基軸通貨とするグローバル市場経済のもとでは、アメリカは自国通貨ドルを多く供給すればするほど、多くのシニョレッジが手に入る仕組みになっているのである。こんなうまい話はほかにはない。
 しかし、もしこのシニョレッジの誘惑に負けて、アメリカが実際にドルを過剰に供給しはじめたとしたらどうなるだろうか。そのとき、ドルは暴落をはじめてしまうだろう。そして、それが基軸通貨としてのドルを支えているあの「予想の無限の連鎖」を崩壊させてしまうところまで進展すると、起こりうる悲劇は中世ヨーロッパや近世日本における経済混乱の比ではない。それは、まさにグローバル市場経済全体を解体してしまうのである。
 ・・・(略)・・・機軸通貨国アメリカは、普通の国としてふるまってはならない。機軸通貨国は機軸通貨国であるかぎり、好むと好まざるとにかかわらず、その行動にはグローバルな責任が課されてしまうのである。たとえそれが自国の通貨であろうとも、ドルの発行はグローバル市場経済全体の利益を考慮しておこなわれなければならないのである。
 ・・・(かなり略)・・・貨幣の供給がシニョレッジをうみだすかぎり、貨幣の供給者は貨幣を過剰に供給する誘惑にさらされる。そして、貨幣がじっさいに過剰に供給されると、貨幣が貨幣でなくなってしまうハイパー・インフレーションがひきおこされてしまうのである。
岩井克人 「二十一世紀の資本主義論」 から

現在の顔は、そう、「政治の原理は敵を殺せの一語に尽きる」という埴谷雄高の言葉を瞬時に理解させる、そういう顔だ。

かつて埴谷雄高は「政治の裸かにされた原理は、敵を殺せ、の一語につきる」と書いた

 政治の裸かにされた原理は、敵を殺せ、の一語につきるが、その権力を支持しないものはすべて敵なのであるから、そこでは、敵を識別する緊張が政治の歴史をつらぬく緊張のすべてになっているのであって、もし私達がまじろぎもせず私達の政治の歴史を眺めるならば、それがあまりにも熱烈に、抜目なく、緊張して死のみを愛しつづけてきたことに絶望するほどである。
 政治の目的がひたすら権力の維持と奪取にあって、それ以外になんらの目的をももたないことを私達は知っている。さて、権力の維持は階級制の上に立っているが、権力の奪取がやはりなお階級制に立脚して行われ、しかもなお、その奪取者が自らを変革者と呼ぶときは、そこに単なる僭称があるのではなくして、腹立たしい悲劇があるのだといえる。腹立たしいというのは、そこになお私達の悪徳の根源である階級制が不動の基本としてあるからであり、悲劇というのは、そこになお黒い死があって、しかもその暗い死が明るい死とされているからである。
埴谷雄高 「幻視のなかの政治」 から

ただひとこと「觚、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや」書けばそれで事足りる

觚、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。(「論語:雍也」から)

子の曰わく、觚、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。(子曰、觚不觚、觚哉、觚哉)

【あらずもがなの現代訳】
先生がいわれた、「[飲酒の礼で觚(こ)の盃を使うのは、孤(こ)すなわち寡(すく)ない酒量のためであるのに、このごろでは大酒になって]觚が觚でなくなった。これでも觚であろうか。觚であろうか。」

 論語を普通によみ進むとさして印象に残らないこの言葉にスポットライトをあててくれたのは呉智英だったと記憶するのですが、彼のどの本にそれが書いてあったか忘れてしまいました。ただ、呉によると、孔子先生はここでは尋常の怒り方ではなく、「これが觚か、こんなものは觚ではないッ、こんなものが觚であってたまるかッ」ぐらいのニュアンスなのだということでした。つまり、滴水録に戻ると、「これが改革か、こんなものは改革ではない、こんなものが改革であってたまるか」というのが、わたしの怒りなのです。(別に解説するほどのことではありませんがね)

こういう話になるといつも漱石が日記に書いていたことを思い出す

そういう下賤な連中について、漱石はその日記に・・・

漱石は「西洋人は・・・」と書いたが・・・

 日本人を観て志那人といはれると厭がるは如何。志那人は日本人よりも遥かに名誉ある国民なり。ただ不幸にして目下不振の有様に沈淪せるなり。心ある人は日本人と呼ばるるよりも志那人といはるるを名誉とすべきなり。仮令然らざるにもせよ日本は今までどれほど支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよかろう。西洋人はややともすると御世辞に志那人は嫌いだが日本人は好だといふ。これを聞き嬉しがるは世話になつた隣の悪口を面白いと思つて自分方が景気がよいといふ御世辞を有難がる軽薄な根性なり。
夏目漱石 「日記 明治三十四年三月十五日」 から

清少納言は「なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたう言ひたる」を「にくきもの」のひとつとして

「なでふことなき人」が偉そうにしゃべると・・・(「枕草子」から)

にくきもの
 ・・・(略)・・・
 なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたう言ひたる。

【あらずもがなの現代訳】
にくらしいもの
 ・・・(略)・・・
 たいした事もないくだらぬ人が、満面に笑みをたたえて得意げに弁じ立てた様子。
 さしたる見識もなく、ものごとを深く考えた様子もうかがえない人が、ニヤニヤしながら、ダラダラとしゃべるのを聞くとき、いつも、高校の古典の時間に読んだ、この清少納言の言葉が浮んできます。人の世は変わらぬもののようです。

政府当局の都合と虚栄心から、彼らは戦争への意志を固める

●戦争に於ける政府と民衆
 復讐や、正義やの純な感情が、民衆を戦争に駆り立てる。丁度我々の個人間で、侮辱への決闘を意志する如く、そのように民衆は、彼等の敵国を人格視し、戦争を倫理化しているのである。
 一方で、戦争の主導者たる者ども--官僚や、政府や、軍閥や、資本家や--の観念は、ずっとちがったものに属している。彼等にとって、戦争は全く打算的に決行される。たとえば領土の野心から、金融上の関係から、人口移植の必要から、もしくは内乱や危険思想の転換から、政府当局の都合と虚栄心から、その他のさまざまな事情による利益と損失の合算が、彼等の「戦争への意志」を決定する。そして戦争は、かく功利的打算による投機の外、彼等にまで、何の倫理的意義を有していない。正義とか? 復讐とか? もとよりこの種の感傷的な言語は、ただ素朴な民衆にだけ、民衆を扇動する目的にだけ、太鼓によってやかましく宣伝される。
 それ故にまた敵国は、彼等戦争の指導者にまで、何ら人格的のものでなく、賭博商法における相手の張り方にすぎないのだ。我々の張り手が、いま互に争うものは、ゲーム台のかけひきであって、相手の人間そのものに関係しない。もとより彼等は、互に決闘すべき理由を知らない。況んや憎悪の念もなく憐憫の意志もない。所詮互の敵国は、戦争の主謀者にまで、一の運だめしのカードにすぎないだろう。そのやり方で、ペテンと奸策を弄することでは、両方共に抜目がなく、もちろんの話であるが。
 されば戦争の終った後までも、民衆の間には、尚久しくあの愚劣な興奮--敵愾心を指すのである--の残火が燃えているのに、一方では、それの扇動者等が、丸でけろりとしてしまっている。丁度、ゲームを終った同士のように、彼等は互に笑顔をつくり、次の新しき打算のために、いそいそとして敵に近づき、心底からの親睦を始めるのである。それによって民衆が、いつでも馬鹿面をし、呆気にとられてしまう。
萩原朔太郎 「虚妄の正義」 から

昭和天皇は「沖縄と二級国民をアメリカに売ること」によって沖縄の人々に報いた。

沖縄を人身御供として差し出すというある種の領土割譲を積極的に申し出たこと

アメリカに人身御供として差し出した彼としてみれば、

自らの地位の保全のために沖縄を勝手にアメリカに差し出しても

昭和天皇の「沖縄メッセージ」と呼ばれているものが存在している。

 まず、はじめに、「昭和天皇ファン」の「陛下がそのようなことを仰るはずがない」という思い込みに応えておきましょう。「ファン」は普通なかなか頑固なものです(^_^)。ですから、そういう「ファン」の皆様にも受け入れてもらえる「証言」をご紹介することからはじめましょう。
 その「証言」は長く昭和天皇の侍従を務めたことで知られた入江相政氏の日記、昭和54年(1979年)にあります。(無関係と思われるところもそのまますべて書き写します。関係分を太字にします)
四月十九日(木)  曇  薄寒  六、三○  一一、○○
 朝、園子さん来て下さる。朝刊に靖国神社に松岡、白鳥など合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになつちまふ。直接、吹上に出る。お召といふことで出たら昨夜、赤坂からお帰りの車中でうかがつた「沖縄をアメリカに占領されることをお望みだつた」といふ件の追加の仰せ。蒋介石が占領に加はらなかったので、ソ連も入らず、ドイツや朝鮮のやうな分裂国家にならずに済んだ。同時にアメリカが占領して守つてくれなければ、沖縄のみならず日本全土もどうなつたかもしれぬとの仰せ。今日は御気分もよく迎賓館でもお立派。宮殿に還御。三笠同妃、明日よりイラクに御出発につき拝謁。随員への賜物伝達。二時、青山斎場。佐々氏。四十五年前に君子を救つてくれた人。文化放送、母の日の録音。少し早く帰宅。浅野といふ人もう来てゐる。話をしてから書庫の写真。園子さんのコロツケなどで食事。「春の珍客」のあと礼状。安眠。

(他日の関係部分はこちら)
「入江相政日記 第十巻」 から
 では、具体的に、寺崎英成を通じてアメリカ側に伝えられた内容とは、どのようなものだったのか?

 それは雑誌「世界」の1979年4月号掲載の「分割された領土」(進藤栄一)に明らかにされています。進藤は米国立公文書館で対日占領資料を調査中にこの事実を伝える資料を発見したのでした。

 「世界」の記事コピーが見つからないので、前後の事情解説を含めて書いたものとして、下記を紹介します。
 こうした国際情勢などを背景にした47年9月20日、宮内庁御用掛りをつとめる寺崎英成がマッカーサーの政治顧問W・J・シーボルトを訪ね、沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えた。それによると天皇は、
「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。・・・その占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。・・・そうした政策は、日本国民が、ロシアの脅威を恐れているばかりでなく、左右両翼の集団が擡頭しロシアが”事件”を惹起し、それを口実に日本内政に干渉してくる事態を恐れているが故に、国民の広範な承認をかち得ることができるだろう」--『世界』(岩波書店'79年4月号)「分割された領土」(進藤栄一)
と思うと寺崎に語った。寺崎はそれに基づいてシーボルトに伝えているのだが、このきわめて注目すべき文書は、9月22日付けでシーボルトが国務長官のマーシャルに送った書簡に含まれていた。その中にシーボルトがマッカーサーのために認めた「覚え書」があり、「天皇の軍事占領の継続希望」は、冒頭に書かれている。この書簡および文書は米国立公文書館に保存されており、筆者はそのコピーを那覇市資料編集室で入手した。ただし訳文は、筑波大学教授の進藤栄一氏に拠った。
 天皇はさらに沖縄の軍事占領の期間や形態そしてその影響・効果について次のように寺崎を通じてアメリカ側に伝えた。
「アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の--25年から50年ないしそれ以上の--貸与をするという擬制の上になされるべきである。・・・この占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差止めることになるだろう」--前述資料--
田中伸尚 「ドキュメント昭和天皇 第六巻」 から

光太郎の詩を思い出させる「ももんがあ」のような顔が並んでいた。

鈴木の顔はまさに「根付の国」そのもの、じつに卑しい。

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付のような顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、
   麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人
高村光太郎 「根付の国」 -詩集「道程」から

朔太郎がうたった水族館の蛸になってしまう

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚した時、不幸な忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臓の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順々に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食ひつくしてしまつた。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの忘れられた水族館の槽の中で。永遠に--おそらくは幾世紀の間を通じて--或る物すごい欠乏と不満をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。
萩原朔太郎 「散文詩 死なない蛸」

平和な国の安全な場所で、自らはけっして参加することのない戦闘を煽り立てつつ・・・

戦争を煽り立てるのは小児的ミリタリーマニア向けの営業上パーフォーマンス

「・・・人から聞いた話だけれど、なんでも戦争がはじまると、とたんに新聞の儲けは倍になるそうですな。だとしたら、あの連中が、民衆やスラブ人の運命だとか・・・何だとかってことを、何で計算にいれずにおくもんですか?」
・・・(中略)・・・
「わたしはね、ひとつだけ条件を付けてやりたいんですよ」公爵がさらに言った。「アルフォンス・カルルが、プロシャ戦争の前に、うまいことを書いたでしょうが。『諸君は、戦争がどうしても必要とみなすのか? 大いに結構。戦争を説く者は、最前線の特別部隊に入れて、全軍に先がけて、襲撃や突撃におもむかせるがよい!』とね」
「さしづめ編集者なぞは、いい兵隊になるでしょうな」カタワーソフが、知り合いの編集者たちを、この選りすぐった特別部隊に入れたところを想像して、大声で笑いながら、言った。
トルストイ 「アンナ・カレーニナ」から
 ほんとうは、このくだりに続くレーウィンの自問自答の方が、的を射ているのかもしれませんが、少し長いのでこちらを。薄田泣菫の「茶話」にも紹介されてますしね。

かつて「ちいさい子供たちを、・・・誰れが殺せますか?」と言って爆殺を中止したテロリストがいた。

カリヤエフのメンタリティは

カリヤエフはセルゲイ大公を自爆テロで屠ろうとしながら・・・

 総督の馬車は闇の中から輪郭をあらわした。馬具の色も見える。これは白色なのがセルゲイ大公の馬車の特徴である。カリャアエフは闇を通して馭者の顔を見た。幾度か間違いのないように見て記憶して置いた大公の馭者ルウヂンキンの顔である。カリャアエフにはもう神経の興奮はない。冷たい意志が厳然と腰を据えているだけである。今は彼に比して冷静な同志の誰れを羨もう。彼自身が待っていた「楽になる時」が目の前に来たのである。
 毛布にくるんだ爆弾をさげたまま、真直ぐに彼は出て行って馬車を迎えた。爆弾を持った手を肩より上へあげた刹那に、青い洋燈の微かな光の中に、大公の姿が見えた。モスクワ総督セルゲイ大公と、その他に大公妃、それから稚い男女の子供の顔であった。
§
 はなればなれの場所に立って逃走の準備を遂げながら同志の者が今か今かと待ち構えていた爆音は遂に聞こえて来なかった。
 総督の馬車の来たことは、公園の付近にいる者には知れていた。カリャアエフはどうしたのか?
 爆弾が不発だったのか?
 いや、そうではない。馬車はボルショイ劇場の前に横付けになった。セルゲイ大公は、人々の出迎えを受け、夫人たちを従えて劇場の内部へ入って行った。
 風だけが、相変わらず暗い空に吹いている。公園のベンチに待っていたのは、指揮者のサヴィンコフであった。カリャアエフは歩いてそこへ来た。
「已むを得なかったと思います。」
 と彼は云った。
「ちいさい子供たちを、・・・・・・誰れが殺せますか?」
 カリャアエフは興奮に蒼ざめていた。殆ど真直に口もきけない様子であった。
大佛次郎 「詩人」 から
 いちばん入手しやすいのは「大佛次郎ノンフィクション文庫7」だと思います。

 大佛はこの場面の記述をテロリストグループのリーダだったサヴィンコフの回想録によったとしています。その回想録とは、たぶん「テロリスト群像」のことでしょう。(サヴィンコフはロシア革命中から、反革命側に立つようになります。彼がソビエト政権にとらえられ、その法廷で行った陳述が「テロリスト群像」の解説に収められていて、後のソ連崩壊を知る眼で見ると興味深いところがあります)

 このエピソードを戯曲にしたのが、カミュの「正義の人々」ですが、この本はうちにはありません。(残念ながら、読んでもいません)

荊軻が始皇帝を襲った昔・・・(「史記:刺客列伝」から)

荊軻というのは、衛の人である。・・・その人柄は沈着で、読書を好んだ。かれの歴訪した諸国では、どこでもかれはその地の賢人・豪傑・長者と交わりを結んだ。燕におもむくと、燕の処士の田光先生がまたかれをてあつく遇したが、それは荊軻が凡俗な人間でないことを理解していたからである。・・・
 幾分長いのでイントロの紹介のみ。興味があれば、岩波文庫がおすすめ。「危険をおかしながら安全を求め、災いを作りながら福を求めようとは、そのはかりごとは浅はかで、生ずる恨みは深いもの」などという言葉が、とりようによってはいまに通ずるところがあって、一読の価値はあるかも。

ネパール王室は未だ「王殺し」の伝統を守っているのか・・・(フレイザー「金枝篇」から)

・・・いま彼が警戒を怠らない人物は、遅かれ早かれ彼を殺して、その代りに祭司となるはずであった。これこそこの聖所の掟だったのである。祭司の候補者は、祭司を殺すことによってのみその職を継承することができ、彼を殺して祭司となった暁には、より強く更に老獪な者によって自分が殺されるまでは、その職を保つことを許されるのである。

「兵を去らん」、そう答えた。

防衛費をそのまま教育費にまわして・・・(「論語:顔淵」から)

子貢、政を問う。
子の曰わく、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。
子貢が曰わく、必ず已むを得ずして去らば、この三者に於いて何れをか先にせん。
曰わく、兵を去らん。
曰わく、必ず已むを得ずして去らば、この二者に於いて何れをか先にせん。
曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民は信なくんば立たず。

【あらずもがなの現代訳】
子貢が政治のことをおたずねした。
先生はいわれた「食料を十分にし軍備を十分にして、人民に信を持たせることだ。」
子貢が「どうしてもやむを得ず捨てるなら、この三つのなかでどれを先にしますか。」
先生は「軍備を捨てる。」といわれた。
「どうしてもやむを得ずに捨てるなら、あと二つのなかでどれを先にしますか。」
「食料を捨てる。食料がなければ人は死ぬが、昔から誰にでも死はある。人民は信がなければ安定しない。」といわれた。

河野と谷垣の風貌、人品骨柄を並べつつ・・・

龍之介や朔太郎の皮肉めいた言葉

芥川龍之介  「理性がわたしに教えたものは畢竟理性の無力だった」(「侏儒の言葉」から)

萩原朔太郎  「理性は非理性をすら論駁することはできない」(「新しき欲情」から)

「ナチスが***を攻撃した/・・・(略)・・・/なにもしなかった」のリフレインで知られるニーメーラーの詩

ニーメラーの詩のようなことが起きつつあると考えた方がいい

ニーメラーの有名な詩

ナチスが共産主義者を襲ったとき
わたしはすこし不安になった
けれどもわたしは共産主義者でなかったので
なにもしなかった
それからナチスは社会主義者を攻撃した
わたしの不安は前より強くなった
けれどもわたしは社会主義者ではなかった
だからやはりなにもしなかった
学校が 新聞が ユダヤ人が
というふうにつぎつぎと攻撃され
そのたびにわたしの不安は強まったが
それでもわたしはなにもしなかった
それからナチスは教会を攻撃した
わたしはほかならぬ教会の人間だった
だからわたしはなにかした
しかし、そのときはすでに手遅れになっていた