ベスト8進出をかけた対パラグアイ戦。各45分の前半・後半、各15分の延長前半・後半、計120分を終わってスコアレス。PK戦に持ち込まれた。

 コイントスでパラグアイが先攻。観ているだけで胃が痛くなる。ピッチに立つメンバーはどんな気持ちか。連続で試練を受けるキーパーはもちろん蹴る方はそれ以上に違いない。先方、我が方と順にPKを決め、我が方の3人目、駒野が蹴ったボールがクロスバー正面やや左に当たってはじかれた。続く4組目は双方とも決め、パラグアイの5人目。我が方のメンバーはひざまづき、祈るような姿勢をとった。こちらもテレビの前で手を合わせたが、奇跡は起きなかった。

 中継映像は選手の表情をアップで追う。その映像から二つ。一つはパラグアイのキーパーの表情が駒野の順になったとき、わずかに緩んだような気がした。軽い違和感があった。「3回目になると少し余裕を感ずるようになるのか」、そう思った。

 もう一つは、本田の表情。駒野が外し、パラグアイが決めた。つまり自分が外せばその段階で終わるというシチュエーション。「深い川は静かに流れる」という言葉があるが、本田の表情はそれだった。そのまま表情を変えることなく蹴り、決めた。可笑しかったのはパラグアイのベンチの表情だった。ラテン系の人は感情を表現する責任というものを意識しているらしい。明らかに彼らは本田がミスをすることを確信するほどではなくとも期待していたのだ。

 一歩進みたいというのが素人の願いだったわけだが、まず半歩進んだ。あのトルコ戦のときは武者震いにとどまったのだから、この半歩は大きい。ゆるゆる登る裾野こそが高い頂へ続く道だ。

 よくやってくれたと思う。120分の試合を長く感じさせないナイスゲームだった、そういう見方がアベレージの国のチームとしては。やがてもっと注文の多い観客が育ってくれば、あのゲーム内容では満足しなくなるだろう。一つの文化はそのようにして成熟してゆくのだ。・・・などと思いつつ、急に尿意を覚えた。トイレの壁の暦を見た。「仏滅」だった。(6/30/2010)

 G8に続くG20も閉幕した。いまや完全に内向きになっている我がマスコミは債務残高が大きくギリシャの二の舞いが懸念されると宣伝しまくった我が国が「例外扱い」とされたところに興奮しまくっている。これはサンケイから朝日までのすべての我がマスコミがふだん口をそろえて言っていることを否定することで、メンツをつぶされたような感覚でいささか過剰に反応しているのだろう。

 ではなぜ我が国を例外とするのか。今回の議長国カナダのハーパー首相は、国債の自国内での引受け手が50%弱のアメリカ・ドイツ、30%のギリシャに比べて、日本は95%に及ぶことをあげ、投げ売りによって金利が跳ね上がるリスクが少ないことをあげた由。

 財政赤字に関する話には、あしたにも日本国は破綻するというノストラダムス的「大予言」から、ひとつの家庭で子供が親から借金しているようなものだから何の心配もないという至極呑気な「楽観論」までがあって、素人にはいずれが正しいのか判断しかねるところがある。ただ海外から聞こえてくる話はどちらかといえば「大予言」を完全否定するかどうか別にして「楽観論」を肯定するものが多い。ハーパー首相のコメントもそれに沿ったものだ。まあ、これは、ひねくれて考えれば、ギリシャのように自分たちに迷惑が及ばないので関心がないと言ってもいいのかもしれない。

 どうも「大予言」は増税をもくろむ財務官僚と御用記者クラブがトリッキーな話に仕立て上げている匂いがプンプンするので、どちらかというと「楽観論」をとりたい気持ちが強い。

 その傍証になりそうなことをひとつだけ書くとすれば、ボラティリティが増す事態になると十中八九以上の割合で「円高」になることだ。いったいどこのだれが「あしたにも破綻する国の通貨を安全な逃避先」とするだろう。つまり「円」は「ドル」と同等か、むしろ「ドル」以上に「安全な通貨」だと評価されているということではないか。

 閑話休題。

 G20に関する報道を見ていて、ちょっとした「既視感」を覚えた。世界経済の危機に対して統一的に立ち向かえないG20、それがギリシャ危機以降語られたEUの不完全性、ユーロの脆弱性の露呈状況にそっくりにそのままのように見えたのだ。

 EUの不完全性、あるいはユーロの脆弱性というのは、経済的統合(金融統合というのが正しいのかもしれない)のみがあって政治的統合はないことに端を発していると言われた。ECBという統一中央銀行があっても、財務省は各国ごとに独立し財政に関する管理は各国の自由裁量に任されている。そして各国ごとのバラバラな経済政策がユーロの足を引っ張るのだという話。

 まず手始めに、いまや世界のほとんどの厄災の発信源となっている「悪の帝国」アメリカがサブプライムローンの焦げ付きに対する処置を誤ってリーマンショックが起きた。それはアメリカの甘言にのせられて「グローバリズム」を受け入れた国々に多大の迷惑を及ぼした。にもかかわらず、グローバル経済(=EU経済)が危機に陥ってもG20(=EU加盟国)はしっかりした協調行動をとることができない。各国が個別に行う経済対策は、渾然一体となったグローバル経済の変調に対しては、時に相互に足を引っ張るだけになってしまう。本来はEU経済システムにも、グローバル経済システムにも個々の国の協調行動などという場当たり的な生ぬるい処置ではなく、国境を越えて動き回る「マネー」に対する厳正な国際ルールによる規制が必要なのだろう。しかしそれをさせないのが「市場原理主義」という野獣。

 EUに対しては「通貨統合」が早過ぎた「理想」のように言われている。それはその通りだ。しかし、アメリカ主導のグローバリズムにおける各国の「個別通貨」は、逆に言えば「いまだ打破されない旧弊」と言えなくもない。その証拠に「外国為替」という場面には常に「歪み」が発生している。

 「歪み(あるいは価値ギャップ)」は「収益源」の別名だから、FXが不健全な不労所得をもたらすカジノになるのは当然のことなのだ。まあ、当家も微々たるものながら、その「恩恵」に浴していることは事実だから、これを悪し様に言うのは偽善というものだが、呵々。

 外は雷雨。かなりの降りで、稲光、雷鳴ともはなばなしい。あと、決勝トーナメント最初のパラグアイ戦のキックオフまで小一時間。(6/29/2010)

 朝方に**(義父)さんを眼科まで送り、**(義母)さんの墓参りをしてから、柳津経由で松島へ。

 松島の「松庵」は旅館。併設された「海音」というレストランで昼食。**さんの招待。松島湾の入江にあって、窓からはそのままいくつかの島が見える。眺めの良さは田里津庵に少し譲るが、味はこちらの方が勝るかもしれない。

 きのう、夕食後に涌谷の天平湯へ行った。帰るときにはすっかりあたりは暗くなっていた。都会では想像もつかないくらいに田舎の夜は暗い。はじめて豊里に来たときのことを思い出した。東北線の小牛田で降りてタクシーで**(家内)の家をめざした。あの日は、きのうとは違って、降るような星空だった。そんな星空の記憶は、プラネタリウムの星空体験を除けば、それまでにはたった一回しかなかった。

 あれから三十数年が過ぎた・・・という感覚に浸ろうとしたとき、運転していた**(長男)が言った。「ほんとうに変わらないね、いつ来ても」。変わっていないわけではない。走っている道は、昔はもっと曲がりくねり、見通しも悪かった。しかし、たしかに変わっていない。田んぼも、畑も、川も、山も、・・・これで曇ってさえいなければ、降るような星空を見ることもできるはずだ。

 「もうあと何回も来ないかもしれない、**(義父)さんが死んだら」、独り言のように思わず口から出た言葉だった。**(長男)が何か言っていたが憶えていない、わずか24時間ほど前のことなのだが。口をついた言葉の出元について考えていたからだ。それは**(義父)さんの老い先の時間でもあるが、それ以上に自分自身に残っている時間を意識した言葉でもあった。

 別に体のどこが痛い、何が気になるというわけではない。けれども、それほど長い時間が自分にあるわけではない。そういう気持ちが確実に大きくなりつつある。そう何回も来るわけにもゆくまいとはそういう思いがもらしたのだろう。時間もそうなのだが、最近、鬱々として楽しめない、気分がふさぎかける、そういう状態にいるなと自覚する回数が少しずつ増えてきている。(6/28/2010)

 G8宣言に「哨戒艦事件」への言及が盛り込まれた由。安保理では、この国のマスコミの報ずるところをまるまる信じても「ペンディング扱い」、最悪は先日の「議長談話」で終わってしまう可能性が否定できない。李明博政権がG8開催直前に「非難決議と議長声明のどちらでも構わない」などと言ったのは、安保理に向けての発言というよりはさしあたって国際的に注目される場がG8、なおかつそこには中国がいないことを意識したからかもしれない。我が宰相があえてこれを宣言に盛り込むように提案したのは、ここで韓国に貸しておくことの有利を計算したからだろう。

 もちろんアメリカからの要請があったという見方もできる。しかしそうだとすれば、なぜアメリカは北朝鮮を再度テロ国家に指定しないのだろうか。テロ指定国家解除はブッシュ政権が行ったものでオバマ政権としては再指定をためらう理由はない。それだけではない常に強硬な姿勢をとりたがる共和党筋からテロ国家再指定の声が上がらないのはじつに不思議な話だ。某サンケイ新聞のいう「哨戒艦撃沈」が「戦争行為」であるならば限定的な報復が検討されてもおかしくはない。逆に「戦争行為」でないとすれば、これこそ「テロ行為」にあてはまるではないか。どうやらアメリカにはこの国のマスコミが伝えない別の認識があるようだ。だからこそアメリカは表に立とうとせず、李明博政権のたっての願いを実現したのは我が宰相だったというわけだ。

 しかしG8にはロシアがいた。ロシアが先月末から今月はじめにかけて専門家チームを韓国に派遣したことは既に13日の日記に書いた通り。ロシアは専門家チームの検討結果が出ていないことを理由に北朝鮮を名指しすることに同意しなかった。その結果、中国のいないG8においてさえ、「哨戒艦事件」の記述はかろうじて韓国のメンツをたてるていどにしかならなかった。

 世界中が注視しているのは、もちろん目下の経済問題であり、その点ではこれに続くG20の論議であることは書くまでもない。極東の一隅で起きた「不思議な事件」にこだわっているのは、普天間基地がらみでわけの分からない「抑止力」論議の助けにしたい菅政権と、民主化しすぎた国にいま一度「冷戦」の亡霊を復活させたい李政権くらいのようだ。

 「哨戒艦事件」を選挙に利用しようとした李明博政権のもくろみは今月はじめ失敗しただけでなく、来月末にも失敗に終わりそうな気がする。もし「事件」の下手人が意外なところにいるとすれば、来月の半ばまでには新たな「事件」を引き起こしたくなるかもしれない。たぶんそれはできないだろうが。

 きょうはこれから、**(長男)と豊里までドライブ。10時出発は無理・・・のようだ。(6/27/2010)

 春の講座、第三講。テーマは「国連平和維持活動と多国籍軍」、講師は佐藤哲夫教授。

 まず国連の枠組みによる安全保障の考え方から入り、冷戦下での状況、冷戦後の状況、安保理決議に基づく多国籍軍の活動を順に概観した後、我が国の平和維持活動、多国籍軍への参加について国内状況を法的な問題からみるというものだった。

 文献的なことをのぞけばはじめて知るような話はなにもなかったが、関わる事項を専門家に整理してもらってこれで決定的に見逃していることはないという安心感のようなものが得られるのはやはりありがたい。「否定的に」という意味ではなく「批判的に」考えてゆくための必須条件だ。

 現在の関心事項はもっぱら経済と税制に向いているため、ここしばらくはこの件について読んだり、考えたりする時間はなさそうな感じではあるが・・・。(6/26/2010)

 "Surrexi, Vidi, Vici."、でいいのかな?・・・気取らずに書けば、「起きた、観た、勝った」。

 3時過ぎに起きて、決勝トーナメント進出をかけた対デンマーク戦をテレビ観戦。3-1で勝った。

 前半、開始直後はオランダ戦の後半のスタートに似た感じだった。むこうの動きはよく、我が方の動きはどこかぎこちなかった。しかし転換点はすぐに訪れた。本田と遠藤がフリーキックをダイレクトに決めて2点。デンマークは日本のいままでの攻撃パターンから見て、直接狙ってくることはないと思っていたのではないか。身長差の関係から我が方の選手は万里の長城の前に並ぶ子供のように見えたが、「長城」の壁はあまりジャンプをすることもなかった。それはどちらかというと日本の「自分では決めたがらない消極的な特性」を確信していたからではないか。

 後半、まだ逃げ切るというには微妙な時間帯にペナルティキックを相手に与え、1点返された(キーパー川島は好セーブするも、はじいたところを蹴り込まれた)後、本田から受けたパスを岡崎が決めてダメを押した。得点のシーンはもうずっと昔から我が方がそれを相手に決められるところばかりを見続けた。それを我が方がやってのけたのだからまさに会心の勝利。勝ったことの嬉しさは当然として、勝ち方にそれ以上の快感があった。

 オランダはカメルーンを下し3戦全勝。我が方は2勝1敗でE組2位。F組は1位パラグアイ、2位スロバキアとなったので、決勝トーナメントの相手はウルグアイ。戦いは29日、日本時間11時から。こんどはあまり無理なく観られそう。懸念はきょう(日本時間の)の試合で遠藤と長友が「遅延行為」でイエローカードを食らったこと。日本は引き分け以上で勝ち上がりということで、主審はかなり厳格に「遅延行為」をとったのではないかという話。

 それにしてもドイツ大会で優勝のイタリアが2分1敗でF組最下位、準優勝のフランスが1分2敗でA組最下位とはね。そのフランスではとんだ騒動が起きている由。以下、朝刊から。

見出し:右派、移民社会に矛先/W杯惨敗 仏政界激怒
 【パリ=稲田信司】サッカーのW杯南アフリカ大会で内紛の末に惨敗したフランス代表が24日、帰国した。排外的な与党議員有志らが、移民社会出身の選手らの再教育を求める趣旨の要望書を政府あてに提出。大のサッカーファンというサルコジ大統領はといえば怒り心頭の様子で、自ら代表の再生に乗り出した。・・・(中略)・・・
 フランスは1998年大会で優勝、2006年の前回大会では準優勝したが、今回は1勝もできず、決勝トーナメント進出も逃した。
 右派与党の民衆運動連合(UMP)の有志議員13人は23日、「もうたくさんだ」と題する要望書を政府に提出。国歌斉唱や祖国への忠誠など代表選手の義務を定めた憲章をつくり、選手全員に守らせるよう求めた。リベラシオン紙によると、UMP議員の中には、アネルカ選手ら移民社会出身者を「社会のクズ」とさげすむ人もいたという。 ・・・(後略)・・・

 洋の東西、国の別を問わず、右翼マインドの連中のバカさ加減は共通しているようだ。国歌を歌って口先で忠誠を宣言すれば強くなるというのなら、「頭の不自由な」方たちを集めて(早い話は右翼バカということか)チームを編成すればそれでよいではないか。いいね、苦労がなくて。

 フランスの過去の優勝と準優勝に多大な貢献をした選手の(控えめに見ても)半分は右翼屋さんが言うところの「移民社会出身者」の「社会のクズ」だったのではないか。つまり栄誉を期待するときは侮蔑を押し隠し、思うようにそれが得られないとなると感情的に本音をぶちまける。ふん、こんな右翼野郎こそ「人間のクズ」そのものだろう。(6/25/2010)

 参議院選挙がきょう公示。この選挙には短命内閣の風潮にピリオドが打てるかどうかがかかっている。菅直人は小泉純一郎と同等かそれ以上の期間、首相をつとめるポテンシャルを秘めていると思う。どこにその可能性を見るか。にわかに降って湧いたかのような「消費税率アップ」論議だ。これは菅の計算された選挙戦略だ。その成否は際どいが、鳩山が撒いたタネの毒を消すためにはこれくらいの「毒」が必要だという判断に基づく「賭け」に出たと思われる。トリッキーなものであっても、果敢に仕掛けようとする宰相をこの国は久しく持たなかった。

 毒気を抜かれてしまったのは自民党だ。政調会長の石破茂は歯噛みする思いだったろう、この「戦略」と「賭け」に。彼が「抱きつきお化け」と口走った気持ちはよく分かる。しかしその「揶揄」と「批判」に若干の「驚き」と「恐れ」が混じっていることを見てとられたのは失敗だった。

 可笑しいといえば、サンケイ新聞。そのサイトに論説副委員長・高畑昭男の「『抱きつきお化け』はゴメン」と題する雑文が載っている。結びは自民党を代弁してこうなっている。「『10%増』を堂々と公約化した自民党にすれば『構想をパクられた』という気分にちがいない。『抱きつきお化け』に終わらぬように、しっかりと監視したいと思う」。「しっかりと監視」だそうだ。嗤ってしまう。自家中毒するほどのサンケイの毒はどこに行った。(高畑はたしか毎日新聞にいたはず。このセンスは毎日のセンスだね。それにしても、高畑くん、サンケイに拾われて「副委員長」はないだろう。サンケイていどの「鶏口」になれなきゃ、辞めた方がいいよ)

 自民党も、自民党に育ててもらったサンケイ新聞も、「下野」して一年も経たぬうちに、「お化け」に怯え「パクリ」に腹を立てるような小市民(「市民」という言葉をいちばん嫌ったサンケイなのに)に落ちぶれたとは「ヒンドン(貧・鈍)」も極まったものだ。そもそも、こういう「お化け」を繰り出し、こういう「パクリ」を駆使するのが自民党政治であり、現実に居座りその太鼓持ちをつとめるのがサンケイ新聞だったではないか、どうしたジミン、どうしたサンケイ、老いぼれたか。

 他人のことはいい、オレ自身はじつに複雑な心境だ。

 想像以上に、菅はかつて彼を押し上げた人々(自民党が嘲笑い、サンケイが毛嫌いした「市民」)から遠いところに行ってしまったのではないか。「毒を制する毒」として「消費税」を持ち出すようなセンスは嫌いだ。もし「毒」の意識なく「消費税」(税制全体ではなく)を取り上げるのであれば、そんなやつに用はない。

 あまり確信は持てないが、来月11日、菅がどのていどこの「賭け」に勝つのか、どのように凌いで、リカバーをはかるのか、その過程における言動によって、主観的には現在の菅の素性が、客観的には菅の可能性が見極められるのではないかと思う。(6/24/2010)

 朝刊国際面に、哨戒艦沈没事件について韓国政府が、①「北朝鮮製魚雷による沈没」と結論した軍民合同調査団の最終報告書を認定すること、②北朝鮮を名指しで非難すること、③北朝鮮による謝罪と再発防止確約の働きかけをすること、この三項目の実現を安保理に求めているという記事が載っている。記事にはこう書かれている。「同政府関係者は『内容が十分であれば非難決議と議長声明のどちらでも構わない』と語った」。統一地方選で惨敗した李明博政権には7月末に国会議員の補欠選挙が待っている由。安保理に哀願するかのような姿勢はなんとかメンツを守りたいためかもしれない。

 そんな韓国政府が知ったらヨダレを流しそうな話が週末に届いた「FACTA」に載っていた。

 タイトルは「金正銀が『天安』撃沈命令」。「Gordon Thomas Eye」というコーナーだ。記事は読んでも誰が書いているかについてはあまり気にしたことがなかった。抱腹絶倒の内容にあらためてライターを確認し、またまた笑った。ゴードン・トーマスだって? これ、「きかんしゃトーマス」じゃないか。

 ゴードン・トーマスによれば、MI6の報告書に「黄海で監視活動中だった英海軍の原子力潜水艦が収集した『天安』爆破・沈没の一部始終の記録が盛り込まれて」いるのだそうだ。

 報告書に記載されている沈没事件の経緯はこうだ。金正銀は事件の数日前、旧ユーゴスラビアの潜水艦をモデルにした機雷敷設用ヨノ型潜水艦と、300 トン級の母艦に、夜間、北朝鮮領海内の黄海に向かうよう命じた。そして事件発生の3月26日当日、金正銀は中国との国境地帯、白頭山(ペクトウサン)山麓の奥深くに位置する北朝鮮軍の中枢施設にいたという。白頭山は、北朝鮮の国歌や民謡でも歌われ、神聖視されている場所だ。
 一方、韓国の「天安」は、魚雷6基と対潜爆雷12発を積んで、通常通り白?島沖で監視活動を行っていた。英国の原潜も平時の基本指令通り「介入なしの監視」態勢で、この周辺に待機し、時折その航跡を確認していた。やがて韓国と北朝鮮の艦船が互いに接近したところをとらえたが、北朝鮮の潜水艦は指令を受けるや否や、1.7トン級の音響感応型魚雷「CHT-02D」を「天安」に向けて発射させたのである。MI6が得た記録によれば「(天安の)船体は攻撃を受けた直後に真っ二つに割れ、ちょうど2分後に沈没した」という。
 国際調査団の情報分析チームリーダー、ファン・ウォンドン空軍中将・国防情報本部長は「北朝鮮が『天安』を事前に監視していたかどうかわからないが、北朝鮮の潜水艦はそのころ軍事演習を実施していたはずだ」と述べている。しかし、英原潜が傍受でつかんだのは、ミサイル発射の指令という明確な証拠だった。
 今回、黄海で監視に当たっていた原潜には、本国からの核ミサイル発射の指令を認証するために使う音声認識装置や、そのほかにも各種の最新鋭の機密電子装置が搭載されている。音声認識装置には、英国からの指令に関するデータ以外に、金正日の演説や、その一族を含め様々な分野の人物の音声データのライブラリーも収められている。
 「天安」攻撃の指令を発した人物の声をコンピューター・アナリストが照合したところ、平壌で海軍士官らの前で演説した金正銀の声と一致した。データは、衛星経由で英政府通信本部(GCHQ)に送信された。

 この後、記事は「息子も『喜び組』ハーレム」、「韓国は国連に頼る以外ないが中国が邪魔をする」などと続く。機関車ゴードンさんは「知日派」らしい。どんな記事が日本で喜ばれるかをよく知っているというわけだ

 確実なことは陋巷の民には分からない(情報通ぶる「インテリジェンス・ジャーナリスト」さんにも分からないのではないかと思うが・・・呵々)、もしこのようなMI6レポートと客観的な証拠があるならば、中国やロシアの思惑などは簡単に吹っ飛ばせることだろうから、機関車ゴードンさんの「中国の慎重姿勢を変えるのは並大抵のことではないだろう」という結論はいささか悲観的すぎるということになるのではないか。なにより韓国政府に提供したら大喜びしてもらえるだろう。いや、すでにこの記事は韓国内に回されているに違いない。にもかかわらず、韓国政府が弱気なのはどうしてだろう、陋巷の民には分かりかねる。

 それにしても、こういう記事をそのまま掲載するにはあたっては、「FACTA」編集部も相当の勇気が必要だったろう。そのわりには前後に編集部として何のクレジットもつけていないのはどうしたものか。どうも3年分の購読料を振り込んだのは短慮だったかもしれない。(6/23/2010)

「FACTA」編集部には、この記事を掲載する価値があると確信した根拠について問い合わせるメールをこの日に出しましたが、6/25夜現在、回答は来ておりません。ちょっと、残念な感じがします。

 明るくなるのが早い。きのうは夏至だった。所沢の家と違い戸袋があるから雨戸からの射込みはない。かわりに寝室の扉に明かり取りのガラスが入っているのが致命的。4時すぎには目が覚めてしまう。

 逆らわずに目が覚めてから10分しても眠れないときは起きてしまうことにした。昼間、眠くなったら30分を目途に昼寝すればいい。しかしきょうは9時半、14時、17時と3回の昼寝、少しばかり異常だったかもしれない。夕方はちょっとがんばってみたが、どうにも睡魔に抗しかねた。

 先週、土曜、中国人民銀行は「週明けから人民元の為替レートの弾力性を強める」旨の発表を行った。弾力性を強めるという意味は固定にはしないが、人民銀行が毎日発表する基準値の±0.5%の幅でのレートを許容するという意味。初日になるきのうの基準値は先週末の値と同じだったが、市場取引は0.23%の元高になった。

 昨年あたりからアメリカが躍起になって中国に「元切り上げ」を迫っている。「貿易不均衡」を「不公正なビジネス」と言い換えて口先でドルの購買力を維持しようとするのは、いつものパターンといえばいつものパターン。だが中国はしたたかだからかつての日本のように簡単に「合意」などしない。しかしこれで「突破口」が開けたと受け取られたのか、日経平均はスタートから1万円台にのせ、結局10,238円1銭。アジア、ヨーロッパの株式市場もおおむね上げ、ニューヨークも120ドル上げて始まった。

 為替もきのうのアジアタイムは1ドル90.70~90.80円あたりだったが、ヨーロッパタイムのスタートは一気に91.50円にアップしたのち91円ちょうど前後に落ち着いた。豪ドルも80円台にのせて、5月半ばからの落ち込みも一段落かと思いつつ床についた。

 しかし朝起きてみれば、ダウは若干下げ、なんのことはない為替レートも元に戻っている。よほどの疑心暗鬼がアメリカ国内にあるのだろう。

 面白かったのはけさ10時ちょっと過ぎ。突然「跳ねた」。豪ドルでいうと79円70銭くらいから瞬時に80円30銭。おそらく中国人民銀行のきょうの基準値が出たのだろう。そのあとご丁寧に「人民銀行がドル買い・元売り介入する」という噂までが「流され」、さらにフィッチが「スペインとポルトガルの成長見通しを多いに懸念」というコメントまで出した。あくまでアメリカ以外の要因でドタバタしているという印象を形成しようとしているのが嗤える。危ないのは米国債も同様だよ。

 心にとめなければならないことは、もはやアングロサクソンの姑息なあがきなどではなく、中国が確実に「世界の工場」から「世界の市場」に変化しつつあるということ。そういう意識をもった経営者のいる会社の株をささやかでもいいから買っておくことだ。(6/22/2010)

 北村想の「怪人二十面相・伝-PartⅡ」を読む。

 第一巻にあたる「怪人二十面相・伝」を読んだのはもう十数年も昔のことだ。無茶苦茶、面白かった。乱歩の作品を二十面相の側から書くという趣向の面白さだけではなく、ちょっとした会話のなかにニヤリとする「真実」があったりするからだ。たとえば、名探偵・明智小五郎と助手・小林少年の会話。

「いいかい。世の中には医者という職業があるが、あれが何故世間からありがたがられて尊敬されているか分かるかい?」
「病気を治すからでしょ?」
「そうだ。病人を癒すからだ。けっして病気を予防するからではない。病気が予防できれば医者は商売あがったりだよ・・・私たちも同じだ。事件を阻止するのでは駄目だ。事件が起こったのち、これを解決するのだ。鮮やかにね」

 これなどは品質保証に移籍してから何回か使わせてもらった。品質管理だとか、品質保証という部門はとかくオーバーヘッドと見なされがちなセクションで「失われた十年」のころにはずいぶんこの部門からリストラメンバーがピックアップされた。目をつむれば、何人かそうして去っていった人の顔が浮かぶ。たしかに「できる」というタイプではないが黙々と手抜きをせずに試験項目を着実につぶして行くという人が多かったような気がする。

 だから、**くん、**くん、**さんなどには、よく、「こういうことをやっていると積極的にアピールしろ。スタンドプレイはありだ」、「いよいよのときには手抜きして品質問題を多発させたっていい。クォーターで悪化させ、次のクォーターで劇的に改善してみせればいい」などと言ったこともある。

 数字しかみないバカな事務屋がのさばるようだったら、それなりの自己保身で報いるのは当然のこと。そう思わせるような場面が、実際、何回かあった。「目先のことだけを考えるのなら、何人か外したらいいでしょう。ロスコストがどんと増えたら、その時にもう一度、人を配置すればいいんです。簡単なことですよ」と言ってやるつもりで、面接に備えたこともあった。幸か不幸か、そうして待ち構えたとき、その総務課長は配転になり、「武勇伝」を作る機会は訪れなかった。彼、何という名前だったか、どうしても思い出せない。こうして退職してみると、これはという人物の名前しか記憶には残らないもののようだ。

 思わず熱くなってしまった(呵々)。閑話休題。

 この「PartⅡ」はハヤカワ文庫で読んだ時点で「怪人二十面相・伝 青銅の魔神」として出ていた。続けて読みたいところだったが、乏しい小遣いでは、ハードカバーで買うのはためらわれ、ずっとハヤカワ文庫に収められるのを待ってそのままになっていた。二週間ほど前、小学館文庫に入っているのを知り、アマゾンの中古本で買った。

 文庫本で二百数十頁にも関わらず、読み終えるのにきょう一日かかってしまった。端々に出てくる「小道具」に気を取られて、その都度、ネット検索などをしたからだ。

 葉子が小学生の分際で英語に詳しいのには理由があった。理由は二つである。一つは終戦直後に発売された『日米会話手帖』というベストセラーを持っていたこと。これは拾ったものらしい。
 戦災孤児が拾うほどこの本は終戦直後の日本に多く出回っていたのである。水道橋の小さな出版社である誠文堂新光社が、敗戦わずか一ヵ月の世間に向けて出版したこの本は何と四百万部も売れたらしい。日本の総人口のおよそ十六人に一人が買った計算になる。

 「日米会話手帖」、「英会話」ではなく「日米会話」というネーミングにまず驚いて、その出版元があの「子供の科学」や「天文ガイド」の誠文堂新光社ということにまた驚いて、社屋は水道橋じゃないよねなどと思い、他にもRAA(これまた嗤い)など・・・とにかく、本を置かせていろいろ調べたくなる。

 「PartⅡ」は「PartⅠ」に比べると若干、滋味に劣るという読後感。それは初代・明智小五郎を継いだかつての小林少年、二代目・明智小五郎に人間的魅力が乏しいせいかもしれない。かなり現代的な感じがする分、薄っぺらな悪党になっているからだ。悪党にも悪党なりの思想性が欲しい。第一巻にはこんなくだりがあった。

 さて二十面相くん。ここで君と僕とどちらが太陽でどちらが地球であるのか、それを言う気はない。ただ、さっきの君の質問にはお答えしておきましょう。僕が探偵という職業を選んだ理由です・・・二十面相くん、権力というのは存外無知なものでね、それはつまり知識というやつが存外無力であるのによく似ているのだが・・・これは面白いバランスだとは思わないかね。権力が無知であるのは、知というやつが力を阻害するかららしいんですね。そして力というやつは知恵を育んだりはしないんです。早い話、知恵の輪を考えてもらえばいい。
 知恵の輪を外すには必ずふた通りの方法がある。その方法はわかりますよね。すっと抜くか、ひきちぎるかです。"力"という概念と"知"という概念はまさにそれなんですね。力を使わずに生きていくには知恵が要り、その逆に知恵を使わずに何かしら関係を取り結ぼうとすれば力が要るということです。しかし、実際のところ、力の制御には知恵が要るように、知恵の行使にはやはり力が要るんですよ。ところで、僕はこの知と力の間を自由に往来してやろうと考えたんです。権力に媚びるのでもなく、知識の前に平伏すのでもない。その逆です。
 権力は我に媚びよ、知は我に平伏せ。これをするのに、探偵という稼業は実にいい階級でしてね。文字どおりこれは知恵がないとできない仕事なんですが、知恵を行使する力がないと話にならない稼業でもあるんです。それじゃあ、ずいぶんと不自由そうな感じじゃないかというとそうでもないんです。僕はむかし高等遊民などと呼ばれましたが、いまだって同様に精神は自由ですよ。

 初代・明智のセリフ。いちいち納得する理屈だ。これに対し、明智小五郎を襲名した前小林少年のセリフにはみるべきものがない。それは作者の手抜きというよりは、時代背景が戦後に移り、人間的な厚み、あるいは思想性などというものがとっくにお払い箱になったせいと考えるべきなのかもしれない。

 でもせっかくだから「PartⅡ」からも引いておこう。こんなところを引くのは人生の黄昏時に至り、ひたすらにセンチメンタルになっているためだろう。

 運命はどこでどう変わるか分からない。この幸子と自分が婚姻してサーカス団を継いでいる歴史もまた、もしかするとあったに違いないのだ。ああ、それはこの水の流れのように予想がつかない。いく通りもの人生の可能性があって、事実は、たった今あるこれのみである。

(6/21/2010)

 オランダ戦は0-1での敗戦。前半はどちらかというと五分以上なのではないかと思わせたが、後半が始まるやそれが「偽りの晴れ間」だったことが分かった。開始からオランダはステップ応答でトップギヤーに入ったかのような攻めを続けた。数分でついにシュートが決まった。

 その後はよく守りきったと思う。二度ほど決定的な瞬間があったが、キーパーの川島はよく守ったし、ディフェンス陣のギリギリのクリア(たぶん中沢)もあった。前後半を通して、そうとは見せない場面で闘莉王が獅子奮迅のはたらきをしていたと思う。後半、代わった岡崎のシュートが入っていれば、言うところがなかったのだが・・・。

 E組のもう一方の試合はエトーのシュートでカメルーンが先制するも、前半・後半にそれぞれ1点ずつ入れられ、2-1でデンマークが勝利した。これでオランダは決勝トーナメント進出、カメルーンは予選リーグ敗退が決まった。残る枠はひとつ。デンマークとの直接対決で決まる。

 これまでの2試合、我が方の得点1、失点1、得失点差0に対し、デンマークは得点2、失点3、得失点差-1。プライオリティは得失点差にあるので、我が方はドロー以上で決勝トーナメントに進出できる由。ハナ差、有利というところだろうか。金曜の午前3時半のキックオフの試合にすべてがかかることになった。

 きのう、試合終了直後に**(長男)が「あの追加点を阻止したプレイが物を言うかもしれないね」と言っていた。その時はまだデンマーク-カメルーン戦の前だったのだが、二度ほどあったオランダの決定的チャンスのどちらかを決められていたら、得点差でデンマークがドロー以上というアドバンテージを得ていたことになる。きっちりとした仕事は必ず還ってくるものだ。勝負事のアヤはこんなところに隠れていることがある。これは吉兆なのかもしれない。(6/20/2010)

 春の講座、第二講。きょうは「国際法からみた捕鯨問題」、講師は川崎恭治教授。

 まず国際法が国内法とどう違うか(「国家間の『合意』と『同意』」が基礎となる自律的な「法」ということ)ということから説き起こし、国連海洋法条約と国際捕鯨取締条約の構成と日本が捕鯨をする名目としている「調査捕鯨」の位置づけなどを一覧した。おかげで、ほとんど根拠と次元を異にする事柄がゴチャゴチャに語られるため、素人には理解不能の域に達しつつある捕鯨是非論議について、法的な面からはどのように整理できるのかということがすっきりと理解できた。

 我が国が主張する「調査捕鯨」は、商業捕鯨モラトリアム決議に際し、どちらかというと緊急避難的あるいは便宜的措置として選択した手段であることが分かった。くわしく語られなかったが、こんな事情が隠れているらしい。1982年のIWCにおける商業捕鯨禁止決議に対し、当初ノルウェー、アイスランド、ロシア(当時はソ連)とともに異議を申し立てた我が国に対し、アメリカは自国の排他的経済水域(EEZ)での我が国の漁業権をちらつかせて、異議を取り下げることをもちかけた。この水域での漁業権益と商業捕鯨の継続とをはかりにかけ、我が国は異議を取り下げ(これにより商業捕鯨の継続を断念)、代償措置として本来せいぜい二桁ていどの捕獲以外は許容されないはずの「調査捕鯨」の道を選択した。(滑稽なことに、その後アメリカはEEZにおける我が国の操業を禁止してしまった由)

 我が国の「調査捕鯨」が著しい非難を浴びているのは、学術目的として規約された条項(国際捕鯨取締条約第8条)によって数百頭もの捕鯨を行っていることに起因していると考えるべきで、それを「欧米白人の偏見」であるとか、「日本の食文化への不当な介入」などと反発するのは、自らの外交の拙劣さ(あくまで原則を大切にして異議を取り下げなければ、ノルウェー、アイスランドなどのように商業捕鯨を継続することが可能であった)に目をつぶるものと言えなくもない。まあ、何かというと「反日」だの、「虐日」だのとやたらに激しい字面の空疎な言葉を叫ぶうちに自分の言葉に酔っ払って、被害者意識に凝り固まるおバカさんたちの無知迷妄が大手をふるのがこの愚かな国の特質と思えば、嗤うばかりということになってしまうが。映画(The Cove)の公開にまで脅しをかけるヤクザどもはこの流れ。

 これに続いて、シー・シェパードの「抗議行為」と我が監視船に侵入したピーター・ベスーンの逮捕・起訴に関する件について、これも海洋法条約、我が刑法の関係からどのように見ることができるかの話があった。属地主義、属人主義といった話については承知していたが、海賊の定義を通してみるとどうなるかという話はなかなか面白いものだった。

 そろそろ、対オランダ戦の時間だ。なんとかドローに持ち込めれば、ぐんと前進するのだが・・・。(6/19/2010)

 大相撲協会が火だるまになっている。こんどはギャンブル問題。よくもまあ次から次とスキャンダルがころがり出るものだ。

 週刊新潮が「大関琴光喜が野球賭博、それをタネにヤクザに恐喝されている」という記事を載せたのが発端。ヤクザな週刊新潮の記事とはいえ、固有名詞をあげて野球賭博の指摘だけではなく、恐喝に発展したと書いているところをみると、これはその筋からのリークをもらっているのだろうと予想された。しかも八百長疑惑を報じてミソをつけた週刊現代ではなく週刊新潮を選んだということを考えると、リーク元が確実にこれを事件に仕立てる固い意思を持っていることもうかがわれた。

 不安になった大相撲協会は内部調査を行った。「ギャンブルをしているものは申告しろ。正直に申告したものについてはこれまでのことは不問とし、以降は厳罰に処す」というようなものだった由。子供のころを思い出した、よく言われたものだ、「怒らないから、正直に言いなさい」。怒られないか、怒られるかは内容次第だったものだ。まるでそんな感じ・・・と嗤った。

 心当たりありとの回答は65名だった由。夕刊によると野球賭博は29人、それ以外の花札・麻雀・かけゴルフは36人ということだ。関取クラスともなればサラリーマンが想像するレートとは違うのかもしれないが後者と前者では「世界」が違う。それをゴチャゴチャにするのは意図的なのか、世間知らずなのか判断に苦しむ。もともとの調査の質問が悪かったということかもしれない。

 野球賭博汚染は相当の範囲に広がっているらしく、既に大嶽親方、夜のニュースには、新たに時津風親方、豪栄道、豊響の名前が登場した。関取だけではなく親方もということになると、大麻騒動の時と違って外人力士を人身御供にして逃げ切るという手は使えそうもなく、大相撲協会の基盤を根底から揺るがす問題になりそうだ。

 興味深いことがある。朝青龍問題に対して先頭に立ってマスコミに露出していた内館牧子ややくみつるといった「品格派」メンバーがまったく登場しないということ。ヤクザ屋さんとの腐れ縁は相撲にはつきものの「伝統」だから「品格」とは無関係ということなのだろうか。品格派の方々にとっては「朝青龍にも野球賭博疑惑」とか「朝青龍も暴力団と交友」くらいのネタが出てきて欲しいところだろう。(6/18/2010)

 **(家内)と池袋へ。早めの昼食をとってから**(家内)のバイト先で使う湯飲みの買い物につきあう。

 深川製磁のマグカップが目に留まった。肉厚の持ち手のついたどっしりした安定感のあるカップなのだが、持ってみるとビックリするほど軽い。悪い癖で急に欲しくなった。税込み10,500円。ジョッキ型と蓋付き、いま使っているので十分。不自由しているわけではない。かろうじて思いとどまった。

 一渉り見てから**(家内)は本来の買い物に専念するということで別れて大宮のパスポートセンターへ。ちょうど宇都宮行きが来た。はしっこいおばちゃんが斜め後ろから追い抜くように通り過ぎ、座れるかと思った席は埋まってしまった。ちょっと業腹だったが仕方ない戸袋のところに立つと反対側の戸袋に、娘さんというには少し苦しいけれど、若妻というにはどうかというくらいの女性が立った。

 ホルモンのバランスを狂わせるようなタイプではない。かといって路傍の石タイプでもない。妙に気になる感じ。めったにしないことだが、チラチラと盗み見してしまった。「妙な感じ」の原因を確かめたい気分だった。着ているものも持ち物もなにも格別のものではない。あえていうと発車してしばらくして窓外を眺めるように姿勢を扉に正対するように変えたことくらい。全身に力を入れて「男性の視線なんか拒否します」というところはない。それどころかそういう「見られている」という意識がなさそうな感じが「若妻というにはどうか」という印象につながっている。もっともこれは主観的な話。客観的には先様にとって当方は「路傍の石」。とは知りつつもほどほどの「魅力光線」。久しく忘れていた妄想が頭をもたげてきたが、幸い、次の赤羽で女性は降りてくれた。

 パスポートは特に変わっていない。ちょっと厚い、中ほどにICチップを収めた厚紙があるから。それ以外は表紙の「JAPAN PASSPORT」の字の下にICチップのシンボルマークがあることだけ。

 こうしてパスポートを並べ、その写真を見ると30代、40代、50代の顔のコントラストが可笑しい。特に最初のパスポートの写真は「生きのいいお兄ちゃん」そのもので、こんな生意気な目つきで仕事をしていた時代があったなどとは信じられない気さえする。数次旅券の時代、パスポートは自分のものではなかった。会社に預けっぱなしだった。そうそう、自費で取得したパスポートはきょうのものがはじめてということになる。このパスポートが切れるころまでは生きられるだろう。みんなそんなつもりでいるのだろうが、そうならない確率も一定割合ある。次のパスポートを作る時が来たとして、どんな写真になるのだろうか。(6/17/2010)

 ファニーメイとフレディマックが上場廃止申請というニュースが入ってきた。ことし第1四半期に2社合計で182億ドルの赤字。この2社を破綻させることになれば、たぶんアメリカの個人向け住宅市場は壊滅的な影響を受けると言われている。しかしそうでなくとも、「戦争のし過ぎ」で、恒常的な財政赤字に悩むアメリカ政府にとっては、両社が求める財政支援に応ずるのは大変なことだ。

 財務長官ガイトナーは、両社の「改革」(支援と引き換えに突きつける条件のことだろう)について「民主・共和両党の間で幅広い支持があり、我々はそれを実現できると確信している」と言ったと伝えられているが、それは議会の了解を取り付けることに相当の懸念があることの裏返しだろう。

 リーマンショックなどといっているが、リーマンブラザーズの破綻によりすぐに株式市場をはじめとする国際金融市場が危機に陥ったわけではない。ブッシュ政権(というよりはアメリカの官僚機構という方が正しいのだろうが)があわててとりまとめた金融安定化法を下院が否決したことが、あのパニックを呼び起こしたのだ。反対したのは共和党だ。分からず屋で無責任極まりない共和党のエゴイストどもが混乱をより大きくしたのだ。ついでに書けば、あの「大恐慌」に世界中を引きずり込んだのは、共和党のハーバート・フーバー大統領だった。共和党はかつて「平和と不況の党」といわれていた。(もっとも、ブッシュ親子の登場以来、共和党は「戦争も、不況も、悪いことはどちらもという両刀遣いの党」になったようだが・・・)

 ひょっとして共和党の「病気」が再発し、「巨額の支援」が標的にされ、両社の破綻が取り沙汰されるようなことにでもなれば、またまた世界経済は甚大な被害を被ることになる。その可能性は小さくはない。共和党の機関誌の如きウォールストリートジャーナルの最近のいくつかの社説の端々には、リパブリカンお得意の「納税者にツケを回すことになる」が、金融の混乱回避のための政府措置に対する批判の「根拠」(いったいどこが論理的な意味での「根拠」になるというのだ)として書かれている。

 共和党とその背後にいる連中のホンネは「市場の混乱」だ。なかんずく「大恐慌」はいちばん望ましい事態なのだ。なぜか。富のよりいっそう極端な偏在のために役に立つからだ。

 「平時」においてまず貧乏人からその稼ぎを巻き上げる、これは日常活動。「非常時」において投資に熱心な中産階級からその資産を掠め取る、これが常套的手段。そして、「パニック」において富者の中でも財力のない者から順に餌食にするというわけだ。信用取引で勝負を決めるのは資金力。売り浴びせるだけ売り浴びせた後に底値で買う。「知恵」も「技術」も要らない、「資金力」がすべてという世界。塗炭の苦しみを味わう人の不幸の総量・総和がそのまま儲けになる。したがってハゲタカどもにとってはなるべくひどい経済状態になることがベスト。「市場の混乱」を保証してくれる「市場原理主義」が大好きで、「大恐慌」こそウェルカムというのが、共和党の後で糸を引く金の亡者たちが待ち望む事態というわけだ。

 閑話休題。

 ファニーメイとフレディマックが次の厄災のタネになるだろうということはゴールデンウィークのころから一部報道されていたのだそうだ。頼りにならないこの国のマスコミは日経を含めて、「ギリシャ危機」に眼を奪われる形でほとんど取り上げていなかった。この「上場廃止申請」に関するニュースもたぶん、小さな扱いにしかならないだろう。

 うちとしては、できればいったん豪ドルが82円くらいまで戻してくれてから、この時限爆弾が爆発してくれるのがベター。もちろんベストはアメリカ政府当局が「信管」を外す作業に成功してくれること。ちょっと時間が足りないかもしれないが・・・。(6/16/2010)

 さあ、見るぞと、意気込んで見たわけではない。「ベスト4だって? なに言ってんだか、3連敗でごめんなさいだよ」という声が多くて意気が上がらないムードだったことは事実だが、反面、マスコミが煽らないときの方が成績はいいものさという気持ちだった。

 あまり観戦にリキが入らなかったのはそういう前評判のせいではなかった。おとといの夜、NHKスペシャルに登場したサミュエル・エトーが曰く言い難い印象を残していたことが原因。

 「『あなたにとってサッカーとは何ですか?』という質問に対するエトーの答えは意外なものだった」というナレーションが入ってからエトーは答えた。「義務だ」。それがエトーの答えだった。30歳にもならぬ青年が「義務」と答えることの重さがずしんとこちらに響いてきた。

 エトーはカメルーンを代表しているだけではないのだ。黒人とくくられる人種を代表し、アフリカ大陸を代表し、貧困にあえいでいる人々を代表しているのだ。こういう意識の若者がいるのだと思うだけで、言うに言われず胸が熱くなり、カメルーンを応援する気持ちのタネが撒かれた。

 試合は案に相違して日本が優位に立っているのではないかと思うような展開だった。前半、「それにしてもサッカーというのは点の入らない・・・」と思ったとき、ボワンと入ってきた球を本田が蹴り込んでいた。先制。

 相手がカメルーンでなければ、後半はもっとドキドキしただろう。3分とふんだロスタイムが4分と聞いて舌打ちもしたろう。**(長男)がさかんにあの「オーストラリア戦」のことを言ったりするからよけい不安を煽られたことだろう。

 「初戦の勝ち点3はすごい、是非とりたい」とは思いながら、心の半分にはカメルーンが得点することを、「望む」というほど積極的ではないものの、「期待」する気持ちが厳然とある。不思議な感覚だった。そして試合は終わった。1-0での勝利。よかったとは思いつつ、はじけるほどの喜びではなかった。ぐっすり寝て起きたきょうも、その感覚は変わらない。

 エトーが完全燃焼する試合を期待したい。オランダ戦、デンマーク戦、「眠れる獅子」になっているチームを立て直して、存在感を輝かせてくれ。そうなれば、日本の決勝トーナメントへの道も開ける。はじける歓喜も味わえるだろう。ガンバレ、エトー、君の「義務」を果たしてくれ。(6/15/2010)

 週明け、月曜日の雨。「正業」に就いていたころにはこういう日は、必ず"Rainy days, Mondays always get me down."などとため息まじりに歌いながら、家を出たものだった。

 ようやっと、きょう、梅雨入り宣言。例年よりは6日遅いとか。少し肌寒い感じ。

 こういう日にぴったりくるのはバッハの「小フーガ」。ヘルムート・ヴァルヒャの重層的なオルガン演奏を聴くうちに、ボーズのコンパクトなやつなんかではなく、ジムランでちょっと大きく鳴らしたくなってきた。

 一年半以上経つのにいまだ引越荷物の山ががんばっているリスニングをなんとかしなくては。まず、捨てるものを捨てて、レコードラックと本棚を水拭きして、4343を修理に出して、アンプ類は・・・使えるだろうか。どうやら、また、思うだけに終わりそうな予感。

 **さんのところの紫陽花を見ていたら、鮮やかなパープルカラーの傘をさした女性が通りかかった。二階から見えるのは傘とコートの裾だけ。「夜目、遠目、カサの内」、どんな美人かなと想像をめぐらしたところで、この季節になると決まって思い出す歌が浮かんだ。

 歌詞の記憶が切れ切れ。こういう時、インターネットは強力。造作もなく歌詞だけでなく、歌そのものまで聴けた。せっかく調べたのだから、書き写しておく。

六月の女は紫陽花みたい
過ぎた春の日々をたどる心は七色
きらめく夏のための木綿のドレス
縫う手休め曇る窓に煙る街を見る
そうよあの時もこんな雨だった
レインコートのあの人は傘の波に消えたわ
六月の女は紫陽花みたい
気を鎮めて午後のお茶を独り飲みましょう
フランス映画のポスターみたいな
激しく燃えるあんな恋をもう一度してみたい
やがて夏になればいい日も来るわ
夢を見れば午後のお茶も苦くはないのよ

 曲はポール・モーリア。高田恭子が歌っていた。「あじさいいろの日々」というタイトル。メロディーラインがきれいで歌詞も悪くはない。たしかに男には似合わないけれど、人間、まるごと男、まるごと女というわけでもない。煙雨の街を眺めながら、来し方と行く末に想いを致しつつ、コーヒーをすするのには適度にロマンチックで、ちょうどいい。

 今晩の対カメルーン戦に備えて、いつもより長めの昼寝をしておこうか。(6/14/2010)

 おとといの夕刊の隅に小さくこんな記事が載った。

見出し:哨戒艦沈没/安保理で協議に
 【ニューヨーク=丹内敦子】韓国哨戒艦の沈没事件をめぐり、国連安全保障理事会の全15カ国による協議が来週、始まる見通しになった。今月の安保理議長国であるメキシコのヘラー大使は10日、国連本部で「来週は、この件に関する適切な対応を検討するプロセスを進められるだろう」と述べた。
 「北朝鮮製の魚雷による沈没」と結論づけた韓国の軍民合同調査団の調査結果を安保理のメンバー国に説明するため、調査団の共同議長らがすでにニューヨーク入りしている。複数の安保理筋によると、調査結果の説明は安保理の記録に残らない「非公式な相互対話」という形式で、14日にも行われる可能性が高いという。場所も安保理が通常使用する部屋とは別になる見通しだ。
 この事件を安保理で取り扱うことについて中国とロシアは消極的と見られており、どのような形式で調査結果の説明を受けるのかなどを関係国で協議していた。

 下線部は朝日のサイト掲載の記事にある記述。配達された夕刊(第4版)には下線部の記述はない。

 さきほど読売のサイトに同様の記事を見つけた。こちらの方は少し長めの記事。末尾に「2010年6月12日18時37分」とある。

見出し:沈没事件の安保理会合、中露配慮し記録に残さず
 【ニューヨーク=吉形祐司】韓国海軍の哨戒艦沈没事件で、国連安全保障理事会は14日、記録に残らない「非公式相互対話」の形式で全体会合を開く。
 事件を議論することに難色を示す中国、ロシアへの配慮がうかがえるもので、安保理では今後、韓国を支持する日米と、中露の綱引きが注目される。
 非公式相互対話は近年、安保理が採用し始めた形式。15の全理事国が参加するものの、「安保理による何らかの決定を前提としない、非公式以下」(安保理筋)の扱いだ。国連が発表した14日の日程表にも入っておらず、通常の議場とは別の会議室で開かれる。
 相互対話は特に、理事国間で意見が割れている議題や、正式議題として扱いにくい問題に用いられ、2009年のスリランカ内戦末期には、相互対話で人道問題に関する懸念を同国の国連大使に伝えた。また、今年3月にも、国連平和維持部隊の撤退を求めるチャドの大使に対し、民間人が保護されていないことへの懸念が表明された。
 安保理筋によると、議長国メキシコは当初、韓国軍・民間合同調査団の代表が全体会合で行う事件の調査結果説明を、10日に設定すると理事国に内々に通知した。だが、韓国から代表一行がニューヨーク入りした9日、急きょ予定を変更し、「中国の要請により延期する」と連絡した。
 北朝鮮の核問題を巡る6か国協議議長の中国には、北朝鮮を刺激して協議再開を阻害したくないなどの思惑がある。ロシアも、哨戒艦沈没の独自調査を行い、北朝鮮の魚雷攻撃が原因とする調査結果を疑問視している。
 一方、日米韓は11日、韓国国連代表部で大使級の意見交換を2時間にわたって行った。関係者によると、「14日の会合が話題の中心」だったという。相互対話については、安保理の場で理事国以外の国が発言できる機会として、積極活用する動きもあり、これを突破口に、安保理での効果的な本格議論に持ち込む戦略を練った可能性が高い。

 そもそも「北朝鮮の魚雷による沈没」という言い方はずいぶんおかしくないか。本来は「北朝鮮の攻撃による沈没」というのが正しい表現ではないのか。まさか「北朝鮮製の魚雷が爆発して沈んだ」のは確かだけれど、それが「もともとそこにあったものか、直前に発射されたものかどうかは分からない」などと寝惚けたことをいっているわけではあるまい。血の気が多いサンケイ新聞だけは「沈没」とはいわずに「撃沈」と書いている。もしこの国で報ぜられていることだけを信じるならば、サンケイの表現の方が圧倒的に正しい。もっともサンケイ新聞には「プラウダ(ロシア語で『真実』という意味)にプラウダなし」と揶揄されたかつての「プラウダ紙」の日本版のようなところがあるから、その記事を100%信じるのは、バカにでもならないとなかなかできることではないが。

 韓国とアメリカは(そして我が政府も)、北朝鮮の潜水艦による魚雷攻撃であると証明できたというのなら、なぜ公式議事録を残さない「非公式相互対話」を、正式の「議場とは別の会議室」で開催するなどということに同意したのだろう。不思議な話だ。逆の言い方をすれば、議長国メキシコのヘラーが安保理理事国への説明を「延期」した上で、「問題」の扱いのレベルを「問題であるかどうかを聴き取る場」に格下げしたのはどのような背景があったのだろう。「中国の要請」ていどのこととは思いにくい。

 どうも今回の(サンケイが報ずるところの)「撃沈事件」、国連の場ではうやむやに終わるような気がする。もともと韓国が求める「制裁決議」は困難といわれていたようだが、先日イスラエル軍のガザ支援船拿捕に際して出されたような「議長声明」の採択すらも下手をすればなされないのではないか。

 この国のマスコミはずいぶん昔から「北朝鮮ヒステリー」にかかっているから、またまた「中国が・・・」と書くだろうが、それは見当違いというものだ。

 もう一度、読売の記事を読むと、「ロシアも哨戒艦沈没の独自調査を行い、北朝鮮の魚雷攻撃が原因とする調査結果を疑問視している」という箇所がある。海外電や韓国の主要紙のサイトにはとっくに報ぜられていたことだが、ロシアはもう半月ほども前に韓国に専門家グループを派遣してアメリカをはじめとする5カ国軍民調査団の調査実態を「査察」している。

 ロシアがこれほどの関心を持ったのは、一時、アメリカの原潜「コロンビア」が同じ海域で沈没事故を起こしているのではないかという情報が流れたからに違いない。ロシアにとって「北朝鮮が韓国哨戒艦を撃沈したかどうか」はさして興味のあることではないはずだが、「アメリカ原潜の事故」となれば話は別だ。「疑問視」を口実にして原潜事故の真偽の手がかりが得られるとあれば、その機会を利用しない手はない。わざわざ韓国にまで専門家を派遣したのはそのためだろう。

 弱い尻を抱えた韓国は渋々ながらロシアの調査団を受け入れざるを得なかった。その過程でロシアは韓国の発表した調査報告書のグレードも評価できたろう。「軍民」をうたいながら責任者の署名すらない報告書を高く評価することは、権威主義の伝統をもつロシアには常識的にないのではないか。

 どのように判定したかは分からないが、格別、それにふれずにいるのは、将来、アメリカなり、韓国なりと「取引」をするときの「材料」としてテイクノートする手続きをしたと考えられる。有り体に言えばアメリカ・韓国の「弱み」を握ったのだ。ロシアが専門家チームを送ったあたりから、共同調査に関わったアメリカはにわかに表舞台に立とうとしなくなった。傍目には不思議だったが、おおよその舞台裏は想像がつく。たぶん安保理における扱いのランクはこれで決まってしまったのではないか。

 素人ができるジグソーパズルのピースのはめ込みはここまでだ。いずれにしても14日(日本時間では15日未明頃)の「非公式対話」の後、残る常任理事国であるフランス(イギリスは「軍民共同調査団」にメンバーを出している)が、安保理の正式テーマとして取り上げることを強く主張するかどうか。この国のマスコミの面目はそこにかかっていると書いておこう。国家レベルの話はもう決着し、何も動かないのではないかと推測するから。

 そうそう、きのうの朝刊には、これも小さい扱いでとても奇妙な記事が載っていた。

見出し:韓国艦沈没で軍が虚偽報告/監査院調査で発覚
 【ソウル=箱田哲也】韓国哨戒艦「天安」の沈没事件の発生直後、天安から「魚雷攻撃と判断される」との報告を受けた海軍第2艦隊司令部が上部機関にこの事実を伝えていなかったなど、軍内部に多くの虚偽報告や文書の改ざんがあったことが韓国監査院の調査で明らかになった。
 監査院は10日、中間報告として調査結果を明らかにした上で、李相宜・合同参謀本部議長を含む幹部25人を処分するよう国防省に求めた。
 報告によると、「魚雷」報告以外にも、事件当時、天安の近くにいた別の哨戒艦「束草」が、北上する物体を見つけて射撃を加え、「北の新型潜水艇と判断される」と報告したにもかかわらず、第2艦隊司令部は、合同参謀本部などに「(不審な物体は)鳥の群れ」と発表するよう情報を操作していた実態がわかった。

 これをどう解釈したらいいのか。なぜ第2艦隊司令部は現場報告を二度にわたって隠したのだろう。最初は事件直後、二度目は調査報告がオフィシャルにされた時。それとも「監査院調査で発覚」というのは李明博政権が行った韓国内向け「だめ押しセレモニー」なのだろうか。(6/13/2010)

 目覚めたとき、「ここはどこ? きょうは何曜日?」状態だった。久しぶりに寝足りたなぁという気分だった。シュロモー・サンドの講演会はよかった。英語で話す彼の言葉を追いかけ、「・・・ということを言っているのか?」とメモをとり、通訳の言葉でそれを修正し、あるいは「こうではないのか」と「?マーク」をつけるという作業は、しばらくぶりに頭脳に負担をかけ、心地よく疲れたのかもしれない。

 きょうから「春の講座」。全体テーマは「21世紀の日本外交の課題と展望」。きょうのテーマは「NPT運用検討会議の成果と核軍縮の課題」。講師は秋山信将准教授。

 そもそも核兵器とはどういうものかというところから話が始められたのは、参加メンバーの知識レベルがさまざまであることを考慮すれば当然なのだが、たとえば事前に基礎知識的なペーパーを配布するなどの方法は考えられないものかなどと思わないでもなかった。秋山は、先月、約一月をかけて行われたNPT運用会議に参加をしたということ。国連での会議の実態などはISO規格会議などとさして変わらない印象でなかなか興味深い話だった。

 講座はNPT中心、「核兵器」の威力と「保有量」、そして「オーバーキル」に関する話はあったが、「核抑止」の話はなかった。「核抑止論」というのは核兵器の存在理由を後付けした「屁理屈」だ。核兵器を使用する決断力を持ち得ない種類の人間(たとえば田母神某などはそんな顔をしている)が考え、核兵器のもたらす惨禍を想像し得ない種類の人間(たとえばネットに蝟集する軍事オタク)がそれに同意する。どちらかというと人間としてはあまり上等ではないタイプの人たちのための「理論」だ。人間のレベル、はやりの言葉で言えば「品格」、「器量」のようなものを測るには、この「屁理屈」は絶好のものさしだなぁ・・・などと考えながら帰って来た。(6/12/2010)

 郵政法案の扱いと会期延長、何事も騒ぎに仕立てなくては商売にならないと思い込んでいる我がマスコミの空騒ぎにも関わらず、少し冷静に考えれば誰にでも予想のつくところに落ち着いた。亀井の閣僚辞任まで予想していたとは書かないが、オレでも見切れるくらいの落ち着きどころだ。そのくらい予想して取材するのがプロというものだろうが、最近はそんなレベルの政治記者さえいないのかしらね。

 口先はどうあれ、菅は一度決定した参議院議員の選挙日程をいじり、最悪、強行採決になりかねない事態は絶対に避けようと亀井を押し切るつもりだった。郵政改正法案が党のアイデンティティである国民新党が政権離脱という荒技に出られないことは九分九厘たしか。あえていえば、郵政改正をペンディングにして選挙に入る方が国民新党さん、あなたたちにとっても悪い話じゃないでしょうくらいのことは言うつもりでいたのかもしれない。「成果」で選挙に臨むか、「危機感」で臨むか、国民新党の腹のくくりどころですよといわれれば、選挙の手練れには十分だ。・・・素人だって、これくらいの想像はできる。

 国民新党が未明まで協議を続けたのは、事実か、見せかけか。亀井が閣僚辞任のみならず、代表辞任を口にしたというのが、事実か、見せかけか。興味がないわけではないが、さほど大きな意味はない。亀井にはそれがいちばんくやしかったろうが、淡々と役どころを演じたのはさすがだった。

 あえてバカマスコミにひとこと。あんたたちは衆議院での委員会採決、本会議採決の時、自分たちが何を主張していたのか忘れたのか。「十分な審議もしない」といって批判していたのではなかったのか。

 少なくとも選挙後へと先送りというのは、曲がりなりにも「民意の尊重」と「十分な審議」というマスコミの「批判」に応えたということにならないのか。それとも、自民党時代のように官房機密費から「お小遣い」をせびり取りたいという「下心」でもあっての「ご批判」なのかな。

 そうそう、某ウケウリ新聞さん、残念だったね。内閣成立の翌日の朝刊一面トップに狙いすましてぶつけた荒井国家戦略担当相の事務所問題。総力を挙げて新政権に一発かますつもりだったのだろうが、ちょっとばかり詰めが甘かった。

 自殺した松岡は費用計上に虚偽があった。バンソーコーの赤城は明細書も領収書も準備がなかった。ご両人は最初から自爆確定だった。荒井についても自爆させられるだけの材料を集めてから、じっくり報ずるくらいの周到さが欲しかった。いささか手遅れ気味だが、荒井の出した領収書を一枚ずつ調べ直したらどうだい。そんな根性は端からないのか、ウケウリ新聞には。

 それにしてもマンガ雑誌に、CD、食料品、マッサージ治療、・・・こんなものを公費で支払う政治屋のセンスもひどいが、これが「違法」にならないなどという「政治資金規正法」のザル法ぶりもまた度を超していると言わざるを得ないだろう。(6/11/2010)

 **(義父)さんの具合が悪く、**(家内)はけさの新幹線に乗った。これで数日間はテレビを見ながらダラダラ食べようが、書斎で本を読みながら食べようが、便所に新聞を持ち込もうが、・・・いろいろ書こうと思ったが、せいぜいこれくらいのことか。

 人が去るとき、人が来るとき、最近の例で言えば、菅直人について、鳩山由紀夫について、テレビは昔の映像もあわせて流す。その映像を見ると、政治家という職業はただひたすらに人の顔を悪くする職業なのだということがよく分かる。

 ピカートの「人間とその顔」はキリスト教における神と人間の関係を了解した上でなければ、すんなり入って行けない本だが、その中にこんな一節がある。

 子供の顔は美しい。そして子供の顔が美しいのは、それが精神を受け取る用意をととのえているからなのだ。
 大人の顔は厳粛である。何故なら、精神が決定をくだしたあの決断の瞬間に、多くのものが彼から見捨てられたのだからである。それに反して、子供の顔はまだ厳粛さを帯びてはいない。何故なら子供の顔にはまだ決断は存在しなかったからだ。子供は、決断のために見捨てられねばならぬものについての憂慮を持ってはいないのである。

 ピカートのいうプロセスは我々が知る政治家以外の顔を思い浮かべると苦もなく納得できる。たとえばワールドカップ日本代表監督の岡田武史の顔などだ。

 しかしこれがこの国の現在の政治家となると、菅や鳩山に限らず、どうも厳粛さ以外の夾雑物がついているように思えてならない。そのくせその夾雑物はいったい何だろうといくら考えても思いつかない。

 思いあぐんで海外の政治家の顔をあれこれと連想してみた。ただ彼らがはじめて政治の道に入ったころの顔が分からない。ここはツォピルスぐらいの技量がなければとても比較対象なしには無理な話かとすぐにあきらめた。

 「ツォピルス」について注釈を入れておかなければ、この日記を読み直したときにはとても分かるまい。それはこの本の扉にピカートが引いた言葉に出てくる。

 ツォピルスはどんな人間の性格をもその顔から見てとることが出来るといって自慢していたが、ソクラテスに会って彼の顔から数々の悪徳を読みとったとき、皆の者から一笑に附された。そのような悪徳のただの一つをもソクラテスに認めることの出来た者はなかったからである。ただソクラテス自身だけは笑いはしなかった。ソクラテスはツォピルスの言葉を是認してこう言った、・・・自分(ソクラテス)はたしかにそのようないろいろの悪徳を背負ってこの世に生れ出た、しかし理性の助けによってそれを免れたのだ、と。

キケロ「トゥスクルム談叢」第4部第37章

 唯一の例外がいた、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ。そもそも考察の対象にならない。(6/10/2010)

 長い間、「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」という問いに対して、「経済成長などゼロでもいい」と考えてきた。究極的にはいまもその考えは変わらない。しかしそれには前提条件が必要なのだ。すぐにも「複利」という仕組みを廃絶できるならば、ということが絶対条件。

 **(友人)あてのメールに書いたエンデが語った挿話が気になって調べてみた。正確にはこんな話だった。

 利子が利子を生む複利というのはまさにこの指数的な成長を示すものです。それがいかに非現実的なものであるかは、次の例でおわかりいただけると思います。
 ヨゼフが息子キリストの誕生の時に、5%の利子で1プフェニヒ(1マルクの100分の1)投資したとします。そして、ヨゼフが1990年に現れたとすると、地球と同じ重さの黄金の玉を、銀行から13億4000万個、引き出すことができるのです。永久に指数的な成長を続けることが不可能なのは火を見るよりも明らかでしょう。

 マルグリット・ケネディという建築家の「利子ともインフレとも無縁な貨幣」という本の一節だそうだ。国会図書館の検索でも引っかからず「原典」は未確認。したがって上記は河邑厚徳の「エンデの遺言」から孫引き。

 「複利」が登場したのは長めに見てもここ数百年のことであり、2000年の寿命を持つ人間はいないし、そもそも社会体制でさえ長くても数百年はもたないから、現代人に複利の非現実性が意識されることはほとんどない。しかし貨幣が価値交換の道具である以上、貨幣の総量と対象となる価値の総量は釣り合っていなければならない。

 このバランスが崩れたときにどのようなことが起きるか。たとえば「世界大恐慌」。これはいまでは「やみくもな金本位制への復帰」だといわれている。「正常な状態」と信じられた「金本位制」に復帰するため各国が、第一次大戦の戦費をまかなうため大量に流通させていた通貨を急激に減らしたことが深刻なデフレを発生させ、一気に世界経済を収縮させてしまったということ。だから各国がとった処方箋は、金本位制の停止、公共事業を名目にした通貨供給により大戦で膨らんだ潜在的生産力とのバランスを取り直すことだった。実際には最大の公共事業である「戦争」を第二次世界大戦という形でもう一度やり、ブレトン・ウッズ協定により再度ドルの信認をベースとした各国通貨間の調整を行った。(この体制は間接的な「金本位制」だったわけだが、アメリカの経済的「熱容量」が圧倒的であった間は安定的に機能した。話が逸れるのでこれ以上は書かない、・・・というよりまだ腑に落ちるだけの理解ができていない)

 「複利」による通貨価値の増大に生産価値は追いつけるだろうか。マルサスは「食料生産は算術級数的にしか増大しないが、人口は幾何級数的に増大する」と言ったが、「複利」はそれ以上に増大する。「人間は死ぬ」のに対し「元金は死なない」。「死なない」、「自己増殖する」というのはどこかガン細胞を連想させて不気味だ。いくつかの宗教が「利息」をとることを禁じてきたのは、単に働かないことを罪悪視したばかりではないのかもしれない。

 複利という制度を経済の根底におく限り、経済成長は欠くべからざるものとなる。それでもおそらく複利による貨幣の名目上の増殖力は生産価値(それを測るものさしがGDP)の増大を常に上回るに違いない。したがって常にあるていどのインフレにより貨幣価値が低下することがバランスをとるためには絶対に必要になる。

 菅政権はまず「強い経済」の復活のために十分なデフレ対策を入り口とすべきなのだ。そこを押さえることなく誤って「財政規律」という「形式」にとらわれ「強い財政」を最初の入り口にし、消費税率のアップから入るようなことをしたならば、ここ十数年この国に定着しつつあるデフレがこの国をますます沈めることになるだろう。それでは無能で無力だった自民党と何も変わらないことになってしまうが、政・官・財、そしてマスコミまで御身大事を唯一の行動原理にしてきたこの国が簡単に変われるものかどうか。浦島さんの懸念は簡単には払拭できそうもない。

 なにしろ「子供たちにツケを回すな」などという言い方がまかり通っているという可笑しな国のことだ。未来へのツケ回しというなら、国債の心配よりは、原発のゴミの方でも心配しろよ。いまのところこの国の国債は日本国民が日本国民にしている借金に過ぎないのだから、日本国が破綻することはあり得ない(最悪「徳政令」で済んでしまう)が、放射性廃棄物を完全無害化処理することはかなり遠い未来までを予想してもできそうにない。それを「子供たちへのツケ」だとさ、人間界の決めごとに発するツケと自然界との間に発するツケ、人間がなんとかできそうなのがどちらか、少し考えれば誰にでも分かろうに。じつにアンバランスな考え方をするものだ。つまり「教えられた心配」を心配しているだけのこと、呵々。

 もっとも、菅もまた同じでも我が家としてはいっこうにかまわない。少しばかり日本株においているウェイトを愚かな政策をとらない国にシフトさせるだけでもいいし、不可避的に発生するはずの「歪み」にチップをおいて少々のバクチをするのもいい。年齢により判断力が鈍るのにあわせて、そういうリスクをとる率を順次低下させ、安全資産にカネを避難させておくだけで、デフレが貨幣価値を上昇させてくれる(利子がつくのとまったく同じ効果を生む)としたら、それもまたよし。

 「財政再建」に取り組むと称して増税するときも、菅政権が「消費税」によってそれを達成することにだけ熱心であれば、我が家は安泰だ。右から左までのすべてのマスコミが「増税は消費税率アップ」という空気のために地ならしをしてくれているようだから「低所得層」ほど「担税率」が高くなる方向に落ち着いてくれるだろう。

 それにしても年収がたかだか数百万しかない人々が口々に「累進税率がきつくなれば、額に汗して働くのがバカバカしくなる。それよりは広く薄く負担する消費税率のアップが望ましい」と言ってくれるというのだからまことに「すばらしき愚民社会」だ。こうまでお膳立てが整っているのなら、ありがたくその愚かさを「享受」させていただいても心の痛みを感ずることはない。

 国、地域、土地、それぞれの間の評価価値の歪みが貿易の利益をもたらす。経済力と通貨価値の歪みが為替の利益を生む。利益の源泉は「歪み」にある。そして人々の認識の「歪み」もまた利益を生むのだ。フィルポッツの「闇からの声」に登場する悪人はこううそぶく。

 値打ち通りお金を出す積りならば、何も専門家になる必要はありません。お祈りをしたり、断食をしたりして、知識を身につけるのは、他の人たちの無知をうまく利用するためです。

 岡本史郎風に書けば「みんなが『こちら側』に来てもらっては困る」のだ。「『あちら側』でカモられる人々がいてこそ、『歪み』も発生するし、『こちら側』のもくろみも奏功する」のだから。(6/9/2010)

 菅内閣が発足。もういつなんどきでもヒトラーが出てきそうな時代だから、ひょっとするとこれが最後の理性的政権になるかもしれない。いやいや、やたらに「庶民の出」を強調するところが既に大衆迎合なのだという気もしないでもない。いささか複雑な感慨。

あなたに冒険心が無いというのは、あなたに信じる能力が無いという事です。
信じる事は、下品ですか。信じる事は、邪道ですか。
どうも、あなたがた紳士は、信じない事を誇りにして生きているのだから、しまつが悪いや。
それはね、頭のよさじゃないんですよ。もっと卑しいものなのですよ。

 太宰治の「お伽草紙:浦島さん」の一節だ。「人はなぜお互い批評しあわねば生きて行けぬのだろう」と呟きながら浜辺に出た浦島太郎を、助けてもらった恩義に報いようと竜宮城に誘う亀のセリフ。こうもコロコロと政権を取っては自分から転がり落ちる宰相が続くと「こんどこそは」と信じる気持ちそのものが最初から斜にかまえてしまう。まさに(菅はこれが口癖か、安倍は「しっかりと」が口癖だったが)亀がいうところの「浦島さん現象」だ。まあ、それほど「こんどこそ」という人物が宰相になったわけではないが・・・、呵々。

 就任会見のスピーチのキモは政治の要諦を「最小不幸社会」(PCのやつ、「宰相不幸社会」と変換した、分かってるね、この国の状況が)としたことだろう。この言葉について、宮崎哲弥はある対談の中でこんなことを言っていた。

 ・・・でも、政治スローガンの中にも例外的に好きなものがあります。2003年頃、当時野党だった民主党の管直人氏が「最小不幸社会」というコンセプトを打ち出したことがあるんです。私の菅氏への評価は微妙なところもありますが、この考え方は成熟社会の政治哲学としては目覚ましいものだと思う。これは菅氏自身の定義によれば、「ある程度以上幸福になるのは個人の努力によるべきだが、多様性のある人々の住む社会で、個人の努力だけではうまくいかない問題に関しては、政治で解決する」ことを言うのだそうです。
 もう少し私の理解によってパラフレーズ(図式化)しておくと、次のようになります。価値観の多様化、ライフコースの多岐化が進み、かつてのように個々人の幸福観について国や社会が一様の枠組みを与えることはできない。然るに、不幸のほうはいまだに昔ながらの「貧・病・争」に関わるものが多く、政策的に解決可能な部分もある。そこで政治の目標として不幸が最小化した社会の構築を目指すべきだ、と。
 これはベンサム以来の「最大多数の最大幸福」に代わり得る、そしてジョン・ロールズの格差原理(最も不遇な人々の便益を最大化すること)などとも適合性の高いアイデアだと思います。

「日本経済復活一番かんたんな方法」から

 この言葉は鳩山の「友愛」よりは政治的課題や利害の調整原理として分かりやすい。

 スピーチのもうひとつのポイントは「強い経済、強い財政、強い社会保障」だったが、「強い社会保障」がどのように「強い経済」にフィードバックするのかが明確になるまでは標語の域を出ない。菅政権の意識が単に増税、それも消費税率のアップによる「強い財政」、「強い社会保障」に止まるのならば、この国は縮小再生産を続けて平凡な貧乏国になるだけだ。うちの都合だけを考えれば、それもいいかもしれないとは思うが、大多数の国民はそんな風には思わないだろう。

 最初のトリガーは「強い財政」であるべきではない。菅は既に「デフレ宣言」をしている。その認識が過小需要によるデフレ、供給能力を活かすことのできないデフレにあるとするならば、まずそのことを与野党通じた共通認識に高めて欲しい。自民党にもこれを理解できる人物はいるはずだ。ついでに書けば、時代遅れのイデオロギーしか頭にない安倍晋三や麻生太郎をゴミ箱から拾い直すことはない。(ご両人は「菅政権は左翼政権だ」とのたもうた由。いまどきこんな言葉にしがみつく以外できないという恐竜ぶりに絶句。日の丸にくるまって、葬式ソング-君が代-でも歌っていたらいいさ、呵々)

 細かいことは知らないながら内閣の顔ぶれが俗に言う「財政規律重視派」で固められていることにちょっと怖さがある。財政の規律は保たれなくてはならないが、それを実現するためにはまずこのデフレという氷を溶かすことからはじめなくては衰退のスパイラルに陥ることは必定だから。

 なぜそう考えるか。眠くなってきた。続きはあしたにしよう。(6/8/2010)

 切れたままになっているパスポートを準備しておこうと10時前に家を出た。清瀬からでも大宮まで一時間で行ける。写真を撮って「発給申請書」に記入し、申請終了までは待ち時間込みで30分ほど。ピンクの「引換証」を渡された。以前のようにハガキが来るわけではない。来週14日以降、受け取り可とのこと。

 昼前に終わり、そのまま家に帰る気にならず、紀伊國屋の新宿南店へ。ここは売り場スペースが広めでゆったりしているところが好き。ジュンク堂もいいのだがポイントによるペイバックがない。わざわざ紀伊國屋へ行くのは端数の発生する文庫・新書の支払いをEdyでできるから。(年間2万マイルまではそのまま倍率1でポイントに転換できる。2万マイルを超える分が去年から倍率0.5になったのが痛い)。

 きのうの読書欄に出ていた伊藤計劃「虐殺器官」、書き出しに勇気づけられてジョージ・ジョンソン「量子コンピュータとは何か」などを買う。ハードカバーは自重。週末から春の講座が始まる。いろいろ刺激されると(読みもしないのに)本棚に置いておきたくなる本がまた何冊か出て来そうな気がするから。

 急に空腹を覚えて、日科技連へ通ったころによく入ったそば屋でおろし蕎麦を食べる。ヒンヤリして気持ちいい。新宿御苑を散策と思ってゆくと月曜で休園。代々木へとって返す気にもならず、思いついてセンチメンタル・ジャーニーをすることにした。

 新宿御苑脇から千駄ヶ谷駅前の信号を津田塾側にわたって鳩森八幡へ。この変則の五叉路、記憶によれば、ここからはどの方向へも下り坂になる。国立競技場に向けて下りる坂も、駅を背にまっすぐに下る坂も、それぞれに想い出のある道筋だ。突然「うちの近くには富士山があるんだよ」という声が耳元に響き、いたずらっぽく笑った顔が浮かんだ。・・・「突然」などというのはウソもウソ。だからこそのセンチメンタル・ジャーニー。

 その「富士山」は五叉路の一角にある八幡様の境内にある。きょうも子供たちが「富士山」に駆け上ったり、駆け下りたりしていた。正式には富士塚というらしい。富士山参りをしたくともなかなか適わない江戸庶民のために一時はずいぶんはやったものとか。

 境内を出てかつて「分室」があった方へと坂を下りた。明治通りをわたり、鍵の手に曲がる道に従う。この角から2軒目に全購連の分室があった。地方からの出張者の宿泊を引き受ける施設。**(父)さんは誰とでも親しくなれる特技を持っていて(それは狷介さ故に勅任技師の地位を失うことになった**(祖父)さんの轍を踏むまいとした「努力の成果」だったのかもしれない)、分室の管理と賄いを任された**さん夫妻に頼み込んで息子が受験の間、泊めてもらうように話をつけていた。現役の年と浪人の年、2年連続で夫妻にはずいぶんお世話になった。

 分室のあとはない。隣り合っていた何軒かの家もなくなり、いまは大きなビルが建っている。その先の角には、当時、白い大きなコンクリート造りの邸宅があった。ボクシングの白井義男が住んでいると**さんから聞いた記憶がある。かつて白井邸の建っていた角を曲がり、下りきったところを左折して原宿駅の方に向かう。当時、このあたりに半地下になった白い扉のカフェバーのような店があった。人通りの少ない住宅街に溶け込んだ洒落た感じの店で、通るたびに「大学に入ったら、必ず女の子とこの店に来よう」と決心をかたくしたものだった。パープルシャドーズの「小さなスナック」がはやったのはそれよりあとのことで、歌を聴くとその店を思い出したが念願を果たすときはついに来なかった。

 しばらく歩くと右手にお召し列車のための専用ホーム。山手線を挟んで向こう側は明治神宮の森だ。ぐるりとまわって宝物殿経由で代々木までとも思ったが、そんなことをしたら噴出する記憶に蓋ができなくなる。久しぶりの竹下口から原宿のホームに上がって、そのまま帰宅。(6/7/2010)

 朝刊一面雑感。

 先月末以来立て続けに3回行った世論調査の結果が出ている。参院比例区の投票先、5月29・30日の調査では20%まで落ち込んだ民主党は鳩山辞任発表後の2・3日には28%、時期が菅直人に決した4・5日には33%になった。これに対し、自民党は順に20、20、17%、みんなの党(何度聞いても嗤ってしまうネーミング)は9、6、5%と推移している。数値には意味はない。いや、そもそもこんな調査にも意味はない。フジテレビで人気だった「トリビアの掃き溜め(?)」と同じで、「へー」というだけで数%は動いてしまうのだから。

 それでもあえて何かを読み取るとすれば、「へー」によって民主党は舞い上がり、自民党はさして影響を受けず、みんなの党は甚大な影響を受けたということだろう。渡辺喜美や江田憲司がヒステリックに反応したのは「風評政党」要人としては当然のことだった。一般的にいう頭の良さとは逆に、江田はそのていどの人物ではないかと思っていたが、渡辺についていえば、買い被りすぎていたようだ。もう少し客観的な「見切り」をつけられる人物と思っていたが、ほぼ「風評政治家」そのもの。

 同じ一面のトップには官房長官から閣僚、幹事長から国対委員長までの名前が写真付きで報ぜられている。「党人事は月曜、閣僚人事は火曜、週末の時間をいただいて・・・」という話はなかったかのような話。たしかに内閣はほぼ居抜きで構成するし、党内の人事も高尚な考え方で構想できる状況にないことは明らかだが、それにしても、ここまで人事が「だだ漏れ」ということはどういうことか。

 渡辺よ、ヒステリックに反応することなどないのだよ。人事権を軽く扱う権力は長続きしないのが通例というものだ。それとも「週刊ポスト」あたりに民主惨敗の補完政党として浮上、「民みん連立:渡辺喜美首相が誕生する」などと持ち上げられて「ご乱心」召されたか、呵々。(6/6/2010)

 株主総会の時期を迎えて「招集通知」が来る。最低単元株しか持っていなくとも、けっこう分厚い「招集ご通知」やら「事業活動ご報告」などが同封されている。武田薬品などは**(家内)の方にも来るから、一家に2部同じものが来る。カラー印刷のなかなかきれいなやつだ。ずいぶんカネがかかるだろうと思うし、もったいないような気もする。

 もとより議決権が一桁しかない零細株主などに出席してもらうことは想定していないのだろうが、資生堂の案内には、去年の秋、単元株を千株から百株に引き下げた関係で「ご出席ハガキ」が同封されていた。たしか伊藤忠も同じ事情があったはずだが、そんなものは入っていなかった。やはり化粧品会社のような会社は「資生堂の株主総会なら一度出てみたいわ」という女性などを想定しなくてはならないのかもしれない。そういえば株主優待も来年以降は連続2期保有していないと資格が確保されないということになっていた。単元株の引き下げにより広く薄く集めるというのも骨が折れることだ。

 おととしくらいまではJFEはハガキなりインターネットなりで議決権行使をすると、500円だったと思うがクオカードを送ってくれた。株主優待として、高炉の余熱利用で栽培した野菜、「エコ作」も送ってくれたが、リーマンショック以降はなくなってしまった。昨年など中間配当も見送り。めっきりつまらなくなって、半分売ってしまった。それでもまだ持っているのは、お孫ちゃんができたら製鉄所見学に連れて行きたいと思っているからだ。もっともそれまで君津製鉄所が操業を続けているかどうか、心配ではあるが。(6/5/2010)

 菅直人が第94代の内閣総理大臣になった。これで理科系の首相が二代続くことになる。なにより東工大卒としては初めての総理ではないのか。「蔵前」から宰相、時代も変わったものだ。そんな感慨を抱く者はいまはいない・・・か、呵々。なお、党人事は来週月曜、閣僚人事は火曜の予定とか。

 以下は、きのうの続き。いまのマスコミはいったいどうなっているのか。

 たとえば宮崎の口蹄疫騒動。きょう、午前零時、えびの市(ほかに小林市、高原町、霧島市、伊佐市、湧水町、さつま町、人吉市、相良村、錦町、あさぎり町)に設定されていた家畜移動制限区域指定が解除された。最後の殺処分をしてから3週間、新たな発生が見られなかったからだ。一方、川南町ではきょうも新たな感染疑いのある豚が見つかった由。この違いはなんによるものか。

 赤松農水相が外遊し、ゴルフをしていた(その後に否定報道というのが嗤える、要は「マッチポンプ」なのだ)、責任はどうなっているのだなどと、週刊誌のような話ばかり。なぜ、えびのと川南でこんな差が生じたのかは分からないばかりか、考える手がかりさえ報ぜられていない。

 解除された5市5町1村が宮崎・鹿児島・熊本の3県にまたがるために、かえって危機感が強かったのではないかとか、記者会見に際して「簡単に言うが殺処分にいくらかかるか知ってるか」と食ってかかった知事、農水副大臣との会談の議事録に「補償を単に『検討する』では現場は動けないと、しつこくゴネる」とメモされた町長(川南町長・内野宮正英)などのように、火事が起きているのに消火活動は二の次で保険金がおりるかどうかばかりを気にしていた本末転倒の現場対応の違いではないのか、そういう想像をしてみるが確信は持てない。

 なぜか本質論に迫る報道はからきしで、現場から遠い中央政府の対応がどうだこうだ、あるいは東国原のような「マスコミ名士」の知事の言動ばかり、えびのに隣接する鹿児島県や熊本県の対応、あるいはその知事の対応はどうだったのかという現場報道がない(そのくせ政府を批判する言葉に「事件は現場で起きている」などと気の利いたつもりで「結論する」可笑しさよ)。だから、上に書いた想像が当たっているのか外れているのか、それすら判断できないのだ。非難一辺倒の「後知恵」マスコミ、醜態の極みだ。

 もうひとつあげよう。2日に行われた韓国統一地方選の結果だ。3月26日に起きた哨戒艦「天安」沈没事件を材料にして圧倒的に有利と考えられた与党ハンナラ党だったが、16の首長選で6勝10敗と大きく負け越してしまった。「北朝鮮の魚雷攻撃によるもの」という発表を行い、危機感による結束を訴えたハンナラ党がまるで「浅瀬でおぼれるような敗北」を喫したことは、一連の「北朝鮮の犯行」という米韓両国政府の発表のみをたったひとつの真実のように取り上げたこの国のマスコミ報道を信じている人々には摩訶不思議に思えるに違いない。

 我がマスコミはこの結果をどう説明するか苦労している。けさのTBSラジオ「スタンバイ」に出た伊藤洋一(住信基礎研究所主席研究員)などはこんな説明をしていた。「基本的にいまの韓国の若い人は、北は北で勝手にやってくれ、韓国はいまの経済体制でやって行く、妙に事をかまえて戦争にでもなるのは避けたい、そう思っているんです。だから北を刺激するような李明博政権の政策を危惧しているし、格差の拡大に対する反発もある。これが原因ですね」。なるほどもっともらしい説明だ。

 しかし哨戒艦が意図的に破壊され数十名にも上る死者が出て、「北は北、韓国は韓国」という意識が成立するというのはいかにも海を隔てた日本人的な感覚のような気がする。伊藤は韓国の知り合いから情報をとっているようにしゃべっていたが、その知り合いは事件発生後半月ほどの間、韓国内が哀悼色一色に染まり、歌舞音曲の類の興行が相当自粛されたということを話さなかったのだろうか。

 それはおいておくとしても、「いまの経済体制」を維持してやってゆこうというのは地続きの隣国がおとなしくしていてくれればこそ成り立つ話だろう。李明博やハンナラ党がいまにも「戦争だ」と主張しているならともかく、抑制的に「国連に提訴して・・・」と主張しているのに「戦争になるのを避けたい」から反対党に投票しましたなどというのはいかに「選挙民は所詮愚民だ」としても、かえって現実的とは思えない。どちらかといえば「現実の選挙結果」と「信じ込んでいる事実」を無理につなごうとする形式的な「説明」のように思える。

 報じてきたことと整合しない「結果」が出たのは、おそらく、我がマスコミが「信じ込んでいる」ないしは我々に「信じ込ませようとしている」事実に「歪み」があるからではないか、そんな気がする。

 田中宇は「国際ニュース解説」に5月7日付で「韓国軍艦『天安』沈没の真相」、5月31日付で「韓国軍艦沈没事件その後」を掲載した。田中がエビデンスとしてあげた数々の記事の中にこんなものがある。

見出し:朴映宣議員、誤報判明の「米軍誤爆説」で国防部長官と論争
 野党民主党の朴映宣(パク・ヨンソン)議員が先週、党内の天安(チョンアン)艦沈没真相究明特別委の委員として国防部と合同参謀本部を訪れ、「米軍の天安艦誤爆の可能性」を取り上げ、金泰栄(キム・テヨン)国防部長官との間で論争が起こったという。
 朴議員は23日、ソウル龍山(ヨンサン)の国防部庁舎で金長官と会い、「天安艦沈没が、韓米連合トクスリ演習に参加した米海軍の原子力潜水艦の誤爆によるものではないか」という趣旨の質問をしたと、同席した民主党議員らが26日伝えた。
 朴議員は、米軍の誤爆の可能性と関連した資料を提出するよう求めたという。これに対し、金長官は、「国会に戻って正式に要請してほしい。しかし、私が生きている間に(要求した資料は存在せず)提出できそうにない」と反論すると、朴議員が、「長官がそんなことを言ってはいけないのではないか」と反論し、論争になったと出席者らが伝えた。
 また、朴議員は、キャサリン・スティーブンス駐韓米国大使とウォルター・シャープ韓米連合司令官が7日、独島(トクド)艦を訪れ、米軍と海軍海難救助隊(SSU)隊員を激励したことについて、「米国大使が動くということは大きな意味がある。なぜ訪問したのか」と問い詰めたという。朴議員は25日、東亜(トンア)日報記者の電話取材に対し、「米軍の誤爆と関連した情報提供や資料があるのか」という質問に、「何も答えることはできない。すべての情報が収集され、結論が出れば話す」とだけ述べた。
 朴議員が提起した「米軍関連説」は、あるメディアの先月29日付の「天安艦、韓米合同演習中の誤爆事故疑惑」というタイトルの記事を皮切りに、これまでインターネットでさまざまな内容が飛び交っている。当時、軍当局は訂正報道を要請し、報道した記者を名誉毀損で告訴した。該当報道機関は今月初め、「事実関係を正確に確認していない誤った報道」とし、訂正報道文を掲載した。
 合同参謀関係者は、「天安艦が沈没した先月26日にトクスリ演習があったのは事実だが、白?島(ペクリョンド)付近ではなく、忠清南道泰安(チュンチョンナムド・テアン)沖合いで行われた」と説明した。

東亜日報(4月27日 6時25分)記事

 田中宇の記事にはもう少しいろいろのことが出ているが、少なくとも韓国内にはアメリカ・イギリス・韓国・オーストラリア・スウェーデン5カ国「軍民共同調査団」が発表した調査報告書の結論に対する「疑問」が出ていることはたしかなようだ。(田中は調査報告書に調査メンバーの署名がないことを指摘している。田中の記事には言及がないが、海外メディアの一部に「スウェーデンの調査員が署名を拒否した」という記事があった由。その報道が正しければ、署名を拒否した調査員がいたことが明らかになることを避けるために、無署名で統一されたと考えられなくもない)

 上記、東亜日報の記事に「スティーブンス駐韓米国大使とシャープ韓米連合司令官が独島(トクド)艦を訪れ」とある「独島艦」というのは韓国の軽空母、訪問目的は韓主浩(ハン・ジュホ)という准尉の慰霊祭に出席するためだった。韓准尉は韓国海軍の特殊潜水隊の所属で韓国政府の発表では「天安」の引き上げ作業中に殉職したとされている。韓国軍の軍人の葬儀に「連合司令官」が出席することは当然としても、アメリカの駐韓大使が出席するのはいささか不自然な話だ。朴議員が疑ったように、米軍の艦船にも事故があり、亡くなった准尉はその作業に従事していて殉職をした(もし慰霊祭が韓准尉個人のためだったとすれば)か、あるいは死者が「天安」だけではなく、前後して米軍にも事故があり死者がいる(慰霊祭が合同慰霊祭だったとすれば)ことを示していると考えるのが自然だろう。

 ずいぶん横道に逸れてしまった。

 韓国哨戒艦沈没事件に関する我がマスコミの報道は、「十分な証拠により北朝鮮の犯行と断定された」、「北朝鮮が韓国に事故調査にオレも加えろなどとたわけたことをいっている」、「中国は相変わらず北朝鮮を擁護する姿勢に終始している」などというところに止まっている。だから統一地方選でハンナラ党が議席を半減させる惨敗を喫したという「摩訶不思議な結果」について多角的な考察ができずにいるのだ。あげくの果てに伊藤洋一に代表されるような「こじつけ解説」でお茶を濁さざるを得ない。

 おそらく韓国内には哨戒艦沈没事件に対する李明博政権の姿勢に疑問符をつける人々が相当の割合でいるのだということこそが、今回の選挙結果につながったのだろう。

 我がマスコミを信用する限り、口蹄疫問題も、朝鮮半島情勢も、それにつながる抑止力問題も、十分なデータを頭に入れて、しっかり考えることなどできないだろう。

 いったいこの国のマスコミはどうなってしまったのだ。それがいまの状況だと記録しておく。(6/4/2010)

 いまのマスコミはいったいどうなっているのかと思うことばかり。

 鳩山政権がこけてマスコミは面目を施したようになっているが、政権交代以来、マスコミの政権批判大合唱はいささか異常に思われた。その異常さの背景のひとつと思われることが、先週金曜日、28日の朝刊オピニオン欄に載っていた。

 週刊こどもニュースの「お父さん」、最近では「そうだったのか」シリーズで知られている池上彰が朝日に持っている「新聞ななめ読み」のコーナーだ。全文を書き写しておく。

 政権交代は、さまざまな旧悪を暴露しました。官房機密費の使い道も、そのひとつです。
 官房機密費とは、正式名称が「内閣官房報償費」。内閣官房長官が管理する資金で、領収書侶不要。使い道は明らかにされず、会計検査院も検査しません。今年度予算案では、政権交代前の前年度と同じく14億6千万円が計上されています。
 去年夏の衆議院選挙の直後には、麻生内閣の河村建夫官房長官が、2億5千万円も引き出していたことが、政権交代によって判明しました。政権交代することが決まり、内閣退陣直前という時期になって、こんな大金を何に使ったのか、いまだに謎のままです。
 この官房機密費が改めて注目されているのは、小渕内閣で官房長官を務めた野中広務氏が、先月テレビや講演会で、使い道について発言したからです。この中で野中氏は、「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに、盆暮れに500万円ずつ届けることのむなしさ」などと発言しました。
 さらに、機密費を渡しても返してきたのはジャーナリストの田原総一朗氏だけだったと発言したものですから、では、受け取っていたのは誰なのか問題になっています。
 野中氏が官房長官だったのは、1998年7月から翌年10月までです。この間に、野中氏は、いったい誰にお金を渡したのか。もし事実だとすれば、日本のジャーナリズムにとって深刻なことです。
 政府から機密費を受け取っていたら、政府の批判はしにくくなるでしょう。政府を応援する言論活動をしていたのかも知れません。そんな事情を知らない私たちが、「立派な評論」を聞かされたり読まされたりしていたとなれば、裏切られたという気になります。
 こんなに重大な問題なのに、朝日新聞を含めて新聞やテレビの追及はほとんどありません。どうしてなのでしょうか。こんな疑問を持っている読者は多いはずです。
 東京新聞の5月21日朝刊の投書欄には、「政治評論家やコメンテーターがテレビに出て旧政権の手先かと思うほどに、鳩山政権批判などを繰り返し世論を誘導しているのを見るが、そのたびに、この者たちは官房機密費をタップリともらっていたのではないかと疑念を持ってしまう」という読者からの声が掲載されています。
 鳩山政権に対する正当な批判をしても、こんな風に疑念を持たれては、心外だと思う評論家やコメンテーターもいることでしょう。誰が受け取っていたのか明らかになれば、それ以外の人たちの疑惑は晴れるはずなのですが。
 その東京新聞は、5月18日朝刊の「こちら特報部」というページで、この間題を真正面から取り上げました。野中氏は取材を断ったとのことで、東京新聞の記者は、「失礼を承知で〝有識者″に聞いて回った」と、政治評論家や元政治家にインタビューしています。中には、「回答を得られなかった人」がいるそうです。もらっていなければ回答できるはずなのに……と思うのですが。
 東京新聞の見事なところは、記者が、上司にあたる自社の編集局長にも取材していることです。こんなことができるところに、この新聞の社内の風通しの良さを感じます。特報部の記者の取材に対して河津市三編集局長は、「私自身は取材の過程で金銭を提供されたことはない」と答えています。
 東京新聞の編集局長は、疑惑を否定しました。では、朝日新聞の編集幹部や、朝日新聞出身の評論家、コメンテーター諸氏は、どうなのでしょうか。取材してみる記者はいませんか?

 火事場ドロボーとして名をあげた河村建夫の犯行(りっぱな公金横領罪だろう)の動機は、いわゆる「識者」、「コメンテーター」を含めた「ジャーナリズム対策」の原資を確保することにあったのかもしれない。

 さて、野中の暴露後(しかし野中はなぜいまこの時期に暴露に及んだのか?)もダンマリを決め込んでいるのは、池上がチクリと批判した朝日をはじめとする新聞だけではない。スキャンダルという汚物の山があればウジ虫のように群がる週刊誌も、ただ一誌「週刊ポスト」が取り上げるのみで、「新潮」も「文春」も「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいる。おそらく彼らも「河村機密費」の「おこぼれ」に与っているからかもしれぬ。(「ポスト」によれば、最前線の記者たちが「取り上げよう」と上申しても、デスクとかキャップという機密費の「役得」に与った連中が握りつぶしているという)

 野中の話の中では「渡しても返してきた」と言われている田原総一朗について、古川利明は「日本の裏金」の中で「・・・で、本当に官房機密費を貰っていたかどうかは、田原自身がこれまでどういう仕事をやってきて、それがどんな結果を日本の政治にもたらしてきたかを検証すれば、自ずと見えてくるのではないだろうか」と書いている。

 ついでに書けば、古川はその本の中で、いまは亡き「フォーカス」の2000年5月31日号の記事を引いて、官房機密費のリストに掲載されたマスコミ・文化人名として、こんな連中をあげている。

竹村健一 200、藤原弘達 200、中谷武世 200、田原総一郎(ママ) 100、俵孝太郎 100、細川隆一郎 200、宮崎吉政 100、早坂茂三 100、中村慶一郎 100、宮原政人 100、山本正 100、奈須田敬 100、一木香告樹 100、五味武 50、三宅久之 100、飯島清 100、・・・

 氏名のあとの数字の単位は「万円」。知らない名前もあるが、いかにもニコニコ笑いながら「裏金」を懐に収めそうな顔ぶれで、なるほど彼らの「言論」はこういうところから生まれたのかと思うと、瞬時に納得できてしまう。(6/3/2010)

 パソコンの前で来週に備えて、シュロモー・サンドの「ユダヤ人の起源」を読んでいた。コーヒーを入れたところで日経平均を見ると9,650円あたりをウロウロしているはずの線が、大きく9,750円を超えていた。なにがあったのかとマーケットニュースをサーチすると、鳩山首相・小沢幹事長辞任のニュースが眼に入った。

 すぐにドル円を確かめると91円70銭に迫っていた。これを「政局の混迷による円安」と見るのが正しいのか、「閉塞感をもたらしていた鳩山-小沢ラインの退場による明るさの展望」と見るのが正しいのか。そんなことをいろいろ考えたが、後場に入るや日経平均はあっさり寄りつき頃の水準に戻った。最近やたらに持ち上げられる「市場」なるものも、所詮はこのていどのものかと独り嗤い。

 夜のニュースで鳩山の辞任スピーチを聴いた。会社勤めをしていたときにも思ったことだが、人間というのは哀しいもので、権力を失って退場するときになってはじめて「まともなことが言える」ようだ。オレ自身はそういうポジションに立った経験がないから、それがそれまで必死に押さえていたからなのか、その段階で急にもの見えるようになったからの話か、それは分からない。

 前にも書いたように鳩山はこの国の政治家としては珍しく「理想」を語ることのできる政治家だ。だが政治家には「理想」と「現実」との間にあるギャップを埋める手腕が必要だ。鳩山にはその力がなかった。井深大に盛田昭夫がいたからソニーができた。本田宗一郎に藤沢武夫がいたからホンダができた。あえていえば鳩山にもそういうエンジン役が欲しかった。小沢一郎が野心なく、そういう役割を果たせればよかったのだが、これは言っても詮無いこと。

 だれが次をやるのかは分からない。常識的に考えれば、来月の参院選、民主党は惨敗するだろう。下馬評に上がっている前原誠司や枝野幸男のような小利口な「若手」があえて火中の栗を拾うことはないだろうから、賞味期限切れが近づいている菅直人がとりあえずリリーフに立つというのが順当な線か。

 誰が引き受けるにしても、せっかく鳩山が小沢の馘首を切ったのだから、これを役立てなくてはウソだ。つまり鳩山も小沢も自民党出身ということを利用する。その上で「これからの民主党は『政治とカネ』という『鳩山・小沢に見られる自民党的なもの』を徹底的に排除します」と宣言するのだ。「政治とカネ」の問題を「自民党」にくっつけた上で、自己批判に借りて徹底的な反自民党キャンペーンを参院選の基本戦術にするのだ。

 もちろんこれはデマゴギーそのものだ。しかし民主主義などというものはいまや衆愚政治そのものだ。バカな選挙民に戦術をチューニングするのは当然のこと。霞が関の対米従属官僚が仕組んだ攻撃への絶好のカウンターパンチにもなる。去年のいまごろ、自民党-霞が関連合は小沢を狙い撃ちにして成果を上げたかに見えた。しかし小沢が退き鳩山に代わることにより、その作戦は完全に裏目に出てしまった。民主党にとって状況は去年以上に厳しいが、自民党色のない体制を打ち立てることにより逆転勝利を狙う可能性はまだないわけではない。(6/2/2010)

 ネット検索は便利だ。頭の中にかすかに残る記憶も、片言隻句を入力するだけでサルベージすることができる。しかし記憶のかけらが視覚的なもの、聴覚的なもの、嗅覚的なものとなると、いまのところ、どうにもならない。

 きのう、日記を書き上げてシステムの電源を落としたところに**から携帯メールが来た。花の写真が添付されていた。記憶の海の底から泡が浮かんだ。知りたいと思っていた花のように見えた。「なんていうの?」、「鉄線」。そうか、「てっせん」というのか。

 どういうわけか花言葉を知っている。「高貴な精神」。なんとなく自慢したくて、そうメールしたけれど、いま調べてみたら、「高潔」、「たくらみ」、「美しい心」、「旅人の喜び」、「精神的な美しさ」などとある。当たらずとも遠からずとはいうものの、少し違う。記憶などあてにならないものだ。(6/1/2010)

 福島党首の大臣罷免を理由として社民党が連立を解消して政権を離脱した。論理的な流れとしては当然のことだが、予想した以上に民主党への衝撃は大きかったらしい。にわかに俗に言う「政局」になってきたようだ。

 朝刊に朝日がこの29・30の両日にわたって行った世論調査の結果が出ている。内閣支持率はとうとう20%を切って17%になり、民主党の支持率も21%と自民党支持率の15%に「肉薄」している。ある意味衝撃的なのは次の参院選比例区の投票先として民主・自民が20%で並んだこと。

 一方、「沖縄にある普天間飛行場の移設問題についてうかがいます。鳩山内閣は、飛行場を沖縄県名護市辺野古に移設する一方で、沖縄の基地負担の軽減に取り組む政府方針を決めました。この政府方針を評価しますか。評価しませんか」という問いに対する答えは、評価するは27%、評価しないは57%だった。また、「社民党の福島消費者大臣は、辺野古への移設に反対し、鳩山首相に解任されました。福島大臣の対応を評価しますか。評価しませんか」という問いに対する答えは、評価するが54%、評価しないが36%だった。

 もちろん、こういう質問はされる側にしてみると、「そういう風に尋ねられれば、こういう答えにならざるをえないが、ニュアンスは少し違う」ということがあるから、ストレートに半数の人々が辺野古移設に反対していると解釈するわけにはゆくまい。しかし「沖縄にある米軍基地などを整理・縮小するために、一部を国内のほかの地域に移すことについて、賛成ですが。反対ですか」という問いに、賛成50%、反対34%という結果が出ていることを考え合わせると、「沖縄にはそれなりのカネを渡してあるのだから、グズグズ文句を言わずに引き受けろ」という自民党式のやり方が大きく支持されているわけではないこともまた確かなようだ。(5/31/2010)

 同期会の幹事はつまらない。人集めはそこそこ成功したから幹事としては誉めてもらえるのではないかと思うものの、せっかくあの子もこの子も来たというのに、あまり話ができなくてちょっと欲求不満のような感じ。かえってふだんはあまり感ずることがない「人恋しさ」のようなものが掻き立てられたままになって、心の置き所がなくなってしまったような思い。

 まあ、こんな気持ちもせいぜい一日二日のことだとは思うのだが。(5/30/2010)

 同期会。ことしは川越散策。昼の部の参加は37名。夜の部の参加は42名。

 あいにく天気は曇ベース。時に霧雨。それでもまあまあの盛会だった。・・・(後略)・・・(5/29/2010)

 日米の外務・防衛担当4閣僚による安全保障協議委員会、俗に2プラス2は、きょう、普天間飛行場の移設先をキャンプ・シュワブとその隣接地域にする旨を明記した共同声明を発表、午後の閣議で政府方針として決定した。これに先立って鳩山総理大臣は閣議決定への署名を拒否するとしていた福島瑞穂消費者担当大臣を罷免した。

 既に鳩山の敗北は明らかになっている。そして社民党もまた敗北したわけだ。微妙な言い回しに終始した国民新党もまた敗北感におおわれているに違いない。つまり政府を構成する三党すべてが敗北したということだ。では勝利したのは誰か。アメリカか。いや、アメリカも勝利したわけではない。アメリカは現地住民の了解が得られることを条件として公言していた。しかし辺野古のある名護市の住民が了解していないことは既に報ぜられている通り。

 勝利したのは霞が関の対米従属官僚どもだ。NHKニュースには、きょう、防衛施設庁の担当者が名護市に隣接する地域の地主など有力者を訪れたことを報ずる映像が流された。それは移転計画の再検討という政府支持に面従腹背で臨み、意図的なマスコミリークのみならず、徹底的なサボタージュを繰り返してきた外務・防衛官僚がじつに素早く、嬉々としてこの局面に対応していることを示すものだった。この一事を見るだけで「なるほどね、この国の実質的支配者は対米従属官僚なのだな」と思った。

 所詮、鳩山由紀夫ていどでは官僚支配の壁は崩せなかった。小沢一郎ならばと思わないでもない。霞が関の官僚どもも、小沢には危機感を持っていたのではないか。だからあれほど執拗な攻撃を加え、マスコミまで総動員してワンワンと騒ぎ立てたのだろう。

 夜のテレビでは幾人かの「識者」が入れ代わり立ち代わり鳩山批判をしていた。しかしその大半は「日米同盟」を当然視した立場からのもので「批判」の名に値しない「非難」の類だ。根源的なところから考えはじめたしっかりとした「批判」でない限り、鳩山のいい加減さと同じいい加減さを自分たちも共有しているのだということに気付かないバカ。そんなバカがバカをバカにする可笑しさよ。なにが「識者」なものか。ただのアメリカべったりの売国奴ではないか。

 たまたまけさの朝刊で読んだ記事の一節を思い出した。

 東京新聞の投稿欄に載った読者の声だそうだ、「・・・政治評論家やコメンテーターがテレビに出て旧政権の手先かと思うほどに、鳩山政権批判などを繰返し、世論を誘導しているのを見るが、そのたびに、この人たちは官房機密費をタップリともらっていたのではないかと疑念を持ってしまう」というものだ。そうか、電波芸者はバカを演じてカネをもらっているというわけか。人間のクズどもめ。(5/28/2010)

 昨夜、ニューヨークは一万ドル割れを前にして、反発して入っているし、豪ドルは75円台、悪くても74円50銭~75円のレンジの中かなと思って床についた。しかし、朝、起きると69ドル30セント下げて、一万ドル割れ。豪ドルは74円を割って73円73銭。どっちみち80円までの道のりは長そうだ、一喜一憂はしまいと思っていても気分はよくない。

 鳩山首相が全国知事会に出席し、沖縄に集中している訓練負担の分散について協力を要請した由。米軍基地というものが最悪にして最大の「迷惑施設」であることは、今や、右から左まですべての日本人の共通認識になっている。「一緒になって考えてくれ、協力を検討してくれないか」というのなら、もっと早くにこの要請があって然るべきだろう。「5月末決着」といったのは鳩山自身だ。誰が強要したのでもない。それも半年以上も前のことだった。その5月のどん詰まりになって、「沖縄の過重な負担を軽減するために、訓練の負担を検討いただきたい」などと言い出すなど、噴飯もののパフォーマンスだ。

 予定議題を知った18府県の知事は知事会をサボった。聞きたくない話のためにわざわざ出かけるまでもないということなのだろう。抑止力だ、安全保障だなどといってもこのていどの認識なのだ。誰もアメリカの海兵隊が日本にいなければ、あすにも他国の侵略にさらされるなどと思ってはいない。むしろ、ヨッパライ運転をしようが、レイプをしようが、タクシー強盗をしようが、地位協定によって守られているから大丈夫という意識のアメリカ兵が街にたむろする危険が増大し、結局のところ自分の国がアメリカの属国であることを目の当たりにさせられるのが関の山と思えば、ノコノコと「危険負担の協力」のお願いを聴きに行くのは時間のムダだと、おサボり知事さんたちは思ったのだろうよ。

 夜のニュースで流された幾人かの知事の発言は自分の逃げ腰を鳩山の不首尾にかこつけるものばかりだった。わずかに大阪府知事の橋下徹の「沖縄県の犠牲の上に大阪府民は安全にただ乗りしている。小学生ですら分かっている」という発言が、苦しい財政の突破口を基地の受入で開こうという下心が見え見えとはいうものの、常識的「安保条約教信者」としてそれなりに背筋の通ったものに聞こえた。

 対照的だったのは東京都知事の石原慎太郎。切れ味の悪い紋切り型の批判は平凡以下。こいつも歳をとったものだ、老害の典型だね。ところで慎太郎さんよ、公約だった「横田基地の返還」、あれはどうなったんだい。目くそが鼻くそを嗤ってどうする、バカ野郎。(5/27/2010)

 郵便割引制度不正利用事件の村木厚子元局長に対する裁判が大詰めに差しかかっている。きょう午後大阪地裁で行われた証拠整理において、裁判官は検察側が証拠請求した捜査段階での関係者の供述調書43通のうち34通について、「検察官の強い誘導により作成された」として証拠採用を却下した由。

 証拠請求した検面調書(正確には「検察官面前調書」というらしい)の約8割が却下されるなどということはおそらく空前絶後のことに違いない。もっとも3月中旬から下旬にかけてあった公判における取り調べ担当検事(坂口英雄副検事、林谷浩二検事、國井弘樹検事)のお粗末な証言ぶりで、このことは十分に予測できた。江川紹子の傍聴記から一部分を書き写しておく。

 続いて右陪席裁判官。メモを廃棄したことについて「メモがあれば調書の信用性が証明されるのではないか」と問う。林谷「取り調べのためのメモで信用性を証明するためのメモじゃない」と弁明。
 裁判官は重ねて「調書の内容がメモと同じであれば、信用性は高まりますよね」と確認。裁判官のメモについての追及に、林谷検事は「そう言っていただけるなら、残す意味はあるかもしれない」などと困惑気味。裁判官が、ここまで検事を突っ込むのは珍しい。
 そして裁判長。立ち会い事務官はメモを作っていないのか、主任検事に提出する報告書を作ってないのか、と聞くも、林谷検事はいずれも「作っていない」と。裁判長は取り調べをしても調書を作らない日が何日も続いていることについて「意図する供述が出ないので作らなかったのでは」と。
 林谷検事は、以前やはり大阪地検特捜部が捜査をした生駒市前市長らの汚職事件でも被疑者ら2人を取り調べ、いずれも公判で取り調べ調書の信用性が問題となって、証人尋問を受けたことがある。裁判長はその時のことについて「やはりメモについてのやりとりが弁護人とあったか」と聞く。
 「はい」と林谷検事。「その事件ではメモはどうしたのか」と裁判長。「廃棄してました」と林谷検事。裁判長は「その時も関係者とあなたとの間で供述が食い違ったんですね」と確認。林谷は「はい」と認める。そういう経験があるのに、今回もメモを廃棄したことに裁判所は強い関心を示す。

 これを読むとこの林谷浩二という検事に憤りを覚えずにはいられない。ところで、林谷検事、証言の中で飯島勲(小泉純一郎の秘書官)の名前をあえて出した。ネット雀は大騒ぎし、いろいろ憶測が流れたが、ただ「この事件を担当したことで、自分の経歴に障りが出れば、黙ってはいませんよ」とでも言っておきたかった、それくらいことではないか。つまらない「おしゃべり」をするのはチンピラの証拠。

 たしかにこれもできるならば民主党の石井一参議院議員につなげる予定の「国策捜査ネタ」だったのだろうが、そこまでふくらませることはできなかったということだろう。もっとも民主党の今のていたらくを見る限り、小沢一郎事件一本で十分だったわけだが。

 ところでこれだけ下手を踏んだ以上、特捜部長の大坪弘道も無傷というわけにはゆくまい。もっとも大阪地検には調査活動費という裏金で自宅マンションを購入したとの告発を受けながら「嫌疑なし不起訴」となって福岡高検検事長に昇進した猛者もいたそうだ(三井環が嵌められたのはこの事件がらみといわれている)から、大坪もどっぷり権力犯罪常習の悪習に染まって悪徳検察官の道に精進すれば、出世できないことはないのかもしれない。(5/26/2010)

 先週金曜に一万円を切った日経平均は、きょう一段と下げて(298円51銭)、終値9,459円89銭をつけた。先週火曜日にわずか6円88銭あげたのみで、先々週の金曜日から一貫して下げが続いている。週明けのニューヨークも126ドル82セント下げ、先週金曜(日本時間の土曜朝)のアップを帳消しにして下げていたし、どうもギリシャショックだけではなさそうで、いやな感じ。

 豪ドルもジリジリと下げて72円台半ば。おかげで我が家の投資口は先週月曜日に損益が赤になってから「順調」に赤字額を拡大し、きょう、ついに300万を超えた。先月のピークと比べると600万近く目減りしたことになる。10年スパンで見ることにしているとはいっても、やはり心穏やかというわけにはゆかない。

 ひとつ気になるのは、日本株と逆相関の関係にあるとされている外国債券の投信が外国株に連動するかのようにふるまい、間接的に日本株とも相関しているように見えること。たった一年ちょっとしか見ていないからのことなのか、経済全体の枠組みが変化しつつあるからなのか、それが素人には分からない。ちょっとした悩み。(5/25/2010)

 録画しておいた「博士の愛した数式」を観る。

 導入部がうまい。主人公にあたる家政婦(この映画では語り手がその息子になっているが)が派遣された先の博士とかわす最初の会話は、「君の靴のサイズはいくつかね」、「24です」、「ほう、実に潔い数字だ。4の階乗だ」というものだ。階乗がどうして「潔い」かは説明されないが、それはどこかで、この物語の条件をなしている「80分しか保てない記憶」の「潔さ」につながっている。

 そんな境遇におちいりたくはないとは思うものの、でもそれも悪くはないのではないかもと思った。とくに最近のようにいまの自分を責め立てるような夢ばかり見ると、もし80分で記憶が蒸発してくれればあんな夢からは解放されるのではないか、そう思った。それでも記憶がどんどん蒸発するのはやはり恐いことだろう。そうだね、人を愛した記憶だけがどんどん蒸発してくれればいい。そういうことだね。

 映画の最後にウィリアム・ブレイクの詩が引かれていた。

ひとつぶの砂にひとつの世界を見
いちりんの野の花にひとつの天国を見
てのひらに無限を乗せ
ひとときのうちに永遠を感じる

 柔らかな微笑みの表情が脳裏に浮かんだ。消えろ、消えろ、束の間の灯火。(5/24/2010)

 我が宰相はきょう再び沖縄入りし、午前中、県庁で仲井真知事、午後は名護の万国津梁館で稲嶺市長と会談し、その場で普天間飛行場の移設先を辺野古にすることを伝え協力を願い出た由。政治家の評価は結果論でとはいうものの、鳩山の場合はそのプロセスも含めて落第。これなら自民党より悪い。

 鳩山が辺野古案逆戻りのいいわけとした「抑止力」について朝刊3面に検討記事のようなものが載っている。記事のリードはじつに痛烈だ。

 普天間移設をめぐり、鳩山由紀夫首相が「学べば学ぶにつけて」沖縄に必要だと分かったと語った米海兵隊の「抑止力」。今では、県内移設を推進する最大の根拠となっている。しかし、その実態ははっきりしていない。どういう事態でなにをするのかが明らかにされておらず、現状が適正水準なのかどうかも分からない。安保政策の専門家の間でも理解、評価は必ずしも一様ではなく「首相は一体何を学んだのだろう」という皮肉すらきかれる。

 記事は3段に別れている。まず「抑止力という時の相手国はどこか」ということ。そして「沖縄に配備された海兵隊の果たす機能はなにか」ということ。最後に「沖縄に残される海兵隊の規模は適正か」ということ。いろいろ書いてはいるが、そもそも沖縄に配備された海兵隊の任務について問われたキーティング海軍大将(前アメリカ太平洋軍司令官)すら「それは教えられない」と答え、緊密に連携しているはずの自衛隊の将官も「知らされていない」というのだから話にならない。

 日本としてはどこの国のどんな軍隊に対する「抑止力」なのかは知らないし、その「配備目的」も明確ではなく、理の当然として「その規模が適正か」どうかも判断できないということ。我が国はそんなお化けのような外国の軍隊に基地を提供し、このご時世に、その駐留経費を気前よく国民の税金で負担しているというのだから、開いた口がふさがらない。

 そういうヌエのような状況をただのひとことで説明した気分にするための言葉が「抑止力」という言葉だ。そして我が宰相は「学べば学ぶほど、沖縄に配備することが必要だと分かる」といい、マスコミはただその基地の移転先しか報じないというのだから、その思考停止ぶりには絶句せざるを得ぬ。

 軍事支出などというものは、厳しくコスト・パフォーマンスを問わねば、いくらでも野放図になるものだ。チマチマした補助金の事業仕分けよりは、このバカバカしい駐留経費(「思いやり予算」の名で呼ばれている)こそ仕分けして然るべきだ。アメリカ軍人をノウノウと食わせて、なにが安全保障だ。(5/23/2010)

 豪ドルは日本時間のけさ、ラスト74円76銭で終わったようだ。ハラハラドキドキ(するほど際どい勝負をしているわけではないのだが)の三日間だった。自分でも可笑しくなったのは体重。火曜日の夜から木曜日にかけて1.5キロ減った。ダイエットのためにはいいかもしれない。いや、確実にストレスになって体を痛めているに違いない。

 それにしてもちょっと変ではないかと思う。「なぜ豪ドルが」ということもそうだが、「なぜ各国の通貨に不安が発生するたびに円高になるのか」ということ。きのうなどは円の独歩高という感じだった。

 きのうの朝刊に「日本経済の真実」というタイトルの本の広告が出ていた。広告によると、日本を滅ぼす5つの「悪の呪文」があるという。「悪の呪文1:経済の豊かさより心の豊かさが大切」、「悪の呪文2:大企業優遇はやめろ!」、「悪の呪文3:金持ち優遇は不公正だ!」、「悪の呪文4:外資に日本が乗っ取られる」、「悪の呪文5:金をばらまけば、景気がよくなる」とあるから、もうこれだけでお里が知れたようなものだが、あの幻冬舎の本と思えば不思議はない。

 たしかに4番と5番は、「悪の呪文」かどうかは別として、語られる意味によっては「?マーク」には違いない。「悪の呪文」として退けたい優先順位が1~3に比べて低く設定してあるというのがご愛敬といえなくもない、呵々。

 著者は辛坊正記(日本総研情報サービス代表取締役)、辛坊治郎(読売テレビ解説委員長)。シンボウに正しい記述、シンボウに治める役人とは冗談みたいな名前。ペンネームだろうか。あげられている主張を読むたびに、ふつふつとこのご立派な先生たちに、先の疑問をお尋ねしたくなった。

 株価が上がらないダメな日本、先進国中ずば抜けた政府の借金があるダメな日本、物価が50倍100倍になるハイパーインフレが起きそうなダメな日本・・・、そんな日本の通貨である「円」がリスク回避の動きが出るたびに「買われる」のはなぜなんでしょうか、と。

 経済活動がどんどんダメになって破産しそうな、ハイパーインフレの可能性さえある(ほんとかい?)日本の通貨が、ちょっと世界的な経済不安が頭を持ち上げると、なぜ急に「高く」なってしまうのか。このあたりのメカニズムをきっちりとゴマカシなくご説明していただきたい、と。

 「先進国中ずば抜けた政府の借金」というのは分かる。しかしGDPに対する財政収支の率が日本並みのマイナスになっている国は、いま話題の「PIGS」だけではない、イギリスもアメリカ合衆国も日本を凌駕する数字になっているのではないかしら。

 一週間ほど前の朝刊にこんな図が載っていた。財政収支の対GDP比をx軸にとり、経常収支の対GDP比をy軸にとると、第三象限、つまり財政収支も赤字で経常収支も赤字というゾーンにPIGS、イギリス、アメリカがいる。これに対し、日本とドイツは第二象限、財政収支は赤字だが経常収支は黒字というゾーンにいる。ちなみに掲載されていた図の第一象限、財政収支・経常収支ともに黒字というゾーンにはスイスと高福祉国家として名高いノルウェーがプロットされていた。

(朝日新聞 5月14日朝刊5面から)

 「ああ、これが円高の理由か」と思った。つまり経常収支が黒字である通貨だから、支払い能力があると見込まれ、「リスク回避の円買い」につながっているのかな、と。しかし悲しいかな、素人はそれに確信が持てない。

 この「面白い本」のまえがきにはこんなくだりがあるらしい。「世の中にはインチキがあふれています。最近流行しているのは、『日本の国債は、外国人が買っていないから、いくら増えても大丈夫』とか・・・」。ふと夢想したことがある。ギリシャ国債を買っているのはドイツやフランスをはじめとする各国ということ。だからギリシャ国債がデフォルトになりそうになると、関係国はギリシャが破綻しないように一生懸命になってくれる。それに引き替え我が国と日本国債は・・・。素人の夢想と疑問は尽きない。

 どうなんでしょう、シンボウ先生?!

 閑話休題。

 朝刊にきのう浮かんだ疑問の答えが出ていた。小沢不起訴に対する二度目の審査も先月担当した審査会メンバーが担当するとのこと。ただ11人のうち6人は先月末に任期を終えているので、前回の議決に関わったメンバーは5人とのこと。感情論で考えることなく、多少とも論理的に考えられる人が多数を占めることを希望したい。さもないと検察審査会という制度そのものが意味をなさなくなる恐れがある。(5/22/2010)

 東京第5検察審査会の「起訴相当」議決に対し、東京地検特捜部は再度「小沢不起訴」とすると発表した由。発表したのは大鶴基成次席検事。不起訴理由は「再捜査をしたが基本的証拠関係に変動はなく、小沢議員が共謀したと認めるにたる確証は得られなかった」というもの。

 もともと小沢の不起訴処分は「嫌疑不十分」だ、「起訴猶予」ではない。検察審査会の面々がどのように誤解したのかは分からないが、「捜査を尽くしたけれども、犯罪が成立するかどうか、明確に証明することができないので、起訴はできません」ということであって、「捜査の結果、犯罪が成立することは十分に証明できるが、これこれのことがらを考慮して起訴しません」ということではない。

 「犯罪が明白であるのに、検察の恣意的な判断で起訴しない」というときに、「それはだめだ」と検察審査会が議決したならば分からないでもないが、「犯罪を犯したことを立証できないないなどというのは認めない。十分に怪しいのだから起訴しなさい」などという議決をすることはおかしいのではないか。

 検察審査会が「起訴相当」の議決をするとき、「起訴猶予処分」については比較的簡単だが、「嫌疑不十分」についてはそれほど簡単ではない。「被疑者によって犯罪がなされたことは、捜査上明らかになったこれこれの証拠により明白である。にもかかわらず、嫌疑不十分というのは、検察官が嘘をついているか、検察官の目が節穴だからだ」ということを明確に指摘しなければならないだろう。プロが「犯罪の立証が困難」と主張するのを覆そうというのだから、常識的に考えればこれは相当に難しいことだ。

 検察審査会が作ったともいうべき冤罪事件がある。甲山事件という名前で知られている事件だ。

 1974年に西宮市の知的障害者施設でふたりの園児の死体が浄化槽で発見された。浄化槽のマンホールの蓋が閉まった状態で発見されたため、誤って落ちたのではなく何者かが手をかけたのだという判断の下に殺人事件として捜査が始まった。警察が逮捕した保育士は証拠不十分のため不起訴になった。

 これに納得しない被害者遺族が検察審査会に不服申し立てをした。審査会は「不起訴不当」として、事件は再捜査、再逮捕、起訴という経過を辿ることになった。一審無罪、二審は審理不十分として一審に差し戻し、差し戻し審一審無罪、差し戻し審二審無罪、そして、検察の上告断念で無罪が確定した。4回行われた裁判で被告を有罪とする判決は一度も出されなかったということに注目すべきだ。

 いちばん最初の「証拠不十分による不起訴」で終わっていたはずの事件(そもそも「殺人事件」だったのかどうかすら怪しい)が、推定無罪の原則を理解しない、あえて書いておく、「愚かな」と、検察審査会メンバーのために25年にもおよぶ長期裁判になってしまった。さらにこの事件には被告のアリバイを証言したために「偽証罪」で園長他が起訴されるというおまけまでついた。

 「証拠(嫌疑)不十分」という言葉の意味を理解せずに「不起訴不当」と議決した審査会メンバーが、その後、どのように自分たちの愚かしい議決の意味を噛みしめたのか、ひとりひとりに尋ねてまわりたいものだと思わないでもないが、「じつに恐ろしい話だ」とのみ書いておく。

 ところでちょっとした疑問がひとつ。きょうの決定を受けて開かれる再審査を担当するのはまた東京第5検察審査会なのだろうか。それとも別の部会が担当するのだろうか。(5/21/2010)

 さて日記をと思ったころまでは、豪ドルはまだ75円台をつけていたのだが、10時を過ぎたころからかなりのピッチで下げはじめた。11時をまわると凄まじい勢いで下がり続けた。72円55銭まで下げたところから、やっと反転フェーズに入ったもののいまは74円。典型的な半値戻し、偽りの晴れ間に見えないことはない。

 リーマンショックごろの豪ドルは55円前後まで下がった。それを目安に45円程度まで下落しても耐えられるように証拠金を入れてあるのだが、チャートがフリーフォールイメージで下げると穏やかではいられない。

 不安に駆られる要素はふたつある。

 ひとつめ。今回のユーロ危機はリーマンショックを超えるものになるのかどうか、まず、それが分からない。しかし多くのプレイヤーはリーマンショックを目安に考えているだろう。それを超えて下げたときには相当のパニックが訪れる可能性がある。オーストラリアという国の成り立ちから考えて、オーストラリアドルが「ゼロ円」になることはあり得ない。しかしパニックに陥った市場では「実需」に見合う「金額」を瞬間的に下回る可能性は否定できない。

 ふたつめ。問題はその「オーバーシュート」がどれほどのものになるかということだ。08年は夏の帰省の時にいったんすべてを決済した。一度にふたつのことを考えることができない性格だから、家の売却、引っ越しが済むまでは無理と決めていた。したがって9月中から10月末までを分足のチャートで追っかけた経験がない。つまり、のちに日足で見たボトムが瞬間値でどれほど下振れたのかを知らない。

 そう考えると、急に45円では心許ないような気がしてくる。・・・いままた73円80銭あたりをフラフラしている。さきほど、いまある現金をすべてかき集めれば、最悪6円ぐらいまでは耐えられることを確認。いくらなんでも豪ドルが6円になることはなかろうとは思いつつ、あしたはとりあえず資金をすべていつでもこの口座に持ち込めるようにするつもり。

 このていどの胆力しか持ち合わせていない。いまの建玉が既に自分の限界を超えていることを確認。(5/20/2010)

 経済ニュースはユーロ不安、社会ニュースは宮崎の口蹄疫。

 口蹄疫への対抗策はたったひとつしかない。感染した家畜の殺処分と周辺の徹底的な消毒。もちろん畜産農家にとって殺処分は感情的に経済的にも大変な決断を要することだ。しかし遅滞なくこれを行わなければ被害は爆発的に拡大する。だから個人ではなしがたい決断を公的機関が行わなければならない。

 政府はやっときのうになって殺処分と対象家畜の買い上げを決めた。「決定が遅い」とマスコミは批判している。その指摘は一見正しく思える。しかしそこにはどうしても「いまとなってみれば」というニュアンスがついて回っている。

 たとえば朝刊にはこんな話が報ぜられている。

 宮崎県都農町。3月下旬、ある農場で水牛が下痢になった。モッツァレラチーズを作るために飼われていた42頭のうちの1頭。往診した獣医師は、31日に県の宮崎家畜保健衛生所に届け出た。
 県も立ち入り検査したが、口蹄疫にみられる口の中や蹄の水疱、よだれがない。便なども検査したが、下痢の原因となる菌やウイルスが見つからず、結論が出ないまま下痢は治まった。
 これが最初の異変だった。
 この農場から南に約600メートル離れた別の農家で、次の異変が起きた。「口の中に軽い潰瘍のある牛がいる」。4月9日、衛生所に別の獣医師から連絡があった。2日前に往診したところ、1頭の牛が前夜から発熱し食欲がなく、口からわずかによだれがあったのだという。
 県の口蹄疫防疫マニュアルでは「(口の中の)水疱は発病後6~8時間以内に現れ、通常24時間以内に破裂する」と記載されている。
 9日の往診で、口の中に直径3ミリほどの潰瘍は見つかった。しかし水疱ではなく、かさぶたのような状態。すでに発熱から4日がたつ。仮に口蹄疫なら、水疱や激しいよだれが見られるはずだ。
 獣医師から相談を受けた衛生所は農場内のすべての牛を調べたが、口蹄疫の可能性は低いと判断した。発熱は1日でおさまっていた。
 口蹄疫ウイルスの潜伏期間は、牛の場合で約1週間。獣医師は12日まで毎日往診したが、異常のある牛は見つからなかった。
 獣医師は振り返る。「教科書通りの口蹄疫とは異なる初期症状。まったく想定しなかったわけではないが、この症状からは診断できなかった」
 4月16日夕、別の2頭に同じような症状が見つかった。最初の牛の隣にいた牛で、何らかのウイルスによる感染と考えられた。この段階で最初の牛はほぼ完治していた。翌日、衛生所が改めて立ち入り検査し、感染症の鑑定を行ったが、19日までに出た結果は陰性だった。
 ただ衛生所は19日、念のために検体を国の動物衛生研究所(動衛研)海外病研究施設(東京都小平市)に送った。このとき初めて、県は国と連絡を取った。20日早朝、口蹄疫の陽性反応が出た。

 自然は限りなく深い。神のたくらみのすべてが人間に分かっているわけではない。ウィルスという不思議な存在の「変異」についてさえよく分かっていないのに、変異したウィルスが取り憑いた生物にどのような「症状」をもたらすかなどは誰にも分からない。過去に起きたことについては対処できる。しかしこれまで知られていないことに対処するのは非常に難しい。もっとも人間はそれほど賢くないから、もし仮に慧眼の獣医師が3月の段階でこれを口蹄疫と判断しても、まわりの頭の不自由な連中がそれをすぐに認めることはできないのだから、その後の成り行きにさしたる違いはなかったろう。

 現にワイドショーは「政府が動いたのは今週になってから」というイメージを振りまいているが、検索をかけてみると「日本農業新聞」のサイトには4月30日付けのこんな記事が載っている。現場に近い行政の長の危機感がもっぱら「カネをどうする」というところにあったことがよく分かる。火事はまず消火、被害対応はそのあとだろうに。まあ「大衆派知事」のこと、これが限界といえばそれまでだが。

 農水省の山田正彦副大臣は29日、宮崎県庁で東国原英夫知事と会談し、口蹄疫対策について意見交換した。副大臣に対して知事は、ウイルス侵入経路の早期解明や防疫対策への予算確保、農家の経営支援策などを求めた。
 東国原知事は、10年前の発生時と比べて発生規模が大きいことや、飼料高騰、食肉の消費低迷など畜産をめぐる情勢が大きく異なると指摘。「畜産農家の精神的な打撃は計り知れない」と語った。

 その4月29日には20日以降で11例目が確認され、6人の専門家からなる国の疫学チームが最初の発生地である都農町の農場で主に感染ルートの調査を開始している。もし遅いというのなら、調査着手についてもう少し早くならなかったのかという気はするが、マスコミもその時に指摘できなかった以上、いまから農水大臣や県知事を責める資格はあるまい。

 そもそも個別の殺処分に留めるのか、エリア全体の殺処分に留めるのか、その判断は難しい。甚大な被害の経験と記憶が身近になければ、畜産農家にとっても地元にとっても殺処分は「腑に落ちる」ことはない。早ければ早いで、「やり過ぎ」、「過剰反応」、「風評被害」などという「手口」で盛り上げるのが、すべてを「見世物化」したマスコミの常套手段だ。(5/19/2010)

 日経のサイトに「フォーブス」からの転載記事が載っている。タイトルは「米国債は格下げすべきか? 格付け業界で論争がはじまった」。半月ほど前、S&Pがギリシャ国債の格付けを三段階下げた日に書いたことを思い出しながら読んだ。

 書き出しはこうだ、「格付けビジネスに再参入を果たした独立系投資調査会社、ワイス・グループ(フロリダ州)のマーティン・ワイス会長は早くも、主要な信用格付け機関に挑戦的なメッセージを送りつけた」。「再参入」、「独立系」という言葉の意味は記事の末尾を読むと分かる。「ワイス会長は第三者的なオブザーバーというわけでは決してない。大手3社と競合関係にある格付け機関の代表者である。ワイス・グループは2006年に格付け事業をザ・ストリート・ドットコムに売却したが今月上旬、同事業を買い戻し、銀行と保険会社の格付けビジネスに再参入すると発表した。ムーディーズやS&Pが債券発行体である企業から報酬を得ているのに対し、ワイス・グループは投資家側に料金を課して収入を得ている」。

 以下は記事の主要部。

 ・・・米国債のAAA格を剥奪(はくだつ)せよというのである。
 同会長は10日、スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)、ムーディーズ、フィッチの格付け大手3社に公開書簡を送り、その中で3社は米国長期債の格付けを引き下げるべきだと主張した。引き下げが市場に混乱をもたらすだろうこと、また国債価格が急落し金利が急上昇する可能性があることは認めている。だが会長によると、米国債を「AAA」に据え置けば、最終的には事態ははるかに悪くなる可能性がある。AAA格が付与されていることで議会は自由に公債を追加発行でき、投資家も中長期国債の購入意欲をそそられる。だがその利回りは低く、リスクに見合うものにはなっていないという。
 会長は公開書簡で次のように述べている。「なにが特に悪いのかというと、米国債が『AAA』の格付けを維持し続ければ、市場全体に投資の安全性に関するゆがんだ認識が広がりかねないことだ。そうなると最終的に米連邦政府債務の市場のメルトダウンにつながりかねない」。
 米格付け機関は不動産市場に潜むリスクを見過ごし、サブプライム住宅ローンを担保とする債券に高い格付けを付与したことで厳しい批判にさらされた。また1990年代初頭に生命保険会社が相次いで破綻したときには、保険会社の格付けの引き下げが遅きに失した。さらに2001年のエンロン問題のときも、破綻する数日前まで同社を投資適格級に据え置いたままだったとワイス会長は指摘する。
 当時格付け機関がもっと早く格下げに動いていれば、債券の発行体企業も早くバランスシート強化に取り組んでいたかもしれないと会長は言う。同様にいま米国債の格付けを引き下げれば、政府も財政再建に取り組まざるを得なくなるだろうと、同会長は議論する。
 ワイス会長は本誌とのインタビューで、特定の等級への引き下げを念頭に置いているわけではないと語った。いかなる変更であっても適切なメッセージになるはずだという。「むしろ格付けの変更をしなかった場合に起きることを私は憂慮している」。
 ある国の国債格付けが引き下げられれば、その国の国家債務がコントロール不能に陥る可能性がある。4月末にS&Pがギリシャ国債をジャンク扱いとし、スペインとポルトガルの国債を格下げした際には、これらの国債が投げ売られ、利回りが急上昇した。今後の国債の利払いが困難になると見たギリシャは、欧州連合(EU)に救済措置を要請せざるを得なくなった。

 じつに的確な指摘と思われる。いまや素人でも既に米国債が裸の王様になっているのではないかという疑念は持っている。いや、素人は自分が抱いた「信じたくない懸念」を専門家がそれを言わないことだけを手がかりになるべく考えないようにしているだけだ。それはどこかしらサブプライムローンという毒入り証券に疑念を持ちながらも、専門家のお薦めにしたがって買っていた光景に酷似している。(それにしても「毒入りギョーザ」にあれほど大騒ぎした我がマスコミが「毒入り証券」の悪質性について騒がないのは、頭のネジが何本か抜けているからだろうか、それとも強い者にはたてつけない根性なしだからなのだろうか、呵々)

 たしかに米国債の格付けが一段階でも引き下げられれば、相当のショックが発生するだろう。しかし国債についても「too big to fail」は成立する。つまり底が抜けたときの恐怖ゆえに底が抜けないための必死の方策が講ぜられるだろう。むしろアメリカから愚かな大国意識を抜き去り、あのバカバカしいほどの軍事費の支出が見直されるならば、この国のみならず世界中にいる「アメリカ教信者」の無知蒙昧が解かれ、世界はいまより数段平和になるかもしれない。世界中の厄災の半分くらいは「アメリカ合衆国」という「ならず者国家」がもたらしているのだから。(5/18/2010)

 9時半に豊里を出発。三陸道・仙台南・東北道というルートはすごく楽。天気は上々、気持ちのよいドライブ。3時前には外環大泉を出た。滝山のコスモで給油するべくナビをセットしたのだが、大泉から滝山まではたっぷり一時間以上かかってしまった。それでも4時には帰着。

・・・(後略)・・・

(5/17/2010)

 宿屋に雨戸がないのは当然としても、この部屋にはカーテンもない。早々と部屋の中が明るくなって、目が覚めた。目が覚めたとき、自分が今どこにいるかということより、自分がなにをしているかということが意識にあった。夢からの連続性が強烈にあった。

 筋立てを憶えているような夢でも、始まりがどうだったかはふつう靄の中にあるものだ。しかしこの夢は「あいつはどうしているだろう」、そう思うところから始まった。変な書き様だが、「嘘のような夢」。昼間の生活にちょうどサイドカーのようにピッタリと寄り添っている意識が見せた夢。

 外の光にうっすら姿を現わしつつある部屋。まだ暗がりになっている天井を見つめながら、「どうしたらいいんだ」、いつまでたっても静まらないもうひとりの自分のことを考え、意識のあるうちに記録しておこうと起き上がってノートPCを立ち上げ、ここまで入力。(5/16/2010)

 9時半、出発。外環は事故渋滞。やっと東北道に入っても久喜手前の事故で渋滞。登米到着は5時をまわるかと思われたが、久喜を過ぎてからは快調に流れていた。北上するにしたがって気温がぐんぐん下がってゆくのがわかる。3時半に**さん宅到着。

・・・(後略)・・・

(5/15/2010)

 あしたの遠出に備えて洗車してきた。戻ってきて私道に入ったところで小さな子供連れの女性。駅への近道になるからだろう、所沢の家の前の公道よりもこの私道の方が通行量は多い。チョロチョロする子供に気をとられているうちに左後部をかすかに門扉の金具にこすった。遠目には分からない小さな疵。

 システムチェックをすると、Microsoft Update の「追加選択(ハードウェア)」にディスプレイドライバの更新が登録されていた。格別の不具合も不満もないのに「更新」をかけたのが失敗だった。自動更新のどこかがうまくゆかずに終了。再起動をかけると標準ドライバになってしまった。画面の反応が鈍い。

 しかたなしに久しぶりに「システムの復元」を試みた。冷静になって考えるとこれは無意味。ディスプレイドライバは復元せず、こんどはアンチウィルスのカスペルスキーが壊れてしまった。その状態でドライバのダウンロードをする気にはなれず、まずカスペルスキーの修復インストールを行ってから、やっとnVidiaのサイトからダウンロードしたドライバをインストール。

 どうにかこれでと思いきや、アクロバットを起動した途端に「ライセンスの再認証をしてくれ」ときた。なにひとつシステム変更をしたわけではないのだが、システム構成の変更を検知したらしい。指定のライセンスセンターに電話をして再認証。

 そもそもの原因が当方、Microsoft Updateのどちらにあったかは分からないながら、半日、振り回された。車といい、PCといい、どうもきょうは・・・と思いつつ暦を見ると「仏滅」だった。なるほどね。

§

 やっとシステムが復調して株価チェックをすると、きのういったん戻した日経平均はは、きょう、再度下落、158円4銭安の10,462円51銭。今晩から明日の朝にかけてのニューヨークダウがどう動くかが少し心配。(5/14/2010)

 ちょっと前に**(友人)とやり取りした話。**(友人)の質問は要するに「いまは買い時か?」というもの。つまり「二番底はあるのか?」、「PIGS(ポルトガル、イタリア-アイスランド、ギリシャ、スペイン)危機はどのていど深刻か?」ということ。

 こちらからの答えは、「底値で買いたいのはみんなの希望。でも底かどうかはたぶんその道のプロにも言い当てることはできない」。「いまか、もう少し後か悩みは尽きないが、全体として経済活動が平均以下にあると思われる現在、資金投入するのは間違いではないのではないか」。「もちろん『資金余裕時間』と『生命余裕時間』が確保されていることが前提」。これが結論。ただ楽観的に見ているわけではない。

 二番底については分からないとしつつ、ギリシャ国債については「マーフィーの法則」に従えば、実質的にはデフォルトするだろう」し、「PIISに影響が及ぶ」ことも確実だし、「必死に支えるドイツ・フランス・イギリスも財政状態が深刻になることも間違いない。どの国もリーマンショック後、経済刺激のために派手に財政支出したのだから」とも書いた。

 そういう悲観論を背景に、どうして「いま投資することを間違いではないのではないか」などと結論するのかについてこんな風に書いた。

 ミヒャエル・エンデが「複利」の罪について書いていました。西暦1年に1ペニヒを年利*%(数字忘れた)の複利で預けると、西暦2000年には太陽*個(数字忘れた)の金塊が買える。彼が言いたかったのは、複利による貨幣価値の増大に、物品の生産量や価値総量が追いつかないとすれば、不可避的に「借金棒引き」ないしは「戦争などの破壊行為」による「チャラの仕掛け」が作動するということだったと思います。
 コーランは複利を禁じているそうですが、故なしとはしないような気がします。
 しかし欲望の手綱を緩めたのが現代人ですから、もはや昔には帰れないとすると、経済活動は交換の道具である貨幣の自己増殖にブレーキをかけることはできないでしょう。金本位制を捨てたのはモノとマネーのバランスをとるためだったと信じられていますが、マネーの自己増殖がドライブ要因だったことも事実ではないのか。ギリシャの放埒ぶりを嗤っている人ほど、自分の中のマネーの増殖欲に気がついていないのではないかと思います。まさに目くそが鼻くそを笑うようなものだということに。
 解決策はたぶん十分に管理されたマネーの供給、インフレターゲットの導入しかないという説が、ぼくにとってはいちばん説得力があります。まさか戦争をするわけにはゆかないでしょうから、貨幣価値を下げることによってリバランスするしかないと思います。
 衆愚政治化している民主主義国が「財政規律」などという格好のいいことをいってもはじまりませんよ。ほんとうは超富裕層に課税するのがいちばんなのですが、たぶんできないでしょう。既得権を持っている層にそれをあきらめさせるのは、革命か戦争、いずれにしてもできれば我々の避けたいことですから。とすれば、ひそかに(ここが難しい)紙幣を増刷することによってのみ、ことの解決が図れるということになるのではないかと思います。

 つまり、パニックが起きない限り、同一の経済規模に対して、かつてより少し多めのマネーが循環するわけですから、企業活動は相応のサイズでなされるのではないか。そうだとすれば、株も債券も額面インフレの中で流通する。つまり、預貯金で持つのではなく、インフレに強い形でもっておく方がいいのではないか・・・ということ。

 マルサスの「人口論」を思い出した。「人口は幾何級数的に増加するのに対し、食料生産は算術級数的にしか増加しない」、「貧困は人口の幾何級数的増大を抑制するための必然である」。パラフレーズすると「マネーは幾何級数的に増大するが、サービスは算術級数的にしか増加しない。債務の最終的引受け手が国家になることは必然である」、・・・とこんなことになるのだろうか。しかし、複利は掛け算の世界ではなくべき乗の世界だ。それに追いつくサービスとは何かとなると、いささか恐ろしくなってくる。(5/13/2010)

 後場が引けて最終の株価をチェックに取りかかる寸前、**(長男)からメール。「きょうの交流戦チケット@東京ドームがあるけど行く?」。さっそく調べる。ライオンズ-ジャイアンツではないか。先発は岸、そしてゴンザレスとのこと。チケットの受け渡しは5時半に新宿ということであわただしく準備。

 出発前までに仕掛っていた豪ドルの買い玉2本もお弁当代ぐらいのゲインで決済でき、鼻歌交じりで出発。前の打合せが延びたとかで20分ほど待たされたものの首尾よくチケットをもらい、**(家内)とはドーム手前で合流。

 入場したのは2回裏、スタンドからどよめきが聞こえた。ジャイアンツが李のヒットで先取点をあげたどよめきだった。着席する間際に長野が三塁ゴロダブルプレイでジャイアンツの攻撃は1点に止まった。3回表のライオンズはあっさり三者凡退。そして4回裏、岸は先頭のゴンザレスにセンター前ヒットを打たれた。「おいおい、ピッチャーにヒットかい」。すると原はトップの坂本にバントを命じた。いかにも原らしい采配だ。野村が解説をしていたら「信じられない」というだろうと嗤いながら見ていたら、坂本は3塁側にバントフライ。これを細川が好捕。

 ここからあとジャイアンツは20人が連続してアウトになった。つまり岸は3回からパーフェクトゲームをやってのけたというわけだ。4回の表、トップの片岡がレフト線にツーベース。栗山が右方向にゴロを打って1アウト3塁。これを中島が犠牲フライで返して同点。5回表と7回表にブラウンと中島がソロホームランを打ち、3-1でライオンズの快勝。

 試合終了は8時20分頃だったろうか。ジャイアンツファンにとってはほとんど盛り上がりゼロのつまらない試合だったろう。**(家内)ともどもご機嫌で帰還。(5/12/2010)

 たとえば「夢」がパラレルワールドに住む、別の「自分たち」との間で共有されているとしたら。そんな想像をしたくなるような夢だった。

 きょうここまでの間にはいくつもの分岐点を通過してきた。選びようもない「選択」もあったし、100%その時の自分の自由意思で選び取った「選択」もあった。前者には恨みもあるが後者には悔いなどない。だいたいは、すべての場合とまでは書けないが、ほとんどの場合はそれを選び取る理由があった。

 長男でなければ違った選択があったかもしれない、そういうことはあった。しかし変更できないことは変更できないのだからしかたがない。可能性のある選択肢になり得ないことがらは捨てざるを得なかった。こうしてきっぱり書くほど、潔かったわけではないことは認めるけれど・・・。

 それでもなお、けさの夢にはリアリティがあった。仮にそれがパラレルワールドの彼に属する夢だったとしたらと考えたところで、気がついた。その夢は彼にとってもまた夢なのかもしれないということに。(5/11/2010)

 谷亮子が民主党から立候補するのだそうだ。小沢の肝いりらしく、ちらりと見た夜のニュースではご両人満面の笑みで記者会見をしていた。

 小沢は頭数をかせぐためなら人を選ばない。それでもそれなりの知名度を持つ有名人となれば、多少の手間隙はかかるはずだが、もともと「勘違いのかたまり」のような谷なら説得に苦労することもなかったろう。それでも政治屋さんに転進してくれればオリンピックをめざす後輩たちには朗報かもしれない。悪いことばかりではないさと思った。ところが会見ではロンドンオリンピックにも意欲満々だったとか。

 もうなにも書く気にもならぬ。このていどの政治、このていどの文化、このていどの国。(5/10/2010)

 夏樹静子の「裁判百年史ものがたり」の末尾の特別対談を読み終えた。大津事件からはじめて犯罪被害者保護制度まで、司法制度の成立直後から現在に至る流れを12件の「事件」を取り上げて通覧した形になっている。まとまりがいいので、京都へ出かけたとき以外、寝る前に1件ずつ読んできた。

 著名な事件(「大津事件」、「大逆事件」、「帝銀事件」、「松川事件」、「八海事件」などが収められている)については新しい話はない。しかし「昭和の陪審裁判」、「離婚裁判、運命の一日」などは興味深く読めたし、「チャタレイ裁判」などは猥褻とされた伊藤整の訳文そのものが紹介されていて面白かった。

 面白いと書いたのは「隔世の感」についてではない、検察側・弁護側が立てた証人の証言だ。「猥褻である」、「猥褻でない」、証人の受け取り方を素直に語っているものが多いのだが、中にあきらかに「結論が先にあって」なされているような証言(主に検察側証人だが)がある。前者は「隔世の感」と思わせるのに対し、後者は「ちっとも古くない」感じがして、読んでいる方がいささか恥ずかしい気がしてしまう。「こういう人っているんだね、いつの時代にも・・・」、これが「面白い」のだ。

 読みながらいままでの考えをあらためなければならないかと思ったのは最終章の「被害者の求刑」。

 平成十四年 (二〇〇二年)、ヨーロッパ調査団が、岡村を団長として、諸澤教授と、全国から集まった弁護士等の計九人で結成された。事前検討会が重ねられ、NHKのスタッフも同行取材することになった。
 調査団は九月十五日、最初のドイツ・ヘッセン州州都のヴィースパーデン地方裁判所を訪れた。初めて見るドイツの法廷では、正面中央に裁判官、向かって左側に弁護人と被告人、右側に検察官が座ることは日本と同じだった。が、ちがうのは、検察官の隣に被害者が「公訴参加人」として、それをサポートする弁護士が「公訴参加代理人」として、座る席が設けられていたことである。これがドイツでの通常の「裁判のかたち」だった。
 調査団は現役裁判官に直接質問した。
(質問)被告人と被害者が向かいあって対峙した時、感情的になって法廷が混乱することはないか。
(答)ほとんどない。例外的な場合にも裁判官がとる手段がいろいろ認められているから、被害者の公訴参加が裁判の支障になることはない。
(質問)被害者は論告求刑できるか。
(答)できる。
(質問)検察官の意見や求刑とちがう場合があるか。
(答)ある。その時は両者の主張を聞いて、裁判官が判決を下す。
(質問)被害者が参加することで、裁判が遅れることはないか。
(答)いや、むしろスムーズに進む。被害者は事件ともっとも深い関係をもつ当事者であり、当事者すべてが法廷に揃うことになって、裁判官は事件の内容をさまざまな角度からより深く知り、より早く真実を発見して、罪を裁くことができる――。
 とはいえ、ドイツでも一九八〇年代初めまで、被害者は単なる「証拠品」 の名で扱われ、いつも法廷の外に置かれていた。しかし、やがて反省が生まれ、運動が始まって、一九八六年に被害者保護法が制定されると、被害者は「証拠品」から「当事者」に格上げされ、明確な権利としての裁判参加が認められた。
 被害者の立場や現在の制度はここ二十年で築かれた。日本は今、ドイツの二十年前の状況にあるのだろうと、裁判官は語った。
 岡村ははじめて確かな実感を得た。日本の犯罪被害者の裁判参加も夢物語ではない――。
 続いてベルリン地方検察庁を訪問した。
「検察官は被害者と被告の権利を同様に尊重する。他方、公訴参加人(被害者)や公訴参加代理人(弁護士)は純粋に被害者の権利や利益だけを主張すればよい。それで検察官の仕事に支障が出ることはない」(刑事部副部長)
「被害者の参加で裁判が混乱や遅延することはない。被告人から見れば、相手が検察官一人から被害者側が加わることで、被告人の立場を悪化させると、被告人の弁護士から批判が出ることもあるが、それなら被告人の側で複数の弁護人を用意すればいい」と、副部長は明快に語った。

 犯罪被害者保護制度の重要性は認めるものの、ことさらな「被害者(時に『被害者家族』)の人権」主張に対しては疑問があった。いまも光市母子殺害事件の被害者の夫・本村洋によるマスコミを使った過剰なアピールに対しては嫌悪感がぬぐえない彼の鼻持ちならないやり口が、同情よりは「マスコミ操縦がお上手で、よろしゅうございますね」という気分にさせてしまうのだ。おかげでネットではマスコミに煽られた有象無象が充たされぬ自分の私怨を取り混ぜて罵詈雑言を書き散らしている。「正義」を看板にしていれば何でも書けると思っているのだから、こういうバカどもは始末におえない。

 それはそれとして、「公訴参加人」と「公訴参加代理人」の参加により「検察官は被害者と被告の権利を同様に尊重する」ことが実現できるならば、ドイツの制度は悪くない。(5/9/2010)

 同期会の最終版案内の作成。**くんが作ってきたものに参加者リストなどを追加して送ればいいだけなのだが、いまひとつ気に入らなくて少し編集の手を加えた。そろそろ小さい字が苦手というメンバーもいるはずと思い12ポイントにしたり、フォントを統一したり、項番を振り直したり、インデントを付け直したり・・・と、手をつけると限りなくいろいろのことに気がつくもので、軽く小半日、吹っ飛んでしまった。

 これとあわせてexcelで作成した出席者リストと近況一覧をPDF文書にし、「いも膳」・「福登美」のパンフレットをスキャンしてやっと完成。やっとメールメンバーに発送したのはついさっき。郵政メールメンバーは9人。これはあしたにしよう。(5/8/2010)

 きのうのニューヨークは、一時、千ドル近く下げ(ボトムは1万ドルを切り、9,869ドル62セント)、結局347ドル80セント安の10,520ドル32セントで終わった。ギリシャ国債のデフォルト懸念が背景にある中で誤発注(ある証券会社の担当がP&G株の売買数量の入力に際して、"million"とすべきところを"billion"としたのではないかという話)があったらしい。

 朝、起きた時点では既にドル円は90円台に戻っていた(瞬間値88円18銭まで跳ね上がった由)ものの、おかげで豪ドルもきのうの85円の世界から一気に80円ギリギリ(瞬間値は77円台までつけたらしい)の世界になっていた。どうせ起きるならこれがきのう起きていてくれればと思いつつ、安全度を見ながら80円10銭、30銭、50銭と小刻みに買った。どうしても下ブレ恐怖感がぬぐえずにいるうちに、あっという間に81円台、82円台と値を戻した。

 こういう日に限って約束があるのはどうしたことか。82円40銭で買ったのを最後にすることにした。多少後ろ髪を引かれる思いだが、やむを得ない。これから新宿。(5/7/2010)

 既に毎日が日曜日になっているにもかかわらず、なぜか週明けの月曜日のような錯覚がつきまとっている。まるで勤めていたときの連休明けの感覚に近い。どうやら常に株価や為替などを意識しているかららしい。

 日本時間のきのう朝ダウは225ドル6セント下げ、けさは58ドル65セント下げた。それもあって、きょう日経平均は361円71銭下げて終わった。3月の初旬、しばらくぶりに含み益が出てからはニコニコできたトレンドだが、潮目の転換点に来ているのかもしれない。

 伊藤忠は少し早めに利益確定したが、パナソニックとスター精密は高値にこだわって売り損ねた感じ。まあそれができなかったからどうということはないのだが、案外こういうことが・・・という気がしないでもなく、「強欲」について「反省」。

 為替のチャートをずっと眺めていると、いろいろの想像ができて飽きない。連休明けまで・・・と思って我慢していた豪ドルをまた小さく買ってみた。(5/6/2010)

 29日の連休入りからきょうまで好天が続いたのは関東地区ではこの50年間では初めてのこととか。

 我が宰相、きのう、懸案の普天間基地移設の件で沖縄を訪れた。「5月末までに決着」、「最低でも沖縄県外」、「腹案がある」などずいぶん気を持たせる発言を繰り返していたにもかかわらず、仲井真知事に語った内容は徳之島への一部機能移転に含みを持たせつつ、県内移転を了承して欲しいというものだった。いままでの言葉はなんだったのか。「腹案」というのは「県外に移設するつもりでいるけれど、そういかなかったときはごめんなさいをしよう」という腹づもりのことを指していたのか。

 失笑を誘ったのはふたつの言葉だった。まず、「すべてを県外にというのは現実問題として難しい」。そして、だめ押しがこれ、「海兵隊が抑止力として沖縄に存在しなければならないわけではないと思っていたが、学ぶにつけて米軍全体で抑止が維持できていると分かった」。

 海兵隊という存在についても、とくに普天間にいる部隊の構成についても、えらく「出世」してしまった「抑止力」という言葉についても、言いたいことはたんとある。海兵隊は安保条約の本旨に反するし、普天間にいる海兵隊の兵員構成は不自然だし、そもそも「抑止力」などと言う言葉は無用の長物である核兵器の存在理由を無理やり説明するためにこねくりあげられた屁理屈であって、「核の神学論」以外の場で使用するに耐える言葉ではない、・・・などなど。

 しかし、それらのことはすべて脇に置いておく。鳩山がこの国の政治家としては珍しく「理想」を語る政治家であることは認めよう。だが「理想」を語りつつ、「現実」との間にあるギャップをどのように埋めてその実現に近づけるか、それができないのでは政治家ではない。「現実問題として難しい」のはあたりまえの話で、平然とそう言ってしまうようでは政治家を名乗る資格などこれっぽっちもないことを証明しているようなものだ。

 鳩山よ、おまえには絶好のお手本があったはずだ、小泉純一郎という。小泉が「郵政民営化」なるもので具体的になにを実現しようとしていたのかはいまだに謎だが、自民党の有力な支持基盤のひとつであった郵政利権団体を敵に回し、党内の郵政族を退け、「自民党をぶっ壊してでも」(本当に自民党は壊れてしまった)それをやってのけた。そのやり口はみごとだった。小泉は自民党には絶対にできないと思われた彼の「理想」を自民党にいて実現したのだ。だいたい小泉はギリギリまでなにも語らず、周辺に言いたいだけ言わせ、マスコミにもあれこれと小賢しい憶測をさせた挙句に、ずばりと結論をひとこと言うことを得意としていた。鳩山よ、あれが「政治」というものだ。

 外務省・防衛省をはじめバカマスコミ、いや、民主党も含めて、身も心もアメリカ軍国主義に捧げているような売国奴ばかりだとしても、たった一本ナショナリズムの旗を掲げて連中を「抵抗勢力」として徹底的に血祭りに上げるくらいの手法をとれば、海兵隊を沖縄から追い出すことは可能なのだ。所詮アメリカは基地を置かせてもらう立場だ。謀略的仕掛けを施すにしても限界はある。

 朝刊には山口二郎、太田昌秀、森本敏のコメントが載っていた。面白いと思ったのは森本のコメントだった。いかにもサンケイ的「正論」を主張しそうな森本がさほど過激なことをいっていない。いまアメリカの傀儡評論家たちはじつは難しい場面に立っている。バカな小池百合子は徳之島で「こんな平和な島に基地なんか要らないですよ、ねぇ」などと言ってしまったが、「米軍基地は最大の迷惑施設、その基地が置かれることを歓迎するところなど日本中どこにもありはしない」という「常識」がまかり通ることは絶対に避けなければならない。だから、鳩山のマヌケぶりは強調したいものの言葉を選ばねばならぬという配慮が彼らの舌鋒を鈍らせているのだ。(5/5/2010)

 「木曜の男」を引っ張り出そうとリスニングの段ボールの山と格闘。一時的に所沢に持ち出したことがあれば箱の中のはずと思っていくつかの箱を開けてみたが見当たらない。とすると奥のレコードラックということだが4343が邪魔になっていて扉が開かない。

 もう一年半になるというのにリスニングは手つかず。**(父)さんの金庫も前がふさがったまま。これで金のインゴットでも入っていると思えば放ってはおかないのだが、引っ越し前に確かめたときにはあまりたいしたものはなかった。入り口近くにおかれている風炉やら茶釜をどうしようと思うと、それだけでなかなかその気になれない。

 本が入っていそうな箱をいくつか開けていたら、古いアルバムと通信簿が入ったものがあった。**(弟)のものがいくつか入っていた。アルバムは真愛幼稚園から早稲田までの卒業アルバムが全部そろっている。その下にはドーナツ盤。フォークル「帰って来たヨッパライ/ソーラン節」(伝説の「おらは死んじまっただ~」のB面が「ソーラン節」だったとは知らなかった)、セルスターズ「悪魔がにくい/恋は悲しい物語」、天地真理「ひとりじゃないの/ポケットに涙」、山口百恵「夏ひらく青春/愛がひとつあれば」と「白い約束/山鳩」、そしてあべ静江「みずいろの手紙/恋人たちがいる舗道」、これだけがペーパーのみ。たしか「コーヒーショップで」も買っていたはずだが、見当たらない。

 たぶんあれは西長沢浄水場の追い込みの時期だった。あいつはまず「コーヒーショップ」を買ってきた。そしてほどなく「みずいろ」を買ってきて飽きもせずによく聴いていた。その年の秋も押し詰まったころ、とつぜんにリスを飼い始めた。うちの誰もやらないことをやるのが奴の特徴だったから気にもしなかったが、あれほど聴いていたあべ静江をまったく聴かなくなったのと、それはほぼ時期を同じくしていた。たぶんあべ静江に似た眼のキラキラした子を好きになって、失恋でもしたんだろうと勝手に想像していた。その想像の当否はわからないままになった。生きてさえいれば、そういう話をするのにちょうどいい年齢になったというのに。バカ野郎。(5/4/2010)

 早くもお願いをしておいた筍が届いた。まずいちばん小ぶりのやつを焼いて食べる。ほのかに香り、柔らかい。刺身でもまだいけたかもしれない。

 新幹線の「電光ニュース」で石川遼が大逆転優勝を遂げたらしいというのは知っていた。ただ帰ってからは豊里の件で時間をとられ、テレビを見る時間もなく、知らずじまいだった。

 この大スターも去年に続き今年もマスターズ予選落ち。帰国して始まった国内ツアーもぱっとしない状態。この週末の中日クラウンズも初日から68で17位、70で14位、71で18位と最終日を前にしてかろうじて1アンダーとはしているものの平凡だった。

 きのうもTBSの中継は3時から。18位では生中継部分にはあまりのらなかったらしい。しかしゴルフをたしなまぬ素人でも難コースと聞き知る和合で12バーディー、ノーボギーの奇跡。

 朝刊によると、(和合はパー70故)58ストロークは18ホールのツアー最小記録、従来の記録はアメリカツアーでは59(13アンダー)、ヨーロッパツアーでは60(12アンダー)、国内では59(12アンダー)だった由。

 国内記録を持つ倉本のコメント、「僕の場合はパー71のコースでの12アンダー59。70のコースでの58ははるかに難しい」。その通りなのだろう。だが石川のコメントはすごい。「58はもう一度できるかと言えば分からない」とここまではふつうだが、すごいのはそれに続けての言葉。「でも消極的なプレーはやめようと思うことはできる」。こういう気持ちの置き方、グリーン・ジャケットを着る可能性の最も高い日本人は彼かもしれない。ボールをコントロールするテクニックは修練で身につくだろうが、心の置き所というかマインドは「gift」のような気がするから。(5/3/2010)

 帰宅したのは9時半前。豊里の方がちょっと大変のよう。お義兄さんの日程など確認し、15・16あたりに行くことにする。

 猛烈に眠いので、以下はメモのみ。

 けさはゆっくりと朝食をとってから、バスで京都駅へ出て、コインロッカーにバッグを放り込み(400円のロッカーを**・**・**の三人で使用)、清水寺へ。ものすごい人出。八坂神社で**さんと合流し、四条あたり鴨川河畔で**さんが作ってきた弁当をわいわいと食べた。

 天気晴朗、爽やかな陽気。昼過ぎ、**くんと**さんは一足先に帰京。残りメンバーで真如堂へ。観光スポットからは外れるせいか、静かで京都の春の昼下がりを満喫。タクシーで駅に戻り、5時半のひかりで帰ってきた。(5/2/2010)

 6時半起床。7時半朝食。8時半にホテルを出て阪急大宮駅へ。まず長岡天神駅で**夫妻と合流の後、長岡八幡宮でツツジを楽しみ、東向日(「ひがしむこう」と読む由)へ戻りバスで竹林へ。

 11時半スタート。天気は上々、暑くも寒くもなく、爽やか。石を運び敷き詰め、急ごしらえの炉を作る。筍を掘り、すぐに薄切りをわさび醤油で、焼き筍にしていただく。柔らかくておいしい。

 少しして舞妓さんがお二人。可愛い。名簿によると45名プラスちびっ子が数人。我々をのぞくとほとんどはアート系自由業。

 呑み、かつ味わい、吹き抜ける風がさわさわと葉音をたて心地よい。腹の底から生きている喜びのようなものがこみ上げてくる。贅沢な一日。

 **夫妻はあしたから上海クルージング・ツアーだとかで早めに帰京。残るメンバーは6時すぎの解散までおつきあいさせてもらう。そのまま祇園あたりの店に移動して歓談。いまさっきホテル帰着。(5/1/2010)

 13時半東京発で来て、さきほど、二条城近くの「堀川イン」に入った。

 さっそくにネットに接続し連休突入直前の東証をチェック。きのうのニューヨークの高騰を受けて全面高。おとといの下げを取り返すところまでいま一息だったが、たぶん投信の方も国内債券以外はかなり上げてくるはず。一喜一憂することではないのだが、気分的にはニコニコと連休入り。

 オーストラリアドルは87円50銭からじわり上げつつあるようだ。ちょっとタイミングを失ってしまったかもしれないが、ギリシャ問題はまだまだなので、しばらくのあいだ、振れ幅は大きいだろう。86円半ばで買ってそれを楽しむ考え方もあるかもしれない。できればもう一度キリのいいところまで下げて、心地よく再エントリーさせてくれるとうれしいのだが、それはないかなぁ。

 これから筍パーティー前夜祭。そろそろ、出ないと遅れそうだ。古今烏丸までは歩きで15~20分だろう。(4/30/2010)

 着いたばかりの「図書」。いつものように袋を破り、表紙を一瞥し、「宮下先生、早く『エセー』の翻訳4巻を出してください」と呟き、ひっくり返す。丸善の広告から変わってからは展覧会の広告が裏表紙によく載るので、ここまでは最近のルーチン・ワーク。

 今号は「龍馬から姉、乙女への手紙-CD『龍馬の手紙を読む』」。NHK大河ドラマ「龍馬伝」への便乗企画なのだろう。坂本龍馬が姉に宛てた手紙10通を小林綾子が朗読し、バックに西村直記(高知県安芸市在住の由)のシンセサイザー演奏が入っているものらしい。企画・制作は高知県立坂本龍馬記念館となっている。「図書」の読者層を想定すると、ほかの媒体に比べこの広告の効果はかなり高いだろう。

 連載企画「本と私の時間」は岸本美緒(中国史学者の由)がチェスタトンの「木曜の男」を取り上げている。

 チェスタトンのキーワードの一つが「驚異」であることは疑いないだろうが、歴史研究者のなかでも、想定外の驚きに喜びを見出すタイプと、むしろ想定内であることにプライドを感じるタイプがあるように思われる。その体質の違いは必ずしも一見してわかるものではない。「歴史の面白さ」を強調し、才気あふれる文体で新奇なエピソードを山のように繰り出しても、その驚きが皮膚表面に止まっている人もいる。逆にそっけない文体で気難しそうな議論をやっている研究者がその内面では、内燃機関のように驚きを絶えず炸裂させているということもある。
 数十年前に比べると、近年の歴史学においては、包括的な歴史理論を標榜することが少なくなり、その分、異文化としての過去に対して素直な「驚き」を感ずるということが、歴史学のめざす方向として認められるようになっている。しかし一つの問題は、「歴史のなかに驚きを探す」ことが自己目的化してゆくという危険性である。研究者は「驚き」を見つけようと最初から身構えて歴史に向かってゆき、首尾よく見つけてそれを学術論文に仕立て上げる。あるいは見つからなくても、論文を書かないわけにはいかないので、無理に見つける。それはいったい「驚き」なのか。実のところ私は、後年のチェスタトンの著作のなかに、そうした「驚異」の自己目的化、やや説教臭い「驚異」の押し付け、といったものを感じないわけではない。しかし現在の私自身、「驚き」を売り物にしていないだろうか。「驚き」は手垢にまみれた常套句になっているのではないか。
 そのようなことを考えると、四〇年以上前に『木曜の男』が私にもたらした本物の驚愕が、そのときの新鮮な夜気とともに、改めてなつかしく思い出されるのである。

 「初心」は懐かしいものだ。忘れてはならない「初心」を思い出させる「もの」と「ひと」は財産かもしれない・・・などと思った。それにしてもたしか読んだはずなのに「驚愕」の記憶がない。「なにに驚くか」は人・時・所、それぞれとは思うものの、ちょっと悔しくて急に読み返してみたくなった。

 だが中学高校時代の文庫本はリスニングの棚。物置と化しているあの部屋を片付けない限りは「掘り出せ」ない。どうしようか。(4/29/2010)

 けさ起きると終わったばかりのニューヨーク株式市場は213ドル4セント下げていた。オーストラリアドルは85円1銭まで下げてから少し反発したところだった。

 原因はS&Pがギリシャ国債の格付けを一気に三段階引き下げて「投機的」にしたことらしい。アメリカの格付け会社も自国以外についてはずいぶん思い切った評価をするものだ。同じ判定基準に立てば、アメリカ国債だって、とっくにトリプルAの条件は満たしていないはずだが、あのサブプライムローンを混ぜた「毒入り証券」同様に「破綻」するまでは格付けの見直しをしないつもりなのだろう。グローバル・スタンダード・バット・アメリカ。彼らはいつからこんな二枚舌野郎に成り果てたのか?

 ダウは先々週末に125ドル91セント下げてから、先週からはすんなりとではないものの小幅を含めて6営業日連続で上げ続け、終値ベースで11,200ドル台まであげてきていたから、ちょっと一服というところなのかもしれない。

 ダウの変動のわりには東証の振れ幅は大きい。5日に終値ベースの今年最高11,339円30銭をつけた後はアップダウンを頻繁に繰り返し、きょうは一気に287円87銭下げて11,000円を割り込んだ。狙い目と思って、J-REIT投信を購入した(この投信は当日申し込みで当日購入)が、たった55円しか下がっていなかった。

 オーストラリアドルの方はけっこう岩盤が強固で、きょうも85円は割らず、おおむね86円台で推移している。こうなると先週月曜日の逆指し値での決済はちょっと悔しい。スワップレートも95円の水準にあり誘惑に駆られるが、手を出すのは連休明けと決めたことをかなり必死の思いで守っている。(4/28/2010)

 「AERA」最新号の見出しにこんなものがあった。「スクープ:検察幹部『批判』に逆ギレした」。瞬時、強引な見込み捜査に対する「批判」に反発したのかと思ったがさにあらず。見出しはこう続く。「JR西日本、明石歩道橋事故、小沢事件、鳩山事件・・・『批判』の嵐/幹部は『起訴は国民が決めたらいい』と言い放つ」。どうやらこれは検察審査会とのやり取りに関する記事らしい。

 福知山線脱線事故事件、JR西日本歴代社長については先月、明石歩道橋事故、明石警察署の副署長(署長は既に亡くなっている由)についてはこの1月、それぞれに「起訴相当」議決がなされ、裁判所が選任する弁護士により強制起訴になった。では政治家に関する事件はどうなるのかというのが、今週のハイライト。

 まず、鳩山由紀夫の政治資金規正法虚偽記載事件についてはきのう「不起訴相当」の議決が発表された。そして、きょう、小沢一郎の虚偽記載事件について東京第五検察審査会は「起訴相当」の議決を行った。

 つまらないことだが、鳩山に関する議決は21日付けで26日の発表、小沢に関する議決は27日付けで同日の発表と報ぜられている。この違いはなにによるものなのか、不思議といえば不思議な話。22日に鳩山の元秘書に対する判決公判が予定されていた事情があるとしても、なぜ先週中の発表にならなかったのかという疑問は残る。

 以下は、勝手な想像。小沢の議決については「11人全員が一致」と報ぜられているのに対し、鳩山の議決については賛否に関する報道が調べた範囲では見当たらない。検察審査会の議決は過半数(全11人故、6人以上)で「不起訴相当」ないしは「不起訴不当」が決まる。「不起訴不当」を超えて「起訴相当」とするためには三分の二以上(8人以上)の支持が必要となる。きのう発表された鳩山事件の議決理由要旨には異例といわれる「付言」がついていた。これは過半数には満たなかったものの「不起訴不当」という意見が少なからずあったということだろう。そして彼らは「少数意見」のあったことを公にしたいと主張した、そんなところではないか。ところが「付言」は議決を行った21日にはまとまらなかった。まとまらないどころか週末を含めるとじつに4日を要した。要旨を読む限り、さほどとりまとめに苦労するような内容とも思えないが、審査会の場ではまとめられずに誰かが「場外」で書くことになった。あるいは事務方が作文でもしたのかもしれない。そのあたりのことはさらにいっそうわからない。

 さて「小沢一郎起訴相当」。じつに面白いことになったものだ。

 真偽のほどはわからないが、検察会議による不起訴決定のときに特捜部は歯ぎしりをしたそうだから、お墨付きをもらって勇躍再度全力を挙げて再捜査に取り組むかもしれない。ただ、審査会が指摘しているのは虚偽記載への小沢の関与についてのみだ。「知らなかったはずはない」という素人の「信念」のようなものと、「知っていた」ことの立証の距離はプロにとってはかなり遠いものだろう。

 そもそも小沢の不起訴理由はなんだったか。「嫌疑不十分」ではなかったのか。「知らなかった」ということに疑いはあるが、「知っていた」と「証明」するには十分な証拠・証言がないということだろう。つまり、小沢自らが関与しなければならないほどの特段の事情があったことを示せない限り、「知らなかったはずないでしょ」と「知らないものは知らねぇーよ」という言葉の応酬が続くだけのこと。「水掛け論」、いや、こんなやりとりは「論」ですらない、「痴話喧嘩」のようなものだ。

 その特段の事情こそ「西松献金」のような不正な資金の受け取りであるわけだが、去年の春大久保秘書の逮捕からまるまる一年取り組んだにもかかわらず、特捜部は立件するにたる証拠を固められなかった。それがここ3カ月の期限の間にできるとしたら最初からこんなことにはなっていない。

 検察としては「痴話喧嘩」ベースの公判を自ら担当したいとは思わないに違いない。有罪率テン・ナインを誇ってきた我が検察にとっては担当判事の気分におすがりしなければならない五分五分の勝負など耐えがたい話だ。その悲鳴が「AERA」の記事に出ているという「起訴は国民が決めたらいい」という幹部の発言なのだろう。「素人さんはいいよ、気楽で」とのぼやきも聞こえてきそうな気がする。しかし小沢の件はもともと特捜部が撒いたタネだ。さんざんリークして「小沢は怪しい」と連呼したために、検察審査会の面々が「その気」になっていたとするならば、自業自得。ほんとうに面白いことになったものだ。

 きょうは小沢の「起訴相当」のニュース以外にも、殺人・強盗殺人・強盗致死・強盗強姦致死・汽車転覆致死についての時効を廃止する刑事訴訟法の改正案の可決・成立というニュースがあった。(なんと、即日公布・施行というからびっくり)

 事の発端は理解できる。しかしいくら時効を廃止したところで事件が解明できて、犯人をつかまえられなくては意味はない。犯人が明らかなものには有効かもしれないが、残念ながら犯人が特定され手配されている事件はわずかだ。未解決事件の多くが永続的捜査の対象になれば、新しく発生する事件の捜査に影響を与えないわけにはゆくまいが、たぶんそういうことは眼中に入っていないのだろう。

 まあ「時効がなくなってくれたら、それだけでうれしい」というなら、そういうおめでたい人の自己満足のためにはよい話なのかもしれない。しかし捜査にもコストは発生する。期待値の低い「時効案件」のコスト・パフォーマンスがどのていどのものになるのか、この「改正」が社会の安寧秩序の向上にどれだけ貢献するのか、そういうことも十分に検討されたわけではない。それより、なにより、最近とみに低下しつつある検挙率がどう推移するか、最前線の捜査官の志気にどう影響するか、・・・、社会全体が感情論に突き動かされ、幼稚化してゆく現在のこの国の安っぽさばかりが際立った一日だった。(4/27/2010)

 録画しておいた「時空タイムス:映画"大脱走"の真相」を見た。

 単なる捕虜収容所からの脱走劇だけではないはずと想像はしていたものの、アメリカ本国に置かれた専門の組織の濃密なサポートを受けていたことなどは知らなかった。

 それにしても・・・とつくづく思う。あらかじめ捕虜になることを想定した上で、スパイとしてどのように情報をとり、どのようにそれを伝えるかなどの訓練を施しておくという発想の豊かさには驚く。我が大日本帝国には「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓しかなかった。

 番組に出演した防衛大学校の村井友秀は「日本軍の捕虜は戦陣訓を守れなかったという意識から、捕虜になるとむしろ積極的に敵に協力することが多かったのに対し、連合軍の捕虜は戦う姿勢を持ち続けることができたのかもしれない」というコメントをしていた。豊かな発想、周到な準備、大胆な実行。それらを知るほどに、彼我の差の大きさを実感する。

 前の戦争に負けたのは物量の差というのが常識になっているようだが、その物量を補うものとして旧軍が求めたのは精神主義だった。それをよく表している言葉がある。「百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我ら軍人は武力を形而上に求めざるべからず」。日露戦争が終わり、このために編成された連合艦隊の解散式に際して、東郷平八郎が行った訓示の一節だ。東郷にはまた有名なひとこととして「訓練に制限はない」というのもある。こちらはワシントン軍縮条約を締結して帰った加藤寛治に対して言ったとされる。しかし「精神主義」の場面でも、彼方の国はそれが柔軟な思考力に発揮され、我が国では実りのない頑迷さに結びついていたとすれば、この場面でも所詮我が国は彼の国の敵ではなかったという方が実情にあっていることになる。

 もちろん、捕虜がスパイ行為をするのは捕虜の取り扱いに対するジュネーブ条約の精神に違背する。しかし、既にこの当時には「大いなる幻影」はまさに「幻影」になっていた。我が国は太平洋戦争の開戦詔書からあえて「国際条規を遵守する」という部分を削除する「先見性」を示していたのに、それを活かすことはできなかったということになる。つくづく愚かな国だったということだ。(4/26/2010)

 内田樹の「日本辺境論」によると、日本は常にその時世界の中心と信ずるものに自らを重ね合わせ、かつ、それからの距離を意識しつつ、その顔色をうかがいながら追従し、その中心における思想・文物を受け入れてきたということらしい。大昔からつい百数十年前まではその中心は中国であったが、中国の凋落を見るや機敏にその中心を欧州、イギリスあたりに変え、ここ半世紀ほどはそれがアメリカ合衆国になっている・・・というわけだ。

 かなりうなずける話で、この「理論」を応用すると、ジャパン・アズ・ナンバーワンと持ち上げられた絶頂期に、指導的先進国の地位に就き、その地位にふさわしいビジョンを示し、アジアなり世界なりをリードするに至ることが、なぜできなかったのかということが説明できそうだ。この素朴な疑問、日本はお手本が前を走っている時の二番手選手としては有能だったが、いよいよ追いついて真似をする相手を失った途端にどうしてよいかわからなくなってしまった。そのための「無能」と思っていた。しかし、どうやらそんな話ではなく、「自分は世界の中心ではない」、「自分なんかに中心は務まらない」という我々の「辺境感覚」がその原因だったのかもしれない。余談だが、いつぞや、いま同様のポジションにいる中国が日本を抜き去った時に同じような無能性を発揮するのではないかとある種の「期待」を込めて書いた。しかし、その「期待」は空振りに終わるかもしれない。何しろ彼の国には「中華」の実績があるから。

 こんなことを思い出したのは、きょう沖縄で普天間基地の県外移設を求める9万人規模の県民集会が開かれたからだ。ちょうど一週間前には移転先の候補にあげられた徳之島で島民の半数といわれる1万5千人規模の反対集会が開かれた。おそらく日本中のどこを候補にあげても「ウェルカム」というところはない。米軍基地そのものが最大、最悪の迷惑施設なのだから当然の話だ。ゴミ焼却場、火葬場、刑務所、数々ある迷惑施設は「そうはいってもなければ困るよね」というものだが、海兵隊の基地は地元民にも国民にもなんの役目も果たさない純粋迷惑施設そのものだ。まったくの余談をひとつ。先週よりも少し前の徳之島の基地反対集会に小池百合子が参加して「こんな平和な島に基地なんか要らないですよ、ねぇ」と取材カメラに艶然と微笑んでいた。小池元防衛相はどうやら「転向」なさったようだ、呵々。

 もともとアメリカの海兵隊は外征専門の第四番目の軍隊であり、その基地はすべてアメリカ国内にある。もちろんきょう現在はイラクやアフガニスタンにも基地があるがそれはテンポラリーな前線基地だ。アメリカと安保条約を結んでいる国は多々あるが海兵隊の常設基地を受け入れている国はない。唯一の例外が日本という国だ。「アメリカの外征(時に侵略)専門軍の基地を受け入れてるんだって。そんなことをして自国の安全保障に寄与するというのかい、ずいぶん変わった(バカと等値かもしれない)考え方をする国だね、ジャパンという国は」と他の国が思っているかどうかは知らないが、まあ世界の非常識に属する可能性は高いだろう。

 このあたりの論理的にわかりにくい一種ねじれた「判断」について、内田の「日本辺境論」はこう説明している。

 いわゆる「外交通」の人たちは口を揃えて「日米同盟が日本外交の基軸である」と確信を込めて言います。たぶんおっしゃる通りなのだろうと思います。でも、それはアメリカと日本の国益は一致しているという意味ではありません。アメリカは日本の国益を他国よりも優先的に配慮しているという意味でもない。当然ながら、アメリカはアメリカの国益のことしか考えていない。日本に配慮するのは、そうした方がアメリカの国益に資するという計算が立ったときだけです。そんなことは実は誰でもわかっている。しかし、アメリカが日本の国益を損なう要求をしてくる場合でさえ、それは「やはり日米同盟しかない」という「外交通」たちの確信を揺るがすことがありません。そのような異常な判断が成り立つのは、「アメリカがときに日本の国益を損なうような要求をするのは、それだけアメリカが日本に近しい感情を抱いているからだ。『身内』 だからこそ、このような理不尽なことを平気でしてくるのだ」という奇妙な信憑が私たちに共有されているからです。

 しかし・・・と思うのだ。どうしても日本人が中心から一定の距離を保つ辺境人でいたいとするなら、ひとつの中心のみにとらわれる円周の上にいるというのもひとつの選択だが、ふたつの中心(正確には焦点と呼ぶ)からの距離の和を一定に保つ楕円の周上にいるという選択はどうだろう。

 アメリカと中国を焦点として、それぞれと等価な同盟を結び、ふたつの極からの距離の和を一定にするのだ。アメリカがブッシュのような愚かなリーダーに率いられる時には中国との距離を近くする、中国の中華独善が鼻につく時にはアメリカとの距離を近くする。いささか図式的ではあるが、辺境の民の戦略として必ずしも悪くはないような気がするのだが。

 そういう複眼的な辺境感覚が身につけば、アメリカ海兵隊のような侵略専門部隊の恒久的基地を我が国におくことが「安全保障のための抑止力だ」などとふんぞり返る理屈がどれほど珍妙なものかも分かるようになるかもしれない。(4/25/2010)

 きのう、あずかってきた同期会の出欠葉書の「近況報告」をリストに入力。特徴的なはのは「母親の介護」が目立つこと。「父親の介護」と書いているのはない。たいていの場合は母親が残るからだろうか。そして「まだ働いている」と書いてくる奴のどことなく誇らしげな書きぶり。そう思うのはこちらがリタイアをしていて無意識に羨ましく思う心理がはたらくからか。

 しかし還暦を過ぎた歳で「もうしばらく上記の会社の社長を勤める予定です」というのはいささか子どもっぽいような気がしないでもない。鶏口となった嬉しさはよくわかる、なにしろオレは牛後もいいところだったのだから。「牛口」ならば自ら語らずとも知られていよう。つまり「鶏口」故に自ら語るわけで、それはちょっと辛くはないのか。まあそれは個人的な「趣味」に属することだけれど。

 むしろ「63歳が定年なので、何をしようかと考えていましたが、4年間の研究費が当り、65歳まで今の仕事を続けることになりそうです。こうなると、急に体力気力が気になりだし、65過ぎても元気に遊べるかが心配になってきました。変な気分です」などというのがなんというかピッタリくる。何かこちらまでうれしくなって、声援を送りたい気分になる。

 けっこう研究者になった奴が多いんだなと思った途端、ふだんはあまり感じない「悔い」のようなものがむっくりと頭を持ち上げてきた。「自分で自分を誉めてあげられるような生き方だったかい?」と・・・。苦い自問だね、それは。(4/24/2010)

 中国海軍の潜水艦2隻を含む計10隻の艦艇が沖縄本島と宮古島の間を航行するなど、行動を活発化していると防衛省が発表、さらに我が護衛艦に対し艦載ヘリが異常接近したことを付け加えた。客観的に見れば、伝えられる航路は公海上であり、太平洋上での訓練のためにここを通過することは自然な話だ。もちろん自衛隊がその動向をウォッチすることもまた当然の行為で、その事実を定期的な広報活動の中で公表することもまたごく自然な話。

 あえてあげるとすれば、高度30メートル、水平距離90メートルにまで艦載ヘリが近づいたことは「異常」かもしれないが、その時の風向・風力などの天候条件、さらにパイロットの練度を考慮しないと判断は下せない。近年、中国の軍事費が相当に増大していることは既に報道されている通りだ。装備の急速な高級化に将兵のスキルが追いついていない(現状の中国の状況では考えられない話ではない)可能性は十分にある。

 逆にこのていどのことに神経を尖らせ、大騒ぎをしていると見られるのはあまり得策とは思えぬ。過剰に吠える番犬はじつは臆病者で、素人受けはするのかもしれないが、いざというときの役には立たないものだ

 ところで公表は当然として、従来はどうだったのだろうか。毎日の朝刊には「早期に国民に周知を図る必要があると判断した」という防衛省幹部の言葉が載っている。この口ぶりではいままでは「国民に周知を図る必要はなかった」ように受け取れる。もし発表されてこなかったとすると、今回、わざわざ公表した意図はなにかということになる。沖縄方面の「安全保障」についてスポットライトをあてたいという事情が発生したということか。ひょっとすると「沖縄には米海兵隊が必要」というアピールの布石なのかしらね。ところで海兵隊はいったいどのように日本の安全保障に寄与しているのだろうか、ちょっとした謎かもしれない。(4/23/2010)

 「春に三日の晴れなし」どころではない、晴れはもちろん暖かさすらも続かない。もっと正確に書くならば寒い日のあいまに訪れるのは暖かさを通り越す「暑さ」で、一・二月から五・六月の間を往復する感じだ。きのうの初夏の陽気はたったの一日。きょうは雨まじりの曇天で、肌寒い。急に冷え込んできたのだろう、窓ガラスが曇りかけてきた。まあ天候などというものは「異常」といえば「異常の集積」になるものだが、所詮それはたった数十年しか生きていない人間から見ただけの話。長い長い時間をとってみれば、このていどの気温の上下などはなんということもないことに違いない。

 もし「異常だ、異常」と騒ぎたいなら、この国の政治状況の方がよほど「異常」だ。

 自民党の舛添要一がきのう新党を作ると宣言し、きょう離党届を出した。つい先日(いつのことだったか思い出せなかったが、ニュース検索をかけてみると、ついこのあいだの日曜のことで驚いた)山田宏杉並区長、中田宏前横浜市長などの松下政経塾崩れが「日本創新党」なる政党の結成を発表したばかり。その前には死に損ない老人クラブも新党の名乗りをあげていたから、ちょっとした「新党ブーム」だ。(与謝野も桝添も比例代表。自民党も踏んだり蹴ったりでいささか可哀想。この制度、離党したら本人は失職とするのがスジだろう

 一方、政府と民主党はといえば、ようやく国交省がまとめて発表した高速道路料金案をきのう小沢幹事長が「見直せ」と直談判。「見直す方向で」と鳩山首相が言ったのは昨夜、それがきょうの昼には前原国交相、「見直さないということで総理の了承もとった」との発表。このていどのことですら、語る人、語る時、語る場所が違うごとにクルクルと変わるというお粗末。これでは政権の体をなしていないといわれても返す言葉がないはずなのに、「現時点では見直さないが、国会審議の内容によっては国交省として検討する」などと平然と答えるこの鉄面皮。

 一事が万事、こんな具合では、新党の発表をする面々が「いまの民主党政権では日本は持たない3年と持たない。やむにやまれず立つことにした」と結党理由を述べるのは道理。しかし、少しばかり話を聞いても何をどうするのかの片鱗もうかがえないのだから、彼らが政権を取ったところで民主党並みのことさえできるかどうかは怪しいものだ。

 はっきり書いておこう、ダメだ。老いぼれ老人クラブがダメなのは平沼には大日本帝国へのノスタルジーしかないからであり、桝添がダメなのは小泉以後の自民党が「国民的人気」という幻影を追い続けて失敗したことで明らかであり、松下政経塾崩れがダメなのはいまの民主党を見ればそれで十分だろう。

 それにしても、郵政改革に反対した平沼と賛成した与謝野がくっつき、同じく反対した渡辺秀央・荒井広幸にこれまた郵政改革に賛成した桝添がくっつくというのだから、そのダメさ加減は民主党のはるか上をいっている。いったい誰がこの統合失調症の面々に政治を託す気持ちになるというのだ。(4/22/2010)

 朝刊に「SAPIO」5月12日号の広告が載っている。今号のスペシャル特集は「騙されてはいけません-詭弁を弄する悪い奴ら」で、そこに「口車:『夫婦別姓』ほか民法改正案は聞けば聞くほど『不倫の勧め』」と題する八木秀次の一文も収録されているらしい。

 夫婦別姓が「不倫の勧め」なら、尊属殺の重罰規定なきいまは「親殺し天国」ですわな。しかし眼前にするのは「子ども虐待殺天国」。卑属殺をすべて死刑か無期にしなければ収まらんでしょうかね。法律がご専門のはずの八木先生の論文を期待しますよ。「学識がないだけではなく、論理的な展開も不得意なので与太以外は書けません」か、いやいや、これは残念。

 その広告の左端には「最強の『女傑』は誰か?」とあり、「卑弥呼、推古天皇、北条政子・・・」とここまで眺めて吹き出した。北条政子ねぇ、そういえば悪妻として名高い日野富子なんてのもいたっけ。しかし、源政子だとか、足利富子だとかいう名前は聞いたことがない。八木先生、夫婦別姓の方がよほど長い我が国の伝統なんじゃありませんかね、呵々。

 どうやら「騙されてはいけない」のは最近はやりの自称保守主義者たちの無知蒙昧に支えられた底の浅い「伝統」主義らしい。(4/21/2010)

 朝刊のオピニオン・ページ「私の視点」にモントリオール大学歴史学教授の肩書きのヤコブ・ラブキンがこんな原稿を寄せている。

 イスラエルという国がしばしば「ユダヤ国家」と呼ばれるように、同国をユダヤ人と結びつけて考える人は多い。20日の建国62周年記念日を迎え、日本の人々は、ユダヤ人がダビデの星と、白、青の国旗の下に結束していると思うかもしれない。実際には建国を祝わないどころか、祝うものなど全くないと考えるユダヤ人もいる。
 超正統派のユダヤ教ラビ(宗教指導者)は、建国の基盤となった世俗的政治イデオロギーであるシオニズムを根源的に拒絶している。いわく「ユダヤ教徒がぼかの民族を抑圧することは(神から)禁じられている。イスラエル建国はパレスチナ人に対する征服、抑圧によって実現したのだ」と。
 シオニズムの生成期に、多くのユダヤ人は、反ユダヤ主義者らを利するとしてシオニズムを拒絶した。反ユダヤ主義者がユダヤ人を自国から排除しようとするなかで、シオニストはユダヤ人をイスラエルに集めようとしたからだ。同国は、建国60年以上たったいまも自国をホロコーストからユダヤ人を究極的に守る存在と位置づける。だからこそ、世界中のユダヤ人コミュニティーに、ユダヤ人が唯一安全に暮らせるのはイスラエルしかないという恐怖感を植え付けようとしている。実際には同国はユダヤ人にとって最も危険な場所になっている。
 100人を超す英在住のユダヤ人有力者は、建国60周年の際、英紙ガーディアンにこう寄稿した。「国際法に違反する民族浄化に従事し、ガザ地区の一般市民に途方もない集団的な懲罰を加え、パレスチナ人の人権と国家建設への渇望を拒み続ける国家の建国記念日を祝うことはできない。我々が祝うのは平和な中東においてアラブ、ユダヤ双方の人々が平等に暮らすときだ」
 マハトマ・ガンジーはかつて「暴力によって得られたものは、暴力によってのみ維持される」と洞察した。悲しいことに、イスラエルはまさにこの原則の通りになっている。軍事大国イスラエルによる兵器関連の輸出額は、1人当たり人口比でみれば世界一だろう。同国で影響力を持つ人々が和平に関心を持たないのは至極当然なのだ。
 イスラエル批判を反ユダヤ主義と見なす勢力からの圧力に直面しながら、本来なら伝統的なユダヤ的価値観である平和や公正といった理念をイスラエル、パレスチナ双方にもたらすための手助けを世界の人々に求めるイスラエルの平和団体もある。イスラエル批判は反ユダヤ主義とは異なる。ユダヤ人迫害の歴史的重荷を持たない日本は、罪滅ぼし的な西側諸国とは異なる視点でイスラエルを見ることができるはずだ。

 ラブキンはロシア系ユダヤ人。筆者紹介には「1945年サンクトペテルブルク生まれ」とあるが、彼が生まれたころはレニングラードと呼ばれていたはず。

 記憶によれば、イスラエルの建国後、いちばん「帰還」が多かったのはこの「ソ連系ユダヤ人」ということだった。スターリン時代からソ連崩壊までも、そしてソ連崩壊後もロシア系のユダヤ人のイスラエル移住は絶えざる流れだと聞いた。最初はスターリン恐怖政治からの、その後は対アラブ人との人口ギャップに対するイスラエル政府の積極的政策として「帰還事業」(イスラエルはユダヤ人の「地上の楽園」?)は進められた。帰還者はイスラエルが推し進める入植地にまわり、必然的にいわゆる「パレスチナ問題」の解決をよりいっそう困難なものにしたというのが、多少偏見が混じっているかもしれない我が理解。そういう中であえてイスラエルには行かない選択をしたということか。

 内田樹は「私家版・ユダヤ文化論」に「なぜユダヤ人は迫害されるのか。それはユダヤ人がユダヤ人ではない人々には理解しにくい知性の展開を図ることが憎悪の対象となるからだ」というようなことを書いていた。だがラブキンの投稿を読んでいると、憎悪の対象とはならないようなユダヤ人がイスラエルに移住し、憎悪の対象となるようなユダヤ人はイスラエルの存在によって立場を悪くしているという皮肉な構図が見えてくる。(4/20/2010)

 着替えもそこそこにPCを起動し、オーストラリアドルを見ると84円80銭台から90銭台。1分チャートで見るとオーストラリア市場は84円70銭台でスタートし60銭台まで降り、そこから戻してきていた。単調に戻して行くだろうと思った。もし、それが下げに転ずるようならばかなり下がることもありそうだし、そんな状態でゴールデンウィークに突入するのはいやだ。順調に戻せばよし、下がるのならそれもよしと思って、84円50銭の逆指し値を70銭に上げ、運にまかせることにした。

 結局、変更から15分足らずで決済された。午前中は85円界隈まで戻したりしたが、午後になって84円50銭を切り、84円ちょうどさえ割り込んだから、あきらめはついた。57円16銭がカットラインだから、まだいくらでも突っ張ることは可能なのだが中くらいに止めておく方が無難。・・・とはいいつつ、先日来の最高値から30万下回ったことには軽い敗北感もあったりするけれど。ゴールデンウィーク明けまでは手を出さないことにして、保証金も全額引き上げた。

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 低下し続ける鳩山内閣支持率、「毎日」の調査では33%とかろうじて喫水線を維持したが、「朝日」の方ではなんと25%になった。すでに先週時点で20%台の数字は出ていたのだが、マイナー感の抜けない時事通信の数字だったためか、さほど話題にはならなかった。一方、不支持率は「朝日」では61%、「毎日」でも52%と半数を超えていて、これまで何回も取り沙汰されていた総理辞任の話がいよいよ現実感の伴うものになってきたようだ。

 ジャンバルジャンの旧悪を暴くことが社会正義の実現だというバカなマスコミ、そのマスコミに指嗾されて「ものが見えているお利口さん」を気取る「無党派層」を名乗る国民、そして有島武郎のような感性で宰相を務めようという鳩山由紀夫。「これはりっぱな三体問題」だと独り嗤い。

 マスコミが国民に「世論調査」というお伺いをたてる。この「調査」だが、最近はRDD(Random Digit Dialing)というやり方で行われる。ランダムに発生させた電話番号にかけ、その電話に出た人にコンピュータが繰り出す質問に答えてもらうというもの。ランダムとはいいながら対象としない電話番号をあらかじめ設定しておくのだから、そのテーブル設定をいじれば恣意的な運用はいくらでもできる。ほとんどのRDDは据え置き電話を対象にしているが、いまや携帯電話のみという人も多い。また質問に答えてくれる人の性別、年齢層、職業層に偏りがあることは明白だし、回答者の性格もまた偏りが生まれると考えた方がよかろう。「ランダム」というのは有意な結果を出すための統計処理の基本中の基本だが、これははっきり言って「統計数学を装ったニセモノ」と断言して差し支えない。ちょっと選択回答の順番を入れ替えれば、いま出ている結果とかなり「景色」の異なった結果を引き出すことはいくらでもできる。こんな代物をまるで「ご神託」のように扱っているのが嗤える。

 ところが、鳩山もその政権スタッフもひたすらその「結果」からイメージする「国民」に追従しようとする。いや、気楽な野党になったはずの自民党までもがこの「世論調査」という「外乱」をトレースすることに囚われているのだから、もうバカバカしくて何を書く気にもなれない。(4/19/2010)

 あさの「サンデーモーニング」で涌井雅之が、ハイチ(1月12日)、チリ(2月27日)、中国(4月14日)とうち続く地震やアイスランドの噴火などについて、少し気になることを話していた。「昨年の無黒点日は通年で80パーセントに達した。いま太陽の活動は低調な時期に入っている。そのために地球に降り注ぐ宇宙線量が低下し、地下の超臨界水を膨張させマグマの移動を促し、火山の噴火や地震を引き起こしている」。

 そもそも「超臨界水とはなにか」ということはもちろん、「その超臨界水とマグマはどんな関係にあるのか」ということからして知識がないから、この話の真偽も測りかねる。しかし、なにがしかの説明が欲しいほどに大規模な自然災害が頻発し、経済情勢の先行きも不透明ときて、なにか「将来に対するぼんやりした不安」が世の中に充満しつつあることは事実。(4/18/2010)

 寒い、起きてみると、うっすら雪が積もっていた。関東での遅い雪のタイ記録。1969年以来、41年ぶりのこととか。

 69年の4月。機動隊が入り「正常化」した大学で、延期された後期試験をすんなり受ける気にも、履修届をすなおに出す気にもなれず、なんとなくブラブラしていたころだったなぁと思い、日記をくってみた。

 4月12日から12月25日までの日記はなかった。12月26日の記述の最後に「ともかく、こうしてノートに書きつけることをもう一度やってみねばならない」とある。思い出した。疵は大学紛争だけではなかった。紀伊國屋近くの「メキシコ」という喫茶店での「こと」もあった。「3月30日の日曜日、パリの朝に」と歌われたこの年、ふたつのものを失っていた。

 もっとも、当時意識していたのはひとつだけで、もうひとつについて思い知ったのは翌年のことだったが・・・。そんなことは遠い昔のことと、ちょっとだけ気分を引き摺りながらPCのスイッチを入れると、きのう、就寝直前、86円20銭あたりだったオーストラリアドルは1円以上も下がっていた。いっぺんに目が覚めた。

 週末の油断から確認せずに寝たばかりに85円80銭で買い玉を持ってしまった。85円ちょうどは、ともかくとして、最低85円30銭で、きのう朝方に建てた86円70銭の玉のカウンタを建てられたはずと思うとじつに悔しい。85円80銭では重荷になるだけだ。

 取引を終えたばかりのニューヨークダウも一気に125ドル91セント下げた。きのうの朝、つまり4月15日の終値でリーマンショック以降の最高値11,144ドル57セントをつけた直後であること、それまで4月8日以来、連続6営業日上げ続けていたということもあってか、反応は冷静なようだ。

 朝方に発表されたSEC(証券取引委員会)によるゴールドマン・サックス訴追がベースにあった「利益確定売り」の呼び水になったという解釈が主流らしい。

 しかし同時にこんなニュースも入っている。

[ニューヨーク 16日 ロイター]
 ロイター/ミシガン大学が調査した4月の米消費者調査・速報値は69.5と前月の73.6から低下し、5カ月ぶり低水準となった。市場予想の75.0も下回った。アナリストからは、個人消費の動向を映す消費者信頼感指数が低下したことは、最近の小売売上高の増加と相いれないとの声が聞かれた。
 MFグローバルのチーフエコノミスト、ジム・オサリバン氏は「小売売上高は引き続き強さを示しており、(消費者信頼感指数の低下は)かなり驚きだ。全体的な消費者セクターは依然改善している。今回のデータは外れ値と思いたい」と述べた。
 調査を統括するリチャード・カーティン氏は声明で「消費者は経済全般が引き続き改善すると考えているものの、所得や雇用見通しについては依然としてかなり悲観的だ」と述べた。

 プロの言うことだ、このコメントは正しいのだろう。だがプロが「外れと思いたい」時ほど、案外「いまにして思えば」ということがありそうな気がしないでもない。今回の調査のレンジには入っていないと思われるアイスランドの火山の件もある。ボラティリティは大きくなり、VIXもまた20を超えそうだ(16日現在18.36)。

 しばらくの間はお行儀をよくしておいた方がいいかもしれない。先週から今週にかけて、枠外で「ゆらぎ」を利用して、筍パーティーの往復交通費ぐらいを稼ぎ出し、宿泊費もと思っていたが、少しばかり甘かったようだ。

 枠内の分の利益保全も考えなくては。一時的な振れという可能性も捨てきれない。スパイクノイズを50銭と見込んで84円50銭の逆指し値で一括決済のセーフティネットを張っておくことにしよう。まだまる一日半、悩む時間はある。(4/17/2010)

 夜のニュースには、同じ14日に発生した「中国・青海省の大地震」と「アイスランドの火山噴火」が並ぶようにして報ぜられていた。

 地震の方は被災画像が眼を引くだけでなく発生地にチベット族住民が多いことから、見映え偏重かつ中国過敏症の我がマスコミにはうってつけのニュースだろう。(そういう意味ではまだダライ・ラマに絡めた報道がないのは少し不思議な気もする)

 しかし今後の成り行きによっては、火山噴火の方がより深刻な影響を与える可能性がある。噴火が単発で一過性であればよいが、大規模になったり、規模は現状にとどまっても継続期間が年単位になった場合には、単なる航空機運航の問題からもっと重大な世界的経済問題になるだろう。

 江戸時代の飢饉のうち最大のものは1782年から88年にかけての天明の大飢饉だ。一般的には、この飢饉は浅間山の噴火が原因とされているが、前後して発生したアイスランドの複数の火山の噴火が飢饉を深刻化させたといわれている。一連の噴火による火山灰が成層圏にまで及び、日照に影響したのみならず二酸化硫黄の微粒子による呼吸困難など、被害は多種多様、全地球規模に拡大した。

 既にエアカーゴの途絶などの影響が出始めているが、これだけならば、海運、陸運に振り替えるなどすれば、あるていどの解決を図ることはできる。だが、二百年前同様、日照量の減少、気温の低下、降雨量への影響(増加・低下、いずれにも振れ得るだろう)などの現象が顕著に表れれば、農産物への影響は免れない。それがリーマンショックから立ちあがったばかりの世界経済にのしかかれば、思いもしない経済活動の停滞を招きかねない。前回の大噴火が引き起こした異常気象による飢饉はフランス革命の隠れた原因となったとさえ言われている。

 相手は大自然だ。ひたすら今回の噴火が短期間に終熄することを祈る以外にはない。(4/16/2010)

 銀座ライオンで水処理OB会。今年から出席。既に10回目なのだという。

 **さんもご出席。「数えで89歳」と胸を張っていらっしゃった。ということは**(父)さんより同い年か一つ下。登壇口までまわらずに最短距離で壇に登ることができる。あとしばらくは大丈夫。

 たいがいの人が「おや?」という顔をする。「今年から?」と聞かれるごとに、「去年の3月で」と答える。反応ははっきりふたつに分かれる。そうは言わないものの「君なら、やっぱり、いられないよね」というのと、「もう少しは頑張らなくっちゃ」というの。

 年寄りというのは遠慮がない。**さん、「企一の時、いちばん成績がよかったのに、そのあと、伸びなかったね、君は」ときた。あいかわらずだなぁと思いつつ、せんかたなしに「なにしろ、ナマケモノでしたから」と応ずると、「いや、サラリーマンは運だからね。女房の弟が金沢におるんだが、地元では中堅の会社の社長になった時に、言ってやったんだよ。社長になれたのもかなりの部分は運なんだから、謙虚な気持ちで頑張りなさいって」とおっしゃった。どうやらフォローのつもりらしい。まあ、幾分かはご自分に対する「いいわけ」でもあるはず。

 あまり相性のよくなかった**さんがきて、かなり真顔で、「**さん、ヒマでしょ。図面、引きませんか。スポットでもいいですから」などと言う。誘いが**さんでなくても、もう一度、時間と義務に縛られるのは真っ平ごめん。「もうとってもお役には立ちませんよ」とお断りするが、なぜかヘンにくすぐったくて悪くない感じというのが、我ながら可笑しくてならなかった。

 12時スタートでそんなこんなの会話を楽しんできっちり2時に散会。来年も同じ会場で、4月14日、木曜日とのこと。(4/15/2010)

 **(家内)は7時前に家を出た。**さんたちと三春の滝桜を見に行くバスツアー。ホームページを見ると、きのう開花したばかりで満開は来週のいま頃となっている。まあ「花よりおしゃべり」の人たちなのだから、開花さえしていればなんの文句もないだろう。

§

 朝刊、29面に「郵便割引制度不正利用事件」の公判状況に関する記事が載っている。末尾の土本武司のコメントを読むだけで、どんな公判になっているかがすぐに分かる。

 今回の公判について、元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授(刑法)は「国会議員にゴルフの『アリバイ』があるなど、基本的な捜査が不十分だと、調書の信用性への裁判官の心証は悪くなるかもしれない。特捜部は先に決めた事件の構図に合うような取り調べをすることがある。そういう捜査のあり方が問われている」と話す。

 これが最高検察庁OBのコメントだ。土本はこう言っているのだ、「君たち、検察官として、なにをしてきたんだね?」と。

 コメントにある「国会議員」とは参議院議員の石井一民主党副代表のこと。「アリバイ」論議はその石井が出廷、証言した3月4日に法廷でなされた。この日の検察側のドタバタぶりは「村木厚子さんの裁判を見守り支援する部屋」に掲載の公判傍聴記に活写されている。

 朝刊の記事は記者クラブ詰メンバーが書いたのだろう、精一杯、検察側対弁護側が互角にそれぞれの主張を戦わせているように書いている。小見出しに「検察に『甘さ』」とあるのが可笑しい。一連の公判傍聴記を読むと、それは「甘さ」などという生易しいものではなく、こんな粗雑な連中に捜査権限を与えていることが空恐ろしくなってくる類のものだ。一体であるはずの上級庁は何をしているのだろうという気がしてくる。それともこのバカバカしい「事件」は上級庁が現場に押しつけた「国策捜査」なのだろうか。

 公判はきょうとあしたで証人調べが終わり、6月21日に論告、6月29日に弁論、そして9月1日に判決が降りるという日程。(4/14/2010)

 ホームページの更新作業。過去の記事との間にリンクを張る作業をしていて、おととし11月30日の日記に「人は本を選んでいるつもりだが、本に選ばれていると言えなくもない」という奥野健男の言葉を見つけた。

 最近読んだティモシー・ライバックの「ヒトラーの秘密図書館」にも同じような言葉が出ていた。ヒトラーの愛蔵書からその思想形成をさぐろうというのが著者のもくろみ。その根拠を彼はベンヤミンに求めて、こう書いている。

 かつてヴァルター・ベンヤミンは、蔵書を見ればその所有者の多くのこと――その趣味、興味、習慣――が分かる、と語った。その人が手元に残した本も捨ててしまった本も、読んだ本も読まないことにした本もすべて、その人の人となりのなにがしかを物語る、と。・・・(略)・・・コレクターが最後の書物を棚に置き終えたのちにこの世を去って初めて、その蔵書そのものが語り出すことができるようになる。所有者に気を逸らされたり混乱させられたりすることなく、蔵書の一冊一冊がその所有者について「保存していた」知識を明かすことができるようになる。たとえば、所有者は書物に対する所有権をどのような形で主張したのか。見返しに自分の名前を走り書きすることによってか、あるいは一ページ全体に蔵書票を貼り付けることによってか。ページの端が折れたり、シミがついたりしているか。あるいは、袋とじのページが切られることもなく、手つかずの状態のまま残されているのか。
 個人の蔵書はその所有者の性格に関する永久的かつ確実な証言者となる、とベンヤミンは述べ、次のような哲学的警句を残している。人は自分が書物を保存しているのだと信じて書物を収集しているが、実際には、書物のほうがその収集者を保存しているのだ。「収集者の中に書物が生きているのではない。収集者のほうが書物の中に生きているのだ」とベンヤミンは断定している。

 「収集者の方が書物の中に生きているのだ」という言葉を読んで思わず書棚を見渡した。なんという雑然たる、なんという俗悪な、なんという哀しい本棚か。これが、これといって何も生むこともなく、好き勝手に時間を蕩尽した男の本棚よ。こうなれば、あの誤解多き陶淵明の詩句を釈明文とする他はない。

得歓当作楽   歓びを得てはまさに楽しみをなすべし
斗酒聚比隣   斗酒比隣をあつめん
盛年不重来   盛年重ねて来たらず
一日難再晨   一日(いちじつ)再びあしたなり難し
及時当勉励   時に及んでまさに勉励すべし
歳月不待人   歳月人を待たず

 石川忠久によれば、最後の二句だけを抜き出し、「勉励」を「学問に励むこと」と解釈するのは誤解中の大誤解。素直に読めば、こうなる。歓楽の機会を得たならばまず楽しみなさい、近所の人と集めていくらかの酒を飲み交わそう、若い時は二度とは来ない、一日に朝が二回来ることもない、時を逃さず歓楽を尽くすことに勉めなさい、年月は人を待ってはくれないのだから。

 人の眼を気にすることなく、自分が面白いと思うものを集め、楽しもう。所詮これがオレの人生だ。もう長くは残っているわけではない、歳月は人を待たずだ・・・ちょっと強引か、呵々。(4/13/2010)

 温かい日と寒い日が行き来する。こうも寒暖の差があってはかなわない。まるでジェットコースターのようだ。

 このところ東京、ニューヨークとも株価が好調。東京は月曜日に時間内最高値で11,408円17銭、終値で11,339円30銭をつけた。ニューヨークの先週末は終値こそ10,997ドル35セントとなったものの、時間内には11,000ドル98セントとリーマンショック直後の急落を取り戻すに至った。証拠金をかなり準備して外貨預金イメージでやっているFXのオーストラリアドルも86円半ばから87円前半で推移してくれているので、投資口全体の評価額は8%前後のプラスになっている。

 このあたりでいったん一部利益を確定させておくのもひとつの考え方と思い伊藤忠を売った。購入はおととしの10月24日、手数料込みで421円(当時、単元株は千株だったが、これは買いやすかった)。なんとなくすぐに決着しなくてもという気持ちがあり指し値884円にしたのだが、午後に入って、もうひとつの売却に気をとられているうちに売れてしまった。倍以上になったのだから十分なゲインなのだが、若干の未練を残しているもうひとりの自分がいたりする。

 もうひとつというのは東証REIT指数連動の野村ETF。こちらの方は売買単位が10口のため午前中は310口しかさばけず、今日中に片付くのかどうか気をもまされたが、なんとか「完売」。

 今年はまだ損を出していないから10%のキャピタルゲイン課税。確定申告のときの楽しみにしよう。

 利益確定候補はパナソニックとFX。パナソニックはせめて今年1月の時の水準まで戻ってからにしたい。いましばらく時間がかかりそう。FXは「為替差益が年間スワップの2倍」という自己ルールを超えた。決済水準に達しているのだが、まだもう少しがんばれそうな気がして決断がつかない。

 もともとネクスト・ディケードの年金補填分を確保することが目標なのだから意地汚くするべきではないのだが、カネは魔物でどうしても「本代ぐらい余分にゲインしたい」という気持ちを抑えられない。少なくとも上期いっぱいは現在のトレンドが続くだろうといまは思っている。根拠は何もないのだが。(4/12/2010)

 井上ひさしが亡くなった。いまは亡き「朝日ジャーナル」に流行歌を一曲ずつ取り上げるコーナーがあった。その何回目かに堺正章の「涙から明日へ」をとりあげたのが井上ひさしだった。

 銭湯の番台シーンにちらりと映るヌードシーンが楽しみで見ていたドラマ「時間ですよ」で、ボイラー係の堺正章とお二階のマリちゃん(天地真理)が歌う劇中歌、それが「涙から明日へ」だった。ゆったりしたいい曲で、それをドラマの進行などほんとどそっちのけでフルコーラス歌うのだから、いまから思うと、なんとも伸びやかな扱い、まだ、そういう時代だった。

 井上ひさしはその歌詞に自分の少年時代を重ね合わせた。「養護施設育ち」と「ぐれはまな人生」。あの年はオレにとっても「ぐれはま」という言葉がとくに気に入った「年」だった。そののち、井上は「手鎖心中」で直木賞を受け、続いて養護施設での体験を「四十一番の少年」という小説にした。

 リスニングルームの書棚から取り出してきた「手鎖心中」「四十一番の少年」の奥付のページにはそれぞれ「'73.2.19読了」、「'74.1.9読了」とある。最近はほとんど小説を読まないが、このころはけっこう読んでいたようだ。たしか、「青葉繁れる」も読んだはずだが書棚には見当たらない。

 たぶん井上にとって唯一の推理小説「四捨五入殺人事件」、あれも記憶にあざやかな作品だった。ユーモア作家の余技と思って読んだのが大間違い、みごとに心地よいうっちゃりを食らってしまった。よくできたミステリーだった。NHKの夜の連続ドラマにもなった。

 NHKでの井上ひさしの仕事というと「ひょっこりひょうたん島」が有名だが、「国語元年」というドラマも「言葉」から近代日本の姿をあぶり出したもので忘れがたい。その延長線に位置するはずの「東京セブンローズ」が積ん読のままになっている。読んでみよう。

 井上ひさしの仕事に感謝しつつ、合掌。(4/11/2010)

 あれは何日のことだったかと05年の日記を検索してみた。ちょうどきょうのことだった。

 病院の許可をもらって、**(父)さんをドライブに連れ出し、狭山湖あたりを走った。きょうのように気持ちよく晴れ上がり、サクラがきれいだった。「降りてみる?」と訊いたが、返事はなかった。足が弱っていてとても無理なのは分かっていた。だから車の中から外を見るだけ。

 「・・・人は生涯に何回サクラを見るものか、ものごころつくのが十歳なら、多くて七十回くらい・・・」と詠ったのは茨木のり子だった。ツイアビの言葉も思い出す、「いま自分がいくつかなどということは知らない方がいい。一生の間に幾たび月を数えられるかはわかっている」。

 「ああ、これが50回目のサクラだ」などという感慨は、ツィアビによれば、「あと多くても20回かなどと計算すれば、『じゃあ、わたしはもうまもなく死ぬに違いない』と思い、どんな喜びも消えてしまう」というわけだ。たしかにその通りには違いないが、若い頃には意識することも少なかった(けっして、「なかった」などということはない)死が、いつとは分からぬながら近づきつつあると意識するのも必ずしも悪いことではないし、気分がことさら暗くなることでもない。それがこの歳になっての実感。

 **(父)さんがサクラを見たのはあれが最後だった。べつにサクラでなくともよいのだが、あと何回のサクラを楽しむか・・・ねがはくははなのもとにてはるしなむ、そのきさらぎのもちづきのころ・・・そうだよ、べつにサクラでなくともいいのだよ。でも「眠るが如く」というのが望みだとすると、どうしてもこの歌に帰ってきてしまう。(4/10/2010)

 7時半からのNHK「特報首都圏」、テーマは「夫婦別姓」だった。

 いわゆる「保守派」の人々が目の仇にしている「改革案」は現下のところふたつ。ひとつが「外人参政権」、もうひとつが「夫婦別姓」。

 税金を負担している定住者が地方自治体の選挙に関与できるのはあたりまえのことだろう、いちばん身近な住民サービスの決定プロセスなのだから。いくら常識的知識に乏しい「保守バカ」でも「代表なくして課税なし」という言葉くらいは知っているだろう。それとも「外国人の皆さまには税負担は求めません」と大サービスしてさし上げる度量をお持ちか?

 夫婦別姓も似たようなもの。いま出ている案は「別姓を選択できる」というだけのこと。別姓に反対ならばご自分は従来通り、どちらかの姓を選択すればいいだけのことだ。いろいろな考え、事情があって、別姓にしたいという人に自由を与えたところで何の影響も有りはしない。

 「夫婦が別姓となれば、子どもは不良化し、家族制度が壊れる」という屁理屈を言う輩がいる。さほど遠くない昔のことになるが、刑法の「尊属殺」規定を削除する時だった、「尊属殺を重く罰する条文がなくなれば、親殺しが蔓延する」というバカな理屈を主張した連中がいた。さて刑法が改正されて、親殺しは大流行するに至ったか。統計的に見て有意なほど発生確率が上がったという話は聞かない。むしろ「尊属殺」よりは「卑属殺」が増えた印象の方が強いくらいだ。つまり夫婦別姓を認めようが認めまいが、不良化する子どもは不良化するし、崩壊する家庭は崩壊する。それぞれの原因は名字などとは別のところにある。そんなことは当たり前ではないか、バカらしい。

 番組に反対論者の長谷川三千子が登場して、ひとしきり愚にもつかないご託を並べた挙句に、「姓をなにか自分の持ち物のように思っていらっしゃるのではないか」と勝ちほこったように語った。たぶん「保守主義者」としての「決めぜりふ」のつもりだったのだろう。

 無惨な話よ、長谷川の婆さんも歳をとって前にもまして頭が固くなったと見える。別姓を許容して欲しいと主張している人の多くは、まさに「姓を自分の持ち物」と思っていないからこそ、結婚したからといって慣れ親しんだ姓を棄てたくない、生まれ育った家の姓も尊重したい・させて欲しいと思っているのだろう。

 絶対に夫婦は別姓でゆくべきだと考えているわけではない。正直なところ、結婚する時にそういうことを考えたこともなかった。しかし婚姻届を出して少ししてからこんな話を聞いて、意識的にそういう話をしなかったなあ、**(家内)には悪いことをしたかもしれないと思いつつ、そういう人がいるのなら、緩やかな法規定でよいのではないかと思ったのだ。

 ある国際学会のウェルカム・パーティでのこと。「・・・どうしたかと思っていたんですよ。あの研究には注目していたのに、その後、論文をお見かけしないものですから」と紅毛碧眼の男、「ありがとうございます、でも論文はいくつか発表しておりますわ」と着物姿の女性、「えっ、でもお名前が・・・」、「ああ、わたくし、結婚したんですの」。

 真偽は定かではない、作った話かもしれない。だが長谷川などは日本思想をこの国の枠の中でころころと転がして見せるのがお得意だったようだから、こんな舞台もケースも想像もできなかったのかもしれない。論文の発表などペンネームでも通称でもよいではないかという反論もあろう。ただ、そういうお手軽な名乗り方を他人に押しつけるような「保守主義者」が信じられるかと問われれば、「ニセモノなんでしょ」と応えるだろう。ねっ、野上センセさま。(4/9/2010)

 いつもの顔ぶれで桜巡り。スタートは飛鳥山公園。古河庭園に入り、「磯太郎」で昼食をとってから、六義園へまわる。駒込の駅にとって返し浜松町の芝離宮。そして井の頭公園まで行き、駅近くの焼き鳥屋で打ち上げというのが、きょうのコース。

 六義園のしだれ桜こそ峠を過ぎていたが、各所とも、桜は満開を過ぎてもまだ見頃。天気に恵まれ、青空に薄桃の花が鮮やかで、ああことしもいい季節を迎えられたなぁと心から感謝。

 しかし終わってみるときょうのメインは桜ではなかった。飛鳥山公園から古河庭園に向かう途中、滝野川消防署の隣にある地震の科学館に寄った。ここには見学者用の地震シミュレータがある。阪神淡路大震災、関東大震災クラスの地震を体験した。頭で知っているということと、体で知るというのとはまったく違うということがよく分かる。

 震度4、5くらいはまだ「こんなもんかな」というレベルだが、震度6となると凄まじい。模擬と分かっていなければ、数十秒も続く揺れは永遠に続くのではないという恐怖感を誘うに違いない。この書斎の場合、机脇の書棚は確実に倒れ、造り付けの本棚はなんとか持ったとしても、収められた本はすべて落ちてくるだろう。先日の静岡の地震で本の下敷きになって女性が亡くなったが、その可能性は高い。この家も相当の被害を受けるに違いない。死ぬまでの間に起きないことを祈るばかり。

 総行程、12.9キロ、15,000歩。ただし消費カロリーは558キロカロリー、1歩あたりは37キロカロリーほど、燃焼脂肪は14.6グラムではではたいした運動にはなっていない。それでも少し疲れたかな。こんばんはぐっすり眠れそうだ。

 一橋から春の公開講座の案内が来ている。今期は1コースのみの設定。テーマは「21世紀の日本外交の課題と展望」。期待が持てそうだ。(4/8/2010)

 「たちあがれ日本」という党名なのだそうだ。脱党浪人・平沼赳夫と先週金曜日に自民党を離党した与謝野馨が作る新党の名称。名付け親は石原慎太郎。なんとも押しつけがましい党名だ。脳梗塞でろれつの回らない死に損ないや喉頭ガンでかすれ声のたそがれじいさんなどに指図されたかぁないというのが国を支えている一般人の感覚だろう。口の悪さだけが取り柄の渡辺喜美が「立ち枯れ日本」と聞き違いを装った気持ちもよく分かる。

 菅直人は「与謝野さんはリベラルな方なのに平沼さんとうまくゆくんですかね」と言っていたが、「民主党憎し」が先立って「敵の敵は味方」というところに凝り固まってしまうのが老化現象の最たるものと思えば別段不思議でも心配でもない。憎悪と嫉妬の精神エネルギーだけをリサイクルする不毛の再生産こそは死に損ない老人の延命のエネルギーでもある。ふたりがそれぞれに「共同代表」を務めるというのも嗤わせる。いずれ眼がかすんできて外部の敵が見えなくなれば、互いに憎悪と嫉妬のキャッチボールをするつもりだろう。

 少し外れるが、いま読んでいる内田樹の「日本辺境論」にこんな一節があった。

「日の丸」というのはご存じのとおり「日本」「日ノ本」「日出づる処」の図像的表現です。地学の基礎知識があればわかりますが、「日ノ本」というのは「あるところから見て東方に位置するところ」ということです。「あるところ」とはもちろん中国です。
「日本」というのは「中国から見て東にある国」ということです。それはベトナムが「越南」と称したのと同じロジックによるものです。もしアメリカ合衆国が「メキシコ北」とか「カナダ南」という国名を称したら私たちは「なんと主体性のない国名だ」と嘲笑するでしょう。けれども、「日本」という国名は文法構造上そういうものです。だからこそ、幕末の国粋主義者佐藤忠満は「日本」という国名はわが国の属国性をはしなくもあらわにする国辱的呼称であるから、これを捨てるべきだと主張したのです。今日の「ナショナリスト」たちがもし日本の属国性をほんとうに恥じ、「ふつうの国」になりたいとほんとうに念じているなら、「本態的ナショナリスト」である佐藤忠満の主張した「日本」という国号と「日の丸」の廃止について態度を決するべきでしょう。

 自称「伝統主義者」の平沼赳夫や「たちがれ日本」に熱烈なラブコールを送るであろう頭の不自由なネット右翼さんたちにとっては高級すぎて頭の痛くなるような話かもしれない。

 バカと鋏は何とやら、頭の不自由な連中というのは利用しがいのあるものには違いないが、与謝野よ、くれぐれも彼らの「病気」をうつされないように用心した方がいい。彼らに「数学の歴史」を読んで理解するだけの知力があろうとはとても思えない、呵々。(4/7/2010)

 名張毒ブドウ酒事件に関し、いったんくだした再審開始決定を取り消した名古屋高裁の決定を不服としてなされた上告に対し、最高裁第三小法廷は堀籠幸男裁判長を含む5人の裁判官一致の決定として名古屋高裁に差し戻す決定をした。

 再審請求理由とした毒物の成分に関しての判断を徹底的に回避し、「自らが極刑となることが予想される重大犯罪について進んでウソの自白をするとは考えられない」という恐るべき論拠に頼った名古屋高裁の門野博裁判官(当時)の「迷判決」について「審理が尽くされていない」としたもの。

 今回の再審請求は第7次になっている。一審の無罪判決の後、二審以降、再審請求を含めると名古屋高裁の再審開始決定までに12回の裁判があった。門野博という裁判官が守ろうとしたのは、裁判の公正さや正義、また真実などではなく、これらの判決と決定にかかわったすべての裁判官のメンツだったと思われる。つまり、「小出さん、そんな決定をして先輩方に睨まれると出世できませんよ」(小出:再審開始の決定をした小出錞一裁判官のこと。小出は門野より3期先輩。再審決定をした翌年に依願退官)と、そんなところだったのかもしれない。これに対して最高裁の今回の決定は裁判の公正さの確保について配慮したということができる。あまりに痛い足利事件の反省があるのかもしれない。そうだとすれば、最高裁はまったく論理の体をなしていない「門野決定」そのものを破棄し、取り消された再審開始決定をそのまま有効にすべきだったと思う。

 事件の犯人とされた奥西勝は84歳になっているという。いまさらいったん認めた毒の成分スペクトラムの証拠能力について再度吟味するところからやり直しをしていては「時間切れ」になる可能性が大いにある。夕刊によれば、田原睦夫裁判官は「事件発生から50年近く、今回の再審申し立てから8年近く経過しており、証拠調べは必要最小限にして効率よくこなすことが肝要」という補足意見をつけたという。ならばなおのことダイレクトに再審決定をしてもよかった。

 わざわざ3年と数カ月の時間を空費させた張本人の門野博はことし2月6日に定年退官している。彼はきょうの最高裁の決定をどのように聞いたのだろうか。名古屋高裁から東京高裁に転じたのち、布川事件の水戸地裁による再審決定を支持したことは記憶しておくべきかもしれないが、あれほど明白な冤罪事件ならばあたりまえの判断で、自白偏重判事・門野博の「盛名」に疵にはならぬだろうよ、呵々。(4/6/2010)

 京都・筍パーティ行きの早特ひかりの切符を買いに池袋へ。

 よせばいいのにまた本屋に立ち寄って、四冊ほど。アンドルー・ギャンブルの「資本主義の妖怪」、西部邁と波頭亮の92年と09年の対談を収めたちくま文庫、大貫隆の「聖書の読み方」、そして原武史の「沿線風景」。病膏肓とはこのこと。病名は「書物統合失調症」。あえて書いておくと、三冊目は積ん読になるだろう。他人に薦められて買った本にはなかなか手がつかないから。

 一冊を読み終わらないうちに、二冊、三冊と買う。面白そうだと思うと、もうそれだけで欲しくなる。薦められると時に義理のため読まないだろうなと思っても買ってしまうし、ちょっと資料的な価値がありそうだと思うとまず絶対に止まらない。それでも最近はなるべくいったん手帳に書き取っておいて、帰宅後、蔵書録で確かめてから買うように改めた。数冊、同じ本を買うという失敗をしたから。少し待つことができそうな本はアマゾンで中古品にあたると存外安く買えることに味を占めたこともある。

 積ん読といってもまるきり1ページも読まないなどということはない。子どもの時からの癖で、立ち読みでかなり読んでしまう。会社に勤めるまでは本屋のカウンターにゆく前にはだいたい三分の一ほど読んでいた。最近はせいぜい20ページていどだろうか。

 同じ本を買うなどという失敗は必ずしも歳のせいというばかりではない。二重購入の第一号は、杉本良夫の「『日本人』をやめられますか」だった。出張先で持参した本を読み切ってしまい、駅近くの本屋に飛び込んで買った文庫本だった。列車に乗り込み、読み始めてしばらくしてから、どこかで読んだような気がしはじめた。帰宅して調べて分かった、だいぶ前に買った「進化しない日本人へ」だった。文庫の扉にはしっかり「本書は1988年情報センター出版局から刊行された『進化しない日本人へ』を改訂、改題したものです」と断り書きがあった。それを読んでもたぶんダメだったろう。杉本良夫の名前が頭に入っていなかったような気がするから。税込み630円はかなり悔しかった。

 これはまだ許せる方。まるきり同じ出版社の同じ本、しかもそれなりの本ということになると、自己嫌悪に陥る。いちばんご丁寧な例は「摘録断腸亭日乗」。岩波文庫で上下二巻。これをしっかり2セット。ハードカバーとなるとダメージも大きい。安丸良夫の「近代天皇像の形成」。こういう本を二度買うというのは、ある意味、非常に恥ずかしいことだ。まるっきり読んでいないということなのだから。荷風日記は土浦の**邸、天皇像の方は奈良の**邸にもらわれていった。(4/5/2010)

 きのう、疑問に思ったことを少し調べてみた。結論から書くと、天皇陵での「拝み方」については調べがつかなかった。そもそも「皇室神道」という言葉自体、岡田精司によれば、村上重良の造語であり、古代から一貫して「皇室神道」なるものが存在したという考え方には何ら歴史的根拠がないとのこと。

 昭和天皇の葬儀に際して、政教分離と皇室における葬祭について、いささか滑稽な騒ぎ(あれは大騒ぎという意味でもまさに「たいそうの礼」だった)があったため、我々の多くは皇室の葬祭は神式で行うことが大昔からの習いであると思い込んでいる。たとえば、鳥居のような小道具を使い、火葬ではなく土葬にすることなどがそれ。

 しかし持統天皇が最初に火葬にされた後、江戸時代までのほとんどの天皇は火葬であり、葬儀は僧侶により執り行われてきたのが現実で「神葬祭」になったのは明治以降のこと。だいたい「神葬祭」などという珍妙な形式は江戸時代になって一部の神道家や国学者が仏教排斥のイデオロギーからひねり出した、かなり人工的なものらしい。神主家業の連中が言う「惟神のナンチャラ」とはほど遠いのが嗤わせる。

 つまり皇室にとっては、神道形式による葬祭の「伝統」はたかだか百年ほど、仏教形式による葬祭の「伝統」はゆうに千年を超える。どちらが「伝統」というにふさわしいのかは、伝統を知らぬ似非伝統主義者と一部の狂信的神道関係者を例外にすれば、誰の目にも明らかだろう。もっとも図々しい新参者がのさばるのは世の習いかもしれぬが、呵々。

 もうひとつ、鳥居について。天皇陵に鳥居を設けるようになったのは、江戸末期に攘夷論者からの外交政策批判に怯えた幕府の命により、宇都宮藩の戸田忠至が行った山稜補修(「文久の修陵」)の際に行われたこととか。もとより各々の墳墓と被葬者とされる天皇との対応関係は一部の例外を除いて確認されていないのだから、もはやここには「伝統」もクソもない。しかし幕府の怯懦の成果を遺産として受け取った明治政府にとっては、これこそが新たな「象徴の設計」に役立ったというわけだ。

 というわけで「拝み方」に「正式版」はないようだ。政治的なトリックとして設けられた鳥居に騙されるか、もののいわれなどにとんと関心のない人は二礼二拍手一礼すればよい。ただそれを千古不易の伝統などと誤解し、それに従うことを強制するような眼でこちらを見るのはやめてもらいたいものだ。(4/4/2010)

 同期会メンバーのお花見会。西八王子の駅に10時50分集合。何と総勢20人。人恋しい気分が蔓延しているのか。どうやら、それぞれの家庭では「ちょっと異常な同期生グループ」と言われているらしい。そうだろう、きょうはお花見、来月初めには京都・筍掘り、そして、来月末には同期会。行かなかったけれど、去年の秋にはバリ島、2月には蔵王スキーツアーなどというのもあった。なんやかんやで平均月一回のペースで大小の集まりがある同期生というのは「少し、ヘン」かもしれない。

 バスで「御陵前」まで行き、南浅川の川岸に並ぶサクラの木の下に陣取った。少し肌寒いが、日も射して、お花見日和。花見客もほどほど。上野の山のようにごった返すのはかなり辛いし、自分たち以外にはほとんどいないというのもまた寂しい。まさにほどほどの賑わいというのがうれしい。

 **さん、いまは**さんか、しきりに「幸せ」を連発していた。「明年、花開いて、復た誰か在る」。たしかにそのように時は流れて行くのだけれど、その想像に思いを致すよりも、現にこうして桜の下に集まれたことを喜び、その「仕合わせ」に感謝する方がいい。そう思いつつ、「・・・そうだよね、去年はああして元気だったのにねぇ、なんてことも、しばらくすればあるかもしれない」などと、また、憎まれ口をきいてしまった。それが「またぁ」ではなく「そうねぇ」と引き取られたところが、歳をとりつつある証拠のなのかもしれない。

 せっかくなので天皇陵へ。墓前(?)には鳥居。神社に鳥居はつきものだが、墓にも鳥居はつきものだったかと妙なことが気になった。そもそも神道は「穢れ」を嫌うものではなかったのか。

 訪れた人は二礼二拍手一礼している。まるでご利益を期待するかの如くだ。皇室神道も俗世の賽銭目当ての神道も儀礼は同じでよいのだろうか、これもまた気になる。どうせ神道のことだ、なんでもウェルカムなのかもしれぬと思えばそんなものかもしれぬが、皇室神道までがそのていどのものではいささか哀しくはないか。

 もともと神主が大嫌いでもあるし、分からぬもの知らぬものを適当に解釈して相手にあわせるよりは、こちらの流儀で心を込める方がよほどいいと思い、ふつうに手を合わせるだけにした。鈴もないのに派手に拍手(かしわで)などうつのには違和感がある。(4/3/2010)

 **君から新年度の組織・人事異動のあらましを伝えるメールが来た。去る者は日々に疎しとはよく言ったものだ。そのメールで、そうか、春は組織変更と人事異動の季節だったと、まるで遠い日のことのように思い出した。毎年この季節にはさまざまの思いを抱きつつ、「世の中に絶えて人事のなかりせば・・・」と呟いてきたはずだったのに、もうそんなことはころりと忘れていた。

 品質保証の組織はそのままホールディングスに移されて再編成されたらしい。他の事業会社に比べて格段に大きくなってしまうと、結局のところ、「全社の品質」について統括的に見る組織は事業会社の中ではオーバーヘッドになり、逆にホールディングス側の品質管理組織とのコントラストがつかなくなるということなのだろう。

 大半は組織名が変わったためだけに記載されている人事異動情報も子細に眺めると興味深い。同じ名前だけが同じ職位の中でローテーションしているだけという印象。7月の異動時期に比べれば、職位の上下移動が少ないのは春の人事異動の特徴といえばそれまでだが、それにしてもこれで若い人の力は引き出せるのかしらと心配になってしまう。

 まあ終身分のわずかな年金と今年度限りの健康保険以外のつながりはなくなってしまったのだから、かすかな愛着以上の思い入れはないわけだが。(4/2/2010)

 警視庁のサイトから「警察庁長官狙撃事件捜査結果概要について」をダウンロードして読んでみた。

 この文書が「在家信者A」と書き、彼の所有物の射撃残滓の鑑定結果を表にまとめて「何らかの形で本事件にかかわっていた疑いは、極めて濃厚であると認めた」と結論した人物こそ、最初(96年)は匿名情報によりその存在を暴露され、のち(04年)に三人の元オウム幹部とともに逮捕された「元巡査長」だ。この文書では当然の話として、また最近の報道ではなぜか単に「元巡査長」としか書かれていないが、彼は公安部門に所属するれっきとした「公安警察官」だった。

 00年に刊行された青木理の「日本の公安警察」にはこんなくだりがある。

 警視庁公安部に所属するある公安警察官は今も「もし警視庁公安部の幹部が処置を誤らずにK巡査長を視察していれば、いわゆる『K巡査長の自供問題』は起きなかった」と断言する。実は、K巡査長がオウム信者であったことを、警視庁公安部は狙撃事件発生以前、3月30日より前の段階で把握していたのである。情報は滋賀県で押収した光ディスクが発端だった。
 話は地下鉄サリン事件の三日後にあたる95年3月23日に戻る。この日、滋賀県警は同県彦根市付近にいた山梨ナンバーの乗用車に乗っていた信者を逮捕するとともに、所持していた光ディスクを押収した。入力情報が暗号化されていたため解読に時間を要したものの、ディスクには教団信者名簿が記憶されていたことが判明。同時にK巡査長が現役の信者であることが発覚した。情報は警察庁警備局を通じ、狙撃事件以前には警視庁公安部に伝えられた。だが何故か、警視庁の人事・監察部門には伝えられなかった。
「この段階でK巡査長を尾行し、視察していれば・・・」
 警視庁幹部はそう言う。だが結局、この情報は当時の警視庁公安部幹部によって握りつぶされてしまう。名指しされた幹部はその後、転勤先の地方都市の喫茶店でこう語った。
「今になって『握りつぶした』なんて言うのは簡単だ。でも、警官とはいえ信仰の自由はある。あの当時、われわれに何ができたというのか。他意なんてなかったんだ」
 時に激昂し、時に弱気な素振りも見せる幹部の目には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。その回答が真実かどうか、推し量る術はない。
 だが、K巡査長が信者であるという情報が警察庁警備局を通じて警視庁公安部にのみ伝えられた、言い換えれば公安瞥察官に関わる人事情報が、公安警察内でのみやり取りされ、それが公安部によって"握り潰された"--こうした事実に、公安警察の排他性、密室性を感じずにはいられない。
 公安警察が警察庁長官狙撃事件の捜査を担うことになったのは偶然にすぎないかもしれない。また、それを契機としてオウム捜査で″底力″を発揮したのも否定し得ない事実であるだろう。
 だが、警視庁公安部を中心とする公安警察は、公安警察であるが故にはまり込んだ陥穽によって、現職公安警察官の自供事件を引き起こした。その結果として組織のシンボルともいえる公安部長が更迭され、前代未聞の巨大な打撃を受けたのである。オウム真理教捜査において日本の公安警察が経験したのは結局、信じがたいほど大きな「敗北」だった。

 青木はこの本の別の章で、公安警察の教科書的存在とされる「警備警察全書」をもとに、公安警察の情報収集の手段として七つの手法を紹介している。①視察内偵、②聞き込み、③張り込み、④尾行、⑤工作、⑥面接、⑦投入。①から④までの手法は刑事警察においてもとられる手法で精粗の差はあっても一般人の理解範囲にとどまるが、⑤以降は公安警察独特の手法になる。「工作」は情報収集対象組織に「協力者」(スパイ)を作ることであるのに対し「投入」は公安警察官自身が対象組織に潜入すること。

 「投入」は公安警察の中でもハイグレードの手法らしい。「ハイグレード」はすごい。対象組織に打撃を与えるために、公安警察官自身がわざわざ「犯罪」を計画したり、時には自ら実行することもある。そのいちばん著名な例が菅生事件。この事件で交番の爆破を計画・準備・実行し、姿を消した人物こそ、戸高公徳、当時、大分県警所属の公安警察官だった。公安警察は大日本帝国時代の特高の生まれ変わりというが、必要ならば犯罪を犯すことも許容されるという体質はそのまま受け継がれたのだろう。戸高公徳は「スパイM」として当時の共産党を壊滅に導いた飯塚盈延の系譜につながる。もっとも戸高と飯塚では出自が違うけれど。戸高は「投入」メンバーであり、飯塚は「工作」されたメンバーだから。

 青木は単に「情報は警察庁警備局を通じ、狙撃事件以前には警視庁公安部に伝えられた。だが何故か、警視庁の人事・監察部門には伝えられなかった」と書き、地方都市に転勤になった(左遷?)公安幹部の「涙」の証言を付け加えている。しかし、もし「K巡査長」が「信教の自由」(公安幹部が手駒である警察官の「信教の自由」を認めるだろうか?)により職務とは無関係に在家信者になったのではなく、「投入」要員としてオウムに派遣されたメンバーだったとすれば、どんなことが考えられるだろうか。オウムはかなり意図的に警察官や自衛官を勧誘していた。オウムの側にも新規信者の身元を公安並みに洗うぐらいの備えはあったろう。二重スパイに対する双方の「洗脳合戦」は熾烈を極めたかもしれない。

 それにしても対共産党というなら謀略も分かるが、一宗教団体であるオウムなどに「犯罪」を指嗾するというのは納得がいかない気もする。だがそれは一連のオウム事件のいくつかを既に忘れているからだ。たとえば村井秀夫刺殺事件、たしかに犯人は捕まり裁判も確定したが真相は藪の中のままだし、いわゆるロシアコネクションについてもほとんど解明されていない。一橋文哉の「オウム帝国の正体」によるとCIAは「オウム真理教事件報告書」をまとめてアメリカ上院の委員会に提出しているという。CIAはオウムの「妄想」の中に単なる一宗教団体の「妄想」ではない別のプレイヤーの存在の可能性を認めていたのかもしれない。オウムが引き起こした事件は一つ一つが独立の刑事事件として立件されてしまい、全体を通してどのような意図に基づいて何を考えていたのか、どのような勢力との連携が実際にあったのかという視点からは解明されていない。

 麻生幾は「週刊朝日MOOK」の記事の末尾をこのように締めくくっている。

 関与が疑われるI幹部を含む信者の全面否認は今でも続いている。もし彼らが関与していれば、すべての供述が美しく、ピースがはまってゆくはずである。ところが、幹部たちの供述は、細かい部分で辻榛が合わないのだ。
 導き出されるものは一つしかない。
 誰もが、どこかの部分で「嘘」をついている。
 その深層には誰もがそれぞれの思いがあるのだろう。刑罰から逃れたいからだけでない。引きずったままのマインドコントロールのアンカー、深く関与はしていないが元の仲間を庇う気持ち、人間関係の乳轢、家族への思い、そして自分自身の確信――。
 それらは、肉体が朽ちる寸前に初めて、拭い去られるものなのかもしれない。

 麻生が「嘘」をついているというのは教団関係者のことだが、警察庁長官狙撃事件においては公安関係者の「誰もが、どこかの部分で『嘘』をついている」と考えられなくもない。積極的な「嘘」ではないのかもしれないが消極的な「嘘」をついている、そんな印象を持つ。

 半年近くにもわたって、犯行を「自供」している「元巡査長」を隠し続けていることをマスコミにたれ込んだのが公安部関係者であることは間違いない。被害者であるだけではなく警察庁長官でもあった國松孝次にも秘密にされていたことを暴露することが公安部外の人物にできるわけはない。マスコミの反応が鈍いことに苛立ったのか2回にもわたって「内部告発」するというご丁寧さ

 公安部が被害者であり最高責任者である自分にまで「元巡査長」に対する極秘取り調べ(期間・手法、すべての点で違法であることは東京地検が指摘している)を隠していたことに衝撃を受けた國松は報道直後に櫻井勝公安部長を更迭し、後任に刑事警察のエースといわれた林則清を据えた。國松自身、公安部長の経歴を持つ人物なのだから、これは穏当な話ではない。公安という組織の中にある種の暗闘があったことは事実だろう。

 オウムはCIAが報告書を作成するほどの「鬼っ子」であった。オウムに関して公安警察は当初冷淡であったといわれているが、それなりのことはしていたのではないか。鬼っ子ぶりを察知した担当セクションは久しく封印していた「投入」という手法を選択した。何に齟齬をきたしたのかは分からないが、投入した「素材」は複雑な事件に巻き込まれ、公安部側からはコントロール不能になってしまった(オウムのマインドコントロール技法が想定を超えていた)。そうも考えられる。

 それをそのまま公表することはできない。「元巡査長」も、半年近く彼の取り調べまたは「処置」を担当した特命チームも、後にこれ引き継いだ捜査本部も、今回の記者会見について「異例のことで判断は分かれる」と断りながらも「国民への説明責任を果たしたいという気持ちではないか」とコメントした國松でさえも、誰もがどこかを隠さなければならなくなった。

 公開されている文書はお粗末なものだ。逆にこれほどお粗末なものをあえて晒していること自体、別の想像を生む。これは警視庁公安部が国民にいいわけをしている文書ではなく、伝統的にとってきた手法の見直しを検察庁なり公安調査庁に対して宣言するための文書だったのかもしれない。いや、それならば晒すこともないわけだ。とすれば、公安部の中の「勝ち組」が「負け組」の失敗を形に残しておくために行ったのか。まあ、無様な発表を行った公安部にとって救いになったのは、「テロとの戦い」という呪文を唱えれば、すべてが許されるという最近の風潮だったことはたしかだ。(4/1/2010)

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