道・鎌倉街道探索日記

板碑の説明

鎌倉街道を探索していると、街道辻や街道沿いのお寺など、人目につきやすい所によく板碑を見掛けます。
板碑という呼び方は江戸時代の中頃以降といわれ、松平定信の編集した『集古十種』より見られ、その後流行した地誌・紀行文等にはことごとく板碑が収録され、この塔婆を板碑と呼ぶのが一般化したそうです。
しかし板碑と呼ぶとこれは石碑や古碑などの記念碑などを意味するものとなってしまい、本来の仏教的意味合で仏の供養に使われた卒塔婆を理解しない呼び方になってしまっているといいます。
板碑は正式には「板石塔婆」「青石塔婆」が正しいそうです。板石塔婆は姿形が薄平な石の板であることを強調するあまり、碑と言うあいまいな根拠から板碑と呼ばれたわけですが、仏教の卒塔婆であるというのは、仏像、種子、曼陀羅、塔婆のいずれかを刻んでいることが必須条件であるとする為だそうです。
そして昭和37年、長くなじんで親しんだ「板碑」の名称の方が簡単でわかりやすく、かつ便利なので、文化財の指定も板碑の名称で良いということになったようです。

板碑の発生

板碑の源流には幾つかの諸説があり定まったものが無いのでここでは説明しません。板碑と同形式のものは、平安時代の末期の絵巻である『餓鬼草子』『北野天神縁起』などに、木製と思われる板碑が見え、これら絵巻に見えるものは胎蔵界大日種子であるのが特徴であるそうです。
鎌倉時代後半に関東に発生する板碑は阿弥陀如来の容像または種子として現れ、関東を中心に急速に広まります。その背景には当時の新興勢力である浄土教や末法思想の地方への進出と関係があるとします。
板碑がこのように普及したのは、造設形状が他の石造物より簡単であった為、費用も少なくすみ、当時台頭してきた武士階級の好みにあい、流行したものと指摘されています。

板碑の用語説明

主尊種子

造立者が供養の対象として仏・菩薩などを示したもので、礼拝の対象でもあります。一般的な板碑は種子である梵字を刻むことが殆どですが、画像や名号・題目の文字であらわす場合もあります。

蓮台

本尊を安置するためのものです。時代により様々な形式があります。また主尊の上部に天蓋を、蓮台の下部に香炉や花瓶を配するものもあります。

偈は教典などにある詩文で、仏をたたえたり、仏法の真髄をのべたりしたもので、その一節が板碑に刻まれたもので、約50種が知られています。

紀年銘

年月日で、通常の年号の他に私年号と呼ばれる、公でない年号もみることができます。

願文

造立の趣旨は、追善・逆修・その他の供養に分類できます。

供養者名

法名(戒名)が最も多く、俗名は一部の民間信仰板碑以外にはまれなものです。

種子(しゅじ)について

右におもだった種子をあげてみました。
〜『日本石仏事典』より〜

種子とは梵語のヴィージャ(植物の種子の意)に語源を持ち、石仏・板碑・卒塔婆・墓石などに仏像の姿を現す代わりに、梵字(古代インドの文字、サンスクリット語)を組み合わせ、定められた象徴文字を表すものをいいます。梵字は平安時代頃、密教と供に日本に本格的に移入され、原音のまま発音されます。平安時代の後期より仏像と同じように崇拝の対象になりました。

それぞれの種子の表す意味は多様であり、また個々に少しずつ変化が見られ、他との関連を考えて意味を判断する必要があるようです。

埼玉県の板碑の特徴

埼玉県には現在2万基以上の板碑が確認されているそうです。これは質・量ともに全国一といわれています。板碑の石材は荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里などから産出される緑泥片岩と呼ばれる石で、たがねなどで割ると板状に薄く割れる性質があります。この緑泥片岩は青色を帯びているために青石塔婆とも呼ばれていて武藏形板碑と分類します。板碑は日本全国に分布していますが、地域ごとに形や石材に特徴があり武藏形板碑は材質が柔らかく加工しやすいため、美術的にも美しいといわれます。

板碑はなんのために造られたのか

板碑は大別すると追善供養塔逆修作善塔に分けられます。
追善供養塔は死者の供養の為に造られたもので、死者の俗名、死亡年月日、年令などを刻んだものが多く、寺院境内や墓地に造立される例が多いようです。又供養塔だけではなく、墓塔として使われたと考えられる板碑もあり、それらの近くからは蔵骨器が出土しているものです。この場合中世の墓制がどのようなものであったのか、明らかでない部分があり、このような板碑が墓塔といちがいに断定することはできないそうです。
逆修作善塔は建立者が生前の善行によって功徳を積み、まだ生きている内に自分やその家族の死後の安楽を願って造られたもので、造立の場所は寺院境内も含まれますが道路の辻や見晴らしの良い場所など人目につきやすい場所に立てられることがあります。

板碑の造られた時代

板碑は鎌倉時代中期頃から造られ始め南北朝に全盛期を迎え、室町時代そして新しいものとして安土桃山時代のものもあり、そして江戸時代には造られなくなります。こうみてみると、ほぼ鎌倉街道と同じ時代に造られてきて、鎌倉街道が街道としての使命が終わる頃に板碑も造られなくなるのです。現在の鎌倉街道跡周辺で見掛ける板碑は鎌倉街道とおおいに密接な関係にあるものといえましょう。

埼玉県内で最古の板碑は大里郡江南町須賀広の大沼公園所在の嘉禄3年(1227)銘阿弥陀三尊画像板石塔婆があげられ、上部は破損し画像も磨滅して明らかではありません。

最も新しいものとして戸田市新曽妙顕寺所在の慶長3年(1598)銘題目三尊板石塔婆があります。

その大きさの最大のものとして秩父郡長瀞町野上下郷所在の応安2年(1369)銘釈迦一尊種子板石塔婆で約5メートルの高さがあります。

反対に最小のものは在銘の確認できるものとして北埼玉郡川里村出土の永仁元年(1293)銘阿弥陀一尊種子板石塔婆で高さ22センチメートルです。

武士の間に広まった板碑は信仰と深い関係があり、貴族から武士の政権となった鎌倉時代から徳川家康が江戸幕府を開くまでのあいだは正に戦乱の続く時代でした。戦に直接参加する武士達は、常に死と直面していたのです。いつ死ぬかわからない不安、そして生きるためには人を殺さなくてはならない罪の意識、こうした生活感情と社会的背景が当時広まりつつある浄土教の思想と結び付いて武士の間で盛んに板碑が立てられたと考えられるようです。その後豊臣秀吉の天下統一後は社会が比較的安定してきた為、仏に救いを求める意識が薄れ板碑は造られなくなったと考えられているようです。

石の証人としての板碑

現在、埼玉県立歴史と民俗の博物館(大宮公園内)には県内を代表する板碑の展示室があります。興味のある方は是非訪れて見てください。
日本史の中でも中世は戦乱に終始したためか、文献的資料は残っているものが少なく、そんな中での板碑に刻まれた銘文(金石文)は歴史的に極めて貴重なものがあります。有名な東村山市徳蔵寺所蔵の「元弘の板碑」は新田義貞の鎌倉攻めの具体的なこと柄を記したものとして知られています。新田方の上野の豪族飽間氏の戦死者の戦死した場所と日付が直接的資料として刻まれています。これは合戦の日時を確実に知ることができ、正に生きている、石の証人と説明されていました。

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