第2回 それぞれの困難
「ただいま」
北見健は両手に重たい買い物袋を抱えたまま、なんとか家の扉を開けて玄関を上がった。彼の家は祖父の頃からの使われていて築50年は経っていると思われる。今の建築技術から見て古さを感じさせてしまっているが、それでも木造とはいえしっかりとした造りをしていると祖父は自信をもって言っていたようだ。
「健、ありがとう。重かったでしょ?」
姉の涼子が台所から両手に荷物を持った健に話しかける。彼女は一般企業に勤めるOLであり、
専門学校卒業後に入社して、いろいろと大変な中、業務をこなしている。
「ずいぶん買って来たけど、今日は何を作るつもりなの?」
「最近、疲れてるでしょ? せっかくだから美味しい物と思って初めてだけどハンバーグをね」
「初めて? そういえば確かに作ってなかったね。仕事があったりすると家事になかなか時間をかけられない事もあるから、少し手伝うよ」
北見健も両親と離れてから、やれる事を今までやって来たこともあって家事については問題がない。夕食が出来た後、北見健の食事をしている時も箸があまり進んでいない様子なので姉は弟の様子を聞いてみた。
「なんだか食事が進んでないけど、熱でもある?」
健の額に手を当てて、気遣う涼子。
「いや、熱は無いけどなかなか疲れが取れなくてね」
健は笑顔を見せて答えているが、声に明るさが無い。
「あまりにも残業が多いから心配で」
「そうだね、今は忙しい時だから、家に帰ったらすぐ休むようにするよ」
木田は陶芸教室の仕事以外にも、デザイン会社で下請けという形でアルバイトをしている。雑誌の表紙やレイアウトを主に任されている。彼はいろいろと初めての物でも飲み込みが早く、出来てしまう才能を持っているが、その中でも芸術面には秀でているようだ。ただまだ彼には物足りないようであるが。
「デザイン会社に仕上げの原稿が出来たんで届けに行ってくる」
彼は自分のバイクに乗り、会社へ少々飛ばして出て行った。無事に原稿を届けた後、スタンドでガソリンを入れている最中、彼の目に知っている人間が見えた。
「あ、確かあの人は・・・」
木田はその人を追って行った。と、次の瞬間その人が振り向いたとき木田である事を認識していたようで、懐かしいと言う気持ちで話しかけて来た。
「あなた、木田君でしょう? 卒業以来ね。あれからどうしてるの?」
「お久しぶりです、先生。まだあの高校にいるんですか?」
「ええ、木田君たちがいた頃からずっと同じ科目を担当してるの、今は1年生の担任だけどね」
その人の名は高橋美月、彼の高校では初め実習生として来ていたが、木田が3年の時に先生となり、テニス部の顧問で国の大会に出る程の腕前で、美人でと評判は高かった。以前彼が公園のベンチで会った貴島亜里紗のいとこである。
「全然変わりませんね、先生」
「そう、もう木田君が卒業してから5年経っているけど、あなたもね」
高橋は木田の姿を見て微笑んでいる。
「5年ってあっという間だけど、あまり変化ってないんだなって感じましたよ」
「私も、5年経っても実感がわかない所はあるかもね」
自然と2人の会話が弾んでいた。その後、彼女が少し考えたような顔で木田に質問した。
「少し聞きたい事があるんだけど、いい?」
「なんです?」
「最近、亜里紗の様子が変で、あまり笑っている所も見ないし、外にも出なくなっちゃって・・・」
その時、木田は「あの日」の公園での出来事を思い出していた。
「そう言えば、確かに気になっていたな。人間関係の悩みとかって言っていたな」
彼は心の中でつぶやいていた。
「実は数日前なんですけど、彼女に会ったんです。高校の頃の明るさが全くなくて、表情が暗くて・・・、生気の無い顔って言うんですかね・・・」
「ちょっと、私なりにもいろいろと家族に聞いてみるようにするから、また会う機会があって何か気づいたら連絡して」
「ええ、わかりました」
美月にとって亜梨沙の事は「教師」としてよりも、「いとこ」として気がかりだった。
「本当にどうしたんだろうか? 彼女」
片桐麗は高校卒業後、服飾の専門学校へ進学し、別の場所でアルバイトを経て、家業を手伝うようになっていた。彼女はファッションについて家業の影響からか身近に感じており、次第に意識するようになっていて、卒業後の進路はすぐに決まった。彼女は家業を継ぐ事も考えているようだった。
「お母さん、これはもう倉庫に置いておくね、そろそろ季節も変わるから在庫のことも考えないと」
「あっ、それはまだよ。新しいのも季節に会わせて出すけど、もう少しくらい出しておいていいのよ」
母親から色々と教わりながら、家の仕事を手伝う姿があった。接客のこともあるのでまだ難しさを感じている様子だ。その後、夕食を終え、洋裁の道具が散乱した部屋の中で机に向かって片桐は窓の外を見つめて考えていた。雲一つもない夜空に星が少し輝いている。
「北見君、自分の思いを叶えたんだ。でも、今の彼、相当疲れてる様子で表情もあの頃と少し違うような・・・」
高校2年の春に、同じクラスの班同士なったことで他の仲間たちと共に仲良くなっていった。いろいろと話し合ったり、勉強を教え合ったり、どこかへ遊びに出かけたりして自然に接していた。それでも「異性」としての思いを持つまでには至らなかった。
「でも、私は、ただ話を聞いてあげる事しか出来ない。ただそれだけしか・・・」
窓のカーテンを明けて夜空を見ている彼女の北見を思いつめた姿と表情が窓ガラスに写ってい
た。
北見健が研究所に勤務してから1年が経っていた。仕事そのものには慣れてきたが、残業の多い日々にどこまで耐えられるのかはわからない様子で、彼は肉体と心の疲れを感じながら働いていた。
「今日は8時か、まだましかな。先週よりは」
彼は夜遅くなる事が当たり前になってしまっているのでそういう言葉が出てしまう。いつもの通りに
自転車で丘から街までおりて行くと、明かりが大人の雰囲気を出しているカフェを見つけて少し休むことにした。と、近くの席に見覚えのある顔の人を見た。
「あれ、もしかして・・・、浩司じゃないか?」
「え、お前、健か? 久しぶりだな」
再会に笑顔を見せる二人。
「今、製薬会社の研究所にいるのか? 高校の頃から目指してたものになれたって訳か」
「仕事はなんとかなってるけど、帰りが結構遅いんだ」
「そうか、もう9時だもんな」
カウンターで二人は窓の外を見つめてコーヒーを飲む。それから木田は北見の顔を見て、こう言った。
「表情が少し暗いな、相当疲れてるんじゃないか?」
「うん、そうだね。実は研究もかなり依頼をしてきた業者の注文に無茶があるみたいで色々やるこ
とが多くって、それでもなんとかやってるけど・・・」
「自分が目指して来た職業をあきらめずになんとかやっている感じだな、お前の場合は」
「この状況がどこまで続くんだろう、本当に」
背伸びをして、一瞬の疲れをとる北見の姿を木田は見ていた。
「そういえば、浩司はなんでここに?」
「実はさ・・・、ちょっと考え事があってね、静かな場所じゃないとと思ってここへ来たんだ。貴島さんのことなんだけど・・・」
「彼女はまだこの街にいるんだね」
「ああ、ただ今、職場の人間関係で悩んでるみたいだな。この前いとこの先生と会ったんでその話が出て来たんだ」
「彼女がそんな悲しい表情を見せる事なんて昔無かったと思うよ、僕も」
「本当にそうだな、また彼女に連絡して様子を見てみよう」
もう注文したコーヒーが冷めきっていた、時間は10時を回っていた。二人はそれぞれ家路についた。
「浩司、そろそろ教室の先生としてやってみないか?」
「俺が?、まだ早いんじゃないか」
彼は陶芸教室を経営している父親と作業場で話していた。
「美術大学で好成績で卒業、何をやらせても問題なしなら十分じゃないか」
「好成績っていわれてもね・・・」
「それなりに、私の助手をやってきてもう充分だと判断できたんだ。それ以外に何も言う事はない
んだが」
「そうだね、考えとくよ」
彼は軽く返事した。自分にはまだ先生として出来るかどうかわかってはいないし、手伝いを始めてから1年は過ぎているが、父親を見ているとまだまだといった感じがしたためあまり彼は決めかねていた。
「俺には、まだ難しいような気がするけど」
道具のある倉庫を片付けながら心の中で思った。片付けの後、自分の部屋へ戻ってもう一つの
仕事に手を付けようとした時、机に置いてある携帯の音がなった。
「はい、木田です。先生? 先生じゃないですか、一体どうしたんですか」
「亜里紗ちゃんが、どうやら職場を辞めたらしいの。それで今、就職活動している状況で、今日も
ハローワークに出かけたけど戻って来てないって彼女のお姉さんから聞いたんだけど、木田君の
家に行っていないかと思って」
高橋美月が戸惑いの声で木田に電話で話す。
「それは初耳ですね、そんな状況になってるなんて・・・」
「私、ハローワークのあたりを探してみるから」
「僕も、彼女が行きそうな所で気になる所を探してみます」
木田は階段を足早に降り、車庫のバイクに乗って彼女の行方を追った。彼女の様子を不安に思う気持ちがこみ上げていた。
「貴島さん、一体どうしたんだ?」
彼のアクセルを動かす手には力が入っていた。