山の雑記帳 17

 玄倉川の水難事故  1999.09.06 記

 高くついた聖岳登山  1999.09.23 記

 ツアー登山  1999.10.06 記

 素晴らしかった会津駒ヶ岳  1999.10.14 記


玄倉川の水難事故  1999.09.06 記

先般の丹沢 玄倉川の事故については、あまりにも当事者達の無謀さが目につき、書きたくないという気持ちが強かったのだが、 去る 8月29日に 最後まで行方の分からなかった赤ちゃんの遺体が発見された ということをニュースで聞いて、 一時忘れかけた大人の身勝手さを思い出して ここに書いてしまう次第である。

とは言え、書きたいと思うようになってからも仕事が忙しく、書く暇がなかなかなかったため、誠にタイミングのずれた内容になってしまったのは 些か気が引けるのであるが、 お許し頂きたい。

なお、本題に入る前に、 今回の事故で亡くなった 13人の方々について、 心からご冥福をお祈り致します。

今回の事故については、 新聞を初めとするマスコミの論調も、 あまりにも自然の恐ろしさを知らない、 無謀な行いが引き起こした悲惨な事故として書かれているようで、 非は犠牲となった人たちにある ということに傾いているようである。

従って、ほとんど実状を知らない私が今更とやかく述べては申し訳ないのだが、少し感じたことを書き留めてみる。
細かい点を言えば、 救助方法にもっとベターなものはなかったのかだとか、 警察・消防・自衛隊の連絡不備、 注意と強制退去の垣根をどうして壊せなかったか といった傍観者としての身勝手な思いは沢山出てくるのであるが、 やはり今回の件の原因・問題点は 犠牲となった方々の自然に対する考え方の甘さに尽きるであろう。

自然がひとたび怒ったら、ちっぽけな人間では対応できるわけがないのであり、自然に対する畏怖の念を普段から人間は もっと持つべきなのである。
いや、 かつては山に暮らす人も、 海に暮らす人も、 自然に対する畏怖の念を忘れず 必ず山や海に供物を捧げ、 自然との共存を願い、 自然を怒らせないようにと願っていたはずであった。
しかし、 文明の進展により治山治水が進み、 一見、人間が自然を征服したかのような錯覚を覚えてしまうことが、 我々に自然の恐ろしさを忘れさせ、 あるいは奢りをもたらしているのであると思われる。

つい最近まで日経新聞の 『私の履歴書』 に渡辺貞夫さん (JAZZ PLAYER) の話が掲載されていたが、 8月30日付けの稿に、 『チベットの自然の中では、 人間はもはや祈ることしかできないのだと実感させられた』 という件 (くだり) があったのが印象に残っている。 これはチベットに限らず、 人の手がかなり入った丹沢といえども、 必ずしも自然は人間に組み敷かされた訳ではなく、 一旦自然が怒れば 人間は打つべき手がほとんどない ということが言えるのである。

人間は経験から学ぶとともに、他人の例からも学ぶ (真似ぶ) ということもできるから、これまで幾度も自然災害の恐ろしさを テレビなどで見て、 誰もが頭では 自然の恐ろしさを分かっているのはずなのであるが、 なかなか自分のこととしてはとらえることは難しい。
人間の特性 (欠点 ?) の一つに 『自分だけは大丈夫』 という、 誰も保証していないにも拘わらず変な自信を持っているところがあって、 なかなか我が身のこととしてのシミュレーションができないのである。

例え、シミュレーションができる人がいたとしても、下手に騒ぐと 『臆病者』 などという有り難くない レッテルを貼られてしまうこともあるから 大変である。
そこで出てくるのが集団心理の恐ろしさである。

一部 (だったと想像するが) の大人達の作り出したムードに巻き込まれ、できあがってしまった集団心理というものは 恐ろしいもので、 恐らく何人かは 岸へ戻りたいと心で思っていたのではないかと思うが、 言い出すことができなくなってしまった ということもあるであろう。

もしかしたら、帰りたいと数人が同時に言い出せば、ムードは一変して岸へ戻る方向に動きだしたかもしれないのであるが、 1人だけの発言では 先に述べたように 『臆病者』 のレッテルを貼られかねず、 それが口を閉ざす原因となってしまうのである。

今回の事故で特にやり切れないのは、先ほどの 1歳児を初めとする多くの子供達が犠牲となったことで、判断能力のない子供達の運命を 親や大人達のいい加減さ (敢えてそう言わせて頂く) で決めてしまったことである。
今回の事故がなければ、 あと 70年も 80年も人生を謳歌できたであろう子供達のことを思うと、 撤去勧告を無視した大人達は 自業自得という言葉で片づけられたとしても、 大人の判断に従わざるを得ない子供達 (あるいは女性陣も) のことが、 同じ子供を持つ親として不憫でならない。

色々な方々から 「中州からの撤去」 を勧告されたにも拘わらず、それを断ったものは何だったのだろうか。
「大丈夫 (責任を持つから)」 と言ったとしても、 その責任という言葉は空虚な中身のない、 ただの飾り言葉に過ぎず、 かかる事態が発生した時の対処方法、 安全確保のための絶対的確信 などに裏付けられたものではなかったに違いない。

会社などで、「おれが責任を持つから」 という場合には、一応問題が生じた場合の対処方法まで考えてのことだと思うが (この言葉を安売りする輩もいますが・・・) 今回の場合は やはり忠告する相手を説得し、 遠ざけるがための方便で つい出た言葉といったところであろうか。

テントというのは、一度立ててしまうとなかなか動かすのが面倒であるから、今更動かせないという気持ちがあったということは想像できるし、 また、 そこにいた大人達が それまで経験してきたことからはじき出した結論であったのかもしれないが、 やはり自然災害など滅多に経験できるものではないから、 判断も甘くなるのであろう。

さて、何か支離滅裂なことを書いてきたが、 今回の事故を教訓として我々 (少なくとも私が) が学ばねばならないことは何であろう。
些か内容が重複するが下記のようなことかと思う。

1つは、自然は決して侮れない、 怖い存在であることを我々は肝に銘じなければいけないということである。
今回の事故を他山の石として、 今後 2度と同じような、自然を嘗めた (あるいは知らない) が故の事故は起こさないようにしなければならない。

2つ目は、集団のリーダーたるものの責任である。
集団のリーダーたる者は、 例え遊びといえども責任があるのであり、 その責任は簡単に言葉のみで 『責任は取る』 などという形に出してはいけない、 重いモノあることを肝に銘じなければいけない。

山の事故でも、リーダーたる者のパフォーマンス 1つでだいぶ状況も変わっていただろうと思われるものが多く見られる。
リーダーというのはそれだけ責任が重いのである。 リーダーたる者、 最悪の事態を想定して対応策を考えておくことが不可欠であろう。

3つ目は、集団心理の恐ろしさである。
集団の中で異なる意見を出すことは 大変に勇気がいることなのであるが、 それも命がなくなってしまえば 何の意味も持たなくなることから、 やはり主張すべきところは主張しなければならない。 後で後悔しても遅いのである。

中州から抜け出した人たちのことを、中州に残った人たちの中で 『臆病者』 と揶揄するようなことはなかったであろうか (想像で、大変失礼なことを申し上げていることは承知しております)
安全を考えて 中州から出ていった人たちのことを揶揄するような言葉が、 残った人たちの誰かから漏れたら、 後の気の弱い人たちは 途端に行動を規制されてしまうのである。
しかし、 揶揄されたくない、 仲間はずれになりたくない ということで命を落としてしまったら何にもならない。

と、 かく言う私も 自然は自分の味方と思っていることが多いし、 自分だけは別だ と思っていること多々あるのである。

例えば、先般の女峰山の下りで雷に遭った時も、無謀にも尾根を駆け下ったのは自分だけは大丈夫という気持ちが 心の中に少なからずあったからである。
今回の事故は、 時が経っても風化させることなく、 自然と接する者の教訓にせねばならない。
自戒。


高くついた聖岳登山  1999.09.23 記

最後に山に行ったのが、8月20日の聖岳であるから、もう1ヶ月も山に行っていないことになる。

この間、4、5回の土日があったものの、休日出勤や台湾出張や子供の運動会やらで結局山に行くチャンスができなかったのであるが、 実は今 『山に行け』 といわれても山行の必需品が 2つほど欠けており困った状態なのである。

1つはカメラ (CANON EOS 5) で、先般の聖岳登山の際に雨に降られたのが祟ったのか、イメージセレクトモードが全く利かなくなってしまい、 おまけに 電池の部分及びカメラの底の部分が 発熱をするという状況になってしまったのである。

仕方がないので購入先であるヨドバシカメラに持っていったところ、預かってから 1ヶ月半ほどかかるというショッキングな回答を得たのであった。
無論ヨドバシカメラが直すのではなく、 ヨドバシカメラからキヤノンのサービスへ回すのであるから、 もっと期間を縮めるためには キヤノンのサービスステーションに直接持ち込めば良いことになるのであるが、 サービスステーションは平日しか営業していないため 持ち込むことができず、 1ヶ月半かかることを覚悟して ヨドバシカメラに預けることにしたのであった。

一応修理費が膨大にかかっても困るということで、事前に見積もりをお願いし、その金額によって修理するか、あるいは修理を止めて新しいカメラにするか を選べるようにしたところ、 台湾に行っている間に回答がきて、 部品代・技術料・税金を含めて 20,000円ほどかかるとのことであった (これは非常に痛い)
それでも新たに購入するよりは増し と思い修理を依頼したが、 できあがるのは 9月23日前後、 約 1ヶ月で済むことになったのはありがたい。

と言う訳で、カメラが直ってくるまでは山に行けないということなのであるが (というよりはカメラがなくては山に行ってもつまらない)、 実は家には 昔使っていた 3倍ズームのリコーの 『MIRAI』 というカメラがあるにはあるのである。

従って、本当は山に行けないという理由をカメラには求められないのであるが、一眼レフのシャッターと 『MIRAI』 のシャッターでは感触が全く違い、 いつ押したか分からないようなシャッターを持つ 『MIRAI』 もう私には耐えられないのである (ちょっと大袈裟か・・・)

そういえば、時々山でカメラを渡されて写真撮影を頼まれることがあるが、一般の全自動カメラのシャッターは本当に押したかどうかが分からず、 またフェンダーを覗くと その余りの小ささに驚かされ、 私はいつも自分のカメラとの違いに戸惑い、 本当に自信のない撮影になってしまうことが多いのである。

従って、山ではなるべく他人のカメラ (特にコンパクトな全自動カメラ) で写真を撮ってあげることは避けているのだが、 こちらからカメラのシャッターを押してもらうことを 頼んだ場合など 『じゃあ私もお願いします』 と言われたら さすがに断れない。
自信のないままに撮影をするのだが、 カメラの余りの軽さに手ブレしてしまったのではないかとか、 シャッターを切った手応えがないために うまく写っていないのではないか など心配な場合が多く、 実はもう 1回撮らせてくれ とお願いしたい場合が多いのである (そしてその反動であろうか、 私はいつも人に撮ってもらう場合、 必ず 2枚撮ってもらうようにしているのである)

私が撮ってあげた写真が、ご本人がその山に登った唯一の証拠となるとしたら、私のヘタクソな写真撮影によって本人の折角の記録・記念を台無しにしてしまっては 申し訳ない気がする。
今まで幾枚もの写真を撮ってあげているが、 果たしてその写真はチャンと写っていたのであろうか。 確かめる術などないが、 もしかしたら私の知らないところで 多くの人たちの怒りを買っているのかも知れない。

ま、こんな状態であるから、私にカメラのシャッターを押すことを頼むのは止めた方が良い。 といっても山で私を認識するなんて無理であろうが・・・。

話が少し逸れてしまったが、 もう 1つ欠けてしまったものが腕時計である。

無論、いつもしている時計とは違い、登山用の時計 (CASIO 733 AW-330) のことで高度や気圧が測れるものなのであるが、これもこの前の聖岳で大雨に遭った後、ウッカリ地面に落としてしまったら アナログ部分およびデジタル部分とも 止まってしまったのである。

電池がずれたのかと思い裏ブタを開けてみると、水が入らないようにと組み込まれているシールド用のゴムがボロボロになっており、従って水がムーブメント の部分にまで入ってしまったらしく、 ムーブメントの一部は腐食するまでになっていたのであった。

5年くらい使ったであろうか、結構気に入っていただけにショックは大きいが、ある種の寿命であるからこれも致し方ない。
という訳で ここでも予定外に登山用の時計を買うハメになってしまい、 2万円前後の出費は覚悟せねばならないことになってしまった。

イヤ、これまで使っていた腕時計には気圧や高度を測定する機能はついていたものの、これまでほとんど使わなかったことを考えれば、安いデジタルウォッチ で十分なのであるが、 そこはそれ、 つまらないプライドがあって、 それなりの格好をつけたいのである。

という訳で、一遍に 2つの山行必需品を失うことになってしまった訳で、大変高くついた聖岳登頂ということになってしまった次第である。

ところで今時点の私にはもう1つ困っていることがある。
それは日曜日に久しく行わなかった庭の手入れをしたところ、 茶毒蛾にやられてしまったのである。 バミューダを履いていたため、 足が露出している膝の部分がすっかりやられてしまい、 Tシャツを着ていた腕とともに真っ赤になって、 おまけに痒くて痒くてたまらないのである。

あまりの痒さに集中力も途切れ、さらに医者に行って貰ってきた薬のうち 飲み薬の方が眠気を誘い、今どうしようもない状態である。 腕のやられ方もひどいので、 残暑がぶり返してきて暑いにもかかわらず、 長袖を着ての通勤である。

今度の土曜日に医者に再診を受けることになっており、おかげで久々に土曜日に行こうと思っていた山もオジャン (死語 ?) である。
今年の百名山はたった 3つでお終いであろうか ?


ツアー登山  1999.10.06 記

山に行けない日が続いてストレスがたまりつつある。
先週の土日は会社に出勤とあいなり、 おまけに日曜日の晩は そのまま会社に泊まり込む という状況で、 何ともやりきれない。

そして慣れないことはやるものではなく、結果として体調を崩してしまい、年休の使い道が山ではなく 休養 (実は風邪) に変わってしまったという次第である。

この忙しい状態は今年の夏頃から続いており、そのしわ寄せが山行やホームページの更新に来ている。従って、山をメインに掲げながら 山に行けない状況が続いていること、 またホームページ の更新がほとんど進んでいないにも拘わらず、 毎日カウンターのヒット数が そこそこ伸びていくことに対する申し訳なさで、 これまた心理的に結構つらい状況である。

さてこうした中、休養を取らせて頂いたついでに ゆっくり我がホームページを見てみると、いくつかの点に気がついた。
まずは、 我がホームページは 今年の 8月10日で開設 2周年を迎えていたこと、 この 『山の雑記帳』 もうすぐ 100話を迎えること、 そして我がホームページへのヒット数が あと 1ヶ月ほどで 30,000になることなどである。

思い起こせば、『ホームページの作り方』 を片手に悪戦苦闘しながらこのホームページをUPしたのが、1997年の 8月9日の晩で、 FTPによる UPの仕方が分からなかったり、 大文字と小文字の区別をしっかりつけなかったために 思った通りの画面が出なかったりと 苦労しながら、 真夜中 (確か午前 3時頃) にUPし終えたのであった。

あれから 2年、皆様のお陰でここまで存続することができた訳で、この間に私が贔屓にしていた多くのホームページが 随分消えてしまったことを考えると、 我ながら良くもったものだ と感心する次第である。

そしてカウンターもお陰様で 30,000の大台に手が届きそうになりつつあり、スタート時点の不安や、先達のカウンター数を見て 遙かなる高みと思っていたことを思い出すと 隔世の感がある。

今では、私の拙いホームページにもリンクを希望して下さる方が増え、年功序列とはいえ、2年経てばベテランの域に達しつつあるな と少々自慢したい気持ちもあるくらいである。

そして、この 『山の雑記帳』 も もうすぐ 100話ということであるが、当初は書きたいことをそのまま書いていたのに、 この頃は少し格好を付け始めてしまったようで、 なかなか筆が進まない。
話題も 心に余裕がなくなるとなかなか見つからないもので、 近頃は本当に四苦八苦の状況である。

こうした中、 先日の後方羊蹄山 (シリベシ) の遭難事故については、 やはり一言申さざるを得ない気がする。

私の家で取っている朝日新聞には、『朝日旅行』 という新聞形式の旅行案内が時々挟み込まれており、その中には 『朝日登山ハイクの集い』 というコーナーもあって、 現在の百名山ブームを反映した 『日本百名山』 登頂を目的としたツアーもかなり企画されている。
こうした状況は他の多くの旅行案内にも見られ、 『百名山ツアー』 は恐らく今ちょっとした旅行会社の ヒット商品なのであろう。

私もなかなか手の届かない北海道辺りの山は、ツアーでも仕方がないかな などと思ったりしたこともある訳で、 金とヒマが許せば 一人で何もかも手配しなければならない単独登山よりは、 パッケージに組み込まれた方を選びたい気にもなる。

しかし、この今を盛りのツアーも、現状漏れ聞くに色々な問題を引き起こしているようである。
山小屋の占領とか、 団体が故の 『赤信号、皆で渡れば怖くない』 式の傍若無人さが目立つとも聞く。 幸い、私はそのような目に遭ったことはないが、 前に五竜岳から地蔵の頭への下山時、 細い山道を下山する 20人単位の団体に何回も遭遇して、 道を塞がれた状態になった時は 往生したものである。

このような団体ツアーの場合、その添乗員次第で団体の行動はかなり違ってくると思われ、添乗員がしっかりした リーダーシップと山のマナー・ルールを ツアーのメンバーに徹底すれば、 それほど問題になることはないと思われる。

ただ、添乗員や地元で合流するガイドにもピンからキリまであるようで、いつだったか 屋久島の 屋久島ガイド連絡協議会・準備委員会事務局 の方からメールを頂き、 私が屋久島の モッチョム岳を登った時のガイドのこと (ガイドが道を間違えた) について問い合わせがあったが、 その方の言われるには、 『屋久島のガイドはいまカオス状態にあって、 ピンキリ・玉石混交という状態』 なのだそうである。

ツアーの添乗員は、恐らく経費の関係から ツアーの直前に前もって当該の山に登っておくなどということはしないであろうから、 例え添乗員が登山のベテランであったとしても 必ずしも 100%信頼することができない場合もあるのである。

最近私が相互リンクを張らせて貰った小山さんの 『おじさん山歩』 の中に、利尻山登山記録が掲げられているが、 そこで出会った団体の話はその良い例であろう。
それは、 下山途中で 40数名ほどの団体とすれ違った時、 先頭のガイドらしき人に 「頂上迄あと、どの位ですか?」、 「全員頂上で休める広さはありますか?」 と問われて唖然としたという話なのである。 本当にゾーッとする話である。

さて、今回の後方羊蹄山の遭難事故であるが、新聞だけの情報では何ともいえないものの、旅行会社の商業主義が生んだ悲劇 とも言えなくもないような気がする。

4泊5日の日程の内、3泊が船中泊というものだそうで、一応 後方羊蹄山に登る前日はホテルに泊まったとはいえ、 慣れない枕、寝床の状況では なかなか身体にきつそうである。

そしてそこに登山者の年齢という問題が加わり、おまけに台風による悪天候、そして登山途中でダウンしたにも拘わらず 添乗員が気づかなかった (そのような旨が新聞には書かれていた) ことなど、 色々な点で問題があったようである。

そうそう、忘れてならないのは登る側 (ツアー客) に関わる問題である。
団体心理で、 体調が悪くても自分だけ止めると言い出せないとか、 折角金を払ってここまで来たのだから 身体に無理しても登るだとか、 年齢を偽ってツアーに参加するとか、 やはりモラルとマナーの問題は 両者にあるような気がする。

中高年の登山ブームと百名山ブームが合わされば、当然旅行会社においしい商売としてツアー登山企画が乱立する というのは分かるが、 企画する側もそれに参加する側も、 自然を相手にするということを忘れずに、 慎重になって欲しいものである。

自然はいつもおとなしいわけではないということを頭に入れて、少し大げさに言えば、登山はまかり間違うと、 命に関わるものであることを肝に銘じて企画し、 あるいは参加して欲しいものである。

色々なことでミソがついては (山小屋で声高に百名山自慢をする輩の話 等 も含め) 百名山に登ることが このままでは罪悪のようになってしまうからである。


素晴らしかった会津駒ヶ岳  1999.10.14 記

先週の土日プラス月曜日は、私も世間並みに 3連休のはずであったのだが、またまた仕事が飛び込んできてしまって 土曜日は出勤する羽目になり、 また、日曜日は仕事の残務整理と身体の休養と相成って、 結局山に行ける日は月曜日しかないことになってしまった。

そしてその月曜日は翌日からまた出勤であるからあまり無理をしたくなかったのであるが、8月20日の聖岳以来山に行っていない ということと、 また百名山も今年はまだ 3つしか登っていない ということから来る焦りがあって、 無理を承知での遠出山行を行うことにしてしまったのであった。 行き先は会津駒ヶ岳、 そう百名山である。

何回もこの雑記帳で愚痴っているように、未踏の百名山が残り少なくなると日帰りが徐々に苦しくなってくる訳で、 この会津駒ヶ岳も 私の住む横浜市瀬谷区から片道 300km超の走行が必要であり、 行程を考えると些かウンザリさせられるところがある。 とは言え、 やはり山に行きたい という気持ちの方が勝って、 とにかく行ってみることにしたのであった。

そうそう、この会津駒ヶ岳への日帰り登山を行うことに対し勇気づけをしてくれたのが、私と相互リンクを張って頂いている 野村 浩さんの会津駒ヶ岳登山記録で、 そこには千葉の柏から片道 6時間をかけてアプローチし、 日帰り登山を行ったということが書かれている。 やはり先達がいると心強い。

と言う訳で、11日の月曜日は 朝 3時に起きて暗いうちに登山口まで移動し、 登るための時間を極力稼ぐつもりでいたのだが、 前日子供達と 『インディペンデンス・デイ』 を夜 11時半まで見てしまったため なかなか寝床から出られず、 結局家を出発したのは 4時20分であった。

家から 5分の所にある東名高速道横浜ICから東名高速に乗り、そのまま首都高速、川口JCTへと快調に進み、 東北自動車道へもスンナリと入ることができたのであるが、 これも先日 日光の女峰山に行ったことで学習ができていたお陰であり、 道を間違えて東北自動車道に入るつもりが 関越自動車道に入ってしまったのは、 もはや過去の笑い話となりつつある (ここをクリック)

単調な東北自動車道での運転ではかなり眠気が襲ってきたものの、車を飛ばしに飛ばすことと、窓を開けて冷たい空気を車内に流し込むことで対処し、 何とか西那須野塩原ICを 6時半前に降りることができたのであった。

西那須野塩原ICからは塩原温泉郷へと向かい、朝早いために人もまばらな温泉街を通り抜けてから尾頭トンネルを抜け、 山王峠をトンネルで越えて福島県へと入った。
国道352号線を順調に進み、 あとは沼田街道へと合流して 檜枝岐村を目指すだけであったのだが、 順調に行っている時は得てして魔が差すもので、 ちょっとしたミスをしてしまった。

と言うのは、前を行く車が左折したので周囲を見渡すと、左:木賊温泉、檜枝岐、尾瀬と書いた私設標識があるではないか。
今走っている道をそのまま行けば 檜枝岐に着けるはず と思っていたのでおかしいとは思ったものの、 標識に嘘偽りがあろうはずもないと思い、 私も左折したのであった。

しかし道を曲がると急に人家が途絶えて寂しくなり、これはやはりまっすぐ行くべきだったのかと思い始めた頃、 木賊温泉の町並みが見えるようになり、 そこにはまっすぐ行けば檜枝岐村という標識が出ていたのであった。
これに少々勇気づけられて車を進めていくと、 道は再び人里を離れるようになって、 山道をドンドン登るようになり、 シマッタと思った頃にはもうかなりの距離を進んでいたために 引き返せない状態になってしまったのであった。

一応道路は幅が広く、きれいな舗装道だったことが唯一の慰めで、仕方無しに大きく時間をロスすることを覚悟して そのまま進むことにしたのであった。
道はドンドンと山の中へと入っていくこととなり、 不安もそれに連れて大いに増して来たが、 自分の迂闊さを罵り始めた頃、 ようやく峠を越えて下り行程となってくれたので やや気分も治まったのであった。

しかし、そこから本来の沼田街道に合流するまではまだまだ大変長い距離があった次第で、ようやく左、檜枝岐と書かれた標識のある T字路へ着いた時は 本当にホッとしたのであった。

檜枝岐村まであとどれ位かと思いつつT字路を左折すると、いきなり道路に架かる檜枝岐村の歓迎アーチが目に飛び込んできたので、 これまた一安心であったものの、 どの位時間をロスしたのか大変気に掛かるところであった。

しかし、後でよくよく地図を見てみると、長方形の対角にある地点に行くのに右回りで行くか、左回りで行くか の違いしかないことが分かり、 案外前後に車が 1台もおらずにスピードを出せた分、 木賊温泉経由の道は正解だったのかもしれない。

歓迎アーチをくぐるとすぐに右側に会津駒ヶ岳登山口の標識があり、その周辺に無理をすれば車を止めることができなくもなかったのであるが、 ここは一応国道沿いであるから何が起こるか分からなかったため、 当初の予定通り そこから車で数分のところにある 中土合公園駐車場に車を止めることにした。

中土合公園の駐車場はガラガラで、駐車スペースもキチンと仕切られていないから、後々満車状態になることを想定して 止める場所選びに苦労したが、 実際は 6時間後に戻ってきた時も 駐車場はガラガラの状態であった。

マイカー登山者のほとんどが、先程の登山口の標識の所から林道を進み、真の登山口 (滝沢登山口) 近辺に車を止めていたようであるが、 こんなに奥まで車で登ってきてしまうと 必然的に会津駒ヶ岳のピストン登山にならざるを得ない訳で、 これは大変もったいないことである。

この山の魅力を満喫するには会津駒ヶ岳の頂上を踏んだ後、中門岳を散策し、下山時に駒ノ小屋から大津岐峠を経由して キリンテに下りるべきであると思う。
このルートは 1年前に登った八幡平・裏岩手連峰を彷彿とさせ、 特に駒ノ小屋から大津岐峠への尾根道は いつも正面に燧ヶ岳の双耳峰が見えていて、 常に岩手山の雄大な姿を見ながらの縦走となった 裏岩手の縦走路と感覚がダブり、 大いに楽しませてもらったのであった。

燧ヶ岳のような形の良い山を見ながら紅葉の道を行くというのは、登山の醍醐味の一端を感じさせるものだと思うのであるが、 それを知らずしての 樹林帯の中のピストン登山にしてしまうのは ちょっともったいない気がする。

さて、 登山の詳細は近日中にUP予定の登山記録に任せるが、 周囲の木々が針葉樹に変わり、 やがてその背丈も低くなって 駒ノ小屋が前方に見え始めてからの景色は、 私の拙い筆では到底表すことのできない 素晴らしいものであった。

そこには茶色に色を変えた湿原と池塘が拡がり、そして所々に見られる赤や黄色の紅葉がこれにアクセントを加えて、 抜けるような青空のもと、 最高の気分の登山を味わうことができたのである。

登山の楽しみの 1つに、平地では見られない自然の作り出した芸術作品を見ることができるということがあるのだが、 今回の会津駒ヶ岳はまさにそれで、 神々の田圃と言っても良い光景は もっともっと世間に喧伝されて良いものである。

このところ、山に登っても大きな感動を得られることが少なく、一応それぞれの登山自体に満足してはいるものの、 心の奥底で何か小さな不満があったのであるが、 今回の会津駒ヶ岳は 本当に登山を趣味としていることの喜びを噛みしめることができ、 久々に快心のヒットを打てたという心境である。

無論、2ヶ月近くも山に登っていなかったための飢餓感がそのように思わせているのかもしれないが、それにしても 自然の芸術に 秋という絶好の舞台が加わり、 一番素晴らしい時期を楽しむことができたのは幸せであった。
そして、 やはり雲一つない空が 心を浮き立たせてくれたことも間違いない。 やはり登山は 快晴のもとに行うのが一番である。

ところで帰りは 3連休の最後ということもあって 大変な渋滞に出会ってしまい、 檜枝岐村から横浜の家まで 6時間半もかかってしまった。

渋滞にウンザリさせられるとともに、家に近づくに連れ、山での感動・興奮が冷め、徐々に明日からまた出勤という現実に引き戻されるていくのには 些か参った次第である。
しかし、 これも裏を返せば会津駒ヶ岳が大変素晴らしかった という証左であろう。
満足感の高い山行であった。


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