会津八一と行く奈良
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猿沢池

まず猿沢池の興福寺よりにある歌碑。

 わぎもこが きぬかけやなぎ みまくほり いけをめぐりぬ かささしながら

彼女と一緒に来るはずだった奈良に、一人で来て雨の中を歩いているのである。 このきぬかけやなぎは猿沢池のほとりにある。
聞くところによると、この失恋で八一は一生結婚しなかったのだとか。
猿沢池は、周囲約300mある。興福寺の放生池である。
興福寺の南に三条大路をはさんであり、奈良観光のシンボルである。
池畔の枝垂れ柳越しに興福寺五重塔が見える。
これは昔も今も変わらぬ絵柄である。
池には、たくさんの鯉と亀がある。毎年4月17日興福寺の放生会には鯉が放たれるという。岸に立てば餌がもらえると思うのか、カメと鯉が寄ってきて観光客を楽しませる。
池の北西に采女神社がある。
この池は古くから著名で、多くの伝承がある。
『大和物語』や『枕草子』などの采女の話は、平城天皇の寵愛を受けた采女が池に身を投げたという話は有名である。帝はそれを知り、この池の畔に行幸した。そこで人に歌を詠ませた。

 
わぎもこのねくれた髪を 猿沢の池の玉藻とみるぞかなしき

と詠んだのは柿本人麻呂。帝は、

 猿沢の池もつらしな吾妹子が 玉藻かづかば水ぞひなまし 猿沢池

と詠んだ。そしてこの池に采女の墓を造らせて、帰ったのである。
さらに猿沢池には龍が棲むという伝説もある。
謡曲『春日龍神』は、

「龍神は猿沢の、池の青波、蹴立て蹴立てて、其の丈千尋の、大蛇となって、天にむらがり、地に蟠りて、池水を覆して、失せにけり」

と結ばれる。春日龍神は水神として深く広い信仰を集めてきたが、その舞台が猿沢池であり、さらに春日奥山の竜王池であった。
入水した釆女は龍神によみがえり、天へ翔る。様々なイメージがわいてくる。
芥川龍之介は、「宇治拾遺物語」を下敷きにし、その物語ではとうとう昇らなかった竜を、「竜」という小説では、竜を天に昇らせた。
中秋の名月を選んで催される釆女祭では、龍体の船に花扇をかざす釆女が池をめぐる。猿沢池
また猿沢池には7不思議がある。

 ・澄まず
 ・濁らず
 ・出ず
 ・入らず
 ・蛙はわかず
 ・藻は生えず
 ・魚が七分に水三分

で、そういえば蛙の鳴き声がしないし、特段きれいともいえないが汚くもない水である。確かに不思議である。
猿沢池の名前の由来は、インドのヴァイシャーリー国の猴池(びこういけ)から来たものと言われている。猴の字義としては、尾の短い種類のサルをさしている。
猿沢池 猿沢池 猿沢池 猿沢池
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興福寺
興福寺境内に行った。

はるきぬと いまかもろびと ゆきかえり ほとけのにわに はなさくらしも

それにしても、明治の人は廃仏毀釈とはいえあの阿修羅像や五重塔を売りに出したものだ。 猿沢池の景色に、五重塔がないとすれば、奈良の観光地としての魅力も半減しているだろう。 夏目雅子に似た、阿修羅像も目にはできなかったのである。

会津八一は新潟の人なので、この碑の除幕式には参加400人のうち300名が新潟の人だったそうである。
興福寺は、猿沢池から5重の塔を目指して52段の石段を登る。
石段は幅広で歩幅もゆったりしている。現在の52段ができたのは明治31年らしい。
この石段が、市街地と興福寺を分けている。
やはり五重の塔が圧巻である。何度見てもいい。

興福寺は、法相宗三大本山の一で、藤原不比等が和銅3年(710年)厩坂寺(ウマヤザカデラ)をここに移したことで始まる。東大寺と対峙して2大勢力となり、堂塔も100を超えていたという。
中世以降は僧兵も擁し、山城、大和、近江、摂津、伊賀の5国にわたってその権力を握ったが、享保2年(1717年)金堂、西金堂、講堂、南円堂が罹災して伽藍の中枢を失い、明治の廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ衰退していったのである。
この奈良のシンボルである5重の塔も250円で売りに出されたという。当時の250円は今でいうと250万円くらいというから、いかにも安い。しかも買い主は、塔を焼いて金物だけを採る気でいたという。興福寺
明治の西洋かぶれの機運が貴重な文化財をないがしろにして、多くの財産を失った。幸いここ興福寺の五重の塔は商談が成立せず、国宝として奈良の、そして日本のシンボルとしていま奈良にある。
1187年に建立された食堂は明治維新以後もあったが、1874年に壊されたという。
こうした文化財がなくなるのを心配するということは、単なる感傷であって、それらの存在が日本の文化財としてごく普通の存在として、歴史を引き継いでいかなければいけないと感じる。
そのことは、これらの歴史的建造物に対し、特別なものではない親近感でもって接することになる。こうしたすばらしい建造物が、ごく普通に存在する日本という国を、誇りとしたいのである。
権力や政争の歴史は別にして、日常的にそれらの建造物から学ぶべき歴史は大きいものがある。それらを無意識に感じるからこそ、現在でも人気のあるスペースとなっているのではなかろうか。
ここ興福寺の国宝館は、食堂の跡にたてられているが、あまりにも有名な阿修羅像がある。
夏目雅子さんに似た、愁いを帯びた表情は何度見てもすばらしい。
この阿修羅像をはじめとして、乾漆八部衆立像(かんしつはちぶしゅうりゅうぞう)の八体の仏像群は皆個性的で見飽きない。よくぞ残ったという思いである。

正岡子規が、「秋風や囲いもなしに興福寺」「浴室の外に鹿鳴く興福寺」と詠っているように、興福寺の境内は判然とせず、国宝館をでて気がつくと奈良公園である。


(堂跡から)
興福寺
(この繊細さは日本ならでは) 
興福寺
(南円堂) 西国33所へ
興福寺
(北円堂)
興福寺
(昔も今も同じ光景)
興福寺
(ライトアップ。いいなー)
興福寺
(境内で憩う鹿)
興福寺
三重の塔)
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 東大寺(金堂)

東大寺の南大門をくぐり、100mほどいったところに碑はある。
ここ東大寺には、いろんな国から来ているのが、会話がさっぱり分からない人がいることでわかる。
東大寺は何度来てもいい。よくぞこんな大きな木造建造物を建てたと感心する。
木造建築に関しては、現在よりも当時の大工さんの方がレベルが高かったと思う。

東大寺の場合は、728年、聖武天皇が皇太子供養のため建立した金鐘寺がその始まりといわれる。
華厳宗大本山で、741年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じ、さらに743年になり聖武天皇が大仏建造を命745年に造営が開始された際、東大寺となったという。
大仏は752年に開眼供養が行なわれたが、大仏殿や講堂などの伽藍すべてが完成したのは789年になる。
実に44年かかったわけである。その後1180年に平重衝によって、1567年には松永久秀によって伽藍が焼失。
現在の伽藍は1709年に再建されたといわれる。
要するに、東大寺も聖武天皇の号令により、建立されたもので、食うものもない民衆にとっては、ありがた迷惑以外なかったのではなかろうか。
東大寺を建てるために、全国各地からやってきた大工さんたちが、技術を伝えあったであろう。
そういう面では大きな効果があったと思う。
会津八一の碑は、そんな建物の前にある。

おほらかに もろてのゆびを ひらかせて おほきほとけは あまたらしたり

大仏は、動かないけれど世界を見てるのだろう。
開いた手を拳にして、悪いことをする人間をしかってやってほしいね。
八一は、東大寺で詠っている。
東大寺  あまたたび このひろまへ に めぐりきて 
   たちたる われ ぞ しるや みほとけ

 びるばくしゃ まゆね よせたる まなざし を 
   まなこ に み つつ あき の の を  ゆく


 おほてら の ほとけの かぎり ひともして 
   よる の みゆき を まつ ぞ ゆゆしき

 おほてら の には の はたほこ さよ ふけて
   ぬひ の ほとけ に つゆ ぞ おき に ける

「大仏さま」は、毘盧遮那(びるしゃな・ヴァイローチャナ)仏である。
その意味は、知恵と慈悲の光明をあまねく照らし出されている仏ということで、華厳経の本尊である。
天平15年(743年)に、聖武天皇の詔によって鋳造され、開眼法要は9年後の天平勝宝4年の4月に行われた。
工事に携わった人の数は延べ260万人余といわれ、鋳造に使われた銅だけでも499トン、メッキに使われた金は440Kgで、日本国中から集められたといわれる。
今これを造るとすれば、いくらくらいかかるか想像も付かない。
右手は胸のあたりに上げて、前方に掌を向ける施無畏印(せむいいん)、左手は膝の上で掌を上に向ける与願印(よがんいん)の説法の形である。
また、台座の蓮弁には、宇宙のありさまを描いた壮大な蓮華蔵世界の毛彫図があり、これもすばらしい。華厳経の説く「悟りの世界」を絵に表したということである。
なお、大仏像は、高さ14.98メートル、目の長さ1.02メートル、耳の長さ2.54メートル、顔の長さ5.33メートル、鼻の高さ0.50メートル、台座の高さ3.05メートル。重さは実に380トンと推定されている。
これだけのスケールのものを、天平の時代に作り上げたということ自体驚嘆に値する。

東大寺の国宝には、
南大門 ・二月堂・法華堂(三月堂) ・金堂(大仏殿) ・転害門 ・鐘楼 ・開山堂 ・本坊経庫 ・執金剛神立像 ・良弁僧正坐像 ・俊乗上人坐像 ・梵天・帝釈天立像 ・不空羂索観音立像 ・木造四天王立像 ・金剛力士立像 ・日光仏・月光仏立像 ・四天王立像 ・金剛力士立像 ・誕生釈迦仏立像・潅仏盤 ・僧形八幡神坐像 ・盧舎那仏坐像等がある。 
まだ見ていないのもたくさんある。
奈良通いはまだまだ時間がかかりそうである。
東大寺 東大寺 東大寺 東大寺
東大寺 東大寺 東大寺 東大寺
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飛鳥園

歌碑には、

 かすがの の よ を さむみ かも さをしか の
      まち の ちまた を なき わたり ゆく


意味は、「春日野の夜を寒みかもさ牡鹿の街の巷を鳴き渡りゆく」ということである
入江泰吉先生の旧邸が改修されて、入江泰吉旧邸として一般公開されるということで、その内覧会に行ったのだが、その内覧会の前に時間があったので以前から行きたかった飛鳥園を見学した。










飛鳥園は入り口は近代的な店舗で、古美術写真の開拓者・ 小川晴暘先生やその三男の小川光三先生の写真がたくさん飾られてあった。
八一の碑は、店の奥の扉を開け中庭に出るとあった。
飛鳥園の碑は、もともと八一の定宿であった日吉館にあったものを、日吉館の閉館にともなって、隣の飛鳥園に移したとのである。
碑は二基あり、字がわかりづらい。
歌は同じもので、日吉館の女将さんが一つめのが気に入らず新たに作り直させたので、二つある。
中庭には茅葺きのこぢんまりした建物があり、中は展示スペースになっている。

(茅葺き屋根の展示室がある)

(すばらしい仏像写真が展示されている)

(展示室にあった往時の飛鳥園)