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春日大社 |
不安定な天候の時期なので、心配していたが、春日大社神苑についた頃に大雨となった。 D70を濡らすに忍びないので、ペンタックスを取り出した。 ![]() これは3mまで潜れる防水カメラである。 いくら濡れてもいい。 しかし写りはD70にはほど遠い。とにかくレスポンスが悪いので、暗いところではぶれる。 ファインダーがなく、液晶画面でしか確認できず、手を前に出さなくてはいけないのがぶれる原因である。 ファインダーがあれば、顔にくっつけることができるのでぶれないのである。 さて、八一の碑はひっそりとあった。 かすがのに おしてるつきの ほがらかに あきのゆうべと なりにけるかも おしてるつき、とは、照り輝く月のことであるらしい。 碑の近くの、ススキの根本には南蛮ギセルがたくさん咲いていた。 暑かった夏ももう終わりに近い。 春日大社は幾度となくいっているが、本殿へはあまり入ったことはない。 外からでもその由緒正しいたたずまいは、すばらしい。ことに朱色が昔のまま塗り替えられているので、神社の威厳と華やかさをあわせて見るものを楽しませてくれる。 春日大社は、平城京の守護の為に創建されたもので、本殿向って右(東)から、第一殿 茨城県の鹿島神宮から迎えられた武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、第二殿 千葉県の香取神宮から迎えられた経津主命(フツヌシのミコト)、第三殿 天児屋根 ![]() 奈良時代の神護景雲二年(768年)、現在地に四所の神殿が創設されたのが始りという。 藤原氏の氏神として有名。境内に含まれる主なものは、標高295mの御蓋山全域の山林部と、社頭から西方、飛火野、雪消の沢一帯の芝原、若宮おん祭の御旅所から一の鳥居に至る参道の地帯を含む平野部で、これら全域は昭和六十年に国指定史跡となっている。 境内では、文化の日に、普段接することの少ない日本の古典芸能である雅楽の演舞会がある。 ここで雅楽に関する理解を深めることができる。 演舞は、萬葉植物園の中央にある池の水面に設置された浮舞台において、奈良時代より絶えることなく春日大社に伝承されてきた「管絃」および「舞楽」の数々が、春日古楽保存会・南都楽所により奉納される。 奈良時代の雅がよみがえる。 咲いていたナンバンギセル(南蛮煙管) ススキやミョウガ、サトウキビ等の根に寄生する1年草で春日大社神苑に咲いていた。 ![]() 神苑の入り口には万葉集ゆかりの花ということで、 「南蛮ギセルが咲いています」と看板があった。 和名の南蛮煙管の名はその形がにていることからである。 万葉集に出てくる「オモイグサ」はこの南蛮ギセルである。 「思い草」とはいい名前を付けている。 ここ春日大社には、約300種の萬葉植物を植栽する、 我国で最も古い萬葉植物園がある。できるだけ自然のままに生かし、 参拝者には『春日大社神苑 萬葉植物園』 として親しまれている。 約3ヘクタール(9,000坪)の園内は、萬葉園・五穀の里・ 椿園・藤の園に大きく分けられています。 萬葉園の中央には、萬葉時代の庭園を思わせる造りの池がある。 その浮舞台で、春秋2回、奈良時代から絶えることなく、 絢爛豪華な王朝の風情も伝承されてきた雅楽・舞楽が「萬葉雅楽会」として奉納されている。 さらに春日大社の社紋が藤の花であることから、『藤の園』が造られ、20品種・ 約200本もの藤の木が植栽されている。 名物の藤の開花期間は、通常4月の末頃から5月上旬頃までであるが、ちょうどそのころに行ったことがないので次は是非見たいものである。早咲きの開花から遅咲きが終わるまで約2週間しかなく、すべての藤が一斉に咲き揃うことはなくゴールデンウィーク頃に花が満開になることが多く、大層な人出となるという。平日に行かなくてはいけない。 園内には、その香りが有名な中国の「麝香藤(じゃこうふじ)」やピンク色の濃い「昭和紅藤」など珍しい藤が多い時期は早咲きの頃。長い房の藤や「八重黒龍藤」などの咲き始めるのは、期間の中頃〜終盤になるという。 春日大社の燈籠は、石燈籠約2000基、釣燈籠約1000基の合計約3000基あるという。 中でも全国で2番目に古い石灯籠といわれている伝関白藤原忠通奉納の「柚木燈籠」(1136年)や藤原頼通の寄進と伝わる「瑠璃燈籠」(1038年)をはじめ、平安末期より今日に至るまで、その大半は春日の神を崇敬する人々から、家内安全、商売繁盛、武運長久、先祖の冥福向上等の願いをこめて寄進されたもので、特に室町末期から江戸時代にかけては一般庶民や春日講中からのものが多いといわれる。 ![]() 昔は燈籠奉納時、油料も納められ、その油の続くかぎり毎夜灯がともされていたというが、明治時代に入り神仏分離や神社制度の変革で、一旦中断したらしい。 節分の夜は明治21年、中元の夜(8月15日)は昭和4年に再興され、現在の万燈籠の形となったという。 室町時代や江戸時代に、奈良町の住人が春日参道で、雨乞い祈祷として万燈籠を行っていた。 記録には、興福寺大乗院の尋尊僧正の日記で、今から500年余り前の文明7年7月28日、「祈雨のため、南都の郷民、春日社頭から興福寺南円堂まで、燈籠を懸く」とあり、当時は木の柱に横木をつけ、それに行燈か提灯の様な手作りの仮設の燈籠を懸け行っていたと考えられている。 神様に様々な祈願をすることが万燈籠であるらしいが、確かにたくさん点された灯籠の中を行くと、何か異界に踏み込んだ気がする。 |
![]() (笙、篳篥、太鼓) |
![]() (さまざまな所作には訳がある) |
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![]() (ちょうど結婚式があった) |
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![]() (藤蔓が上に延びている) |
![]() (やはり鹿が人気の的) |
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新薬師寺 |
新薬師寺はよく行く。
高畑町にあり、近くに入江泰吉写真美術館や白毫寺があるので、ちょうどいいのである。 ![]() 奈良公園からささやきの小径をぬけ志賀直哉旧邸を見ながら歩くと楽しい。 奈良独特の軒の低い家並みが続いている。 いかにも奈良らしい町の端の方にある。 八一は、 ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなはす とも あらぬ さびしさ と、詠っている。 新薬師寺で好きなのは、本尊の薬師如来のやさしいまなざしもさることながら、十二神将がその迫力で、いつ見てもすばらしい。 それらを納める本堂も、日本らしい繊細な建物で、見飽きない。 十二神将については、堂内では写真に撮れないので、近鉄奈良駅にかなり精巧な複製があるので、それを写真に撮った。 新薬師寺は高畑町にあり、古来東大寺の末寺である。西の京にに薬師寺があるので、新をつけて新薬師寺としたが、関連あると思っている人もいるが、全くの別寺という。 聖武天皇の眼病平癒のために、天平19年(747年)光明皇后は建立したという。 天平勝宝2年(750年)には僧侶が100人を超える大寺となったが、宝亀11年(780年)雷により金堂、講堂、西塔をなくした。唯一残っているのが現在の本堂である。 ![]() 鎌倉時代に明恵上人が復興し現在の新薬師寺として残っている。 本尊薬師如来を取り囲んで守っている日本最古最大の十二神将は、本尊よりも古いものではないかということである。 建物では、入母屋造りの本堂が奈良時代後期のものとして国宝である。 同じく入母屋造りの鐘楼と切り妻造り四脚門の南門と東門は鎌倉時代の再建である。 方一間の地蔵堂は棟木に文永3年(1266年)の墨書がある。いずれも重要文化財である。 彫刻では、本尊の木造薬師如来坐像(平安時代初期)、周囲を守る粗造の十二神将立像とともに国宝である。 十二神将は新薬師寺の南東にあった岩淵寺から移されたと言われている。 このほかにも、木造不動明王、木造二童子立像などが重要文化財である。 残念のは、これらのいずれもの像より古い、香薬師があったが盗難にあって、そのまま発見されていないことである。 そのほか本尊の胎内から見つかった法華経八巻オコト点が就く最古の経典で、これも国宝である。 昭和59年(1984年)本堂安置の影清地蔵尊(鎌倉時代)から裸形の地蔵尊が発見された。 寺は西国薬師第六番札所である。 八一は、香薬師を見て、 みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の やまとくにばら かすみて ある らし と詠んでいる。無くなったままの香薬師は、今どこにあるのだろうか。 奈良時代前期と思われる形式で、傑作の名が高いのだが、昭和18年(1943年)に盗難にあったまま帰ってきていない。 たびびと に ひらく みだう の しとみ より めきら が たち に あさひ さしたり とも詠んでいる。八一は、高畑町の歌もある。 たびびと の め に いたき まで みどり なる ついぢ の ひま の なばたけ の いろ かうやくし わが をろがむ と のき の ひくき ひる の ちまた を なづさひ ゆく も さらに春日山の南、新薬師寺の東に高円山という丘があるが、かつては聖武天皇の離宮があったといわれる。 それを八一は、 あきはぎ は そで には すらじ ふるさと に ゆきて しめさむ いも も あら なく に と詠んでいる。 |
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秋篠寺 |
秋篠寺は特定の宗派に属さない真言法相兼学の寺である。 光仁天皇の勅願により宝亀7年(776年)に僧正善珠大徳が開いたという。 ![]() 七堂伽藍がある大寺だったが、保延元年(1135年)の火災で講堂以外をことごとく焼失した。後に再建したが、兵火を受けてすべてなくなった。 現在の本堂は火災を免れた講堂を改築したものといわれる。鎌倉時代は南に接する西大寺と対峙して寺勢を保ち、香水閣は明治4年(1871年)まで禁裏御香水所として毎年正月に行われる御修法の献泉を努めた。 建築では本堂が国宝。彫刻では、本尊の薬師如来坐像と脇侍の日光・月光両菩薩。伎芸天立像、帝釈天立像、地蔵菩薩立像、大元堂の秘仏である厨子入別尊大元師明王立像がそれぞれ重要文化財である。 しかしこの寺の最大の魅力は、伎芸天である。 伎芸天立像は、頭部が脱活乾漆で天平時代の作で、木造の体部は鎌倉時代の作と言われているが、慈愛に満ちた表情と腰のひねりとわずかな腰のひねりがすばらしい。 興福寺の阿修羅像もいいが、この伎芸天もそれに負けないくらいにいい。 2012年3月10日に訪れたが、梅は咲いているが、あとの花はまだ春を迎える準備をしている最中であった。 小振りだがいいお寺で、伎芸天に会える楽しみがある。 ![]() 八一はここで、 あきしの の みてら を いでて かへりみる いこまが たけ に ひ は おちむと す と詠っている。この歌が、歌碑になり山門からすぐのところにある。 また、 たかむら に さし いる かげ も うらさびし ほとけ いまさぬ あきしの の さと と詠っているが、このころは仏像のほとんどを博物館に供して本堂内には仏がなく寂しかったのである。 まばら なる たけ の かなた の しろかべ に しだれて あかき かき の み の かず 当時は赤い実をたわわに実らせた柿の梢があり、晩秋の景観を形作っていたのである。 西行も、 秋篠や 外山の里や 時雨らむ 生駒の岳に 雲のかかれる と詠っている。 歌碑は八一のほかに、川田順の、 諸々の み佛の中の 伎芸天 何のえにしぞ われをみたまう 吉野秀雄の、 贅肉なき 肉置の 婀娜に面も み腰も ただうつつなし (あまりじしなきししおきのたをやかにももみこしもただうつつなし) などの歌碑がある。 |
![]() (護摩堂) |
![]() (苔むした境内) |
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![]() (十三社) |
![]() (役行者像) |
![]() (鐘楼) |
![]() (開山堂) |
![]() (川田順の歌碑) |
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![]() (吉野秀雄の歌碑) |