会津八一と行く奈良
■ホームページに戻る
■僕の細道に戻る
■奈良歴史散歩
★このページ  ★ほかのページに移る
■喜光寺 ■猿沢・興福寺・東大寺・明日香園
■海龍王寺 ■春日大社・新薬師寺・秋篠寺 
■法華寺 ■薬師寺・唐招提寺・中宮寺・法輪寺 
■般若寺  
喜光寺

歌碑には、
喜光寺
 ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に 
     きしや の ひびき の ゆき かへり つつ   


「一人来て悲しむ寺の白壁に汽車の響きのゆきかへりつつ」ということで、一人やってきて、この寺の荒れ果てた様を悲しんでいる私に汽車の響きが、寺の白壁にゆきかえりする。という意味である。

八一が訪れた頃は荒廃しており、荒れ果てる寺の現状を憂う心を素直に表現し、悲しみを増幅させる汽車の響きを、白壁と
対置させている。
八一の繊細さが伺える。
喜光寺は薬師寺唯一の別格本山で、天平時代に東大寺の大仏建立の勧進をされたことでも有名な行基菩薩が養老5年(721)に創建したお寺という。
行基菩薩は東大寺大仏殿を建立する時、喜光寺の本堂を参考にしたと伝承され、現在も本堂は「試みの大仏殿」と呼ばれている。
奈良検定の試験問題にも出た。

2014年11月23日に訪問したが、寺内はよく手入れされていた。
本堂は消失後室町時代に再建されたもので、近年修復したらしく、荒廃の面影はない。
堂内には丈六の阿弥陀如来座像があり脇侍には、観音と勢至(せいし)菩薩を両脇侍がある。
喜光寺
(東大寺大仏殿に似ている)
喜光寺 喜光寺 喜光寺
(石仏群と八一の歌碑)
喜光寺
(阿弥陀如来と両脇侍) 
 喜光寺
(本堂の壁面を彩る彫刻)
 喜光寺
(行基座像)
 喜光寺
 ▲トップに戻る   
海龍王寺
ここは平城京跡から近く以前から行きたかったのだが、なかなかいけずにいた。
2011年11月20日にやっと行けた。
表門も小振りなお寺で、境内もそれほど広くない。
それでも国宝がある。
当寺の本尊は、光明皇后が自ら刻まれたといわれる十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立された。
西金堂の中には、国宝の五重の塔がある。
ここの八一の碑もわからずに、入り口の受付で場所を聞いた。椿の木に隠れて碑はあった。

 しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの はしらのまそほ かべにながれむ

八一は「しぐれ」という言葉を「暢びやかなるこの語の音調を好めり」と書くくらいに気に入っている。
海龍王寺は、天平3年(731年)光明皇后の立願で建立したといわれる。
そして天平7年(735年)に、僧侶玄ムが5000余巻の経論を携えて日本に帰ってきてここに住んだ。寺号は、玄ムが渡航中に海龍王経を唱えて九死に一生を得たことにちなんでいるという。光明皇后の隅、あるいは藤原不比等邸の隅にあたることから隅寺とよばれた。
境内からは飛鳥時代の瓦が出土したことにより、創建が平城京の造営よりも古い可能性もある。延文元年(1356年)の「南都海龍王寺中伽藍坊室の絵図」には、三棟の金堂や講堂・食堂・東西両室・一切経堂などがかかれているという。
現在残っている堂塔では、西金堂と経蔵が重要文化財で、西金堂に置かれている五重小塔は国宝である。
本尊の十一面観音と文殊菩薩立像がいずれも鎌倉時代のもので、重要文化財である。
(2011年11月20日)


(大きくはないがいいデザインである)

(国宝の五重の小塔。立派)

(山門前にある説明板)

(山門)

(築地塀)

(参道から)

(西金堂。重要文化財である)

(朱塗りが残っている)

(案内所の脇にある地蔵さん)
 

この日びっくりがあった。海龍王寺を見終わり、法華寺に向かったが、なにやら物々しい雰囲気で、空にはヘリコプターが2機行ったり来たりしていた。
近くにいた人に聞くと、なんと皇太子が法華寺に来ているという。
「もうすぐこちらにお出でになりますのでロープの中に入って待っていてください」ということであった。

皇太子はにこやかに出てきて、気軽に近くにいた人に順番に声をかけていた。
わたしの前近くなって黒い車に乗り込み走り去っていった。
何年ぶりかで見る皇太子は、顔色の艶もよく元気そうであった。
隣の人が、
「雅子様も来てくれたらよかったのにね。皇太子一人では寂しいでしょうね」といった。
「そうですね」私も同感である。

▲トップに戻る    
 法華寺

法華寺は大和三門跡に数えられるという、尼寺である。大きくはないが、品格を感じる。
八一の歌碑は山門を入ってすぐの、右手にある。
法華寺は、もと藤原不比等の住居であったものを、光明皇后が総国分尼寺として建立した。法華滅罪の寺と称し、七堂伽藍を備えて隆盛を極めたが、平安遷都とともに衰え、豊臣秀頼の母淀君によって現在の構えに整えられたという。

本堂は桃山時代に再建された和様の仏殿で、秘仏なので見ることはできないが、木造十一面 観音立像(国宝)、乾漆維摩居士坐像(重文)などが安置されている。光明皇后をモデルに刻んだといわれている十一面観音の本物を見たいが、お前立ちを見るだけである。

年に何回かは開帳するらしいので、一度見てみたいものである。
庭園は江戸時代初期につくられたとされる。

横笛堂は滝口入道との悲恋の物語で有名な横笛が出家後に住んだといわれるもの。護摩の灰を粘土に混ぜて形を作り、文様彩色を施した愛らしい犬形のお守りはよくテレビなどでも紹介されている。

 ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に 
  あひ みる ごとく あかき くちびる

 (2008年9月14日)
法華寺は、正式には法華滅罪寺という。中宮寺・円照寺とともに、大和の三大門跡尼寺の一つである。藤原不比等の邸宅を光明子が皇后宮とし、天平17年(745年)に宮寺となった。
総国分尼寺として諸国の国分尼寺を総括していた。

延暦元年(782年)までに7堂伽藍がそろい、大寺院の体裁が整った。しかし平重衡(たいら の しげひら)の南都焼き討ちで大被害を受けた。
その後重源が堂塔を再建した。
鎌倉時代に西大寺の叡尊も復興に尽力したが、室町時代の応永15年(1408年)西塔が焼失、明応8年(1499年)と永正3年(1506年)に兵火を受け、再建された金堂も慶長元年(1596年)の大地震により倒壊。
慶長6年(1601年)に淀君が奉行の片桐且元に建てさせた本堂・南門・鐘楼は現存して重要文化財に指定されている。
当初からの唯一の建物であった東塔は宝永4年(1707年)の大地震で倒壊してしまったという。

彫刻は、壇像彫刻の最高傑作といわれる本尊の木造11面観音立像が国宝である。
観音像は光明皇后を写したものといわれている。
寺宝には奈良時代の絹本著名阿弥陀三尊及童子像(国宝)がある。

からふろは光明皇后は仏に誓って大願を起こし、浴室を建て千人に湯浴みを施し、皇后自らがその垢を流して功徳を積もうとした。999人を経て1000人目になったとき、全身出来物ができ臭いのすさまじい人が、口でもってその膿汁を吸い取ってくれという。皇后は意を決してその願いを聞き取り終わったとき、その人の全身が光り輝き、自分は「阿悶如来(アシクニョライ)」であると告げて昇天して去っていったという。

 ししむら は ほね も あらわに とろろぎて 
    ながるる うみ を すひ に けらし も

 からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の 
    うへ に うみ に あきたる あかき くちびる

 からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を 
    ひと に すはせし ほとけ あやし も


と八一は詠んでいる。


(お前立ち)

(山門)

(護摩堂)

(本堂)

(鐘楼)

(横笛堂)
▲トップに戻る    
般若寺

桜井市に宿泊し、チェックアウトをしているときはみぞれが降っていた。
何となく気勢がそがれたがせっかく奈良まで来ているので、どこかへ行こうとした。般若寺
屋根の下ということで、東大寺ミュージアムを見学に行くことに決め奈良市内に向かった。
ところがうれしいことに一気に晴れてきて、朝のみぞれが嘘のような青空に変わってきた。
そこで般若寺に向かった。

般若寺へは古風な建物が多く残る、いわゆる奈良坂を登っていく。
まず国宝の楼門が迎えてくれる。
般若寺境内の八一の歌碑は、般若寺そのものを歌った歌ではないが、春の訪れをうまく表現している。

  ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
       こさめ ながるる はる は き に けり


2011年の秋にここに来たのだが時間がなく入らずじまいであった。そのときはコスモスがよく咲いているのが外からでも見えた。
そして今回(2012年1月4日)は水仙が満開であった。
花の寺として有名だが、寺内はまだまだ整備の途中という感じがした。受付の女性が一生懸命庭の手入れをしていた。人が来ると手を止め入場料を取りに受付に戻っていた。   

  (2012年1月4日)
般若寺 般若寺 般若寺
(かんまん石)
 般若寺
(楼門。国宝である)
般若寺  般若寺
(水仙が咲き乱れている)
般若寺
(薬師如来石像。秋はコスモスに) 
般若寺
(たくさんの石仏がある)