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薬師寺 |
ここ薬師寺へは3回ほど参詣した。 初めての時は、平山郁夫さんの壁画を見に行った。その迫力と色彩の鮮やかさに鳥肌が立ってしまったのを覚えている。2回目(2011年10月31日)は、ライトアップをしているということと八一の碑を探すのをかねて行った。 ![]() 八一の碑は暗くて探すことができなかったが、ライトアップされた金堂や2つの塔を見て楽しんだ。 3回目(2012年7月17日)は薬師寺主催のまほろば塾を聴講に行き、終了後天気もよく時間もあったのでじっくりと観察した。薬師寺は手入れもよく天平の大寺にふさわしいたたずまいを保っている。 八一の碑はすぐに見つかった。西塔の横に立派な石で結構な存在感で建っていた。 すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の ひま にも すめる あき の そら かな 薬師寺の建立は、天武天皇の8年(680年)皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って薬師如来を祀る寺を藤原京に建立をはじめたがその完成を見ることなく朱鳥元年(686年)に崩御したため、代わって持統天皇が高市郡木殿に寺院の造営を継続した。 ![]() 木殿のもともとの二つの塔は、承暦3年(1079年)京都の法成寺に移設したが、永久5年(1117年)両党ともに焼失したという。 東塔は国宝である。日本の古代建築を代表する建築物であり、三重の塔であるが六層にも見える。 笛吹童子や飛天の透かしを持つ相輪の水煙も芸術的価値が高い。 長屋王の妻である吉備内親王が、元明天皇のために建てた東院堂も国宝である。 彫刻では、金堂の本尊である銅造薬師如来座像、日光月光両脇侍の薬師山尊像、東院堂に祀られれる銅造観音菩薩立像が国宝である。 絵画では、宝亀3年(773年)の制作とされ、光明皇后の画像とも伝えられる吉祥天画像や玄奘の弟子で法相宗の開祖とされる慈恩大師の肖像(平安時代)が国宝である。 東塔の後ろの回廊でなにやら鳥の鳴き声がすると思ったら、雀の雛であった。 巣から落ちたのか飛び出しては見たものの巣に戻る羽の力がないのか、親を呼ぶようにチュンチュン鳴いていた。 八一の歌に、 くさ に ねて あふげば のき の あおぞら に すずめ かつ とぶ やくしじ の たう というのがある。 |
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![]() (金堂ライトアップ) |
![]() (大講堂) |
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![]() (東塔) |
![]() (東塔ライトアップ) |
![]() (水煙) |
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![]() (西塔) |
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![]() (二天王像) |
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唐招提寺 |
唐招提寺へは、琵琶湖で三が日を過ごした1月4日であった。
![]() ぐるりを金網が守っていた。エンタシスの柱に触れたかったがかなわなかった。奈良の寺や歴史を知るにつけ、当時は我々が思っていた以上にダイナミックに国際交流をしていたことがわかる。今よりお互いを吸収しあっていたのではないかと思う。 境内は木が多くゆったりしている。さすがの風情である。 八一が、 おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ と、詠った気持ちがわかる。 新宝蔵で天平の甍を彷彿とさせる鴟尾の現物が置かれている。この新宝蔵には様々な寺宝が並べられ見応えがある。 (2009年1月4日) 唐招提寺は、天平宝字3年(759年)に鑑真和上が新田部親王旧宅の平城右京五条二坊の律宗の道場を開いたことに始まる。鑑真が天平宝字7年(763年)に76歳で入寂したのち、弟子の法載・義静・如法・豊安らが意志を継ぎ、平安時代の弘仁元年(810年)までに南大門・中門・東塔・金堂・講堂・鐘楼・経楼・食堂・羂索堂・三面僧房・温湯室・政所屋・炊殿・西井殿・甲倉などが揃った。 鎌倉時代から度重なる被害を受け、慶長元年(1596年)の大地震で多くの堂宇が倒壊したが、徳川綱吉と母桂昌院の庇護により復興している。 ![]() 建物では、代表的な天平建築である寄せ棟造りの金堂。講堂、宝蔵と経蔵は校倉造り。仁治元年(1240年)に再建された鼓楼が国宝である。東室、礼堂、御影堂は重要文化財である。 彫刻では、本尊の乾漆留舎那仏坐像、木心乾漆千手観音像、木心乾漆薬師如来立像、木造梵天・帝釈天立像、木造四天王立像、乾漆鑑真和上像が国宝。木造弥勒菩薩坐像、木像持国天・増長天立像が重要文化財である。 行事は、毎年5月19日に行われる鼓楼での「うちわまき」がある。 「うちわまき」は奈良時代から続いている行事で、5月19日の梵網会の際に行われる。40センチほどの細竹の上部にハート型の仰ぐ部分を取り付けた独特のうちわがまかれる。 当日は2時頃から講堂で梵網会が行われ堂前で舞楽奉納があり、4時頃からまかれるという。 このうちわは雷難・火難・豊作・病気・安産・産児の健康など様々な願いを叶えてくれるという。 今年こそ行かなくてはいけない。 開山忌には、鑑真和上像と東山魁夷の障壁画が公開される。 せんだん の ほとけ ほの てる ともしびの ゆらら ゆららに まつ の かぜ ふく 八一は、この歌で、ここ唐招提寺にも東塔があり、享和2年(1802年)の焼失するまであった。 しかし、今はそれらの自然やなくなった塔について誰も何悲しまないし憂えない、といっている。 とこしへ に ねむりて おはせ おほてら の いま の すがた に うちなかむ よ は 鑑真は、中国揚州の人である。広陵の竜興寺の僧侶であったという。 若い頃、遊学して三蔵を究めて揚州に帰っていたが、天宝元年(742年)日本の留学僧、大安寺の栄叡、興福寺の普照の二人にあい、日本の天皇が伝戒をしてくれる人を探していると知り、渡来の意志を固め、様々な困難を乗り越え、天平勝宝5年(753年)に日本に上陸したことはよく知られている。 |
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中宮寺 |
中宮寺は何回か来ているが八一の歌碑を見ていなかった。 本堂の前にある八一の歌碑は、平成22年に建立されたもので、他の歌碑と比べると石も新しいもので、当然のことながら、弥勒菩薩半跏思惟像を詠っている。 みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の あさ の ひかり の ともしきろ かも 歌の意味は、仏様のあごとひじのあたりにこのかすかな朝の光が射し、なつかしく心ひかれる。というところか。 本当にうまく詠っている。この寺のことを知らなくても情景が目に浮かぶ。 ![]() その歌碑を見たいのともういちどじっくりと菩薩半跏像を見たいと思った。 法隆寺の夢殿を見た後、中宮寺に向かった。境内にはいるとコガネモチがたくさんの実をつけていた。 菩薩半跏像はひっそりと微笑していた。以前来た時は雨だったのでいまいち陰影がはっきりしなかったがこの日はよく見えた。 やはりいい表情をしている。元々は色が付けられていたというが、漆黒になってからよけいイメージが増幅され、芸術的にも仏像的にもその神秘性を増している。 前にも感じたことだが、像そのものは思っていたより小さく、顔も小さい。 1300年前にこうしたすばらしい像を造る人がいたということに驚嘆する。もし作った人が、今生きていてもいい仕事をするだろう。そんなことを考えながら像を見続けた。 中宮寺は、聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺である。旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っていたが、発掘調査したところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認された。 それは丁度法隆寺旧地の若草伽藍が四天王式であるのに応えたものといえる。 その出土古瓦から、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものらしい。 ![]() その後、平安時代には寺運が衰退し、草堂一宇を残して本尊様のみ居ますといった状態であったという。 鎌倉時代に入って信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺法蔵内に発見して中宮寺に取り戻すなど、いくらか復興を見たものの、往時の隆盛には及ばなかった。 戦国時代に入って火災に会い、法隆寺東院の山内子院に避難し、そのまま住み着いていたところ、後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が住職となり、以来尼門跡として、次第に寺の体裁を整えたのが現在の中宮寺であるという。 宗派は戦後、法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになったが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えている。創建の飛鳥時代から1300年に亘り、尼寺の法燈を続けておるのは日本では、中宮寺だけという。 |
法輪寺 |
法輪寺は、法隆寺東院の北方にある。 法隆寺と法起寺が世界遺産で、この寺がそうでないということで、2度ほど前を ![]() 八一の歌にふれて改めて行くことにした。 小さな寺で、参拝客は私たちと、あと4人ほどであった。かなりのんびりとしている。法隆寺がせかせかと動かなくてはいけないのと比べ大きな違いがある。 しかしその方がじっくりと鑑賞できてありがたい。ところがこの日は時間が遅かったせいで肝心の4m近くあるという観音様を見ることができなかった。 さっそく八一の碑を探したら、収蔵庫の近くにあった。 狭い境内なのですぐ見つかった。 くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ 大きな境内で巨大な堂塔伽藍があるお寺も見応えがあるが、この法輪寺や、近くの法起寺のような小振りであるがしっかりしたお寺を静かに散策するのも趣があって、またいい。 八一は、碑の歌のほかにも法輪寺で詠んでいるものがある。 みとらし の はちす に のこる あせいろ の みどり な ふき そ こがらし の かぜ 法輪寺の現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。 さらに法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明であるが、発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いないという。 本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も、飛鳥時代末期にさかのぼる古像である。 法輪寺は、三井寺(みいでら)とも呼ばれ、「法林寺」「法琳寺」「御井寺」とも書く。推古天皇30年(622年)に聖徳太子の病気平癒を祈って、山背大兄王と由義王が建立したと伝わる。また天智天皇9年(670年)の法隆寺炎上ののち、百済の 開法師・円朝法師・下氷新物らが建立したともいわれている。平安時代には寺勢も盛んであったが、江戸時代には三重塔を残すのみに衰退していったという。 ![]() 境内には、三重塔・金堂・講堂(収蔵庫)・妙見堂・鬼子毋神堂・地蔵堂・鐘楼・西門(上土門)・南門・庫裏とがある。 明治36年に、国宝に指定されていた三重塔を解体修理したが、昭和19年7月21日、三重塔が落雷により焼失した。 避雷針は、太平洋戦争の金属供出で撤去されていたという。 ここでも戦争が影を落としている。避雷針まで供出しなければいけないほど金属が足りなかったかと思うと寂しい。 もしそれが残っていたら法隆寺や法起寺とともに世界遺産だろう。 再建事業は困難を極めたという。 住職二代にわたっての全国勧進行脚と、作家の幸田文さんなどの支援により、昭和50年、かの有名な宮大工西岡常一氏のもとに、旧来の場所に創建当初と同じ姿で再建できたのである。 塔内には、塔の焼失時に救った釈迦如来坐像と四天王像(平安後期)を安置しているというが、見ることはできなかった。 次回には必ず見てみたい。 |
![]() (境内 |
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