干支の蛇 特集 | |||||||||||||||||
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来年は巳年である。十二支の文字は、その文字の表す動物とは関係のないことは前に述べた(猪03)。例えば子という文字は鼠を意味せず、丑も実物の牛を表さない。しかし、唯一の例外が巳で、巳は蛇を象った象形文字だから、それ自体が蛇を表している。郷土玩具に蛇が取りあげられることは多くない。手元にある十二支の郷土玩具を調べてみても、羊に次いで少ない方から2番目である(表紙25)。確かに、手足が無く、眼瞼が無く、先が二つに分かれた赤い舌がチロチロ見え隠れする姿は不気味で、とても人に好かれる動物とはいえないだろう。写真は新井市平丸のスゲ細工(高さ12p)。ここ平丸では十二支全ての動物が作られていて、そのうち1971年(昭和46年)にはウリノキ細工の猪(猪04)が、2002年(平成14年)にはスゲ細工の稲馬が年賀切手の図案に選ばれている。(H24.11.18)
蛇は好かれる動物というよりも、むしろ崇拝される動物かもしれない。たとえば、縄文土器には蛇の装飾や文様が多いという。蛇の形は男根に似て繁殖力の象徴と見なされるし、蝮のように強い毒を持つことも強い生命力を感じさせることから信仰の対象となっていた。弥生時代に稲作が始まると、蛇は田を守る水神という性格を帯びるようになる。また、神話では海の神、山の神など様々なシンボルになって登場したり、八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から神器・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出現したりして、蛇は神聖なものと考えられた(1)。時代は下って江戸時代になると、現世的なご利益を求める対象となる。白蛇は弁財天(弁才天)のお使いとされ、財宝が授かり技芸が上達することを願って蛇が崇拝されるようになった。左は奈良井土人形の蛇大黒、右は津屋崎人形の蛇弁天(高さ11p)。(H24.11.18)
江戸時代には、暦で「巳」と「成る」と「金」とが重なる日を、“実のなる金”の意味に解し、その日に金銀、銭米などを紙に包んでおくと富むという云い伝えがあって、これを“巳成金(みなるかね)”と呼んだ。各地の弁天社には今でも巳成金の日に小判型の開運のお守りやお札を授与しているところがある。このように蛇はお金と縁が深いので、蛇の土人形には財宝、財布などを組み合わせたものが多いようだ。前に紹介した新潟市白山神社の授与品でも蛇が小判の上に乗ったり小判を咥えたりしている(新潟08)。写真は左が小幡人形の巾着蛇、右が花巻人形の宝珠蛇。宝珠(如意宝珠)とは、財宝、衣服、食物など種々のものをことごとく生み出し、それを持つ人は意のままに富を得て商売が繁盛すると云われる有り難い珠(たま)。巾着蛇の高さ6p。(H24.11.18)
洋の東西を問わず、蛇に関する昔話や云い伝えは枚挙にいとまがない。私の住む宮城県に金蛇水(かなへびすい)神社という変わった名前の神社がある。云われでは平安時代、京都の刀匠がこの地に来て霊水を見つけ、さっそく刀を打とうとしたが、蛙が多く棲んでいて、鳴き声がうるさく精神統一できない。また、蛙は霊水も穢す。そこで、雌雄の金蛇を造ってこの地の水神に納めると、たちまち蛙がいなくなったという(2)。この神社には今でも瀬戸製の“蛇のお姿”が多数納められている。一方、脱皮を繰り返す蛇は、若返りや不死の象徴としても有り難がられたらしく、わが国では、蛇の抜け殻で湯を使えば肌に光沢を生じ、雨に濡れない抜け殻を黒焼きにして油で練って禿げ頭に塗れば毛髪を生ずると信じられていた(3)。さて、今回は蛇の張子である。左の山形張子は写実が過ぎて少々怖そうだし、真ん中の邑久張子(岡山県)も緑色の蛇がトグロを巻いているだけでは面白みに欠ける。というわけで、蛇の張子も首振り人形にするなど工夫されるようになった。右の出雲張子(島根県)もその一つで、四巡り前の巳歳(昭和40年)に創作されたものである。この年の年賀切手に選ばれたのは東京の麦藁蛇(表紙27)。当時の年賀切手は5円であった。出雲張子の高さ8p。(H24.12.9)
蛇の郷土玩具はもともと種類が少ないので、12年毎に出される新玩がとりわけ楽しみである。ここに紹介した蛇もほとんどが新しい型で、最も歴史ある五箇山の紙塑人形(富山県)でも20年ほどだろうか。前回紹介の張子などに比べると、近ごろの蛇はかわいらしく親しみあるものに変ってきたようだ。写真は前列左から長野と盛岡(岩手県)の繭(まゆ)人形の蛇。後列は左から紙塑人形の蛇、清水人形(京都府)の首振り宝珠蛇、それに柳川(福岡県)のちりめん細工の蛇。柳川の雛祭りでは、色とりどりの“さげもん”(縫い包みでできた吊るし飾り)が街中に飾られて壮観である。高さ7p。(H24.12.9)
写真上段は八重山のハブグワー(沖縄県)。アダン(阿檀)の葉を編むようにして細工してあり、尾は細く口は大きく開かせてある。この口に指を咥えさせて引っ張ると、編み目が締まってなかなか抜けなくなるので、初めての人などは一寸驚く(長さ68p)。竹蛇といえば、1977年(昭和52年)の年賀切手に選ばれた大山製(神奈川10)が有名だが、小倉の竹蛇(福岡県、中段)は蛇体が竹笛になっていてピーピー鳴るし、車が付いているので転がしても遊べる。ところで、蛇に足が付いていれば“蛇足”。「蛇の絵を一番早く画き終えたものが酒を飲むことにしたところ、真っ先に画き終えたものは余計な足を画き足してしまい、酒を飲みそこなった」という話に由来し、無駄なことをして元も子もなくす喩(たとえ)である。長岡の高龍神社(新潟県)は商売繁盛の神様。ご神体は龍で、蛇はそのお使いとされる。売店で買った参拝記念の蛇(下段)は、陶製の頭がブラブラ揺れ、紙でできた伸縮自在の蛇体は竹串に絡まりながら本物のように動く。同じ仕掛けのおもちゃは中国でも見かけた。(H24.12.9)
十二支の土鈴は一揃いで製作される場合が多いので(北海道04)、数の上では蛇も他の動物に引けを取らない。左端はのごみ人形の“金み鈴”(佐賀県)。通常は青色の蛇だが、巳歳にだけ特別金色に彩色されるもの。のごみ人形は過去に兎鈴(昭和38年)(兎09)と羊鈴(平成3年)が年賀切手に選ばれている。その隣は富山土人形の“蛇の目鈴”。玩具化しにくい蛇も、大きな眼を強調することで愛嬌のある土鈴に仕上がっている。次が中山土人形の蛇鈴(秋田県)。宝珠に漢字の巳がデザインされているのは珍しい。中山土人形では羊鈴が昭和54年の年賀切手の図案になった(秋田11)。右端は大崎八幡神社の授与鈴(仙台市)。だいぶ前に出されたもので、真っ赤な色やコブラのような姿がエキゾチックであったが、その後は目にしない。高さ6p。(H24.12.22)
小欄で最初に十二支の玩具を紹介したのは平成16年なので、もう20年も前のことである。その年の干支は申であった(猿01)。猿の玩具は種類も多く、まだ紹介し切れない。令和7年の干支は巳である。蛇の玩具はもともと数が少ない(表紙25)ので、私のストックも底をついてしまった。というわけで、蛇の特集は今回でお終いである。 上段左が八橋人形(秋田県秋田市)、最後の制作者・道川トモさんが亡くなって廃絶が心配されたが、伝承の会が立派に跡を継いでいる。中央は奥澤神社の大蛇絵馬(東京都世田谷区)。秋の祭礼では疫病除けを願い、氏子が藁の大蛇を担いで練り歩く。右は笹野一刀彫(山形県米沢市)。一回り前の新作である。削り掛けは何を表しているのだろうか。 下段左は下川原人形の人形笛(青森県弘前市)。リンゴの貯金箱(青森04)もそうだが、やはり蛇年の新作である。中央は三春張り子(福島県郡山市)。三春には珍しく漫画的なのも新作の故か。右は木地玩具の“おろち”(宮城県白石市)。上の傘独楽を回すと、その振動がとぐろを巻いた大蛇に伝わり、酔ったように動く。もとは江戸独楽にある型である。独楽の振動を人形に伝えて微妙に動かす仕掛けは前にも紹介した(動き41)。(R6.12.1) |
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