新潟県の玩具 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「ふるさとの玩具」もいよいよ東北地方から関東・甲信越地方へ入る。まず紹介する新潟県は東北地方と地理的にも近く、関係が深いところである。一例をあげると、電気などは県下全域で東北の電力会社が賄っているので、新潟県は“東北七県”の一つに数えられることもある。さて、新潟県は風土的に越後(南から北へ上越、中越、下越の三地方)と佐渡に分けられる。新潟県燕出身である私の知人は、各地域の文化的特徴をそれぞれ“上方的(上越)”、“関東的(中越)”、“東北的(下越)”、“独自(佐渡)”と説明してくれた。この表現が当たっているかは別として、徳川時代には二国十数藩が並立し、明治に合併して新潟県となった経緯を考えれば、今もそれぞれが個性的な文化を持ち合わせていて不思議はない。この木馬は、下越地方に昔から伝わる子供のおもちゃを “郷土玩具界の長老”今井徳四郎が復元制作したものである。翁は100歳を越してもなおカクシャクとして、山口人形や三角だるまなどの制作を続けていたが、惜しくも平成7年に亡くなった。高さ30cm。(H18.5.4)
現存する山口人形の型は20数種。その半数は伏見人形(京都府)の流れをくむものといわれる。土質のためか、抜き型のためか、伏見人形に比べて彫りは浅く焼きも甘い人形だが、かえってそれが素朴な効果をあげている。また、朱、青、黒、群青色を主とした色彩も、雪国にあってはいっそう引立つ明るさである。このずっしりと重く土臭い、しかし色鮮やかな山口人形を眺めるとき、私は同じく雪国である秋田の八橋人形(秋田県の玩具06)を思い出す。やはり、ここ下越地方は“東北的文化圏”にあるのかもしれない。左より馬乗り鎮台(高さ11cm)、大黒、子守。(H18.5.6)
白鳥の飛来地として知られる水原町の瓢湖(ひょうこ)は、羽越本線・新津駅方面から長い長い阿賀野川鉄橋*を渡り終えたところにある。山口人形は、瓢湖にも近い水原町山口で作られるのでこの名がある。今井徳四郎翁は14歳から先々代について人形作りを学んだ。戦前から数々の展覧会での入賞歴もあり、宮家御買い上げの栄に浴すなど大いに活躍していた。戦時中は制作を中止していたが、昭和32年には新しい窯を築いて本格的に人形作りを再開した。新潟県には三条、今町、加茂、村上、横堀などにも土人形があったが、戦前までにほぼ廃絶していたので、山口人形の再興には全県あげての勧めと応援があったという(1)。首人形の高さ19cm。(H18.5.7) *大正元年竣工の阿賀野川鉄橋(1,229m)は当時日本一の長さを誇っていたが、現在では10番目。因みに、現在最も長い鉄橋は東北新幹線の第1北上川橋梁(岩手県)で、長さ3,868m。
山口人形を制作する今井家を、人々は「鳩屋」と呼んでいる。左は鳩屋六代目・徳四郎翁が作る鳩笛(高さ5cm)。作風は戦前から終始変わっていない。右は越後一宮である弥彦神社の鳩笛(高さ8cm)。神社の境内に棲む山鳩をかたどって作られ、みやげ物として参道で売られたという。戦前に廃絶したが、昭和40年ごろ一時復活した(2)。(H18.5.7)
厚紙を円錐形にまるめ、底に土の錘を付けた起き上がり小法師。左二体が水原町産で、山口人形と平行して作られてきた。七転び八起きの縁起物で、養蚕家は繭が良く起き上がるように、漁師は難船しても事なきようにと、正月の初市にこぞって求めた。今では大きい赤だるまと小さい青だるまの一対が“ノミのめっと(夫婦)”に見立てられ、家内円満の縁起物となっている。子供の白だるまを加えて三体一組にしたものもある。だるまの飄逸な表情がおかしいが、旧型は黒の二点を目とし、口はへの字で片付けたごく簡単な面相だったという(1)。旧型三角だるまと、会津若松や三春の起き姫(福島県の玩具15)との類似性から、会津街道を通した磐梯〜越後間の文化的交流も指摘されている(3)。右は新潟市産の三角だるま(高さ8cm)。越後特有の三角だるまは、ほかにも今町、見附、新発田、加茂などで作られていたが、いずれも廃絶した。(H18.5.7)
新潟県下ではかつて多くの土人形が作られていたが、今ではほとんどが廃絶してしまい山口人形と村上の大浜人形くらいになってしまった。大浜人形は、江戸末期に三河(愛知県碧南市大浜)から移住した瓦工がこの地で作り始めた土人形である。作者が出身地の地名をとって自らの姓としたので、作品も大浜人形と呼ばれるが、現在の産地名から村上土人形とも呼ばれている。新潟県各地でみられる他の人形に比べ、大型で色使いも華やかなことなど作風も異質である。残念ながら、村上の大浜人形は現在制作を休んでいるとのことだが、本家・碧南の大浜人形のほうは今も健在である。高さ28cm。(H18.5.17)
大浜人形は三月の節句に飾られるので、節句を前に村上の定期市で売り出されたり、行商人が魚などと一緒に売り歩いたりした。また、この地方には初節句を迎える女児に人形を贈る習俗があり、“雛見”といって子供たちが各家庭の雛飾りを見に回る光景もみられたという(4)。この子供清正(虎加藤、高さ25cm)や前回紹介の人形などは端午の節句に飾られたのだろうか。(H18.5.17)
大分以前のことだが、新潟市で或る学会に出席したときのこと。会場のすぐ隣に新潟の総鎮守、白山神社があった。参拝したあと、いつものように社務所でお守りなどをみていると、“白蛇のお姿”というものがある。巫女さんによると、白蛇は白山神社の末社である白蛇明神の御使いだという。見本には三種の蛇があったので、「全部いただけませんか」というと、「数が少ないので一つだけにしてください」といわれ、さてどれにしようかと迷っていると、「何に当たるか分かりませんが宜しいですか」と、選ぶ間もなく白い箱を渡されてしまった。宿で開けてみると“松負い蛇”で、次に新潟市を訪ねた時は“小判抱き”であった。もう一つの“小判咥え”も揃えたいところだったが、そうそう新潟市で学会があるわけもなく、三度目に訪ねたのはずっと後の平成6年のこと。残念ながらすでに廃絶していて、三つが並ぶことはもう無い。高さ5cm。(H18.5.27)
中越地方は三条の天神だが、新潟市内で手に入れたもの。繁華街をぶらぶら歩いていると、ショーウィンドウにカメラと一緒に数々の郷土玩具を並べている小さなDPE店があった。店の奥に入ると、今は廃絶した県内の土人形も飾ってある。聞くところによると、女主人の亡くなった連れ合いが郷土玩具研究家K氏と懇意で、一緒に各地を訪ねては記録のために玩具を撮影して歩いたのだという。その際に収集したのだろう土人形のなかに、この天神もあった。塗りの剥落を幸いにも免れたお顔はなんとも穏やかな表情をしており、見るものをホッとさせる。「座右に置いていつも眺めたいものです」というと、女主人は「ものも人も出会いですから」といいながら譲ってくれた。高さ8cm。(H18.5.27)
新潟県にも天神人形は多いのだが、ほとんどが廃絶している。とりわけ、佐渡では八幡、窪田(いずれも佐和田町)、夷(両津市)をはじめ、島内いたるところで天神様がつくられていたが、昭和の初めまでにすべて姿を消した(5)。しかし、うれしいことに佐渡には新たな土人形の作り手も誕生している。写真左はその一人、畑野町に住む西橋健さんの手になる天神(高さ14cm)。自ら型起しから創めたものだが、造作や彩色などに伝統的な土人形の雰囲気が感じられ、今後が楽しみだ。中央は大浜人形(村上市)、右は山口人形(水原町)の天神である。(H18.5.28)
「佐渡へ佐渡へと草木もなびく...」と唄いだす“佐渡おけさ”。新潟県民謡の代表のように言われているが、その源流は平戸から北九州方面で唄われていた“はんや(はいや)節”であり、北廻船の水主(かこ)らによって北陸沿岸諸国の湊に伝わったものだという(6)。島内へは対岸の出雲崎から伝わり、小木を経て相川まで広まった。佐渡おけさの成立は明治後半ごろで、当時の踊りは今よりだいぶテンポの速い荒々しいものであったらしい。また、“おけさ”の名は越後由来で、化け猫の“おけい”が芸者に化けて唄ったからだとか、桶屋佐助こと通称桶佐が唄い始めたからだとかいわれている。写真はのろま人形(首人形02)制作者の手になるおけさ人形で、土製(高さ9cm)。ほかに、竹細工によるおけさ人形(島内各地)や日本人形の伝統的な手法によるおけさ人形(新潟市)もみられる。(H18.5.28)
越後獅子のもととなった角兵衛獅子は西蒲原郡月潟村が発祥の地である。元来は土地の神社の奉納芸として始まったが、そのうち農閑期を利用して他国へ出稼ぎに行くようになった。往時は30余人の親方がいて、それぞれが7〜8名の踊り子で一座をつくり諸国を巡行したという。踊り子は10歳前後の子供達で、獅子頭をつけ、縦縞の小倉のモンペに卍の前かけをしめ、黒足袋、高下駄の踊り子が、親方の笛や太鼓に合わせて逆立ちや宙返りをやって見せた。江戸時代には全国を大道門付け(かどづけ)してまわったこの曲芸も、明治末期に姿を消したが、それを惜しむ人々が昭和11年に角兵衛獅子保存会を立ち上げて復活した(6)。左は月潟村で作られる紙粘土製の角兵衛獅子で、保存会に子供たちを通わせている父兄の有志が20数年前から制作している。これは“にわとりの形”と呼ばれ、一人が四つ馬になり、その上でもう一人が逆立ちをしている姿(高さ16cm)。右は新潟市で作られる角兵衛獅子人形で、一人芸“金の鯱(しゃちほこ)”。(H18.6.13)
中越地方は新潟県のほぼ中央に位置し、県内でも一、二をあらそう豪雪地帯である。その山古志・小千谷地区は平成16年10月23日の地震で大きな被害を蒙り、いまだ復旧に追われる日々が続いている。長年に亘り神事としてとり行われてきた同地区の「二十村郷の牛の角突き(闘牛)」も震災により中断を余儀なくされた。しかし、地元の人々の熱意が実り、わずか半年後の昨年5月には復活の闘牛大会が仮設の長岡闘牛場を会場に行われた。出場したのは中越地震にも生き残った闘牛たちで、救出後は仮設牛舎で飼育されてこの日を待っていたのである。闘牛の再開は山古志・小千谷地区の人々にとって復興の励みにもなっているという。その闘牛の姿を丸木と小枝だけで上手に表現したのが小千谷の木牛である。子供たちはこれで闘牛の真似をして遊んだ。大きい木牛の高さ8cm。(H18.6.20)
新潟県の中部、三条、見附、白根あたりでは凧作りが盛んである。写真左は六角凧で、戦国時代には狼煙(のろし)の代わりに使われたという。携帯に便利なように中骨を外すとクルクルと巻けるようになっており、地元では“巻きイカ”と呼んでいる。手漉きの和紙に国芳風の首絵が大胆に描かれていて迫力がある。通常、尻尾を付けずに揚げる。右の蛸の凧も三条や見附周辺で作られている。本職の凧師が余暇に作って子供たちに与える一文凧で、作りは簡単だが揚げるのが難しい。三条では毎年6月に三条凧(イカ)合戦が開催される。むかしは凧揚げのけんかで怪我人や死人まで出たという。同じころ、隣の白根でも中ノ口川の堤防上で大凧合戦がくりひろげられる。江戸時代から続く伝統行事で、元々は川の東岸と西岸にある町どうしの対抗戦であった。大きいものは縦7.3m、横5.5mほどもある大凧が空中でからまると、相手の綱を切ろうと両岸から掛け声とともに大人が汗だくになって綱を引きあう勇壮な祭である。六角凧の長径90cm、蛸の凧の長さ84cm。県内にはほかにも小千谷の盃凧など独特な形をした凧がある。(H18.6.24)
浦佐毘沙門堂裸押し合い祭りの由来書によると、「その昔、浦佐の按摩・杢市が珍念に呼ばれ肩をもみ始めたところ、人間の骨格でないのにびっくり。逃げ出そうとすると珍念は『俺は裏山に住む化け猫だ。このことを人にしゃべると食い殺す』と杢市を脅した。しかし、杢市は村人に災難がかかってはと家人に知らせ、そのまま息絶えた。村人達は総出で裏山を山狩りしたが見つからず、仕方なく毘沙門堂に帰って堂内で押し合い、気勢を上げた。これに驚いたのが、梁に潜んでいた化け猫。勢いに飲まれて落ち、村人達に踏み潰されてしまった。」この日が3月3日で、以後、浦佐では近郷の青年達が不動明王の滝壺で沐浴し、堂内で奉納された10貫(約40kg)もある大ロウソクに照らされながら押し合う祭りとなったという。猫面の原型は江戸時代の左甚五郎作と伝えられ、戦前は魔よけとして門前で売られていたが廃絶。画家の早津 剛氏によって復元された。左は張子製、右は石膏製(高さ6cm)。(H18.7.2)
栃尾は古くから紬(つむぎ)の生産が盛んな町である。栃尾の手まりは紬を織った残りの絹糸を使って作られている。芯には “七福”と呼ばれる7種類の木の実(けんぽろ、数珠玉、じしゃの実、はとむぎ、豆、銀杏、のらご)が入っていて、振るとカラカラと音がする。この芯をぜんまい綿で包み、木綿糸を巻きつけ、絹糸で色とりどりの模様をかがって作る。昔から子供の玩具として、また孫の健やかな成長を願う祖父母からの節句祝いとして親しまれてきた。写真は“十二升”と呼ばれる模様。越後では十二は“とてもたくさん”を表す数と言われているので、“十二升”にはその子の家が将来“升いっぱいのお米があって不自由しないように、財産がいっぱいできるように”との願いが込められている。「霞みたつ ながき春日を子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ」と良寛の歌に詠まれたのも、栃尾の手まりだろうか。直径9cm。(H18.7.6)
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