八月十五日

 

.  昭和20年7月26日、連合国側から日本の降伏を促すポツダム宣言が提示された。

.  数次にわたる閣議では本土決戦計画に基 づく徹底抗戦論、国体護持を前提にした条件付回答等が論議されるが

.  決着を見なかった。

.  日本領土の占領政策で主導権を掌握したいアメリカは、ポツダム宣言の受諾を日本に急がせるため、8月6日

.  広島市に原爆を投下

.  それを知ったソ連はアメリカ主導を阻止すべく8月9日に満州へ進攻・参戦した。

.  同9日には第二の原爆を搭載したB−29が北九州・小倉の空に飛来したが、二日前の空襲で炎上した製鉄所の

.  煙や断雲に目標をさえぎられ、第二目標地の長崎市に投下された。

 

.  ポツダム宣言の受諾は御前会議で二度のご聖断を仰ぎ8月14日にようやく閣議決定され、翌15日の玉音放送で

.  国民に無条件降伏が公示された。ここに満州事変の勃発から15年余にわたる大東亜戦争が終結した。

 

終戦の詔書

 

.  しかし玉音放送で一挙に国内が平静に戻ったわけではなく、「本土決戦」「一億玉砕」を呼号していた陸海軍の将兵

.  には納得できない激情が残った。

 

.  国体護持の確証なき終戦を納得できない陸軍省の若手将校は、天皇を擁護しての宮城占拠を計画、14日夜半に

.  森近衞師団長を殺害して偽の命令書により近衛師団を出動させ皇居内に押し入り、玉音放送録音盤の奪取を試み

.  たが、田中静壱東部軍司令官が自ら皇居に乗り込み鎮圧した。

.  17日には水戸教導航空通信師団の将兵391人が「東京での徹底抗戦」すべく上野公園に集結、皇居前広場まで

.  前進したが、翌18日に鎮圧された。

 

.  15日未明、陸軍大臣・阿南惟幾大将は終戦の責任をとり、「一死もって大罪を謝す」の遺書を残して 自刃。

.  同日夜半には海軍軍令部次長・大西瀧治郎中将も、「特攻隊の英霊にもうす、よく戦いたり深謝す」の遺書を残して

.  自刃した。

.  終戦とともに自決した軍人・軍属とその家族  568柱。

 

.  第五航空戦隊司令・宇垣中将は玉音放送を聞いた後、艦爆「彗星」一小隊を率いて出撃し沖縄の海に特攻して散華。

.  回天 特別攻撃隊・平生基地では「神州隊」が編成されたが出撃中止となり、隊長の橋口大尉は搭乗するはずだった

.  回天の前で自決している。

.  他にも 「徹底抗戦」を主張して決起した部隊、或いは発進して消息を絶った戦闘員は多い。

 

.  16日の午後4時、陸海軍の各部隊に対して停船命令が発せられたが、この命令には「止むをえざる自衛のための

.  戦闘行為は妨げず」と付記されていたため、終戦に納得しない抗戦派が策動する余地を残した。

.  16日午後7時頃、第二十三突撃隊司令から敵機動部隊が土佐沖を航行中、直ちに出撃して撃滅すべしとの戦闘

.  命令が、二十三突の震洋隊・回天隊へ発令された。

.  翌17日朝には誤報であることが判明したが、この命令に応じた震洋特別攻撃隊・手結基地では不慮の事故が発生、

.  終戦後であるにも係わらず搭乗員、整備員等111名が爆死した。

 

.  17日に「一切の武力行為を停止する」発令がされ、22日までに殆どの混乱が収拾されたが、本土防衛を任とする

.  海軍厚木航空隊の司令・小園大佐は徹底抗戦を叫び、他の部隊に決起を呼びかけ陸軍児玉飛行隊など呼応する

.  部隊も多かった。大本営の降伏軍使を乗せた緑十字機の撃墜まで計画されたが、25日までに沈静された。

.  5日後の8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は厚木基地 に進駐した。

 

街頭で玉音放送を聞き涙にくれる市民

 

  

終戦当日の宮城(皇居)と靖國神社社頭

 

八月十五日

更新日:2007/12/16