宇垣  纏

海軍中将

 

略歴

明治23年 2月  日 岡山県赤磐郡潟瀬村出身

明治45年 7月17日 海軍兵学校卒業(40期)

大正10年 6月  日 海軍大学甲種学生

昭和 1年11月  日 ドイツ国駐在

昭和 6年12月  日 第二艦隊参謀

昭和 7年11月  日 海軍大学教官、陸軍大学教官

昭和 9年10月  日 連合艦隊参謀、第一艦隊参謀

昭和11年12月  日 「八雲」艦長

昭和12年12月  日 「日向」艦長

昭和13年12月  日 軍令部第一部長

昭和16年 2月  日 第三戦隊司令官

昭和16年 8月  日 連合艦隊参謀長

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和18年 4月  日 海軍甲事件、戦傷

昭和19年 2月22日 第一戦隊司令官

昭和19年10月17日 レイテ海戦/リンガ泊地

昭和20年 2月10日 第五航空艦隊司令長官/鹿屋

昭和20年 2月17日 九州沖航空戦

昭和20年 3月11日 梓特攻作戦

昭和20年 3月21日 神雷部隊出撃敢行

昭和20年 8月10日 第三航空艦隊司令長官/着任せず

昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦

昭和20年 8月15日 特攻出撃、散華(享年56歳)

左:宇垣 纏           右:大西瀧治郎

 

昭和20年 8月15日

昭和20年 8月15日、正午の玉音放送で無条件降伏を知った後の宇垣中将は、自ら特攻出撃すべく山本五十六

元帥から拝領の脇差を手にして飛行場に向かった。翻意を進める幕僚に対して、宇垣中将は言いきった。

「いまだ停戦命令に接せず、多数の純忠の将士のあとを追い、特攻の精神に生きんとするにおいて、考慮の余地

はない」

大分海軍飛行場には艦上爆撃機「彗星」11機と、搭乗員22名が待っていた。「命令は5機」とただす宇垣中将に、

隊長の中津留大尉は「全員でお供します」と答え、11機の「彗星」は出撃していった。

 

    

昭和20年 8月15日 大分海軍航空基地

 

  

昭和20年 8月15日 大分海軍航空基地

 

  

昭和20年 8月15日 大分海軍航空基地

 

宇垣中将 最期の電文

「過去半歳にわたる麾下各部隊の奮戦にかかわらず、驕敵を撃砕し神州護持の大任を果すこと能わざりしは、

本職不敏の致すところなり。本職は皇国無窮と天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、部隊隊員が桜花と散りし

沖縄に進攻、皇国武人の本領を発揮し驕敵米艦に突入撃沈す。指揮下各部隊は本職の意を体し、来るべき凡

ゆる苦難を克服し、精強なる国軍を再建し、皇国を万世無窮ならしめよ。天皇陛下万歳。

昭和二十年八月十五日  十九二四  機上より」

 

宇垣中将 特攻の戦果

三機不時着、八機進撃。

アメリカ戦略爆撃調査団による調査…テンダー水上機母艦に命中、小破。

 

中津留大尉(兵71)ご尊父の回想

.                 私にとっては、たった一人きりの息子でしたからなあ

.                 軍の方でもその点を考えてくれるじゃろうち思うちょりましたが

.                 やっぱあ非常なもんですな、そこまでは考えてくれんじゃったですなあ

.                 とうとう特攻に連れて行ってしもうてですなあ

.                 それも戦争が終わった放送の後でっしょうが

.                 宇垣さんは部下を私兵化して連れて行ったわけですわ

.                 私はそのことで、ずうっと宇垣さんを怨み続けてきましたわ

.                 戦後しばらくは、その事を考えると気が狂うごとありましたもんな

 

私兵特攻宇垣中将の特攻攻撃に関する法律上の問題点

海軍刑法(明治四十一年法律第四十八号)第二編罪、第二章、第三十一条

「指揮官、休戦又は講和の告知を受けたる後、故なく戦闘を為したるときは、死刑に処す」

 

しかし敗戦の混乱と海軍の崩壊により、裁かれることなく不問に付されている。しかし宇垣中将の特攻は

正式な命令に基づくものでは無いとして、二階級特進は認められていない。

※現在、宇垣中将の遺品は靖國神社遊就館に展示されている。

 

多磨霊園

東京都府中市

宇垣家之墓

 

岡山縣護國神社

岡山県岡山市

菊水慰霊碑

建塔の由来

昭和廿年八月十五日 吾神州の国難に当り畏くも天皇陛下は聖断を以って救はせられ万世の為に太平を

開かせ給ふ時に第五艦隊司令長官宇垣纏中将は本土防衛の最前線九州大分航空基地に在りて神風特攻

菊水隊の出撃を指揮しつつあり 玉音に泣拝し敗軍の一将として自責の念に堪え直ちに挺身彗星機に搭乗

して敵艦に突入壮烈なる戦死を遂げたり 之に従いし将兵十一機内八機之に殉ぜし勇士十七人なりき 烏

兎々々二十有七奉戦後国民は克く堪え難きに堪え忍び難きを忍び大を捨て軍を徹し以って今日世界を瞠目

せしむる復興を成し得たるは之素より其刻苦精励に因ると雖も 亦以って今次大戦に於ける戦没勇士の英

霊の加護し神助の賜物たるは諭って候 大戦中岡山県出身の勇士宇垣提督は今は亡き日本海軍の真の大

和魂に徹した武将にして県民の以って誇りとし 右十七勇士の名と共に永く吾国民に深く印象を遺すべき人

なりと信ず

茲に吾等岡山県民相諮り全国有縁の士の協賛により提督終焉の地沖縄の復帰を機とし其霊を岡山県護国

神社の神域にこの記念塔を建て以って万世太平の為に祈念せんとするものなり 願わくば○○を諒せられ

く○○堅持らせれんことを謹んで白す

 

旧 憶特攻雄将宇垣纏提督併十七勇士菊水之塔 …老朽化が進み現在の 菊水慰霊碑に立て替えられた

 

大洲総合運動公園

大分県大分市

神風特別攻撃隊発進之地

碑文

昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり

その時沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名 左の如し

宇垣    纏   中津留達雄   遠藤  秋章   伊藤  幸彦   大木  正夫   山川  代夫

北見  武雄   池田  武徳   山田  勇夫   渡辺    操   内海    進   後藤  高男

磯村    堅   松永  茂男   中島  英雄   藤崎  孝良   吉田    利   日高    保

 

旧制大分中学五十八期会一同  同五十七、五十九期有志一同  旧海軍有志一同

昭和五十一年八月 建立

 

果断の提督    神風特攻隊    世紀の自決

更新日:2010/08/24