厚木事件

 

海軍厚木基地、三〇二航空隊(司令:小園安名大佐)。

本土防衛を任とし、撃墜戦果120機(内、B−29 80余機)。

 

8月15日

昭和20年 8月15日正午、ラジオから天皇陛下の詔勅が流れた。

小園司令は隊員に総員集合を命じ、熱血に満ちた訓辞を行った。

「降伏の勅命は、真の勅命ではない。ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。日本政府はポツダム

宣言を受諾した。ゆらい皇軍には必勝の信念があって、降伏の文字はない。よって敵司令官のもと

に屈した降伏軍は、皇軍とみなすことはできない。日本の軍隊は解体したものと認める。ここにわ

れわれは部隊の独立を宣言し徹底抗戦の火蓋を切る。今後は各自の自由な意志によって、国土

を防衛する新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。ゆえに諸君が小園と行動を共にするもし

ないも諸君の自由である。小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。しからざる者は自由に

隊を離れて帰郷せよ。自分は必勝を信じて最後まで戦う。」

誰一人として、その場を去る隊員はいなかった。

 

8月16日

小園司令は厚木航空部隊の独立宣言を、海軍の各部隊宛に緊急電報で発信するとともに、陸軍

や国民に向けて檄文のビラを用意した

「国民諸子に告ぐ。」

「神州不滅、終戦放送は偽勅、だまされるな。いまや敵撃滅の好機、われら厚木航空隊は健在

なり。必勝国体を護持せん。勤皇護国。」

「皇軍なくして皇国の護持なし。国民諸君、皇軍厳として此処にあり。重臣の世迷言に迷わざる

ことなく吾等と共に戦へ。之真の忠なり。之必勝なり」

このビラは、零戦(首都圏)、月光(関東・東北)、彩雲(中部)、銀河(北海道・中国・四国)に

よって各地に撒布された。

 

8月16日、米内海軍大臣から翻意をうながす意向が伝えられたが、小園司令はこれを拒絶。

米内は三航艦司令長官:寺岡中将に小園の説得を命じた。しかし三十分にわたる会見は決裂

し、小園は後に軍法会議で「抗命罪」に問われる。

 

8月17日

連合軍から、マッカーサーの厚木基地への進駐期限が通達された。

天皇は軍人にあて隠忍自重の勅語を発した。米内海相は横須賀鎮守府に厚木の断固強硬

鎮圧を命じたが、寺岡司令が猛反対し実行はされなかった。

 

8月20日

菅原中佐、吉野少佐の二名が、高松宮殿下から「陛下の御心」を伝えられ、抗戦態勢の

終結を決意し、三〇二航空隊の士官を説得。

 

8月21日

小園司令は、強制連行され海軍野比病院に監禁。

厚木基地では、納得が出来ない士官、下士官、兵たちが降伏否定」の旗色を一層鮮明にし、

零戦・彗星・彩雲など32機が厚木から脱出した。

零戦18機は陸軍狭山飛行場へ、彗星など13機は陸軍児玉飛行場へ降り立った。しかしく翌

日には厚木に連れ戻された。

 

進駐

8月26日、アメリカ軍の先遣隊として輸送機13機が厚木に着陸。

8月30日、連合軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立った。

 

軍法会議

10月15〜16日、巣鴨拘置所で厚木航空隊騒擾事件の横須賀鎮守府臨時軍法会議の公判

が開廷された。

小園司令に対して党与抗命罪により無期禁固刑が言い渡され、即日官位が剥奪された。

厚木脱出組の公判では、下士官・兵には執行猶予がついたが、士官には禁固刑が確定

した。

 

「波櫻」 七十三期新聞第一号

昭和21年 3月 1日 発行

返せ 厚木の熱血児

終戦時厚木航空隊をめぐって波乱を極めたが 我が七十三期のうち左記の諸官は終戦を信ぜず

次の戦に備え飛行機を以って他飛行場に篭らんとするも 状況遂に止むを得ず 軍法会議で不当

なる判決に依り 岩戸良治 禁固八年 伊藤庄治、板垣周一、藤記久之進、増田武久、古川倫夫

に対しては禁固四年を命ぜられ 岩戸は横浜刑務所に 他は横須賀刑務所に収容せられ 其後

岩戸は五年に減刑労務に服し居るも あたかも兵校一号の如く他の囚人の模範となりきって居る

中央の尽力により近く放免さる(マ司令部の許可あらば)やも知れず成行注目しつつあり

 

「波櫻」 七十三期新聞第二号

昭和21年 6月10日 発行

記事

前号掲載の302空の諸君の件は減刑され、岩戸君五年 他は四年となったが、其の後更に

減刑との達ありたるも「マ」司令部未だ許可せず 面会も近親者のみで極めて可哀相な状況

にある。同君出所時の被服も大体に於て準備出来る予定 安心されたい

 

関連ページ 海軍兵学校第七三期

 

深見神社

神奈川県大和市

  

摂社:厚木空神社/終戦後に厚木海軍航空隊から遷座

碑文

第302海軍航空隊は昭和19年 4月 勇将小園安名司令のもと厚木基地に 雷電 零戦 彗星 月光 銀河

の精鋭機を擁し 本土防衛部隊として編成された 同年11月 B−29来襲に始まる防衛戦闘において 302

空は勇戦奮闘 昼夜を分かたず来襲する米空軍を迎え撃って B−29 P−51 F6F 等多数の米軍機を撃

墜破する戦果を挙げ 小園部隊の勇名を天下に轟かせた 又終戦時 徹底抗戦を叫び世に言う厚木事件を起

こした部隊としても知られている

終戦に至るまでの戦闘において 数多くの隊員を失ったが 戦没者は海軍葬をもって 基地内の厚木空神社の

祀られた 終戦後 同神社の神殿は大和市深見神社の境内に奉遷され 地元出身戦没者の英霊を合祀して靖

國社となり 今日に及んでいる戦没者の霊を慰め 302空の名を永く留めるため この地に之を建てる

昭和55年 4月

 

雄飛

 

  

靖國社/厚木空神社 石碑(表裏)

 

八月十五日

更新日:2006/05/27