松島 利雄

陸軍少尉

 

水戸教導航空通信師団

昭和20年8月17日

水戸教導航空通信師団の将兵391人は「東京での徹底抗戦」の挙を立ち上げた第二中隊長岡島 哲少佐

の指揮で水戸駅を出発、正午過ぎに続々と上野公園に集結を始めた。

水戸出発に先立ち、急進派の林 少尉は、教導通信隊長・田中常吉少佐を殺害している。

夜に入り行動を開始し午後10時に皇居前広場まで前進したが、近衛師団の警戒は厳重を極め再び上野に

引き返した。

 

昭和20年8月19日

将兵391人のうち第一中隊の49人は翌日に水戸に帰ったが、残りは依然として上野公園内の美術学校に

籠城していた。

東部軍司令官・田中静壱大将より「叛乱軍説得」の命を受けた東部軍参謀・神野敏夫中佐は、宮城事件

連座した近衛師団参謀・石原貞吉少佐を派遣した。

石原少佐は岡島少佐の予科士時代の区隊長だった関係で、岡島少佐に面接し説得に努めたが、急進派の

林 少尉が石原少佐をピストルで射殺、説得に傾いていた通信隊付・杉 茂少佐は林 少尉を切り捨てた。

これを機会に強硬派も撤収することとなり午後10時半から相次いで美術学校を出て行った。

 

石原少佐を射殺した林 少尉が所属していた小隊長・松島利雄少尉は、事件の責任を取り校内で自決した。

宮城事件に連座した石原少佐は、水戸教導航空通信師団の説得を死に場所にしたと云われている。

 

常磐共同墓地

茨城県水戸市

左:弟・松島貞雄 海軍中尉墓碑、右:兄・松島利雄陸軍少尉墓碑

 

水戸つばさの塔

茨城県ひたちなか市

  

水戸つばさの塔

由来

水戸陸軍飛行学校、仙台陸軍飛行学校分校、陸軍航空通信学校、明野陸軍通信学校分校、常陸教導飛行師団、

水戸教導航空通信師団、陸軍航空審査部水戸試験場の関係者により、昭和50年に水戸南飛行場跡地に建立。

 

  

陸軍航空通信学校 隊門                      常陸教導飛行師団 御手洗鉢

※陸軍航空通信学校  …昭和15年 8月開校。昭和20年 5月水戸教導航空通信師団へ改編。

 

八月十五日    世紀の自決

更新日:2006/05/13