宮城事件

 

近衛決起

昭和20年 8月14日、御前会議にてポツダム宣言受諾の御聖断が下った。

国体護持の確証なき終戦を納得できない陸軍省軍務局の畑中健二少佐、椎崎二郎中佐ら省中堅

の若手将校は、 近衞師團參謀石原貞吉少佐・古賀秀正少佐さらに航空士官學校生徒隊付上原重

太郎大尉を加え、天皇を擁護しての宮城占拠計畫を着々と進めていた。

椎崎中佐と畑中少佐は陸軍省の井田中佐を訪ね、近衞師団決起のため森近衞師団長の説得を懇

願し、3名は師団司令部を訪れたが、「たとへ陸軍大臣・參謀総長の命令であろうと、近衞師団は天

皇の命令以外には動かない」とするの森師団長を殺害、偽の命令を発動して近衛師団を出動させ、

15日未明に皇居を占拠するとともに、近衛師団の兵力をもって宮城を外部から遮断し、天皇陛下の

曇りなき叡慮を直々に仰ぎ、光栄ある戦争終結の 獲得に邁進するよう、陛下にお願いする行動を開

始した。

            

森  赳近衛師団長         椎崎二郎陸軍中佐   畑中健二陸軍少佐   古賀秀正陸軍少佐

 

近衛決起の報告を受けた阿南陸軍大臣は「近衛師団は起っても東部軍は起たないだろう」と感想を

漏らし、「一死以て大罪を謝し奉る。神州不滅を確信しつつ」の遺書を残して見事に自刃した。

 

果して近衛決起は発動したが、東部軍司令部の同調が得られず、一派は詔書の録音レコードを奪い

玉音放送を阻止しようとしたが、玉音盤の奪取にも失敗した。やがて8月15日早朝、東部軍司令官

田中静壱大将が自ら皇居に乗り込みこれを鎮圧、近衛決起は不首尾に終わった。畑中少佐は次の

手段としてラヂオ放送を通じ国民に決起の趣旨を呼びかけることを試みたが、これも遂に失敗に終

わり、次いで椎崎中佐とともに宮城周辺で徹底交戦を記した檄文を撒布した。

玉音放送がなされる直前の11:20椎崎中佐と畑中少佐は二重橋と坂下門の中間の松林に正座

し、畑中少佐は拳銃で額を撃ちぬき、椎崎中佐は軍刀を腹部に突きさし、さらに拳銃で頭部を打ち

抜いて自決した。


同日14:00、椎崎中佐と畑中少佐の遺体は竹下中佐等の手によって市ヶ谷台に移され、阿南陸

軍大臣の遺体ととも陸軍将校集会所にて通夜が営まれ、そして茶毘にふされた。

その前では梅津美治郎参謀総長が目を真っ赤に泣きはらし、いつまでも動かずに立っていた。


 椎崎中佐遺書

死生通神

 

畑中少佐辞世

今はただ思ひ殘すことなかりけり暗雲去りし御世となりなば

松陰先生の後を追うべく自決して、武蔵の野辺に朽ち果てる。敵のために自己

の魂も、国も、道も、一時中断させられるであろうが、然し、百年の後には必

ず道と共に再び生きる。護国の鬼となり、国と共に必ず七生する。

 

古賀秀正少尉

事敗れた八月十五日、森近衛師団長の葬儀を済ませた後、師団長室において従容として自決。

祖国の運命に殉じた。

 

上原重太郎大尉

その後も同志を求め徹底抗戦の意志を捨てなかったが、憲兵隊より森近衛師団長殺害の罪で出頭

命令を受け、八月十九日未明、陸軍士官学校裏の航空神社の神前で割腹自決、若き命を断った。

 

石原貞吉少佐

八月十九日未明、「徹底抗戦」を叫び上野に籠城した水戸教導航空通信師団の説得に出向いて、

一少尉に射殺された。石原少佐はこの説得を死に場所にしたと云われている。

 

 

国立近代美術館 工芸館

東京都千代田区

旧:近衛師団司令部

 

皇居

東京都千代田区

  

二重橋                             坂下門

 

青松寺

東京都港区

  

国体護持 孤忠留魂之碑

碑文

陸軍中佐 椎崎二郎、陸軍少佐 畑中健二、陸軍少佐 古賀秀正、陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争に際し護るべからざる講和条約即ち国体護持の確認こそ日本国民の果すべき責

務なりと上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し大事然る従容自決す。

これ宮城事件なり。

その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく仰いで茲にこれを継述せんものとする。

 

八月十五日

更新日:2007/12/16