1997.12/16(火)快晴
*東京〜ソウル

 朝8:30起床。9:15に家を出て、成田には11:25着。PM1:30の出発時刻まで、マクドナルドでビッグマックセットを食べながら時間を潰す。飛行機は発着ともほぼ予定通り。途中、富士山を上から眺める。
 入国手続き等を終えて飛行場のゲートを出たのが、ほぼ4時。時差がないことにやや驚く。両替、リコンファームを済ませ、地下鉄でソウル市内へ。日本の地下鉄と雰囲気はまるで変わらない。違うのは、書いてある文字だけか? 金浦空港駅のホームに降りる階段部分には、僕の平面作品「おらないがみ」みたいな内装が施されていた。作家名が書かれているが読めない(^^;;

 地下鉄を降り、いよいよ夕方の街中へ。空気は冷たいが、寒さが身に凍みるというほどでもない。まずはホテル探しから。「地球の歩き方」に載っている中で最も安いテウォン旅館へ行ったら満室だったようで、ソンド旅館を紹介された。その経緯は「地球の歩き方」のソンド旅館紹介文そのまま。1泊11000ウォン(約1375円)。部屋は床暖房があってとても暖かい。
 少し休んでから、街をふらつく。自然と足は本屋に向かうが、最初に訪れた永豊文庫という書店のデカさにはたまげた。街は活気にあふれ、道路が広いせいか、名古屋に似ているような気がする。

 夕食は、明洞という繁華街にある全州屋という比較的有名らしい店で、ビビンパプとビールを食べる。うまい! それに付け合わせのキムチが体を暖めてくれる。帰り道、ちょっと洒落れた喫茶店(ALGIO)があったので立ち寄り、コーヒーとケーキを注文する。店に置いてあった雑誌をめくっていたら、エヴァのCD-ROMの広告に出くわす。嬉しくなってそのページの写真を撮ろうとしたら、ウェイトレスがこちらを見て笑って(微笑んで)いる。チェックの際、彼女は片言の英語で日本のアニメーション(特にエヴァ)が好きだと顔を紅潮させながら話し、その雑誌を僕にくれた。
 なんとなくウキウキしながら、ホテルまでの道を少し遠回りして帰る(11時着)。

 韓国――とても好感の持てる国だ。


1997.12/17(水)くもり
*ソウル〜

 朝10時起床。しばらく部屋でダラダラしてから、ホテル近くのソウル市立美術館に出掛ける。現代美術の公募展と思われるものの展示をやっていたが、展覧会場が豪華な割に、作品は貧弱。欧米の影響云々を問うレベルではなかった。その後、観光情報センターに行き、豊富なパンフレットや情報誌の類に目を通す。湖厳アートセンターでコンテンポラリーアート展をやっている由、昼食後に行ってみることにする。

 昼食は明洞の明家で、牛煮込みスープ(ご飯入り)と水餃子を注文。2品は欲張り過ぎだったようでちょっと残してしまったが、お店の人が片言の日本語でサービスだからと言って、センソウゼリーのゼリー抜きみたいなジュースを出してくれたのが嬉しかった。昨日、街をうろついたのが夜だったせいか、昼間の繁華街にはさほどの卑猥な雰囲気も感じられず、同じ風景を少し物足りなく思う。湖厳アートセンターへ行く道すがら、のど薬や方位磁石を買う。ソウルなのに、思わず観光気分で方位磁石を値切ってしまった。

 湖厳アートセンターは、建物がふつうのオフィスみたいなところで、客はほとんど見あたらず、ゆったりと観賞することができた。作品はゴーキー、デ・クーニングから始まり、ミニマルを経て、ポルケ、リヒター、そしてジェニー・ホルツァーから宮島達男までとオーソドックスな現代美術の紹介に徹していた。カール・アンドレの「Steel-Magnesium Plain」に初めてお目にかかれたのは幸運だった。トータルでは、リヒターとポルケの作品が、サイズのせいもあってか、目を惹いたように思う。

 いったんチェックアウトをしにホテルに戻ってから、重たい荷物を背負って、再度、街へ。小一時間ばかり画廊回りをした後、さきほど混雑していて触ることのできなかった観光情報センターのインターネット・サービスを利用する。自分のページを開いてみると、案の定、文字化けしていた。それとTABLEのWIDTHが反応していない。自分のリンク・ページを辿って、H氏のページに行き、彼のページのFORMで彼にメールを送る。
 その後は、地下鉄で空港へ向かい、なんだかんだとやっているうちに搭乗時間を迎え、機上の人となっていた。隣の席がたまたま日本人の自由旅行者(A氏)だったので、デリーの空港に着いてからのトラブルなどについていろいろ話し、市内まで行動を共にしようということになった。


1997.12/18(木)くもり
*〜デリー

 深夜2時頃デリー着。飛行機を降りるなり、A氏(今春、社会人)より彼がソウルの空港内で知り合ったというK氏(学生)を紹介され、しばらく3人で行動を共にすることにする。夜明けまで空港内で時間を潰し、タクシーで行くのか市バスで行くのかリムジンで行くのかさんざん迷った挙句、結局リムジンバスで市内へ。ところが下車したニューデリー駅前のバス停が、目的のメインストリート側とは反対口でしばらく迷ってしまう。こういうとき、一人であれば、方位磁石と地図をじっくり照らし合わせて行動するのであるが、複数で行動しているためにそうしたゆとりも持てず、他の2人がオート力車でホテルを探そうと言い出すと、それに従うしかなかった。
 さて力車に乗ってみると、待ってましたと言わんばかりに力車は目的地とは異なる方角へと走り出す。なんとムスリムとヒンドゥ教が抗争している緊迫した状況の最中に連れ込まれてしまった。僕は真ん中の座席だったから、あごに軽いパンチを一発喰らう程度で済んだが、A氏は眼鏡を壊されてしまった。それにしても、運転手がなぜ僕らをあの場所へ連れていったのかが、よくわからない(彼も殴られたし、それに力車は慌ててその場から引き返し、僕らから金も取ろうとしなかった)。結局、僕らは力車に乗った場所まで戻り、方位磁石で位置方角を確認してから、歩いてホテルを探すことになる。
 ホテルは、メインバザールに入るなり声をかけてきたインド人の紹介するホテル(Hotel Star Palace)がそれほど悪くなかったので、そのまま3人1部屋でチェックインした。

 僕がシャワーを浴びている間に外出した2人が、少し遅く戻ってくるなり、オート力車で早足の市内観光をしようと言い出し、というよりも、すでに運転手との間に話はついていて、それに従うよりほかなく力車で街に出る。
 2時間ばかり、自分がどこにいるのかも分からずに、力車はひたすら観光名所の前を走り回り、ようやく停まったと思ったら、そこはツーリスト・オフィス(SIGHTS INDIA)だった。そこで日本語の話せるカウンセラーのBaljeet Singh氏に紹介され、今後の日程についてそれぞれ相談することになる。インドでの汽車や飛行機のチケット予約の困難を聞かされた僕以外の2人は、そこで全日程の切符を手配してもらうことになり、そのため、そこで相当時間を費やしてしまった。僕は気分次第での移動を望んでいたので、デリー付近の観光地(ジャイプル、アーグラー)を高級車でまわるツアーのみ、参加することにした。しかし、明朝の出発ということで、一つの目的であったインド・トリエンナーレ(12月いっぱいの開催)を、急遽、本日中に見なければならないということになり、慌てて国立現代美術館まで脚を運ぶ。一通り見終わって、O氏の作品が見当たらないので受付の人に聞いてみると、トリエンナーレはデリーの3つの美術館に分かれて開催しているとのこと。O氏の作品がある美術館の場所を地図で教えてもらい、走ってそちらに向う。が、それはとんでもなく遠く、30分くらい走らなければならなかった。それに、どうにか美術館にたどり着いたものの、他の2人と40分後に現代美術館前で待ち合わせているため、10分も見ずに再び走って待ち合わせ場所へと戻らなければならなかった。汗がだらだらと流れ、しばらくメチャクチャ暑かった。

 他の2人は僕が美術館にいる間、自分らの買った切符がインチキだったらということを心配して、再びツーリスト・オフィスへ行っていたらしい。僕と落ち合ってからも、頼んだ切符を受け取るために、三度ツーリスト・オフィスへと向かう。オフィスの人たちとも顔見知りになり、夕食はオフィス内で彼らと談笑しながら、割り勘で酒やチキン、魚のフライなどを摘む。実に24時間振りのまともな食事。ホテルに戻り、近くのカフェでチャイを飲んでから、就寝。前夜、機内、空港内で寝ていないため、実に36時間振りの睡眠。


1997.12/19(金)くもり
*デリー〜ジャイプル

 朝8時起床。さっそく豪華車に乗ってコースの旅が始まる。最初、デリー郊外のクトゥブ・ミーナールなど、いくつかの寺院に寄ってから一路ジャイプルへ。ドライバーJasvantの運転は、車を追い抜くのに反対車線のさらに一つ向こうの道を通るなど、豪快そのものだが、不思議と安心して乗っていられる。途中、交通渋滞で抜け道を通ったため、小さな村々の様子を車窓から伺い知ることができた。車が止まると、私を撮ってと言わんばかりにポーズを作る少女たちが集まってくる。それに応えて何枚か撮ったが、彼女らは特に何も要求しなかった。ただ撮られたかっただけなのだろうか?

 ジャイプルには、日が沈み、あたりが暗くなりかけた頃に到着。ところがどうも町の様子がおかしい、ということにドライバーの唐突な慌て振りによって気付く。確かに町中の家という家、店という店が、門や戸を閉め切って、静まり返っている。突然ドライバーの知り合いらしい男がバイクに乗って現れ、緊迫した口調で何やら話してから、僕らの車を誘導し始める。ドライバーの慌て口調から、何度かムスリム・ストラッグルという言葉が聞き取れ、またしても宗教紛争のようなことが生じていることを知る。
 バイクの男は、僕らをホテルまで安全な道を通って誘導するツーリスト・オフィスの人であることが、ホテルに着いて落ち着いたJasvantに詳しい事情を聞くことによってわかった。
 しかし、ホテルからは一歩も出るな!とのこと。ホテルのレストランで少々高めの夕食をとり、早めに寝床に就く。


1997.12/20(土)快晴
*ジャイプル

 ムスリムの抗争は夜間だけの話らしい。まるで何事もなかったかのように観光は朝の10時からスタートした。

 最初に行った山城アンベール城では、駐車場から城門までの道を象の背にゆられて登る。話に聞いていたほど高くて怖いという感じでもなく、ゆったりとした揺れが心地よかった。ただし、象の周囲を土産物売りがうるさく付きまとい、それが非常に目障り。城中では、豆屋の爺さんにピーナツやるから写真を撮って送ってくれと言われ、応ずる。

 昼食後、マハーラージャが今も暮らす宮殿、シティパレスへ行く。そこで知り合ったインド人の若者たち(そのうちの一人は、宮殿の住人だった)にツアーで観光地と土産物屋に連れ回されるよりも、インド人のリアル・ライフを見るべきだと言われ、彼らのうちの一人の家を訪問することになる。ただし、そのためにドライバーのJasvant始めツーリスト・オフィスの人たちには迷惑をかけてしまった。(特にJasvantは最初、反対したけど、途中から僕らの希望を叶えるべく努力してくれた)。
 ところが、いざ彼らの家を訪ねてみると、彼らが学生ということもあってか、単に厚手の敷布が敷いてあるだけの簡素な部屋に通されるのみで、食事もスナック菓子とパンを取り分ける程度。食事の後は、ただひたすらインド版賭ポーカーをするばかりで、これでは日本で貧乏学生のアパートを訪ねたのと何も変わりはしない。何がインド人のリアル・ライフだ! ましてや、ポーカーがつまらないので別の部屋で早々に寝始めた僕が朝方目覚めると、背後に人の気配を感じ、何かと思って振り返ると、「Play Sex?」と彼らの一人に超マジな顔して聞かれる始末。僕はただ「No」とのみ繰り返し、他の2人の日本人が寝ている部屋へ行って、そろそろホテルに戻ろうと彼らを起こしてまわった。


1997.12/21(日)快晴のち曇り
*ジャイプル〜アーグラー

 ツアー最終日。最悪の目覚めのまま、ジャイプル市内の風の宮殿を見て、車はアーグラーへと向かう。途中、ヒンドゥーとイスラームの文化的融合をめざして作られたというファテーブル・スィークリーという城跡に寄るが、融合というよりは単に中途半端でしかないように見えた。

 夕方3:50頃、アーグラー市内到着。タージ・マハルの入場料が4時過ぎるとRs15からRs125に跳ね上がってしまうということで、Jasvantも大慌て。ところが、とある店の前で突如車を止めたかと思うと、Neerajという青年が爽やかな笑顔を振りまきながら、車に乗り込んできた。「こんにちは。アーグラーへようこそ!」とハッキリとした日本語で彼は話し出す。Jasvantの友人で、タージ・マハルの日本語ガイドをしてくれるとのこと。アーグラー大学で日本語と日本文化を学んでいるというだけあって、Neerajの日本語はたいへん分かりやすい。ただ、わかりやすく、妙に丁寧であるだけに、ときおり混ざるへんに乱暴な言葉がおかしくてしょうがなかった。例えば、マジメな顔して「この大理石の部分には金を貼って、そのあとダイアモンドで攻め込みます!」と言い出したり‥‥。それ以外でも、ともかく彼の非常にマジメな性格というか、本当に本当のことしか言わない好青年振り(僕らを連れていった土産物屋からはマージンをもらってるのか?と訊ねると、素直に明るく「ハイッ!」と答える)が、僕ら(特に僕とK氏)にはメチャクチャ受けた。また彼らが連れていってくれた土産物屋の売り手もなかなかのキャラ揃いで、普段なら面白くもない土産物屋巡りも大いに楽しむことができた。

 タージ・マハルはとにかく観光客だらけ。僕以外の2人は敷地内でなんと立小便を!それが祟ったのか、アーグラー城は韓国の要人が来ているために入場することができず。
 バナーラス行きの列車が来るまでの時間を、楽士実演のちょっとリッチなレストランで、相席したイギリス人老夫婦とともに過ごす。夜10時過ぎ、アーグラー駅前でJasvantと別れの挨拶。


1997.12/22(月)快晴
*〜バナーラス

 朝、「もうバラナシ(ムガール・サライ駅)だぞ!」と車掌に起こされ、慌てて荷物をかき寄せて列車から降りたため、寝袋を入れる袋を車内に置き忘れてきてしまった。これは結構厄介な出来事で、どうにかビニール袋に詰め込んで、リュックに納めはしたものの、見るからにはち切れんばかり。さらには、荷物の詰め込みに四苦八苦している間に「バス停を探してくる」と言って出掛けたA氏が、いくら待っても戻ってくる様子がない。結局、はぐれたものとあきらめ、K氏と二人でバスに乗って市の中心部へと向かう。
 駅から市内へ行くバスは、途中、ガンジス河に架けられたマーラヴィーア橋を渡る。僕が「地球の歩き方」の地図を見て、そこから市内までさほど遠くなさそうだからガンジス河沿いを歩いて行こう!などとバカげた提案をしたために、そこから町まで4kmはあろうかという距離を、重い荷物を背負って歩く羽目に陥る。K氏にはたいへんな迷惑をかけてしまった。それにガンジス河は若干増水していて、常に河沿いを歩けるというわけではなく、入り組んだ路地を彷徨い、目的のホテル到着は昼過ぎになってしまった。
 しかし、その間に町の様子は充分伺うことができたし、危ないから単独では行かない方がいいといわれている火葬場周辺なども、あまり警戒しないで歩くことができた。火葬場周辺の路地を徘徊しているとハシシ、ハシシとやたら声をかけられる。インチキが多いと聞いていたので、からかい半分に値段を聞くだけにしていたのだが、その中の一人で目が完全にイっちゃってる超ヤバそうな売人がいて、決して値段を下げようとしないし、しつこく売り込もうとしないので、こいつは本物かも?ということで彼から購入しようということになる。買う際にも周囲をやたらと気にして、ともかく人の目に触れないところで僕らに売ろうとしていたので、たぶんそいつは本物だったのだろうと思いたい。

 ホテルは、情報収集の意味もあって、久美子さんという日本人が経営するKumiko-Houseに取り敢えず一泊分、K氏とダブルの部屋を取る。ガンジス河畔のとても気持ちのいい部屋。ちなみに久美子さんは、あまりどういう人だろうかと想像していなかったのだが、りえママみたいな人だったので、かなり驚いた。
 部屋のシャワーが水しか出ないので、昼のうちに軽く浴びてから外出。まずは町中探索。最初、わかりにくい地図に戸惑うが、Bangari Tola Laneがどこにあるかを把握して、だいたいの町の輪郭は掴めた。途中、久美子さんに教わったCottage Silk Emporiumという店へ寄り、バラナシ〜カジュラホー、カジュラホー〜ボンベイ間の列車のチケットを予約。日が沈む前にはホテルに戻り、ガンジス河畔でぼけーっと過ごす。
 夕食は、Kumiko-Houseのドミトリーで日本人宿泊客多数と食べ、食後に人生ゲームが始まる。僕は最初、芸能人になり、途中で弁護士に転職して自伝を書き、最終的には無職の人となるのであった。

 K氏と部屋に戻ってから、早速ハシシをやろうということになるのだが、廊下の壁に貼ってある注意書きのなかに、ドラッグでの密告の話を発見。二人とも急にナイーブになる。そこで、取り敢えずの対応策として、みんなが寝静まった頃に始め、蚊取線香で匂いを消し、もうハシシとは言わずに暗号を使おうという作戦を立てる。ところが、K氏が暗号にアーグラーで出会った日本語ガイドの名前はどうだろう?と言い出したため、二人とも彼のことを思い出し、笑いが止まらなくなってしまう。しばらくNeerajと口にする度に笑い、これではハシシをやる前から疑われるんじゃないかという感じだった。
 そのあとでやったNeerajは、即効性は強いのだが、あまり長続きするタイプのものではなく、どちらかというとバッド・トリップ系で、クラクラするばかりで、あまり楽しい気分になれるようなものではなかった。ま、その前にメチャクチャ笑っていたから、それで充分だったのかもしれないけど‥‥。


1997.12/23(火)快晴
*バナーラス

 朝8:30起床。Kumiko-Houseの朝食タイムに遅れ、みんなの食べ残したものをやむなく食べる。部屋に戻ってしばらくぼーっとした後、今日バラナシを立つK氏とともに外出。

 早めの昼食を食べてから、昨日のCottage Silk Emporiumで、チケットの予約状況を聞いたり(ボンベイ行きの列車が混んでいて、なかなか取れないらしい)、サリーやガウンを買ったりする。K氏は実家に電話。

 その後、バラナシ・カント駅まで力車で行き、翌朝の出発まで駅のリタイアリング・ルームで待機するというK氏の部屋を見る。思った以上に綺麗で、シャワーはお湯まで出る。これじゃ、Kumiko-Houseよりいいじゃんか!とひとりごちる。K氏と別れの挨拶をしてから、駅構内の様子を確認。ついでに売店でタイム・テーブルを購入。駅周辺をしばらく散策してから、近くのUP州政府観光局で地図を入手して、再びCottage Silk Emporiumへ行く。しかし、ボンベイ行きのチケットは依然として取れていなかった。正月前のゴア祭りが原因とのこと。別のルートを考えなければならなくなった。

 少し茫然として、ふらっと映画館に入る。想像した通りの笑ってしまうような内容のメロドラマ。以前京橋のフィルムセンターでインド映画の特集をやったときに観たものの方が、同じメロドラマでも百億倍は面白かった。映画を見ている間に、カジュラホーから一気にコーチンまで行ってしまうという手を考え、Kumiko-Houseに戻ってからCottage Silk Emporiumに電話を入れ、その旨、伝える。夕食はいわゆる日本のカレーライスで、それはそれで美味しかった。今後の旅程を考えながら、今日はドミトリーで就寝。


1997.12/24(水)快晴
*バナーラス〜

 バラナシ最終日。あるいはクリスマス・イヴ。・・町では女の子や子供たちがクリスマスカードに群がり、うっすらとではあるがクリスマスムードも漂っている。
 その日、僕の目覚めは最悪もいいところだった。昨晩からの蚊の襲撃で碌々眠れもせずに目覚めると何やら右目の瞼の上に異物感を覚え、触ってみるとぷくりと腫れている。明らかに視界が狭まったような気がするので、鏡を覗いてみると、右目の瞼はもはや自分の顔だとは思えないほどに膨れ上がっていた。一瞬、病気かと不安になり、久美子さんに診てもらう。が、彼女から、それは蚊だから心配することはないとあっさり言われ、ほっとはしたものの、あまりのあっさりさ加減にちょっと拍子抜けしてしまい、恥ずかしさをごまかすためにももう少しまともな理由が欲しかったなどとも思ってしまう。虫刺されだという割には痒みがほとんど感じられず、とにかく恥ずかしさだけが先立つので、ムヒを瞼に強引に塗って荒治療を施し、眼鏡をかけて外出した。

 まずはここ2日続いていた列車のチケット云々の決着をみるために、Cottage Silk Emporiumへ。ところが、午前中の時点では依然として芳しい結果は出ておらず、バラナシを発つギリギリの時間の夕方まで、待たなければならなくなってしまった。そこで、この際だからということで、昨夜考えていたコーチンから南海岸沿いを回ってマドラスまで行き、そこからデリーまで飛行機で帰るというマドラス〜デリー間の飛行機チケットも頼んで、取り敢えず、夕方まで最後のバラナシ巡りをして過ごすことにした。

 これまでいわゆる観光というやつといわゆる庶民生活というやつにしか触れてこなかったので、町の郊外にあるバラナシ大学の方まで脚を延ばし、音楽の授業を覗いたり(ほとんどがシタールのレッスンだった)、構内の美術館に行ったりした(1点、鏡をモチーフにした気になる作品あり)。男女ともにほとんどの学生がジーンズを穿いていて、ともすればアメリカン・スクールみたいな雰囲気だと言えないこともないような気がした。
 その後、町に戻り、M氏にリクエストされた「ゾウ入りの何か」を買ってからガンジスの畔へと向かった。ガートに座ってぼーっとしていると、突然30歳前後の男に手を握られ、何かと思っていたらマッサージ師だという。「As you like〜」というので、しばらくされるがままにしていたら、半勃起状態になってきてしまい、前もと言われたところで辞めてもらった。相変わらず機械的に扱れることに弱いワタシ(^^;;

 いよいよ夕方になり、Cottage Silk Emporiumへ行くと、お店のオーナーが「タカトサ〜ン、You are Luckyね〜!」と遠くから大声で叫んでいるので、すべてが希望通りに行ったことを知り、ほっとする。実際、この時点ですべての旅程は定まり、もうチケット云々で悩まされることもなくなったのである。

 出発前にKumiko-Houseに荷物を取りに戻り、町中よりはクリスマスムードの濃厚なドミトリーで最後の夕飯を食べる(何人かはビールで乾杯していた)。食事中、隣にいたU氏(幼馴染みのK氏に似た精悍な顔つきをしているので気になっていた)と話しているうちに、彼が写真家であることが判明。荒木経惟を中心にアジェのことや報道写真についてなどいろいろ話す。彼の写真には、自分では気付かずに撮っている共通する癖のようなものがあるらしく、面白そうだったので、住所交換をした。なお、U氏は佼成学園物語バンドJ氏が現在行っているアジア横断の旅をほとんど1ヶ月遅れで辿っているので、そのうちどこかで会うかもしれない。


1997.12/25(木)曇りのち晴れ
*〜サトナ〜カジュラホー〜ジャンスィ

 とてつもなくハードな1日だった。とはいえ、いつものようにその、、大したことはやっていないのだが‥‥。

 まず昨晩のサトナ行き列車に乗り込むところに戻るが、例によって列車到着が遅れ、極寒のプラットフォームで待たされること2時間。アーグラーでの乗車のときは、ツアー会社が用意してくれたホーム案内人がいたからよかったが、今回は一人なのでまるで要領を得ず、駅構内を不安な面持ちでただただふらつきまわるしかないのであった。
 最も困ったのが、列車やホームに全然英語の表記がないこと。駅員はどいつもこいつも言うことが違うので、どこのホームから出発するのかすらわかりゃしない。手当たり次第、いろんな人に「Which platform is this ticket's train?」とハチャメチャ英語で聞きまくり、どうにか同じ目的地へと向かうボンベイ在住のインド人家族旅行者と知り合えたからよかったものの、彼らと出会えなかったらと思うと本当にぞっとする。おそらくインドのインテリ階級に属するだろう彼らとは、列車を待つ間、いわゆる比較文化論的な話などで盛り上がったのだが、日本人である僕が2等寝台に乗るということを知ったときの彼らの驚いた表情ほど印象的なものはなかった。もちろん1等寝台に乗る彼らとは車両が違うので、列車に乗り込む時には「Good night and Good bye!! 」と言う。
 僕が乗り込んだ2等寝台車両は、電気が壊れていて車内は真っ暗。ベッドも窮屈だし、寝袋に入っても滅茶苦茶寒く、とにかく最悪の乗り心地だった。ましてや前回の失敗があるので、寝過ごしが不安で碌に眠れやしない。到着3時間前(朝5時)頃には、もう寝袋をたたみ、いつ着くとも知れぬ下車の時間を待ちかまえていたのであった。

 サトナには朝8:30到着。まわりの乗客に「サトナか?サトナか?」と何度も確かめ、それでも不安を抱えて列車を降りる。幸運にもそこで日本人観光客らしき女性二人組を見つけたので、なりふり構わず近づいてここがサトナの駅だということを確認、ようやくほっとすることができた。
 彼女たちは、日本の旅行会社で日本語ガイド付ツアーを手配してインドに来ているOLさんとのこと。サトナからカジュラホーまでは用意された車での移動ということで、僕もその車に便乗させてもらえることになった。どうも同乗の日本語ガイドのインド人がセクハラ紛いのことをしてくるようで、僕にいてもらった方が助かるということでもあるらしかった。車中では、そのガイドの苦労話や、三国志が好きで中国に行ったというちょっと変わったK氏の話などで、大いに盛り上がる。ここ数日、貧乏旅行の小汚い連中に囲まれてきたものだから、車の後部座席で彼女らの発散する甘い香りに包まれると、恍惚とまではいかないまでも、そこはかとない心地よさを覚えずにはいられなかった。彼女たちと出会えたのは、カジュラホー行きのバス停探しから始めずに済んだということ以上に、ラッキーだったといえよう。
 カジュラホーに着いてからも彼女らと観光したいところであったが、翌日の昼12時ジャンスィ発の列車を控えているために、それに間に合う交通手段を確かめに、一人カジュラホーのバス停へと向かった。

 結果からいえば、翌昼の列車に乗るためには、今日の夕方、最終便となるジャンスィ行バスに乗らなければならないことがわかり、カジュラホー観光は出発までの3時間半という短い時間を、大慌てでまわらなければならなくなった。
 とはいえ、荷物などのこともあるので、まずはバス停近くのホテルへ行き、荷物を預け、食事をし、3日ぶりくらいのシャワーを浴びる。食事中、ホテルの暇そうな従業員たちが話しかけてきて、僕の持ち物に興味を示し出し、時計をしていないことを不審がるので、ポケットからバンドのちぎれた時計(デリーで破損)を出すと、大いに笑った後で、急に真剣な顔をして「腕時計というのは腕につけるものだ! 100ルピーでなおしてやる」と言う。最初迷ったが、確かに不便ではあったので、相手の時計と引き換えに観光している間に修理してもらうことにする。
 そのホテルはレンタルサイクルもやっていたので自転車を借りて、ついでに見所のある寺院も教えてもらって、大急ぎで寺院をまわる。お目当てのエロ彫刻群は思っていたほどたくさんあるわけではなく、それほど刺激的というわけでもなかったが、寺の中で祈祷師みたいな人から白毫を受けて花輪を首にかけてもらったりしたことの方が面白かった。
 西の寺院群を見終わりかけて門から出ようとしたとき、ジャグダンベ寺院付近に先程の彼女らがいるのを発見。東京でこのお礼はすると言って、しかし、僕は時間が差し迫っていたので、一方的に自分の名刺を渡して別れた。
 時計を受け取りにホテルに戻ると、修理を頼んだ男が自慢げになおった時計を僕に見せつける。確かに黒のシックなバンドで悪くはない(実は本皮製の値打ちものだった)。ただし、インド人の男性はみな時計を右腕につけるらしく、バンドの向きがさかさまだった(笑)

 夕方4時発のバスに乗ってジャンスィへ。同乗したイタリア人旅行者から日本旅行の相談などを受けたりしながら、夜10時過ぎに駅到着。駅のリタイアリングルームが満室だったので、仕方なく駅から2kmほど離れた町中のホテルまで力車に連れていってもらった。サービス悪くて、飯も不味い。そのくせ料金だけは結構する。最悪!(涙)


1997.12/26(金)曇り
*ジャンスィ〜ナンプール付近(車中)

 朝9:00起床。丸2日かけて一気に南下する列車移動を控えているため、ぬるま湯で頭と顔だけは洗ってからホテルを出る。2kmくらいならと思って駅まで歩いたのだが、リュックの重さは背中に相当堪えたようで、駅到着後、食事のために逆戻りする形で力車に連れて行かれたレストランで、鞄の紐を解こうと力を入れたときに、背中に陣痛が走り、以後その痛みが現在まで続いている。ちなみにそのレストランは、昨夜最初に連れて行かれて満室だったホテルのレストランで、食事はとても美味しく、宿代は半分もしなかった。駅に戻る前に、力車に果物売場に連れていってもらい、バナナとみかんをたらふく買い込んでから、12:40発エルナクラム・ジャンクション行きの長距離列車に発車ギリギリで飛び乗る(またしてもホームで彷徨った)。サトナ行寝台車の乗り心地の悪さのこともあるので、最初A/C車両に切符を交換してもらおうかとも思ったのだが、視野の明るい昼に乗り込んだせいか、それほど居心地も悪く感じないので、そのまま2等寝台で済ませることにした。これまでほとんど持てなかった読書の時間にようやく恵まれ、谷崎の「猫と庄造と二人の女」を一気に読破。続いて蓮實重彦の「反=日本語論」をしばらく読みつつ、辞書替わりに持ってきた英会話ブックで、会話の練習をする。昼食はバナナで済まし、夕食は僕の下のベッドで寝るインド人中年男性と同じエッグ・カレーを注文。いわゆる車内食ってやつを食べた。列車は9時に消灯らしい。あと10分ほどたつと寝るしかなくなるのだろう。徐々に南に近づき、だんだん暖かくなってきた。背中の痛みを和らげてくれるとよいのだが‥‥。


1997.12/27(土)快晴
*ナンプール〜サレム付近(車中)

 昨夜、どうも気分がすぐれないと思っていたら、とうとう下痢に見舞われてしまった。深夜から夕方にかけて幾度となくトイレに行くことを繰り返す。おそらく原因は夕食のエッグカレーだろう。胸のあたりをゆで卵特有のいや〜な匂いがずーっと立ち込め、腹だけでなく、頭までが痛い。そんなこんなで今日は一日、寝台車でリタイアしていたた。

 バナナ以外ほとんど何も食べず、胃を空にして正露丸攻撃を仕掛けてみたところ、どうにか夕方頃には腹の痛みや卵臭さもおさまり、手紙を書いたり、本を読んだりすることができるようになる。昨日に続き、蓮實重彦の「反=日本語論」に目を通していたのだが、インドで蓮實を読んでいる自分というのが、急にこの上なくおかしなものに思えてきて、苦笑する。この本は読み終えたら、インドに捨てよう。


※追記‥‥この日の深夜に車窓から眺めた満天の星空は、とてつもなく美しかった。また、大量の流れ星かと勘違いしてしまった蛍の圧倒的な量には息をのむものがあった。


1997.12/28(日)快晴
*〜コーチン

 コーチン午前9時着。さっそくホテルに行き、シャワーを浴びつつ、洗濯をしつつ、ウンコをする。下痢からは完全に復調した模様。

 11時頃より街の探索を始める。日曜日でほとんどの店は休みだが、スーパーマーケットまでしっかりあるコーチンは、かなりの都市であるようだ。これまでの町の雰囲気とは全然違う。特に気になったのが、北部ではほとんど見かけることのなかったカップル同士のいちゃつく姿。それから太っている人が多くなった。きっと暮らし向きが豊かなのだろう。
 それにしても日の照り返しはメチャクチャ強く、暑くてしょうがない。12月でこれだと夏はどーなるんじゃ?と思ったが、ガイドブックによると、西海岸南部は一年中同じような気候らしく、夏に50度近くまで気温の上がる北部に較べるとだいぶ過ごしやすいようだ。

 ところで、僕はこのコーチンでの一日の過ごし方を完全に踏み誤ってしまった。街を手軽に巡るいくつかのツアーの中から、ロマンチック・サンセット・ツアーなるものを選んでしまったのだ。実はいま、そのツアーの途上(船上)でこの文章を書いているのだが、サンセット・ツアーとは文字どおり日の入りがよく見えるポイントに船で行って戻ってくる、ただそれだけのツアーだったのである。どうりでツーリスト・オフィスの人が、サンセット・ツアーを申し込んでいるのに市内観光ツアーの方を執拗に勧めるわけだ。スケジュールの都合上、明朝にはアレッピーに行かねばならない。つまり、コーチンはこれっきりということになってしまった(**;;
 それにサンセット・ツアーだからして、出航時間が夕方なので、それまでの時間を日を避けることばかりに集中して、無意味に過ごしてしまう。ばかりか集合場所を勘違いして、猛暑の中を1kmばかり、猛烈ダッシュしなければならない始末。今朝方、列車の中で靴を盗まれたこともあり、つっかけ履きでの行動だったので、足には大きなマメができてしまった。

 それにしても、さきほどの日が沈んでからの乗客たちの反応はおかしかった。日が沈むまではあれほど盛り上がっていたのに、いざ沈んでしまうと、沈黙が支配するエレベータの中にでもいるかのように、みんながみんな、居たたまれない表情をしていたのである。


1997.12/29(月)快晴
*コーチン〜アレッピー〜クイロン〜トリヴァンドラム

 バックウォーター・クルージングで南国気分に浸りたい!
 そう思ってはるばる南までやってきたのだが、その気分を満喫できたのは、乗船してわずか30分ばかりの話であった。
 椰子の葉が枯れかかったバッド・シーズンだったということもあるのかもしれないが、それにしても河の水が汚すぎる。それに川幅が広すぎて、生い茂った密林という雰囲気がまるでありゃしない。これじゃドブ川みたいな印旛沼でボート釣りしてるのとたいして変わらないじゃないか!

 結局僕は、クルージングの大半の時間(約8時間)を船の中で寝るか読書するかして過ごした。それでもあまりに退屈なので、同じ船に乗っていたインド人大家族の中の女の子(4人姉弟の3番目で10歳くらい)の一人に着目。その子の写真を如何にして盗み撮りするかという偏執的なゲームにひとり熱中し、時間を潰す。
 結果としては、1枚のみシャッターを切ることができたわけだが、この盗撮のターゲットとなった子というのが、僕のお好みのいわゆる猫系の女というやつで、挙動不審で悪戯好きな反面、妙にこまっしゃくれた側面も持ち合わせている。僕はあくまで彼女を鑑賞の対象に留めておきたかったので、近くにいるのに話しかけることもせず、ひたすらシャッターチャンスだけをひそかに待ち受けていたわけだが、そんな僕の思惑を知ってか知らずか、彼女は彼女であくまでも僕に対してはそっけなく、決して子供特有の愛嬌のある素振りをこちらに向けたりしようとはしない(他の西洋人乗客などには如何にもな愛想を振りまいているというのに)。
 ところがである。僕が何の気なしにデッキの方に出て、チャイニーズ・フィッシング・ネットなどに目を向けていると、どういうわけか彼女が僕の横に並んで、同じ方を見やりながら、僕の手を握っている。不意を打たれた僕は、驚きを隠しえずも無理に覆い隠そうとし、あくまで仕方なしにという趣で(といっても、内心ほくそ笑みながら)、彼女に然り気なく話しかけようとした。すると彼女はくるりと背を向けて、両親たちのいる方へと戻ってしまったのだ。
 僕は呆気に取られ、すごすごと船室に戻り、再び読書にいそしもうとするのだが、なかなか身に入らない。それでも頭に入らぬ活字を目で追っていると、悪魔のような小娘が再び僕の側に寄ってきて、今度は僕の足元に頭を擦り付けたり、本当に猫みたいな身体的接触をはかってくる。僕はこのチョッカイというか誘惑に素直に答えてはまたアホをみると思い、素知らぬ振りをして頭に入らぬページをめくり続ける。もはやイッパシの駆け引きである。この結末は、クイロン着30分前に彼女の家族が船室に戻ってくることで、何事もなくあっけない終わりを告げたわけだが、彼女が両親に手を引かれて船を下りるときにこちらを向いてニヤッと笑ったのには正直言って参ってしまった。

 バック・ウォーターの終点、クイロンに着いたのは夕方6時半。クイロンは何もない小さな町なので、そこからトリヴァンドラムまで一気に行ってしまわねばならない。休む間もなく満員のバスに乗り込んだ僕は、2時間立ちっぱなしの行程であったにもかかわらず、あまり疲れを感じることもなく、漠然とさきほどの自分の行状について御浚をし、何とも情けない気分に陥っていた。

 トリヴァンドラムに着いてうろうろしていると、バック・ウォーターのツアーで昼食時に言葉を交わした日本人男性(大阪府の公務員)と再会。夜も夜なので、空きホテルを見つけるのはなかなか難しかろうということもあり、一緒にホテルを探し、4軒目でようやく見つかったホテルのツイン・ルームに一緒に泊まることにする。荷物を降ろしてから、近くのバーでビールで乾杯。ここまで疲れを持ち越していたせいか、一杯目がとても美味しく感じられる。それにしても、この旅行中、アラーキーの話をすることが多い。


1997.12/30(火)晴れ
*トリヴァンドラム〜コヴァーラム・ビーチ

 朝8時起床。シャワーを浴び身支度を整えてから、荷物をホテルに残していったん外出。昨夜、一緒に泊まった日本人旅行者とは、駅の近くで別れる。彼は列車でカニャークマリへと向かうという。
 僕は銀行に寄ってから、しばらくトリヴァンドラム観光を気取って、動物園と美術館へ行った。動物園はどうということのない井の頭動物園クラスの動物園ではあったが、サイの格好良さにはついつい見とれてしまう。園内でも男同士で手をつないでいる光景がそこかしこで見られるので、思わず一枚パシリ。美術館は、博物系は面白いけど、いわゆる現代美術(?)の方は最低。
 ホテルに戻って荷物を背負ってから、コヴァーラム・ビーチ行きのバス停まで、近いけど力車に乗って行った。

 ビーチまでは、バスでおよそ30分くらいの道のり。一番前の席に座ったので、運転手の荒っぽい運転にスリルを楽しむことができた。バスを降りた途端、ホテルの客引きがやってくる。シングル100Rsでバス停からそれほど遠くないというから、ついていったのだが、かなり遠くて頭にくる。しかし、重い荷物を背負っていることもあり、それから他を探す気力も湧かなかったので、その部屋にチェック・インしてしまった。
 荷物を降ろし、しばらくベッドで休んでから、砂浜を歩いてインフォメーション・センターまで地図をもらいに行く。確かに歩くたびにキュッキュッと泣くような音がする。あまり役立ちそうにない地図を受け取ってから、さっそく泳ぐことにした。おそらく10年振りくらいの海水浴。結構荒波で、しかし波に呑まれることがこんなに楽しいとは思いも寄らなかった。
 その後、カフェでくつろぎながら、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」を読む。夕食は、CRAB CLUBという魚介類メインのレストランで、日本人旅行者の集団と一緒にとる。エビの料理はどれもこれもインドとは思えぬ美味しさであったが、日本人旅行者たちの会話にはあまり溶け込めなかった。コヴァーラム・ビーチは南インド一番のリゾート地で、ここの居心地のよさに留まる旅行者の数も少なくないらしい。

 コヴァーラム・ビーチ、あと何日、ここに居続けるべきか?
 コヴァーラム・ビーチ、ここはまぎれもなく通俗的な意味でのリゾート地である。オープン・カフェが浜一体に軒を連ね、ぶくぶく太った西洋人の金持ち中年たちがトドのようにゴロゴロと寝そべっている。よってその雰囲気を嫌い、ガイド等にもあまり載っていない、ここから少し離れたところにあるワルカラ・ビーチへと場所を移す輩もいるという。かくいう僕も当初はコヴァーラムの通俗性に嫌気が差して、ワルカラに移動しようかとも思っていた。だが、その思惑はたった1回限りの視線の交錯によって敢えなく消える。エリック・ロメール監督「夏物語」


1997.12/31(水)快晴
*コヴァーラム・ビーチ

 久々に1つところに留まり、のんびりと1日を過ごす。朝は9時頃起きて、ゆっくりと行動を開始した。

 午前中はカフェでブレックファストと読書。蓮實の「反=日本語論」とルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」を交互に読む。
 昼から午後にかけては、高い波に揉まれて泳いだり、ビーチに寝そべって日焼けしたりした。ただ、日焼けの方は、どうも甲羅干しの姿勢を保ち続けることに堪えられず、結局砂遊びに転じてしまう。何とはなしにネルフの本拠地(ピラミッド)作りに熱中していると、いつの間にやら、大勢のギャラリーが僕を囲んでいた。
 夕方から日が暮れるまでは、再びカフェで読書。「反=日本語論」「鏡の国のアリス」ともに読了する。

 今日は、大晦日。カフェやレストランも、幾分浮き足立っていて、昨日とはムードが全然違う。僕もこの日ばかりは一人で過ごすよりは大勢の方がいいと思い、昨日の日本人の溜まり場、CRAB CLUBへ赴き、そこに屯していた日本人観光客多数と別のレストランへ行って、夕食をともにする。といっても、昨夜同様、どことなく居心地の悪さから抜けきれない。ところがその店を出て、CRAB CLUBに戻ってからは、社会人のI氏と2人だけの席となり、ようやく落ち着いてくつろぎながら話すことができた。
 旅慣れたI氏とは、年が明けるまでの時間、インドでの苦労話はもちろん、その他諸外国の旅の話題で盛り上がる。I氏が芸術には疎いと云っていたにもかかわらず、どういうわけか、話はシュルレアリスムにまで及んだ。

 1998年カウント・ダウン。浜辺では酒に慣れていないインドの若者たちが酔っぱらって、暴れ回っていた。お祭り騒ぎを眺めながらホテルに戻り、1時半就寝。


1998.1/1(木)快晴
*コヴァーラム・ビーチ〜カニャークマリ

 7:30起床。ビーチのカフェで朝食をとってからバスでカニャークマリへ。運転手がやたらとクラクションを鳴らしまくるので、乗っていて非常に疲れた。昼過ぎに到着。翌日のマドラス行きチケットをその場で予約する。
 チケット予約の際、そばにいたジジイが世話を焼いてくれたのだが、その後、ホテルの案内を勝手にはじめ、昼飯を驕らさせられた。といっても、僕とあわせて19ルピー。

 ホテルで洗濯などしてから、町を散策。荒波の中を船で行くヴィヴェーカーナンダ岩で、デリーからのインド人家族旅行者たちと親しくなり、デリーに戻ったら是非遊びに来てくれということになる。超、ラッキー!
 特に4人姉弟の20歳の長女・Priyonraはとてもシャイだったが、それでもときおり魅惑的な眼差しをこちらに向けながら微笑んでくれる。何ともはや、シ・ア・ワ・セ・気分!(^^;; それと彼らの家を訪問したときには僕の好物をご馳走してくれるというので、僕は躊躇わずにバターマサラと答えておいた。デリーに戻るのが如何にも楽しみである。

 彼らと再会の約束をして別れた後は、アラビア海に沈む夕陽をのぞむために、ガート近くのレストランで、店員と話しながら時間を潰す。しばらくして日本人数名が入ってきたのだが、日が沈む時間になったので、挨拶程度で店を出た。
 新年ということもあり、ガートには本当にたくさんの人がいる。沐浴している人たちもたくさんいる。僕はココこそがインド最南端だという岩に腰を降ろし、H氏に出すハガキを書いた。夕陽が沈んでからもしばらくは群衆のざわめきを眺めていたら、同じように一人で群衆の中にたたずむ日本人を発見。どちらからともなく歩み寄り、夕食を一緒に食べることにする。

 昨日までコヴァーラム・ビーチで豪勢な食事をしてきたので、カニャークマリのどのレストランを見ても満足できそうな店が見あたらない。渋々ホテルのなかの店に入ってみたものの、味も値段も満足できるものではなかった。しかし、その店で大阪で高校教師をやっているというO氏と知り合い、さきほどのO氏(こちらは埼玉県庁勤め)と3人で飲もうということになり、いったんそれぞれのホテルに戻ってから、怪しげな酒屋の前で待ち合わせ、袋入りのビールを買って、真夜中のガートへ行った。
 沐浴場で酒なんて飲んでてもいいのかな?と3人で顔を見合わせて笑いながら、インドという場所はそれほど驚くべきところでもないね!ということを話した。
 ガート、ビールを飲むにはちと寒かった(**;;


1998.1/2(金)曇りときどき晴れか雨
*カニャークマリ〜マドラス

 マドラスまで14時間(結局17時間かかった)強行の夜行バスを控えているため、朝からハガキなど書いてのんびり過ごす。もっとも早朝、早起きをしてインド洋から浮かぶ日の出を見ようとしていたのだけれど、曇っていたために見れなかった(カニャークマリは、インド亜大陸の最南端。太陽が海から昇り、海に沈むインド唯一の場所である)ということもあった。

 ところで、カニャークマリはどこへ行っても飯がまずい。それだけならまだしも料金が高いとはちょっとふざけている。あまり長居をする気のしない町だ。

 出発1時間前にホテルに荷物だけ預かっておいてもらって、昨夜のうちに見つけておいた郵便局(インドの郵便局はなかなか見つけられない)へと行き、ハガキや贈り物のを渡そうとするが、の形が不定形であるため、ちゃんとした包装をしなければならないという。てっきり郵便局でやってもらえるのかと思っていたら、ここではできないという。仕方なしに、いったん郵便局を出て、包む紙をもらいに果物屋へ行き、包んだ紙に封をするために洋裁屋まで行った。なんでこんな苦労をせにゃならんのだ?(^^;;

 バス停にはどうにか出発10分前には到着。ちょっと焦った。バス停内のレストランで、遅めの昼食を取るべきかどうか迷ったが、まずくてもミールスを食べておいてよかった。なぜなら、その後、14時間(17時間)、ろくな食べ物にありつけなかったからである。


1997.1/3(土)晴れ
*マドラス〜マハーバリプラム

 マハーバリプラムに入ると町のあちこちから石をカチコチ叩く音が聞こえてくる。それもそのはず、この町の名所の一つ、パンチャ・ラタという7世紀半ばに建てられた寺院は、ひとつの巨大な花崗岩を掘り出して造られた、言ってみりゃ超巨大彫刻みたいなものなのだ。それを実証するかのようにマハーバリプラムでは今も多くの石職人がそこかしこで石を叩いている。

 昨日からのバス20時間(カニャークマリ〜マドラス〜マハーバリプラム)のハードスケジュールを押して、今日、僕はこの町の名所を気が狂ったように早足で回った。
 まずは数々の貴重な遺跡が残されているという町の西側にある小高い岩山の麓へ行き、アルジュナの苦行、落ちそうで落ちないクリシュナのバター・ボールを見る。続いて海へ向かい、砂浜を歩いて海岸寺院へ。ところが海側から寺院へ入るには入り口が遠く、そこまで歩くのが面倒だったので有刺鉄線を乗り越えて侵入する。で、入るときはよかったのだが、出るときに有刺鉄線に気を取らせ過ぎて、地面を這っていた刺付の枝に気づかず、踏みつけてしまう。ビーチサンダルだったので、足の裏に突き刺さり、出血。痛みはないが、バイ菌が気になるので、ビーチのレストランで血が止まるまでの間、昼食をとった。20時間振りくらいのまともな食事。そのあと立て続けにUMA Lodgeというホテルの屋上にあるネパール人が経営するベーカリーでもおやつを食べる。このあと出会うI氏も「地球の歩き方」でこの店のことを投稿しているが、久し振りに食べたチョコドーナツはメチャクチャうまかった。
 ベーカリーを出たところで、力車を拾い、町から少し離れた例の花崗岩を掘ってできたというパンチャ・ラタ(5つの寺院)へと向かう。さすがに疲れが貯まっているせいか、往復Rs60とふっかけてくる力車にRs40ってとこでOKしてしまう。それに今日はカメラの電池を買ったり、海岸地方最後ということで食事も海の幸を豪勢に頼んだりとかなり散財してしまった。

 いったんホテルに戻ってシャワーを浴びてから、再び、小高い岩山に登る。山中で、おしっこをしている少女(18歳くらい)に出くわし、目が合ってやや気まずい思いをするも、彼女の姿が見えなくなるなり、僕は持ち前の変態気質を発揮。彼女のおしっこ跡を見たいという強い欲求にかられ、拝みみようとする。が、どういうわけかその湿った痕跡は地面のどこにも見当たらなかった。
 ところでこの小高い岩山には、いくつか見晴らしのよい頂があるのだが、僕はそこに行き着く度にみかんを一個ずつ食べていた。まるで何かの儀式みたいに! しかし、そんなアホけたことに没頭していた報いか、灯台近くの頂で猿にみかんを奪われる。茫然としたまま、夕日が沈む少し前に下山。

 夕食は、カニャークマリで知り合った高校教師のO氏が教えてくれた日本人が経営しているというレストラン「WHITE CAVE KITCHEN」へ行ったのだが、当の日本人経営者が見当たらないのと魚料理がメニューにないのとで、「Papillon」という別のレストランへ移り、豪華なエビ料理を食べる。そのあとでもう一度、その「WHITE CAVE KITCHEN」の前へ行ってみると、中に日本人らしき人がいることを確認。実はそこでいろいろの理由により(満腹であるとか、今更初対面の会話をするのが面倒だとか)、しばしその店に入るかどうか躊躇したのだが、意を決して入ったのは正解だった。
 地元のインド人と1ヶ月前から共同でそのレストランを経営し始めたばかりだというI氏からは、インドでレストランを始めるに当たっての苦労話や裏話、それと今後のヴィジョンみたいなものを聞けたし、偶然その店に居合わせたフランス人旅行者のG氏、F氏とは同じホテルに泊まっていたこともあって、マハーバリプラムの波の話やその店の話、日本の話、そして言語の話等、ゆったりとしたペースでいろいろ話すことができた。ある意味、インドに来て最も充実した一日だったといえるかもしれない。I氏には今後も是非とも頑張ってもらいたいものだ。


1998.1/4(日)晴れ
*マハーバリプラム〜カンチープラム

 朝9時起床。昨夜知り合ったフランス人たちと朝食を食べに例のネパール人のベーカリーに行く。そこで一時間ばかりのどかに過ごした後、ホテルに戻り出発の準備を整え、彼らと別れの挨拶(フランス式の)をした。バス停に行く前にI氏とも店の前で会うことができ、写真を送る旨、伝え、ついでに店の写真も撮る。

 2時間かけてカンチープラムへ。車中では寝惚け眼ではあったが、谷崎潤一郎の「幇間」を読んだ。
 到着後、客引きを煙に巻くために早足で歩き出したはいいが、目的のホテルとは反対に行ってしまい、えらい遠回りする羽目に陥った。

 ホテル到着後、やたらと世話を焼きたがる子供の相手をしながら、しばしの休息。夕方より自転車を借りて町中散策がてら、町から一番離れたところにあるワラダラージャ寺院まで行ってみる。沐浴池のまわりを裸足で歩いていたら、超巨大なムカデを発見。やや驚く(裸足だったし)。

 帰る途中、前から欲しいと思っていたルンギー(南インドの男性が穿く腰巻き風の綿布)を買った。町にはシルク屋が多く、活気に溢れている。


1998.1/5(月)晴れ
*カンチープラム〜マドラス

 7時起床。8時頃よりレンタルサイクルで寺院巡りを始める。
 最初に行ったカイラーサターナ寺院付近はのどかな農村といった趣で、あまりに気持ちがいいので、周辺をしばらく自転車で走り回る。超爽快!

 だが、その後に行ったエーカンバレシュワラ寺院から不幸は始まる。
 そこで話しかけてきた気のいいオッサンが、日本の紙幣が欲しいと言い出し、その話に迂闊にも付き合ってしまったのだ。ホテルに置いてあるので、今、手許にはないと言うと、ならばホテルまで取りに行くと言う。ホテルに行くまでは、寺院のガイドを無料でやるからと言うので、僕もそれならばまあよかろうと思い、ひとまず彼に従ってインドの神様の本当か嘘かわからない説明を聞きながら、2つばかり寺院をまわった。だが、似たようなインドの神々の話にはすぐ飽きが来る。僕はもっと自由に町中を自転車で走り回りたかったので、彼の説明を早々に打ち切って、そろそろホテルに戻って、円とルピーを交換しよう!と言った。
 さて、ホテルまで戻って、鞄に仕舞ってあった財布から千円札を取り出し、等価交換しようとすると、彼は200Rs(720円)も持っていない。僕はそれじゃ駄目だね!と言って自転車を跨ごうとすると、待ってくれ!キミが次に行こうとしているヴァイクンタペルマール寺院は、ボクんちのそばだから、そこで渡せると言う。僕は渋々彼の言うことに従った。
 ところが、ホテルからそれほど遠くないはずのヴァイクンタペルマール寺院になかなか着かない。という以前に、いささか方角が異なるような気もする。僕が、急いでいるんだからもっと早く歩け!とか、本当にヴァイクンタペルマール寺院に向かっているのか?と言うと、そのオッサンは老人をもっと労れ!とか空惚けたことを言う。どうも怪しいと思って、問い詰めたときには、すでに希望の場所とは全く異なるところに連れて行かれていた。昨日自転車で行った町から最も遠く離れたところにあるワラダラージャ寺院が突然目の前に現れたのである。
 ハメられた!と思ったが、ここで揉めるのもバカバカしいし、彼の家がすぐそばだと言うので、ひとまず彼の家に行く。もっとも、家といっても家族もなく、四畳半一人暮らしといった体の寂しい生活。さらには家にある持ち金すべて合わせても300Rsに足りやしない。僕がもう諦めろ!と言って立ち去ろうとすると、彼は突然、居直ったかのようにガイド料を払え!と言い出したので、僕はFUCK YOU!と怒鳴って、家を出た。

 超ムカツク! 自転車で走りながら、超ムカツク!という言葉が何度も頭をよぎる。というよりも、その言葉はすでに口からこぼれていた。
 超ムカツク! しかし、それは連発しているうちに、コギャルの発音にどんどん近づいていくような気がして、次第におかくなっていった。

 でもでもやっぱり超ムカツクゥー。とにかく時間を無駄にした。時間を無駄にしたために、寺院回りもそれで終わってしまったし、マドラスに着いてからも、重い荷物を背負って20分も歩いて現代美術館まで行ったというのに、5時Closedで終わっていた。もうぐったり。近くのカフェで、日本では滅多に食べないピザを注文。超ウマイ! それがせめてもの救い。

 マドラス発の飛行機は翌朝6:40発なので、空港のソファで夜を明かすことに。ただ、あまり早くから居てもなんなので、ピザを食べた後は、続け様だけど、高級料理屋でのんびり夕食を取ることにした。そこで偶然居合わせた日本人旅行者と相席。ところがその彼はA型肝炎の初期症状を引き起こしているらしく、明日から入院するとのこと。それでは僕の暇つぶしに長時間付き合わせるのも悪いと思い、早々に飛行場に向かって、比較的ゆったりとしたソファで朝を待つことにした。


1998.1/6(火)晴れ
*マドラス〜デリー

 朝6:40発の飛行機で一路デリーへ。9:30着。
 リムジンバスでコンノートプレイスまで出る。同じバスに乗り合わせたスウェーデン人のカップルとともにメインバザールまで歩く。ホテルはちょっと高いが、デリー到着日に泊まったところと同じところに泊まることにする。久々のホット・シャワーが嬉しい。

 さて、今日は一日、これから訪れるであろう寒さを凌ぐための防寒具探しというやつに、ほとんどの時間を奪われてしまった。まずはメインバザールでスニーカーを買い、サンダルから履き替える。
 続いて上着を買いにコンノートプレイスへ。リムジンバスに乗っていたときにちらっとBENETTONの看板を見かけたのだ。僕はどういうわけか海外に出るとBENETTONで買い物がしたくなる(トルコへ行ったときもそうだった)。というわけで、BENETTON目指して出掛けたのだが、困ったことにいくら探してみても、その看板が見当たらない。僕はやむなくBENETTONのことは諦め、旅のはじめにお世話になったツーリスト・オフィス(SIGHTS INDIA)へ挨拶に行くことにした。ところが、そう思って行き先を改めた途端、BENETTONの看板は現れる(笑)
 日本円にして考えれば安い買い物なのだが、財布の方は完全にインドの物価モードなので、なかなか高いものには手が出ない。黄色にするか赤にするか、かなり迷った末、黄色のトレーナーを購入した。それから後は再びコンノートプレイス周辺を散策。

 どうも僕はパリのような円型都市の地理把握が得意になれない。思考がグリッドで固まってしまっているのだ。円をグリッドに置き換えて考える続けるか、それとも思考自体を円型に置き換えてしまうか、そんなインドの旅も明日で終わりである。


1998.1/7(水)晴れのち濃霧
*デリー

 インド最終日。9時起床。午前中は土産物など見てのびのび過ごす。

 午後は、美術館まわり。Indira Gandhi National Centre for the Artsで、Gita Govindaというアーティストがやっていた個展をみる。CD-ROMを使ってインドの文化・歴史を淡々と紹介していく作品が目を惹いた。最も目を惹いたからと言って、特別画期的なものだったというわけではないのだが、インドでこういうことをやっているとついつい気になってしまうのだ。インド古来の図柄は、妙にモニタとしっくり合う。僕はそれを見ながら、モニタのサイズということについてあれこれ考えていた。

 夕方、カニャークマリで出会ったGupta Familyの家に電話をするために、いったんホテルに戻る。彼らの家に電話(7日の午後6時に)をかけてから訪問するという約束になっていたのだ。ところがホテルのカウンターで従業員にそのことを話していたら、その従業員が、彼らの住所を見て、ここからそこまで行くには早く見積もっても2時間はかかると言う。つまり彼らの家に行っていたら、深夜1時発の飛行機には間に合わなくなるということなのだ。がび〜ん。僕はしぶしぶGupta宅に電話をかけて、電話口に出た次女に、ホテルの従業員の方から行かれなくなった理由を説明してもらった。あ〜あ、がっくり。彼らの家でたくさん写真撮ろう(特に長女・Priyonra)と思って、フィルム、わざわざ残しておいたのに‥‥。

 それから出国までの間は、しらけ気分のまま、無為に時間を遣り過ごすしかなかった。


1998.1/8(水)曇り(霧空)
*デリー〜

 濃霧のために飛行機の着陸が遅れ、結果、19時間遅れの20:30発のフライトということになる。帰りの韓国が、完全に丸一日分が潰れてしまった。至極、残念。
 とにもかくにも無駄に疲れる一日だった。常時、アナウンスを気にしていなければならないので、読書もロクに身に入らない。加えてアシアナ航空のハプニング時の応対があまりに杜撰。ちゃんとした説明はしてくれないし、無意味に乗客をあちこち引っ張り回すしで、他の乗客も最初は怒っていたが、疲労がピークに達するとみんな捕虜にでもなったかのように押し黙っていた。

 アシアナ航空の体たらくぶりは以下の通りだ。まずは空港でロクな説明もなしに3時間ばかり乗客を放ったらかしにする(1時〜4時)。ようやくスチュワーデスがお迎えにきた(飛行機会社の中で一番遅かった)と思ったら、乗客に無意味に空港内をほっ付き回させる(4時〜5時)。やっと睡眠をとるためにホテルへ連れていってもらえたかと思ったら、2時間後にはチェックアウトといわれ、ロクタマ眠れやしない(5時〜7時)。ホテル内でビュッフェの朝食(7時〜8時)。その後、バスに乗らされ、市内観光(これにはインド人乗客が怒り狂っていた,8時〜15時)。誰もが空腹を通り越した頃にようやくホテルで昼食(またしても、ビュッフェ,3時〜)。そしてそのホテルで出発までの時間を潰す。と以上、乗客のことなどまるで考えてないのでは?というスケジュールで、僕らは振り回されたのであった。

 そんな中、僕は辛うじてその苦境から逃れるために、目敏く乗客の中から皮コートをうまく着こなす美貌のインド人女性を見つけ出し、然り気ない尾行と観察を続ける。そして会話を交わすチャンスにまで恵まれたのだが、如何んせん、彼女にはダディが付いていたので、事務的な会話に留まるしかなかった。もっとも僕の場合、英語だとそもそもが事務的な会話に留まるか、いきなりアイ・ラービューにでも飛躍するしかないわけだけど(笑)
 それと、ホテルの食事で、本来なら昨夜Gupta家の食卓で出るはずのバターマサラが食べられたことがせめてもの救いだった。これでインドもホントのサヨナラ! 明朝6:30ソウル着予定。


1998.1/9(金)曇り
*〜ソウル

 2度目の下痢。昨日のホテルでの暴飲暴食が原因か? それとも機内食か? 機内で気分が冴えないと思っていたら、ソウル着陸と同時にトイレで(というか、トイレのドアの前で)吐いてしまった。酒を飲んでもほとんど吐くことのない僕にとっては、吐くこと自体珍しい経験ではあったが、それにしてもあれだけの量の自分の嘔吐物を見るというのは初めてのことで、その光景は単に気持ち悪いという状態を超えて、いささか心地良いものがあった(嘔吐物にはものの見事に昨夜の食べ物がそれとわかる状態で出てきたし、血みたいなものまでが混ざっていた)。

 しかし、嘔吐物特有のあのいや〜な臭いはいつまでたってもついてまわり、下痢も始まっていたので、わざわざ検疫に寄る元気もなく、その日は一日、気分最悪のままホテルで過ごすことになる。ただ、空港内の観光情報局で紹介してもらった新進荘モーテルのご主人夫婦は英語はわからないけど、こちらが気分が悪いことを伝えると、辞書を片手に片言の日本語でいろいろと面倒をみてくれた。その親切心に日本と韓国の(知識でしか知らない)過去を想う。僕もガイドを見ながら、カサハニダ(ありがとう)とか、チャ・モゴッスニダ(ごちそうさま)とか、最低限の会話は韓国語で応えてみる。韓国語を自分で発音すること自体が嬉しい。アンニョン・ハシニカ(こんにちわ)。テレビで銀河鉄道999を見る。メーテェー


1998.1/10(火)曇り
*ソウル〜東京

 朝6:30起床。7:15にホテルを出て、空港には8:05着。10:05の出発時刻まで、ソファで本を読みながら時間を潰す。飛行機は発着ともほぼ予定通り。途中、富士山を上から眺める。

 この書き出しが、この旅行記初日の書き出しとほとんど重なっていることに気づく方がおられるとしたら、それはもう感謝の言葉も申しようがないけれど、しかし、この旅行記を通じてある一貫した文体が保ち続けられてしまったことは確かだろう。体言止めを多用した出来事の羅列する文章。その意味でこの日の書き出しもまた、他の日と変わらぬように始まっているかに見える。だが、その書かれ方はこれまでとはいささか異なるものなのだ。
 私はこの旅行中、黄色の小型メモ帳に青の小型ボールペンで、毎日、日記のようなものを書きつけていた。そして帰国後、その日記に幾分かの加筆修正を与え、写真と組み合わせてHTMLで書き起こしたものが、この「インド旅行−旅の日記」である。
 ところがこの旅行記には一日だけ、その手順を踏まずに書かれたページがある。それがこの日であることはもはや言うまでもなさそうだが、この1/10付の日記ばかりは、その日付から4ヶ月も過ぎてようやく書かれつつある、ましてや、黄色のメモ帳に青のボールペンでではなく、キーボードを叩いて直接コンピュータに打ち込まれようとしている、といった書かれる条件からそのパースペクティヴまでがおそろしく違うものなのである。
 よってここでは、その日の出来事を忘れぬうちに書き留めようとする文体の勢いが薄れた代わりに、コピー&ペーストなどの編集作業によって失われた記憶をごまかそうとする文体(文体というよりは文内容)が勢いをもってきている。

 入国手続き等を終えて飛行場のゲートを出たのが、午後1時。東京の大雪にやや驚く。電話、荷物宅配を済ませ、京成線で上野へ。そこで、旅行中はその存在すらすっかり忘れていたコギャルの群れに出くわす。とにかくそれがおかしくて、ニヤニヤしながら、家までの道を少し遠回りして帰る(夕方4時着)。

 日本――実は好感の持てる国だったのだ。


> Back