京極為教 きょうごくためのり 嘉禄三〜弘安二(1227-1279) 号:毘沙門堂兵衛督

権大納言為家の三男。母は宇都宮頼綱の娘。為氏の同母弟。為相の異母兄。為子為兼の父。兄為氏とは不仲だったとの伝がある(井蛙抄)。京極家の祖。御子左家系図
嘉禎元年(1235)、九歳で元服。右中将・蔵人頭などを経て、後深草天皇の正元元年(1259)七月二日、従三位に叙せられ、右兵衛督に補せらる。文永五年(1268)、従二位に至る(最終官位)。非参議のまま過ごし、後宇多天皇の弘安二年(1279)五月二十四日、薨。五十三歳。
為家・西園寺実氏に歌を学ぶ。寛元元年(1243)十一月の河合社歌合、宝治元年(1247)十首歌合、建長二年(1250)八月十五夜鳥羽殿歌合、同年九月詩歌合、建長三年(1251)九月十三夜歌合、建長五年(1253)十月三首歌合、弘安元年(1278)の弘安百首、文永二年(1265)七月歌合、同年八月十五夜歌合、同年九月亀山殿五首歌合、文永五年九月十三夜白河殿五首御歌合などに出詠。続後撰集初出。勅撰集入集は計三十六首。

夏歌の中に

露ふかき庭のあさぢに風過ぎてなごりすずしき夕立の空(続拾遺208)

【通釈】露がしとどに置いた庭の浅茅に風が吹き過ぎ、さっきまで降っていた夕立のなごりが涼しげに匂う空よ。

【補記】「ふかき」「あさぢ」に軽い言葉の戯れがある。「風過ぎて」と上句の末を「て」で小休止するのは当時流行った詠み口だが、一呼吸おいて「なごりすずしき」へと繋げるこの歌では、必然性のある用い方。歌才乏しかった為教ではあるが、清々しい夏の叙景に辛うじて京極派の歌風の予兆を見て取ることもできようか。

雑歌の中に

いかにせむ越えゆく波の下にのみ沈みはてぬる海人のすて舟(玉葉2567)

【通釈】どうしたらよいのだろう。越えてゆく波の下にばかりあって、とうとう沈み果ててしまった、海人(あま)の捨て舟――そのような我が身を。

【補記】為教は三十歳を超えて蔵人頭となり、従三位に叙せられて公卿に列したものの、その後参議に就く機会はついに訪れなかった。人々に官位を追い抜かれ、沈淪してしまった身を「あまのすて舟」に喩えている。


公開日:平成14年09月22日
最終更新日:平成15年02月07日