田口益人 たぐちのますひと 生没年未詳

慶雲元年(704)一月、従六位下より従五位下。和銅元年(708)三月、上野守。二年十一月、右兵衛率。霊亀元年(715)四月、正五位下より正五位上。万葉集には上野国赴任の途次、駿河国で詠んだ歌が二首ある。田口朝臣は武内宿禰後裔氏族の一つで、蘇我氏から分流したという。

田口益人大夫が上野(かみつけの)の国司に()けらるる時、駿河国浄見埼(きよみのさき)に至りて作る歌二首

廬原(いほはら)の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物()ひもなし(万3-296)

【通釈】廬原の清見の崎の三保の浦――その広々とした海原を見ていると、旅の憂いも忘れ、何を思い悩むこともない。

【補記】「清見の崎」は静岡市清水区興津清見寺町の磯崎という。「三保の浦」は今の三保の松原あたりの海。益人は和銅元年(708)三月三十一日、上野国守に任ぜられた。その折の歌。

 

昼見れど飽かぬ田子の浦おほきみの(みこと)かしこみ夜見つるかも(万3-297)

【通釈】昼間ならいくら見ても飽きないという田子の浦――大君の命令を畏れ慎んで、夜見ることになってしまったなあ。

【補記】「田子の浦」は静岡市清水区興津の東、蒲原あたりまで弓状の海岸線をなす浦。今田子の浦と呼ばれる土地とは違う。「おほきみの命」は天皇の命により国守に任じられたことを言う。指定の期日までに任国に至るためには旅路を調整せねばならず、景勝の地をやむなく夜通過することになったのだろう。


更新日:平成15年09月22日
最終更新日:平成21年04月16日