二条良基 にじょうよしもと 元応二〜嘉慶二(1320-1388) 号:後普光園院

父は関白左大臣道平、母は右大臣今出河公顕女。子に関白師良・同師嗣・大僧正道基・天台座主道豪ほかがいる。
嘉暦二年(1327)、元服・叙爵。初め後醍醐天皇に仕えるが、南北朝分立後は北朝に仕え、二十代にして光明天皇の関白を務めた。その後南朝軍が京に攻め込んだ際、関白職を停止されたが、足利義詮により後光厳天皇が擁立されると関白に復職し、公事の復興を推進して、北朝の再建に大きな役割を果たした。永和二年(1376)、准三宮。後円融天皇の永徳二年(1382)、太政大臣。翌年、摂政。後小松天皇の嘉慶二年(1388)、三たび関白となるが、同年六月十三日、薨去。六十九歳。従一位。
和歌は頓阿に、連歌は救済に師事し、いずれも後継者となって北朝歌壇に重きをなす。貞治五年(1366)十二月、年中行事歌合を主催、自ら判詞を執筆した。貞治六年(1367)の新玉津島社歌合、応安二年(1369)九月十三夜の内裏歌会などに出詠。貞和・延文・永和百首作者。風雅集初出。勅撰入集計六十首。新後拾遺集では仮名序執筆者にして最多入集歌人(二十九首)。観応三年(1352)八月、頓阿・慶運兼好の合点を得た『後普光園院百首』、自歌合『餅酒歌合』がある。歌論書には『近来風体抄』、頓阿との共著『愚問賢註』がある。連歌史上の功績は殊に多大で、准勅撰の連歌撰集『菟玖波集』を救済と共に編集。また連歌の式目を整備して「応安新式」を制定し、『連理秘抄』『筑波問答』など多くの連歌書を著した。他に『衣かつぎの記』『百寮訓要抄』など公事・故実書の著述も残す。

  4首  1首  3首  2首  1首 計11首

延文二年後光厳院に百首歌たてまつりける時、霞を

春といへばやがて霞のなかにおつる妹背(いもせ)の川も氷とくらし(新後拾遺4)

【通釈】春になったというので、早速たちこめる霞の中を流れ下る妹背川――この川も氷が解けたらしい。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
流れては妹背の山のなかにおつるよしのの河のよしや世の中

【補記】「いもせ(妹背)の川」は吉野川。そもそもは「妹背山」から派生した歌枕。万葉集の「妹背山」は明らかに紀伊国の山なのだが、『八雲御抄』は妹背川を大和国の歌枕として挙げ、中世には吉野川上流と考えていたらしい。早春の霞を詠むこの歌の舞台も吉野と考えるのがふさわしい。なお、初出の延文百首では「春きてや山のかすみの中におつるいもせの川もこほりとくらむ」とある。

貞和二年光厳院に百首歌たてまつりける時

降りかかる梢の雪の朝あけにくれなゐうすき梅のはつ花(新後拾遺22)

【通釈】雪が梢に降りかかる明け方、紅もうっすらとしている梅の初花よ。

【補記】貞和百首。風雅集撰集にあたり、光厳院が召した百首歌である。雪と見まがう白梅ならありふれているが、「くれなゐうすき」とした趣向が光る。

【参考歌】後宇多院「玉葉集」
白妙の色はまがひぬあわ雪のかかれる枝の梅の初花

貞和二年百首歌たてまつりける時

のどかなる春のまつりの花しづめ風をさまれとなほ祈るらし(新拾遺1404)

【通釈】のどかな春の日の鎮花祭――風よおさまれとさらに祈るらしい。

【補記】「花しづめ」は鎮花祭。各地の神社で祝詞や舞を奉納し、落花を鎮めると共に五穀豊穣を祈った。

【参考歌】紀友則「古今集」
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
  藤原知家「三百六十首和歌」
長閑なる春のまつりの花しづめ今年も春におくれざりけり

 

面影をのち偲べとや有明の月をのこして花のちるらむ(後普光園院百首)

【通釈】面影を後になって偲べとでも言うのか、有明の月を空に残して花の散ることよ。

【補記】有明の月はいわば後朝(きぬぎぬ)の別れのシンボルで、去ってゆく恋人の面影を重ねて偲ぶものとされた。それを花との別れに転用したのである。観応三年(1352)、作者三十代の百首歌。「ことに見所有体絶妙に候か」と、頓阿のものと思われる評が付されている。

【参考歌】祝部成仲「新古今集」
あらざらむのち偲べとや袖の香を花橘にとどめおきけむ
  衣笠家良「新拾遺集」
別れての後しのべとや行く春の日数に花の咲きあまるらむ

延文二年百首歌たてまつりけるに、納涼

涼しさはいづれともなし松風の声のうちなる山の滝つ瀬(新後拾遺273)

【通釈】涼しさはどちらとも甲乙つけがたい。松風の声と、そのうちに響く山の激流の音と。

【補記】夏歌。初め後普光園院百首として作ったのを、その後延文百首に採り入れ、新後拾遺集に撰入された歌。

【参考歌】徳大寺実定「林下集」
秋ふかく音さへまさる滝つ瀬にうたて吹きそふ峰の松風
  明恵「明恵上人集」
秋の夜はわきぞかねつる清滝の波にともなふ峰の松風
  頓阿「草庵集」
鳴く蝉の声もひとつにひびききて松かげすずし山の滝つ瀬

百首歌たてまつりし時、はつ秋の心を

朝戸あけの軒ばの荻に吹きてけり一葉のさきの秋の初風(新後拾遺285)

【通釈】早朝戸を開けて見た軒端の荻に吹いたことだ。一葉の先を揺らして、秋の初風が。

【補記】荻の葉に吹く風の音は秋の訪れを告げるものとされた。新後拾遺集秋歌上巻頭。初出は永和百首。

【参考歌】源実朝「金槐集」「新続古今集」
きのふこそ夏は暮れしか朝戸出の衣手さむし秋の初風

百首歌たてまつりし時、秋歌に

今しはや待たるる月ぞにほふらし村雲しろき山の端の空(風雅584)

【通釈】今はもう、待ち望んでいた月の光が映えているらしい。叢雲がくっきりと白い、山の端の空よ。

【補記】貞和百首。良基二十七歳の作。「愚身貞和最初の御百首は、為兼卿異風を読侍りし也」と自ら言う(近来風体抄)ように、京極派の影響が窺える。

【参考歌】西園寺実兼「玉葉集」
今しはや花さきぬらし初瀬山あさゐる雲の峰にかをれる

 

思ひ()でのなきにはなさじ雲の上の月は心にまかせてぞ見る(後普光園院百首)

【通釈】古人は「月以外に思い出はない」と歌ったものだが、私も己が人生に思い出がないなんてことにはするまい。内裏で見る月は、思う存分眺めることよ。

【補記】秋歌。この「雲の上の月」は、内裏での月の宴で観た月である。俊成・西行の月歌を本歌取りか。頓阿の評は「凡俗難背の体、言語道断に候」と絶賛している。

【本歌】藤原俊成「玉葉集」
世をうしとなに思ひけむ秋ごとに月は心にまかせてぞ見る
  西行「風雅集」
ふかき山にすみける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし

百首歌たてまつりしとき、寄杜恋

しぐれする生田の森の初もみぢ日をへてまさる色に恋ひつつ(新拾遺1045)

【通釈】時雨が降る生田の森の初紅葉――日が経つにつれて増さるその色のように、ますます私は深く恋しつつ……。

【補記】延文百首。「生田(いくた)の森」は神戸市の生田神社の森。紅葉の名所と見なされるのは鎌倉時代以後。

【参考歌】九条教実「続千載集」
津の国の生田の森の初時雨あすさへふらば紅葉しぬべし
  宇都宮景綱「続拾遺集」
時雨ふる生田の森の紅葉葉はとはれむとてや色まさるらむ

百首歌たてまつりし時、寄鐘恋

待ちしよにまた立ちかへる夕べかな入逢の鐘に物わすれせで(新拾遺1290)

【通釈】私の心は、待ち侘びたあの頃の夜にまた戻ってゆくような、そんな気がする夕方だなあ。入相の鐘の音に、恋しさを忘れることもなく。

【補記】入相の鐘に寄せて、昔の恋を回想するという趣向。女の立場で詠む。「待ちしよ」の「よ」は世であり夜。延文百首。

【本歌】紀貫之「古今集」
いにしへになほ立ち帰る心かな恋しきことに物わすれせで

 

とまるべき宿はなくして暮れぬとも花野の月になほやゆかまし(後普光園院百首)

【通釈】泊れるような宿が見つからぬまま日が暮れてしまったとしても、花咲く野を照らす月明かりを頼りに、さらに旅を進めよう。

【補記】旅歌。季節は限定していないが、種々の花が咲き乱れ、月明かりの明澄な秋の野を思い浮かべるべきところ。

【本歌】作者不詳「万葉集」巻七
しなが鳥ゐな野を来れば有間山夕霧立ちぬ宿はなくして

【主な派生歌】三条西実隆「雪玉集」
ふけぬともあはれをかはす友しあらば残りの月になほや行かまし


更新日:平成15年07月31日
最終更新日:平成21年01月13日