後円融院 ごえんゆういん 正平十三〜明徳四(1358-1393) 諱:緒仁

後光厳院の皇子。母は贈左大臣広橋兼綱女、崇賢門院仲子後小松院・道朝親王・珪子内親王の父。
応安四年(1371)三月、父帝の譲位を受けて践祚。文中三年(1374)十二月二十四日、即位。弘和二年(1382)四月十一日、子の幹仁親王(後小松天皇)に譲位。以後、形式上の治天の君として院政をおこなう。永和元年(1375)、将軍足利義満の執奏により新後拾遺和歌集の撰進を命ず。明徳四年(1393)四月二十六日、崩ず。三十六歳。崩御直前に落飾して法名を光浄と称した。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。
新後拾遺集初出。勅撰入集は二十七首。

題しらず

桜花いまや咲くらむみ吉野の山も霞みて春雨ぞふる(新後拾遺78)

【通釈】桜の花はもう咲いているだろうか。吉野の山も霞んで春雨が降っていることよ。

【本歌】壬生忠岑「拾遺集」
春たつといふばかりにや三吉野の山もかすみてけさは見ゆらん
  九条良経「新古今集」
み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり

人々に二十首歌めされし次に

天の川雲のしがらみもれ出でてみどりの瀬々にすめる月かげ(新後拾遺378)

【通釈】天の川の雲の柵(しがらみ)から漏れ出て、あたかも紺碧の瀬に澄んだ光を映しているかのような月の光よ。

【補記】秋歌。天の川に沿って移動してゆく月の光を詠じた。雲が掛かって天の川を隠している部分を「しがらみ」に見立て、晴れた夜空を「みどりの瀬々」と見立てたのである。

【参考歌】大江匡房「続詞花集」
あまの河雲のしがらみたえにけり花ちりつもるを初瀬の山

百首歌めされし次に、潟月

夕汐のさすにはつれし影ながら干潟にのこる秋の夜の月(新後拾遺387)

【通釈】夕潮が差す時には連れ立つように昇った光であったが、潮が引いた時には一緒に退くことなく、干潟に残っている秋の夜の月よ。

【補記】新後拾遺集編纂のため、永和元年(1375)に永和百首の詠進を命じた際、自らも詠じた百首歌の一。


最終更新日:平成15年08月01日