後宇多院の第二皇子。母は談天門院藤原忠子。後二条天皇の弟。子に護良親王・尊良親王・世良親王・宗良親王・懽子内親王(光厳後宮)・祥子内親王(最後の斎宮)・懐良親王・後村上天皇ほか。大覚寺統・持明院統系図
母が後宇多天皇と離縁し亀山院のもとに入ったため、同院の寵愛を受けて育つ。徳治三年(1308)、後二条天皇が急逝すると、持明院統の花園天皇が践祚したが、後二条天皇の遺子邦良親王は幼少であったため、即位後邦良を立太子させることを条件に皇太子に立てられた。文保二年(1318)二月受禅し、同年三月、即位。御宇多院が院政を敷いた。元亨元年(1321)、後宇多院の院政停止に伴い、親政を始める。この年、記録所を置いて訴訟を親裁する。正中元年(1324)、後宇多院が崩ずると、春宮邦良親王を廃して子息を皇太子に就けようとしたが、鎌倉幕府の拒絶に遭う。同年、討幕の密議が漏れたが、幕府は事を穏便に処した(正中の変)。正中三年(1326)三月、春宮邦良親王が薨去すると、幕府は両統迭立の原則に則り、持明院統の後伏見院皇子量仁親王を皇太子に立てた。激怒した後醍醐天皇は再び討幕計画を進め、日野俊基を諸国に派遣して幕府に批判的な武士を糾合させた。元弘元年(1331)、謀は再び露見し、後醍醐天皇は笠置へ遷幸。まもなく楠木正成が河内赤坂城に挙兵したが、同年九月、笠置は落城し、天皇は捕えられ六波羅探題によって幽閉された(元弘の変)。十月、持明院統の光厳天皇が践祚した。
元弘二年(1332)、隠岐国に配流されるも、護良親王・楠木正茂・赤松円心らが各地で次々に挙兵し、情勢は急変。翌年隠岐からの脱出に成功した後、足利尊氏らが六波羅を、新田義貞らが鎌倉を攻略して、ついに鎌倉幕府を滅亡に追いやった。六月、入京して親政を開始(建武の新政)。延喜・天暦の治を理想に掲げ、政治体制の革新に取りかかるが、恩賞に公平を欠いたことなどから武家の反発を招く。建武二年(1335)、足利尊氏が新田義貞を除くことを名目に挙兵し、同三年八月、持明院統の光明天皇を擁立した。十一月、尊氏は幕府を再興し、建武の新政はわずか二年五カ月で瓦解するに至った。同年十二月、後醍醐天皇は京を脱出して吉野に移り、朝廷を再建(南朝)。以後、北朝との戦が続くが、次第に劣勢になる中、延元四年(1339)八月十六日、行宮吉野金峰山寺塔金輪王寺にて崩御。五十二歳。遺勅により後醍醐と追号された。
正中二年(1325)、二条為定に続後拾遺集を撰進させる。新後撰集初出。勅撰入集は計八十三首。また准勅撰の新葉集には四十六首採られている。『建武年中行事』『建武日中行事』を勅撰した。
鶯を
おしなべて空にしらるる春の色をおのがねのみと鶯ぞなく(続千載14)
【通釈】空の色、霞の色、山の色……どこもかしこも春めいたしるしが感じとれるのだが、自分の声だけがそうなのだと言わんばかりにウグイスが鳴いている。
【補記】「空に」は「天空に」「それとなく」の両義を掛けて言う。小さな鳥が世界全体と張り合っているかのように鳴く。気宇壮大な鶯讃歌であり、可憐な生命讃歌でもあろう。
【主な派生歌】
吹く風も今朝よりしるき春の声をおのがねのみと鶯ぞ鳴く(貞常親王)
みこの宮と申し侍りし時よませ給うける
さのみやは春の
【通釈】そういつまでも春の深山の桜を見ていられようか。早く澄んだ光を昇らせてくれ、雲に隠れた月よ。
【補記】まだ親王であった時の作。花のもとで日を暮らし、月の出を待つ。帝位を待ち望む心を寓意しているようにも読める。
題しらず
今はよも枝にこもれる花もあらじ木のめ春雨時をしる比(新葉82)
【通釈】今はよもや枝に籠っている花もあるまい。春雨が降り、木の芽もふくらむ時が来たことを知るこの頃。
【補記】新葉集巻二春下巻頭。春雨に「張る」を掛ける。制作事情は知れないが、決起を自他に促す寓意を秘めているようにも聞こえる。
【参考歌】紀貫之「古今」
霞たちこのめも春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける
大江匡房「千載集」
よも山にこのめ春雨ふりぬればかぞいろはとや花のたのまん
芳野の行宮におましましける時、雲井の桜とて世尊寺のほとりに有りける花の咲きたるを御覧じてよませ給ひける
ここにても雲井の桜さきにけりただかりそめの宿と思ふに(新葉83)
【通釈】吉野の行宮(あんぐう)は、ただ仮そめの住まいと思っていたのに、ここにも「雲井の桜」と呼ばれる花が咲いたのだった。
【補記】「雲井の桜」は禁庭の桜ということだが、特に南殿(紫宸殿)の桜をこう呼んで賞美したらしい。たとえば玉葉集の弁内侍の歌に「正元元年の春、南殿の花をみてよみ侍りける」の詞書で、
春ごとの花に心はそめおきつ雲井の桜われをわするな
の作がある。後醍醐御製は、同じ名で呼ばれた世尊寺の桜に、吉野深山を仮宮とする自らの運命を思い、感慨を託したものである。世尊寺は吉野水分神社のそばにあった寺で、鐘楼などが保存されている。今も寺跡辺りの花を雲居の桜と呼ぶ。
芳野の行宮にてうへのをのこども題をさぐりて歌よみ侍りけるついでに、五月雨(さみだれ)といふことをよませ給うける
都だにさびしかりしを雲はれぬ芳野のおくの五月雨の比(新葉217)
【通釈】梅雨の季節ともなれば、都にいてさえ寂しかったのに……。雲が晴れることのない吉野の山奥の侘びしさはなおさらだ。
【補記】「題をさぐりて」とは、籤引きなどをして、各人が引き当てた題で歌を詠むことを言う。
建武二年人々題をさぐりて千首歌つかうまつりける次(ついで)に、秋植物といへる事をよませ給うける
夕づくよ小倉の峰は名のみして山の下てる秋の紅葉ば(新千載565)
【通釈】夕月夜、「小暗い」という小倉(おぐら)の峰は名ばかりで、山の下に明々と照り映える秋の紅葉よ。
【本歌】在原業平「後撰集」
大井河うかべる舟のかがり火にをぐらの山も名のみなりけり
【参考歌】源師賢「金葉集」
かみな月しぐるるままにくらぶ山したてるばかり紅葉しにけり
【補記】「下てる」はもと「したでる」で、「赤く照る」意かとも言う。本歌取り、歌枕の用い方など、二条派正統に連なる詠風。なお、建武二年(1335)は足利尊氏が叛き、北朝光明天皇を擁立した年である。
元弘三年九月十三夜三首歌講ぜられし時、月前擣衣といふことを
聞き侘びぬ
【通釈】聞いているのも辛くなった。八月九月と深まりゆく秋の夜、冷え冷えとした月光の射す寒夜に、砧(きぬた)を打つ音を。
【補記】「衣うつ声」は、柔らかくしたり艷を出したりするため、砧の上で槌などによって衣を叩く音。晩秋の張りつめた大気を震わせて届く響きは、冬籠りの季節が間近いことを告げる声でもあった。この歌が作られた元弘三年(1333)九月は、隠岐から脱出した後醍醐天皇が天下一統を果たし、入京して間もない頃。あくまで風流な題詠であるが、政務に懊悩する天皇の様子が偲ばれずにはいない。北朝後光厳天皇の新拾遺集にも採られた。
【参考歌】二条為藤「新拾遺集」
秋ふかき月のよさむにおりはへて霜よりさきとうつ衣かな
元弘三年九月十三夜三首歌講ぜられし時、月前菊花といへることをよませ給ける
うつろはぬ色こそみゆれ白菊の花と月とのおなじまがきに(新葉386)
【通釈】褪せない色が見えるよ、白菊の花と、月の光とが同居する籬に。
【補記】月明りが白菊の花に映えて、決して衰えることのない永遠の色を見せているかのようだと詠う。白菊と月光の取り合せは、早くは紀貫之の作「いづれをか花とはわかむ長月の有明の月にまがふ白菊」(貫之集)に見られる。
【参考歌】九条隆博「摂政家月十首歌合」
わきかねつ色も光もしら菊のおなじまがきに月をやどして
芳野の行宮にてよませ給ける御歌中に
ふしわびぬ霜さむき夜の床はあれて袖にはげしき山おろしの風(新葉461)
【通釈】辛くて寝ていられない。霜が降りたように冷たい寝床は荒れて、袖の隙間に吹きつける、激しい山颪の風。
【補記】後醍醐天皇が吉野に逃れたのは建武三年(1336)十二月。ここに朝廷を再建したが、北朝との戦は次第に劣勢に追い込まれて行く。
豊明節会をよませ給うける
天つ風袖さむからし乙女子がかへる雲路の明がたの空(続後拾遺454)
【通釈】天を吹き渡る風が袖に寒そうだ。五節の舞姫たちが帰ってゆく、明け方の空の雲の通り路よ。
【本歌】遍昭「古今集」「百人一首」
天つ風雲のかよひ路ふきとぢよ乙女の姿しばしとどめむ
【補記】豊明節会(とよのあかりのせちえ)は新嘗祭の翌日に催された宴会で、その際五節の舞が披露された。歌に「乙女子」というのはその舞姫のこと。内裏を天上と同一視することから「天つ風」「雲路」という語彙が用いられ、舞姫は天女と見なされることになる。
題しらず
ながむるをおなじ空ぞとしらせばや古郷人も月はみるらん(新葉552)
【通釈】私は遠い旅先にあって、つくづくと月を眺めている――この空は、都で眺めるのと同じ空なのだぞと知らせてやりたいものだ。懐かしい京の人々よ、あなた方もこの月を眺めているだろう。
【補記】新葉集は羇旅歌とし、同じく御製の「これまでは猶も都のちかければおなじ空なる月をこそみれ」の次に載せている。
河月をよませ給ける
てらしみよ
【通釈】御裳濯川の面に澄んだ影を映す月も、波の底まで照らしてご覧ぜよ、その川水のように濁りなく明澄な我が心を。
【補記】御裳濯川は伊勢内宮を流れる五十鈴川の異称(参考:歌枕紀行)。身の穢れを濯ぐ川。月に対して呼びかけている形だが、婉曲に、伊勢神宮に祀られた天照大神にご照覧あれと言っていることになる。
題しらず (二首)
まだなれぬいたやの軒のむら時雨おとを聞くにもぬるる袖かな(新葉1119)
【通釈】まだ慣れない板葺きの粗末な小屋で、軒を叩く通り雨の音を聞くにつけても、我が身の境遇が思いやられ、悲しくて涙に濡れる袖だことよ。
【補記】増鏡・太平記などにも引かれて名高い歌。増鏡によれば、笠置落城後、入京した帝が六波羅に捕えられ、みすぼらしい板葺きの小屋に入れられた時、「口惜しう思し乱」れ、時雨の音を聞いて詠んだ作。
夜な夜なのなぐさめなりし月だにも待どほになる夕ぐれの空(新葉1120)
【通釈】夜ごとに眺める月だけが心の慰めになった――しかし月の出が遅くなるにつれて、それさえ首を長くして待つことになる、夕暮の空よ。
【補記】これは増鏡にも太平記にも見えないが、新葉集では「むら時雨」の歌の次に載り、内容から言っても同じ頃の作ではないかと思われる。囚われの身の辛さは、この歌の方にこそしみじみと感じられる。
先帝は今日、津の国昆陽野の宿といふ所に着かせ給ひて、夕づく夜ほのかにをかしきをながめおはします。
命あればこやの軒ばの月も見つ又いかならん行末の空(増鏡)
【通釈】命があったので、昆陽の宿の軒端に射す月も見ることができた。これから先はどうなるのだろうか。
【補記】増鏡巻十六「久米のさら山」。元弘二年(1322)、配所の隠岐へ向かう途中、摂津の昆陽野(こやの)―今の兵庫県伊丹市あたり―の宿に着いた時の作。先は長い旅、そして配所での生活を思い浮かべての、率直痛切な感慨。
題しらず
うづもるる身をば歎かずなべて世のくもるぞつらき今朝のはつ雪(新葉1130)
【通釈】初雪が積もった――我が身がこのまま世に埋もれてゆくとしても、歎きはしない。それよりも、世の中がおしなべて曇ってしまうのが辛いのだ、今朝の雪を降らせる空のように。
【補記】「うづもる」は雪の縁語。制作事情は知れないが、吉野朝での作であろうと思われる。
【参考歌】右近「拾遺集」「百人一首」
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
源有光「新千載集」
うづもるる身をば思はず白雪のふりぬる跡の惜しくもあるかな
公開日:平成14年11月19日
最終更新日:令和06年07月11日