高橋連虫麻呂
たかはしのむらじむしまろ
- 生没年 未詳
- 系譜など 未詳。『新撰姓氏録』に見える高橋連は以下の通り。
右京神別 高橋連 神饒速日命七世孫大新河命之後
山城国神別 高橋連 饒速日命十二世孫小前宿禰之後
河内国神別 高橋連 饒速日命十四世孫伊己布都大連之後
- 略伝 制作年の明らかな唯一の作は、巻六「(天平)四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣されし時、高橋連虫麻呂の作る歌一首 并短歌」(06/0971〜0972)。また巻九の「高橋連虫麻呂歌集中出」とされる歌には「那賀郡曝井歌一首」(09/1745)、「検税使大伴卿登筑波山時歌一首 并短歌」(09/1753・1754)など常陸国での作と思われる歌があり、これを宇合が養老3年(719)常陸国守として赴任した時、同行しての作と見る説がある。また難波関係の歌(09/1747など)は、神亀三年(726)知造難波宮事に任ぜられた藤原宇合に同行した際の作と見る説がある。但しこれらを続紀に見える天平六年(734)3月の難波行幸の際の作と見る説もある。
東国での詠作は他にも多く、不尽山(富士山)を詠んだ歌(03/0321)、「惜不登筑波山歌一首」(08/1497)、「詠上総末珠名娘子歌一首 并短歌」(09/1738・1739)、「見武蔵小埼沼鴨作歌一首」(09/1744)、「登筑波山歌一首 并短歌」(09/1757・1758)、「鹿嶋郡苅野橋別大伴卿歌一首 并短歌」(09/1780・1781)、「詠勝鹿真間娘子歌一首 并短歌」(09/1807・1808)などがある(いずれも「歌集中出」)。ほかに河内の大橋を詠んだ歌(09/1742)などもあり、旅先で詠んだと思われる歌が極めて多い。「詠水江浦嶋子一首 并短歌」(09/1740・1741)、「見菟原處女墓歌一首 并短歌」(09/1809〜1811)といった物語性の濃い長歌を多く残している点にも特色がある。修辞・表現も異色であり、いわゆる宮廷歌人の流れとは一線を画する特異な万葉歌人として注目される。作歌は2首、「歌集中出」で自作と見られる歌は33首ある。
なお天平14年(742)12月13日、「優婆塞秦調曰佐酒人」を貢進した「少初位上高橋虫麿」(正倉院文書)を同一人とみる説がある。
関連サイト:高橋虫麻呂の歌(やまとうた)
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