文京区の坂

文京区には神田川に流れ込む小河川の浸食で作られた丘陵と川筋が何本も並んで北西ー東南方向に走っている。この丘と谷筋に上り下りする坂道が多い。合計 112坂ある。また目白台より西の新宿区にかけては神田川が西から東に流れ、河岸段丘をつくっていてそこにも坂がある。

@ 文京区の最東北端にある丘陵:王子の飛鳥山公園に始まり、旧古河 庭園、田端、谷中、上野公園に連なる。京浜東北線の車 窓からその東端の断崖が見える。かっては隅田川の河岸段丘だった。

A 旧古河庭園から不忍通りの谷:旧古河庭園の庭園は南西側が谷になっている。この谷は不忍通りにそって千駄木、根津、不忍池に抜けている。この谷はかっ て多分石神井川が作ったものだろう。現在は石神井川は飛鳥山公園の暗渠を流れて隅田川に注いでいる。

B 六義園から仙台掘に至る高台:六義園は駒込という武蔵台地が残った高台にある。ここから本郷台地、湯島、外神田、駿河台と尾根が連続していた。伊達正宗が これでは東北からの騎馬軍団が容易に江戸城を攻められるから堀を作ってやろうと駿河台を掘削して仙台堀を掘った。

C 小石川植物園の谷:Bの丘陵の南西には平行して谷筋が走っている。その谷は小石川植物園に 残っている。

D 春日通りの尾根:春日通りは小石川の谷に平行する尾根道につけられ、その先は川越街道となる。小石川後楽園は この尾根の南東端にある。

E 茗荷谷:東京メトロ丸の内線が通る茗荷谷は春日通りのある尾根と平行してその西南にある。地形の美しさから、「茗渓」(めいけい)と いう美称でも呼ばれていた。

F 小日向台(こひなただい):茗荷谷の西南にある高台は小日向台である。小日向台の南は神田川の谷になる。

G 護国寺から南東に伸びる谷筋:音羽通りが通る。

H 目白台: 椿山荘がある。

I 神田川:目白台の南を侵食した神田川と大洗堰。

J 牛込台地は神田川の南側にあり、新宿区に属する。



@ 文京区の最東北端にある丘陵

<荒川区谷中>

富士見坂:谷中七福神めぐり



富士見坂


<台東区谷中>

御殿坂:日暮里駅から西に向かう坂

七面坂:御殿坂をのぼりつめ西に下る坂。平行して「夕やけだんだん」がある。

紅葉坂:

三崎坂:

善光寺坂

三浦坂

<駒込>

神明坂

稲荷坂(いなりざか)

文京区本駒込4丁目と5丁目との境で、坂の上に旧家の高木家がり「宗十郎稲荷」を祀っ ていたことから、この坂を稲荷坂と称している。旧上駒込村は当高木家の祖先が開拓 したところである。現在「駒込名主屋敷」として東京都文化財として保存。

緒方洪庵のお墓:東京都文京区・高林寺は旧古河庭園、六義園(りくぎえん)、 漱石旧居跡を歩いた時にここらへんの迷路で迷った。

動坂

狸坂

大給坂


A 旧古河庭園から不忍通りの 谷

<千駄木>

団子坂:団子坂名前の由来は、昔は坂の下に団子屋があったからという説がある。漱石の「猫」の中にも団子屋の話が出てくる。団子坂ほど多くの文芸作品に登 場する坂はな い。江戸川乱歩の「D坂殺人事件」、団子坂の上に住んでいた森鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」などの他、正岡子規は『自雷也もがまも枯れたり団子 坂』と団子坂の菊人形の様子を詠んでいる。

団子坂からこの太田ヶ池、そして根津神社のアジサイの斜面は一続きの本郷台地の東斜面であ る。

漱石は英国から帰って千駄木に住み「吾輩は猫である」を書いたと森まゆみが学士会報July No.901 2013-IVに書いていた。どこかと思って調べると日本医大の西の道路を挟んだ今では向ヶ丘2丁目にある郁文館学 園の東隣だったようだ。

漱石旧居跡の標識は日本医科大学同窓会館である橘桜会館の前 にあった。建物は犬山市の明治村に保存されているという。家主は斎藤阿部具、森鴎外は そのまえの借家人で、そのころは団子坂上の観潮楼に移っていたという。

<根津>

根津裏門坂

新坂

お化け階段

異人坂

<弥生>

弥生坂

暗闇坂

<本郷東斜面>明治東京の本丸

無縁坂:池之端旧岩崎邸裏、森鴎外の「雁」に出てくる。

<湯島>

切通坂

天神夫婦坂

天神女坂

天神男坂

実盛坂 or 中坂

ガイ坂

三組坂

傘谷坂

横見坂

清水坂

立爪坂

妻恋坂

新妻恋坂

樹木谷坂

<外神田>

昌平坂

相生坂

明神坂:漱石の「こころ」の先生が歩いた「いびつな円」に「万世橋を渡って明神の坂を上って、本郷台に来て」とある。しかし「明神坂」という名称は現在の 地図上には見あたらない。現地に出かけても、文京区による説明看板はない・・・。このあたりで「明神」と言えば 「神田明神(神田神社)」であることは明らかだが、念のために神社近くの飴屋「大國屋治助商店」のご主人に確認した人によると神田明神下交差点から本郷台 に登る坂を子供の頃から「明神坂」と呼んでいるそうだ。


B 六義園から仙台掘に至る高台

<白山>

暗闇坂

薬師坂

浄心寺坂

中坂

胸突坂

逸見坂

蓮花寺坂

伊賀坂

<西片>

曙坂

新坂(福山坂)

石阪

<本郷台南西斜面>

新坂(福山坂):漱石が一年弱住んだ。坂下は一葉終焉の地。

胸突坂

梨木坂

鐙坂

炭団坂(たどんざか):坂上には坪内逍遥が住んだ家が学生寮になり、そこに正岡子規が住んだ。崖下には樋口一葉が住んだ。

菊坂:漱石の「こころ」の先生が歩いた「いびつな円」に「万世橋を渡って明神の坂を上って、本郷台に来て、それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へおりた」とある。

本妙寺坂

真砂坂(まさご)or 東富阪

見返り坂

壱岐坂

新壱岐坂:神田上水の暗渠のあったところ?

忠弥坂

建部坂

富士見坂:神田上水の暗渠のあったところ?

油坂

御茶ノ水坂


C 小石川植物園の谷

<千石>

宮坂

砂利場坂

猫又坂

氷川坂

網千坂

<白山>

御殿坂

D 春日通りの尾根ー北側斜面

<大塚>

白鷺坂

<小石川>

湯立坂:筑波大東端を小石川の谷に向かって下る坂。



湯立坂


団平坂:竹早 公園東端を小石川の谷に向かって下る坂。団平坂は丹平坂または袖引坂とも言われ、団平という米つきを商売にすつ人が住んでいたからと伝えられる。石川啄木 はこの地で26才で死す。



団平坂


播磨坂:小石川5から植物園前にくだる並木道。



播磨坂


吹上坂:播磨坂の東側に平行する坂。

極楽水跡:播磨坂と吹上坂に挟まれた小石川パークタワー内にあるパブリックスペースにある。ここは、了誉聖冏上人(りょうよしょうけいしょ うにん)が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にあ る。井戸水っは枯れている。



極楽水跡


三百坂:

善光寺坂:伝 通院をでて左にゆけば善光寺坂だ。その坂の途中に善光寺がある。慶長7年(1602)に伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭縁受院として創建、明治17 年(1884)善光寺と改称し、信州の善光寺の分院になった。

六角坂:

堀坂:

E  茗荷谷

<春日>

茗荷坂:深光寺から茗荷谷に下る坂。茗荷が栽培されていた。

釈迦坂:春日通りにある徳雲寺脇から茗荷谷に下って丸ノ内線ガード下に下る坂。徳雲寺に釈迦の石造があったのでそう呼ばれた。

蛙坂(復坂):キリシタン屋敷からまっすぐ北上して下って丸ノ内線ガード下に下る坂。キリシタン屋敷を守る武士たちの組屋敷である七問屋敷から清水谷に下 る。ここはひどい湿地帯で池に蛙が沢山いた。

藤坂:春日通り石川5から下る坂。庚申坂に平行して北側にある。

庚申坂:春日通りから丸ノ内線下に下る階段坂で丸ノ内線のガード下に連なる。春日通りをはさんで吹上坂とは対称の位置にある。



庚申坂


切支丹坂(キリシタン坂): 切支丹坂は田山花袋の「布団」の舞台になったと聞い た。坂学会によると切支丹坂は、庚申坂を西に下り、東京メトロ丸ノ内線のガードをくぐった先、文京区小日向1丁目14と24の間をまっすぐ西へ上る坂。突 き当りを右折すればキ リシタン屋敷の泣き石がある。

この泣き石の意味は不明だったが、友人のTに遠藤周作の「沈黙」の主人公のモデルとなったシチリア・パレルモの人ジュゼッ ペ・キアラが井上政重筑後守に取り調べされたのち井上が運営した切支丹屋敷に幽閉されたとき、この屋敷の下働き・八衛門少年(19歳)が切支丹信者と判 明、試し斬りさ れた時のものだという。

遠藤周作の小説の「沈黙」の付録にある「切支丹屋敷役人日記」にある山屋敷とは小日向にあった井上政重の切支丹屋敷と言われる。井上は幕臣から石 高一万石の大名(領地・下総高岡藩)に取り立てられ、小石川小日向の下屋敷を切支丹屋敷に全面改築した。住むところが亡くなったので、あらたに亀戸(現錦 糸町)に敷地 を賜った。その場所は現在の錦糸公園の北東側にあった。この井上屋敷は明治以降精工舎の工場となり、精工舎が諏訪に移転したのちの跡地はショッピングモー ル「オリナス」になっている。

蔵前通りを横十間川までゆくと天神橋が架かっている。この橋の袂に堀長門守直重を初代藩主とする須坂藩の下屋敷(上 屋敷は南八丁堀)は下総高岡藩の東隣の横十間川端にあった。



キリシタン屋敷跡


「布団」の イントロで「小石川の 切支丹坂 ( きりしたんざか ) から 極楽水 ( ごくらくすい ) に出る道のだらだら 坂を下りようとして 渠 ( かれ ) は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げ た。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しく・・・」とある。

小説の冒頭にでてくる極楽水はどこにあるのだろうか?調べると切支丹坂を下り、東京メトロ丸ノ内線のガードをくぐった先、庚申坂を登り、春日通りを横断し て吹上坂を少し下るった左側のマンションないにある。

小説の最後は「時雄は机の抽斗ひきだしを明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂においを嗅かいだ。暫しばらくし て立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡からげてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団ふとん――萌黄唐草もえぎから くさの敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の 胸をときめかした。夜着の襟えりの天鵞絨びろうどの際立きわだって汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅かいだ。性慾と悲哀 と絶望とが忽たちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。薄暗い一室、戸外には風が吹暴ふきあれていた。」で終わっている。

小説の主人公の自宅は牛込矢来町とある。ここを選んだのは作家の田山花袋が住んでいたためか?

服部坂:小日向1 第五中脇から小日向台に登る。服部坂は荒木坂の西。坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。



服部坂

服部氏屋敷跡には、明治明治 2年(1869)に小日向神社が移された。



小日向神社




新渡戸稲造旧宅跡:小日向2-1-30 水道道の文京五中(旧黒田小学校)から服部坂を登り右手の道をゆくと看板がある。 新渡戸稲造は台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年より2年越しの招聘を受け、民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局 長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献したが戦後は競争に敗れた。新渡戸は東京帝国大学法 科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった。拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。



新渡戸稲造旧宅跡


横町坂(よこちょうざか):小日向2 小日向神社の前から服部坂の坂上東に下る坂。

薬缶坂(夜寒坂):小日向1 坂の西側は生西寺、東側(崖上)は小日向公園。江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の 所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。



薬缶坂(夜寒坂)


荒木坂:小日向1 神田上水から称名寺脇を小日向台に登る。



荒木坂


今井坂(新坂):神田上水から春日通りに登る坂。丸の内線の上を跨線橋で渡る。今井坂の西側は徳川慶喜公屋敷跡で一時財務省管轄だったが、国際仏教学大学 院大学のキャンパスになっている。



今井坂


金剛寺坂:神田上水から春日通りに登る坂。丸の内線の上を跨線橋で渡る。



金剛寺坂


金剛寺坂から丸の内線


安藤坂:神田上水から春日通りに登る坂。ここでは丸の内線は地下を通る。

漱石の「それから」で高等遊民の代助は神田川の南にある牛込台地の神楽坂近くの 藁店(わらだな)辺りに住み、帰郷する三千代夫妻のために、伝通院近くに家を探す。漱石は江戸川(神田川)を挟む小石川台地と牛込台地に主人公二人の家を 設定したのだ。ある日、その谷間、牛込見附で愛する三千代の家の方に灯を認めた大助は安藤坂を上ってゆく。「遠くの小石川の森に数点の灯影を認めた。代助 は・・・三千代のいる方角へ向いて歩いて行った」漱石は二人の家を結ぶ坂として安藤坂に加え、金剛寺坂も使っている。金剛寺坂は夜道を急ぐときに坂は急だ が近道の金剛寺坂を使った。



安藤坂


牛坂:神田上水から牛天神に登る坂



牛天神


富坂:春日通 りの富阪下から富阪上に登る尾根道。富坂下は文京区区役所の角。

F 小日向台

<大塚>

現在の貞静学園のばしょにかはって大きな塚があったため大塚と名付けられたという。発掘調査で5-6世紀の竪穴住居跡がでたのでこれはどうやら古墳であっ たらしい。

開運坂:

富士見坂:護 国寺前の坂

ねずみ坂:別名水見坂。音羽の谷から小日向台地へ上る急坂。東京都文京区小日向三丁目から音羽一丁目にある狭い坂

八幡坂:近くに旧鳩山邸がある。2,000坪の土地だけで50億円。年間維持費1億円という。鳩山由紀夫氏が相続し、公開している。7.8月は休館。

鷺坂:小日向2 小日向台町から音羽に降りる坂。

大日坂:小日向2 神田上水から小日向台に登る。坂の右手にある小さなお堂は、大日様をまつっていて、中勘助の「銀の匙」にでてくるばあやとそこでお弁当を食べ大日様。



大日坂



大日如来



H 目白台

目白坂

目白新坂

七丁目坂

鳥尾坂

鉄砲坂

胸突坂:駒塚橋から真っ直ぐ目 白台に昇る急坂。階段があり上りきると旧細川侯爵邸と和敬塾がある。

幽霊坂:Tによればこの坂の西側は一万石の須坂の殿様・堀直虎の江戸上屋敷だったという。その跡地が田中角栄の目 白御殿で御殿新築のミギリ、角さんは須坂の堀家先祖を祀る『奥田神社』参拝したという。このメジロ御殿は結局角栄氏死後、田中真紀子さんが60億円の相続 税を支払うことができず、一部物納されたが、私 邸の東側に隣接する国家公務員共済組合連合会の運動場跡地約2万8000平方メートルも取得。約3万平方メートルの目白台運動公園に整備された。

ところが、「すみだの大名屋敷」によれば須坂藩の江戸上屋敷は南八丁堀(中央区新富一丁目)とある。すると田中角栄は間違っていたということになる。

ちなみに堀直虎は鳥羽伏見から逃げ帰った徳川慶喜に『御腹を召され い!』と諫言し、『腹はこうやって斬るも!』と江戸城内最後の切腹をヤッタと須坂では語り継がれている。江宮隆之著 祥伝社刊『将軍慶喜を叱った男 堀直 虎』に詳しい。

堀直虎は須坂藩軍政を西洋式武装に改め『唐人堀』と言われたらしい。この殿様、若年寄り、外国惣奉行の職まで上り詰め、勝海舟は部下だった。懐に常時パン 一食分携行していたとい う。

堀直虎の下屋敷は亀戸に あり、キリシタン屋敷を管理した井上政重筑後守の子孫とは隣同士であった。ここ向島界隈は風流大名が競って、愛妾を囲っていた所と聞く。

豊坂:

小布施坂

日無坂

清戸坂

薬缶坂

小篠坂

希望の坂

坂道

February 24, 2014

Rev. October 14, 2018


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