寛永寺・谷中墓地・根津神社

2013年4月22日、萩和会は第1回歩こう会を開催した。目的は上野戦争(彰義隊の戦)と第二次世界大戦の空襲で焼失した旧寛永寺の跡をたどることであ る。寛永寺は天台宗関東総本山の寺院。いまは旧寛永寺の境内は殆ど上野公園と動物園に占拠されている。散策コースは:

旧寛永寺境内(西郷隆盛像→清水観音堂→時鐘堂→上野東照宮→両太子堂→旧本坊表門→寛永寺霊園→根本中堂)→谷中墓地(徳川慶喜の墓など)→大名時計博物館(休館)→根津神社→不忍池→旧岩崎邸→湯島天神→神田明神→湯島聖堂→御茶ノ水駅

西郷隆盛像前11:00集合。



西郷像前で 三浦撮影



清水観音堂舞台


改修中の上野東照宮

清水観音堂は初めてであったが、清水寺本堂と同様の懸造(かけづくり)建築でなかなか 良い。上野東照宮は目下改修中であった。寛永寺の五重の塔は上野動物園内にある。旧寛永寺の根本中堂は現在の上野公園の大噴水の当たりにあったそうだが 上野戦争で焼失した。東京芸術大学音楽学部の裏手にある現在の根本中堂は寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に1879年に川越喜多院の本地堂を移築したも ので、旧寛永寺の建物ではない。



根本中堂

谷中(やなか)墓地を散策。徳川慶喜の墓などを見る。墓地でおにぎりの昼食。後日、幸田露伴の名作「五重の塔」は谷中の天王寺の五重の塔についての職人へ の取材で書いたことを知る。戦後の1957年、谷中五重塔放火心中事件により焼失し、今は谷中の墓地の中に礎石だけ残っているという。丁度昼飯を食べた辺りの少し北側である。2013/9/2にタラヨウ探しにでかけた折、目撃。



五重の塔礎石 2013/9/2

天王寺は開創時から日蓮宗であり、 早くから不受不施派に属して 幕府の迫害を受けたという。幸田露伴は釣り好きで向島に住んでいたこともあり、アイザック・ウォルトンの「釣り魚大全」を愛読していたらしい。

根津神社(根津権現)の境内はツツジの名所で大勢の参詣者が居た。ツツジを植えてある斜面は武蔵野台地の斜面でこの斜面の上が弥生町である。根津の谷に面 した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられた。しかし、「弥生式 土器」の発見地は、都市化が進むなかではっきりしなくなっている。後日、 根津神社の北側には漱石の旧居跡があると知った。
 


根津神社


旧岩崎邸 2011/11/4

この後、不忍池、旧岩崎邸、湯島天神、とあるく。湯島天神は江戸時代からの蔵書が多く、幸田露伴はここに入り浸って本を読む。天神は神社のように赤く塗られておらず白木造りだ。

ついで本郷台の尾根沿いにあるき神田明神に至る。



湯島天神
2011/11/4


湯島聖堂

神田明神の祭神は将門である。日本人は権威に弱いが、将門はそのようなものにビクともせずに時の朝廷に反旗を翻した英雄として江戸の商人や町民には人気が あった。江戸城築城の時代。築城に必要な木材の供給のために鎌倉から呼び寄せられた材木商の遠藤家は生涯をかけて平将門を崇敬した。明治維新以降は王政復 古のため逆賊視されたが戦後は再び英雄化された。

神田明神 2012/8/10

神田明神のすぐ南側に湯島聖堂がある。聖堂とは孔子廟のことのようである。完全な中国様式。

聖橋を渡れば駿河台だ。ここは、駿府から江戸に移住した徳川家康の家臣が居を構えたことに由来する。元々は本郷台の南端に当たる部分だが、伊達正宗が神田川を開削したことにより分離され、孤立した高台となった。

御茶ノ水界隈の一杯飲み屋で喉を潤す。

April 23, 2013

Rev. September 5, 2013


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