新宿区の坂

新宿区には神田川と妙正寺川の浸食で作られた丘陵と川筋が東西に走っている。神田川の北側の丘陵は目白台とよばれ、学習院大はこの丘の上に建つ。

神田川の南側には牛込台地がある。神田川を挟んで文京区の小日向台や小石川台地と対称になる。

<下落合>

そもそも落合という地名は神田川と妙正寺川が合流する地点という意味を持つ。この川の北側の高台は落合の高台と呼ばれる。

おとめ山公園

山手線の西側の下落合の北の高台には「おとめ山公園」がある。御留山または御禁止山一帯は江戸時代に徳川家の狩猟地で一般人の立ち入りが禁止されてい た。この公園の北方、豊島区目白三丁目所在の徳川黎明館、さらにその北にある「上り屋敷」地区(かつては西武池袋線の駅あり)と合わせ、江戸時代にはこの 一帯が将軍家の所有だった。 明治時代にはこの徳川家の土地の東側を近衛家が、西側を相馬家が所有し、相馬家の所有部分は「林泉園」という庭園となった。相馬家とは相馬馬追いのあの相馬家である。

TVで皇太子の英語の教師、ヴァイニング夫人は 林泉園北側の洋館に住んでいたと知った。調べると、昔読んだ柳田邦男著『マリコ』にでてくる米国人と結婚した外務官僚で、日米開戦時、ワシントンの大使館 で苦労した寺崎英成氏が戦後、堪能な語学力をかわれて宮内庁御用掛となり、天皇とマッカーサー(あるいはGHQ)の通訳係の仕事をした。国際政治の舞台を 知悉していた英成は、日本政府のみならずGHQに対しても、しばしば意見具申をして採用されている。当時の学習院長だった山梨勝之進とともに、皇太子の家 庭教師にエリザベス・ヴァイニングを推薦したのも英成だった。1946年(昭和21)にヴァイニング夫人は来日し、林泉園に面した中村彝アトリエの東並 び、下落合1丁目430番地(現・下落合3丁目)に住むことになる。

たまたま2014/9/3池袋の東京芸術劇場の5階ギャラリーで開催されている2014全日本山岳写真展にwakwak山歩会が 集まる機会をとらえて「おとめ山公園」を散策しようと思いたった。デング熱を伝染する蚊がいる代々木公園に近いし、池もありそうだから、蚊に刺されないように、長 そでシャツを着て、ムヒの虫除けを持って家を出た。塩飴とペットボトルも無論持った。高田馬場駅で下車。冷やし肉ソバで腹ごしらえして歩き出す。「おとめ 山公園」の標識に従って歩くと神田川を渡る。ほとんど暗渠化している。



神田川 向うにJR山手線と西武新宿線の鉄橋


西武新宿線と新目白通り(妙正寺川は暗渠化してこの下を流れる)を横断して少し坂を登ると「おとめ山公園」の下につく。デング熱など気にするそぶりも見せず若いカップルと家族ずれが芝生で憩うている。



「おとめ山公園」 
近衛家側

右手の狭い方が近衛家、左手の広い方が相馬家の「林泉園」だろう。公園の看板に太田道灌がこの地に狩りに来て少女から山吹の花一輪をさしだされたのはこの地であったとある。越生でも同じ「山吹の里」伝説を聞いた。ほんとうはどちらなのだろうと思ってしらべると同じ神田川の下流の面影橋を新目白通り側から渡ったところにも「山吹の里」の石碑があるという。

手持ちの地図では「おとめ山公園」の北側にあった公務員住宅をとりこわし、芝を張る公園の拡張工事が完成しつつあった。ヴァイニング夫人の屋敷跡 はこの公務員住宅になっていたのではないかと思われる。そもそも「おとめ山公園」も財務省が所有していた公務員住宅の一部を公園にするよう地元から請願が 出されて造成されたものだという。

相馬坂

「おとめ山公園」の西側の坂は相馬坂という名がついている。



相馬坂


日立目白クラブ

日立目白クラブは「おとめ山公園」の東側の高台にある。大正末期まで近衛邸のあった地に、学習院に通う生徒の寄宿舎として宮内 省が建設し、昭和寮と呼ばれていた。昭和28年から、日立製作所が社員の福利厚生施設として所有。本館は日立目白クラブとして、別館は教会として使用され ている。本館の特徴は、白い壁、赤いスペイン瓦、小屋根を載せた高い煙突、そして縦長のアーチの窓、段々状の変化に富んだスカイラインである。別館も、本 館と一体でデザインされアーチ型の窓をもち、白い端正な姿で統一されている。



日立目白クラブ


日立目白クラブ正面玄関から真っ直ぐに徳川黎明館、目白庭園、さらにその北にある「上り屋敷」向かって歩くと道の真ん中にケヤキの大木が立っている。1900 年(明治33年)に公爵。貴族院議員、貴族院議長、学習院院長の近衛篤麿氏が2万坪を購入し、屋敷を構えたときの屋敷の車回しのロータリーがあったところ に植えられたものという。樹齢100年を越す由緒ある古木だという。近衛篤麿氏は1904年(明治37年)1月1日に中国に渡航したさいに感染した伝染病が原因で急死 その後に残された膨大な借財を返却すべく大正8年頃から書画骨董の売却をはじめ、大正11年ついに屋敷を手放す事になり、帝室林野局に売却され、その分譲を したのが「東京土地住宅株式会社」道路・下水等の設備をして、「近衛町」と名付けて売り出されたという。日立目白クラブもそのときに建設されたということ らしい。戦前の典型的山手の住宅地というわけだ。

目白庭園

目白通りにでたところで、目白駅と学習院正門と川村学園に立ち寄る。目白通りを横断し、真っ直ぐ北上するとやがて左側に目白庭園の長屋門と築地塀(ついじべい)が見えてくる。目白庭園は、平成2年11月に作庭された割と新しい日本庭園だという。目白庭園内は約860坪程あり、回遊式の日本庭園と赤鳥庵という和風建築の建物が置かれている。四阿では近くの住人がウクレレを練習していた。目白庭園の西側には徳川黎明館があるがパス。



目白庭園

上り屋敷公園

西武池袋線の踏切を渡って更に北上すると「上り屋敷(あがりやしき)公園」がある。中央に巨大なムクノキがある。上り屋敷 とは江戸時代の狩猟地における休憩所のことで、この地域の南側(豊島区目白・新宿区下落合)に広がる徳川家の狩猟地(おとめ山公園の項を参照)に来た将軍 らのための休憩所がここにあったことが、地名の由来とされている。かつて西武池袋線にあった「上り屋敷駅」は、1953年(昭和28年)に廃駅となった。手持 ちの地図では「上り屋敷公園」の北側に農林中金の社宅があった。これが取り壊されてPark Homes Mejiro The Terraceという超高級マンションが三井不動産によって建設中だった。隣にあるThe Forestが即日完売だったためのようだ。公務員住宅といい、政府系農林中金宿舎といい、国家財政が左前になって維持不能となり、民間に払い下げられてい る動きが見て取れる。



上り屋敷公園のムクノキ

羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎として、アメリカが生んだ巨匠フランク・ロイド・ライトの設計になるという自由学園明日館(みょうにちかん)がこの散策コースにあるはずとS.K.から教えられたが、そのときはそばを歩いたが気が付かず通り過ぎた。

立教大キャンパス


全日本山岳写真展の集合時間にはまだ1時間を残していたので、立教大キャンパスを訪れた。前日の9月2日に七里ヶ浜の88才の御老体ピリポ丹羽氏が天に召され て鎌倉聖ミカエル教会で葬送式があった。このとき氏が25才のとき、立教学院諸聖徒礼拝堂で洗礼を受けたと聞いたからである。

このキャンパスは大きくはないが、東京にある大学のキャンパスとしては最も美しいものだろう。なぜかなと思っていると基本計画はニューヨークの建築家マー フィー&ダナ建築事務所がつくったものだという。中央に搭屋を持つ本館を据え、左に図書館、右に諸聖徒礼拝堂(チャペル)を配して正面を構成し、 更に中央の軸線を延長して中庭を囲んで学生食堂を中心に左右に寄宿舎をととのえる構成になっている。各建物はゴシック・リヴァイバル様式を基調とした赤レ ンガ造りでまとめられている。



本館



学生食堂

諸聖徒礼拝堂(チャペル)ではパイプオルガンの演奏があった。



諸聖徒礼拝堂


七曲がり坂

聖母病院から下る坂道

久七坂

<中落合>

見晴坂

<中井>

一の坂

二の坂

三の坂

四の坂

坂の途中の300坪の竹林は「放浪記」の作家林芙美子の終の住処である。現在は記念館になっている。ここで落合町山川(さんせん)記を書いている。


<牛込台地>

神楽坂 牛込台地は漱石の終の住処となったところである。ここには自宅跡に漱石山房記念館がある。神楽坂では米映画The Postを見に出かかたときに訪問。



神楽坂 2018/8/25

August 10, 2014

Rev. October 14, 2018


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