谷中(やなか)七福神

谷中にある七福神巡りは江戸時代に始まった中でも最も古いものだという。 ここを歩いた友人S.K.が案内してくれるというので参加した。全長5kmの短いものだ。

1
東覚寺

北区田畑2-7-3
福禄寿
2
青雲寺

荒川区日暮里3-6-4 恵比寿
3
花見寺修性院

荒川区日暮里3-7-12
布袋
4
天王寺 台東区谷中7-14-8 毘沙門天
5
長安寺

台東区谷中5-2-22 寿老人
6
護国院

上野公園10-18
大黒天
7
不忍之池弁天堂

上野公園2-1
弁財天

2017/1/6 13:00 田畑駅集合。

田畑駅下車は初めてだ。古いがなかなか品がある。時間的な余裕があるとのことでまず田端文士 村記念館に立ち寄る。そもそも、なぜ田端に文士が大勢住んだのかというと芥川龍之介が第一次大戦勃発の大正3年に両親と移り住んだためらしい。以降、大勢 の文士が慕ってこの界隈に移り住んだため田端は「日本のモンマルトル」あるいは「田端文士村」と呼ばれるようになったようだ。とはいえ、芥川はその後、鎌倉の材木座、 横須賀、鵠沼にも住んでいて、大正8年から本格的にここに住んだようだ。鹿島組の二代目の息子の瀧蔵もここに住み、彼等のパトロン的存在であった。記念館 には芥川の家の模型も再現されている。記念館は切通しになっている田端駅前通りの上野側にあって立ち寄らなかったが田端駅の西側の丘陵の上にあったらし い。

我々はこの切通しに沿って坂を下り、東覚寺に向かった。東覚寺の裏庭は地形を利用して回遊式 庭園となっている。谷田橋交差点で左折しかなり歩いて、ちょっと奥まった青雲寺に向かう。青雲寺は環状線の内側の丘陵を背にして立地している。滝沢馬琴の 筆塚がある。

環状線の内側の丘陵地帯にそった道を少し進むと修正院がある。コンクリート造りだが中には巨 大な布袋さんが居座っている。

更に進むと左手に富士見坂があった。坂の向こう側の谷には山手線が丘に沿って走っている。昔 はこの坂から富士山が見えたはずであるが今ではビルが建て込んで見えない。

こ こは新田次郎の小説『栄光の岩壁』の主人公のモデル芳野満彦が住んだ街でもある。富士見坂の一番上の左手、いまの朝日富士見坂マンションの所だという。芳 野満彦は日本人としては初登頂したマッタ―ホーン北壁は素人が登れる山では。だが私も若い頃、憧れてわざわざでかけてゴルナーグラードからツエルマットまでウンターテオドウル氷河を横にみながらダウンヒルした。


下から見る富士見坂

事前にYahooのルートラボでたどったルートはこの富士見坂を登って丘の上を辿ることにし ていたが、標準ルートは谷中の谷底を辿るルートである。この谷底の道はやがて「夕やけだんだん」とクロスする。この階段は日暮里駅方面からおかに登って谷 中銀座に下る坂につけた階段である。階段の下は谷中銀座商店街で下町の情緒がある。ここでマス酒を1合味わう。

この「夕やけだんだん」を登って丘の上に出ると左手に経王寺という寺の山門がある。この扉には今も銃弾の痕が残っている。慶応4年(1868)の「上野戦争」のとき、敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけた時のものだという。



銃弾の跡

丘を登り、ピークを過ぎて下り坂になると御殿坂の標識がある。名前は大きいが大した坂ではない。やがて日暮里駅に着く。ここで右折して谷中墓地の縁を天王寺に向かう。途中紅葉坂の標識をみた。天王寺はかって谷中の墓地を散策したとき、前を通った寺である。

墓地を横切って長安寺に向かう。ここには幕末から明治期の画家、狩野芳崖の墓があった。事前で想定したルートは長安寺を先に回るルートであった。

再び谷中墓地にもどり上野桜木交差点経由、護国院に向かう。墓地出口近くで「郵便局の木」として定められている「たらよう」の木が健在であることを確認。護国院は立派な建物だった。ここから坂を下り、不忍池にある弁天堂に向かった。

弁天堂のあとは上野の山に登り、上野駅前でエビスビールで乾杯して散会。

参加者:小粥、北澤、大久保、宮沢、青木

七福神めぐり

January 11, 2016

Rev. February 18, 2018


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