神田川
2012年8月20日、日本原子力学会・原子力安全部会出
席のため東大に出かけるついでに伊達正宗が徳川秀忠の命で駿河台(旧本郷台、旧神田台)掘削して神田川の放水路を作った大工事を体感しようと飯田橋から御茶ノ水まで歩いた。
井の頭池に源を発し東へ流れ、両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠である。
徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川とよばれていた現在の神田川を改修し、目白で分流して小石川、本郷に水を供給する神田上水を整備した。
神田上水はすでに埋め立てられてなく、取水した関口の大堰も撤去されているが、都市化とともに雨水が神田川に流れ込み神田川は氾濫するようになった。関口ちかくに巨大な穴をあけ、溢流は暗渠に流れ込むようにしてある。これはバランスを回復するために必要な投資だった。
二代将軍徳川秀忠の時代には、江戸城は本郷台から一気に攻められるよと伊達が秀忠に話、東北の守りを固めるために本郷台を切ってそこに平川の水を引き入れ、これ天然の堀とすることを進言した。この工事で、現在の御茶の水に人工の谷を造成した。神
田台の東では、元からあった川を利用して神田台から真東に浅草橋、柳橋の東で隅田川に合流するようにした。掘削の残土は舟にのせて運び日比谷入江を埋め立てるために使われた。この改修によって、平川の元の河道は切り離され
て江戸城の堀となり、東に流れるようになった平川は「神田川」と呼ばれるようになった。
2つに分断された本郷台地の江戸城側は、家康付きの旗本(駿河衆)が家康没後に多くの屋敷をかまえたため「駿河台」と言われるようになった神田川は仙台藩
が普請したため、江戸時代を通じて「仙台堀」と言われることになった。この工事により仙台藩の財政は疲弊したが、政宗の幕府に対する発言力は増し、秀忠・
家光の後見人として、また副将軍として扱われた。しかし政宗没後、今度は孫の綱宗に堀の拡張工事が命じられ、藩財政に大きなダメージを与えた。これが有名
な伊達騒動のきっかけになったとも言われる。
飯田橋駅で下車してホームから見える池は外堀で神田川から取水しているいわば盲腸のような溜り水である。飯田橋東口からでて歩道橋の上に出ると椿山荘のほ
うから目白通りに沿って北から流れ下る神田川が見える。そこから神田川と外堀をつなく水路は細い。神田川はここで左折し東に向かう。神田川にそって首都高
速に下をあるくと歩きやすい遊歩道になっていて結構な人が歩いている。水道橋手前で旧平川は右折するが、ここで伊達正宗が掘った掘割(または仙台掘り)が
始まる。
右手旧平川正面仙台掘り
水道橋をすぎると道は上り坂になる。仙台掘りは次第に深くなる。
次第に深くなる仙台堀り
坂を登ってゆくと、路傍に神田上水懸樋記念碑があった。関口大洗堰(現在の大滝橋あたり)で神田上水を取水して後楽園の北側を迂回して本郷台の等高線にそって駿河台西一帯に給水していたのだろう。伊達の仙台掘がこの下を掘削したため神田上水は木製の樋でその上を通したのだろうと察する。
神田上水懸樋記念碑
本郷台の坂の頂上を過ぎるところにお茶の水駅と聖橋がある。眼下には丸ノ内線が水面ギリギリで神田川を渡り、さらに向うに秋葉原方面が見えた。津波が丸ノ内線にながれこまないように水門が用意されていた。

御茶ノ水
August 22, 2012
Rev. June 4, 2014