巨福呂(こぶくろ)坂切通

鎌倉七口の一つ。第3代執権北条泰時が命じて作らせた切通しと一般に思われている。

2008年1月26日、グリーンウッド氏は初めて巨福呂坂切通旧道を訪れた。現在は新道が開通しているため、旧巨福呂坂は通行できず、庚申塔や道祖神が一部残るのみであると案内に書いてある。途中二股になり、左には横須賀市の水道管が通る専用の隧道がある。右に行けば道幅が次第に狭くなりつつ上り坂がさらに続いている。右の旧道を進むと道端に青梅聖天(おうめしょうてん)の鳥居が立っていて、鳥居の先には石段が山の上の社にまで続いている。巌窟の内に聖天(大聖歓喜天)の宮がある。このような事からこの坂を聖天坂と云う。 昔鎌倉の将軍がある時に病が激しく痛み、その際に青梅を所望された。あわてて探すとこの宮の前にてにわかに青梅の実がみのった。この実を将軍に献上したところ、病が直つた事からこの名がついたといわれている。

青梅聖天の先は私有地となり、強引に進んでも新切通のため断崖になり、通過できないという。その先は円応寺の前に通じていたと思われる。

巨福呂坂切通旧道

鎌倉時代末、新田義貞率いる倒幕軍をこの地で迎え撃ったと言われているが、この時代の戦記で比較的信用されている梅松論では「武蔵路」は第16代執権赤橋守時が大船と深沢の間の洲埼 の千代塚で戦い「一足も退かず自害す」とあり、その後の18日から22日の間「山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし」とある。洲埼の千代塚 とは今の上町屋(まちや)でモノレール下のバス亭工場前から山崎に向かう急坂の途中に洲崎古戦場と書いた石碑がある。一昼夜に65度戦い、6万騎の北条勢は300人に減り、大将の守時は千代塚で自刃。

鎌倉地図

January 12, 2008

Rev. February 9, 2008


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