信州

飯盛山・御座山(おぐらやま)

wakwak山歩会は2005年5月12日から13日にかけて南佐久郡相木村にある御座山(2,112m)にアタックする計画をたて現地入りした 。しかし雨のため登山は断念。リベンジとして同会は季節を晩秋に替え、2006年11月8日から9日にかけて再挑戦した。

前回のような北相木村から南相木村に抜けるルートは車が2台必要なため放棄し、南相木村村営の「立岩荘」(Hotel Serial No.303)に前泊し、南相木村栗生林道終点(1,400m)から登り、南相木村栗生林道終点に下ることとした。標高差712mの往復である。前泊日に時間的なゆとりがあったため 、標高差220m、3時間程度の軽い登山が可能とみて飯盛山にも登ることにした。

第一日2006年11月8日

7日は北海道のサロマ湖近くで寒冷前線通過に伴い竜巻が発生して鹿島建設のサロマトンネル建設工事事務所が倒壊し大勢の死傷者が出た。その原因となった寒冷前線通過に伴う強風と雨のため1日順延したのは正解であった。おかげで絶好の快晴に恵まれた。メンバー4人のうち、クリさんが突然の腰痛に襲われて参加できなかったのは残念なことであった。腰痛はグリーンウッド氏の専売特許ではなくなったようである。

8:00に小田急開成駅を車で出発。途中、富士山と南アルプスの北岳は初冠雪して白銀の世界に入っていた。野辺山のセブンイレブンで弁当を購入し、宇宙・太陽電波観測所の脇を通って、平沢峠に向かう。ここから見る八ヶ岳はいまだ雪を頂かず岩山であるが雲ひとつ無い快晴の下、見事な姿を見せてくれた。

平沢峠より八ヶ岳を望む

平沢峠駐車場で昼食をとる。ちょうどこの峠が分水嶺となっている。ナウマン博士は今から100年前、平沢峠からこの雄大な景色をみて箱根、富士、八ヶ岳、黒姫、妙高、焼山 と言う火山がS字状にならぶことに気がついた。この事実から糸魚川ー静岡構造線を西縁、直江津-平塚を結ぶ線を東縁とする「巨大な溝」(ラテン語でフォッサマグナ )が存在し、その溝の底の裂け目からマグマが上昇して一連の火山となっているという発想を得たという。

11:45平沢峠(1,450m)から平沢山(1,653m)に向かい登ぼり始める。しばらくゆくと尾根にでて平沢山を巻いて飯盛山(1,653m)に向かう道に入る。平沢牧場のフェンスがあり、飯盛山側は平沢牧場内となるため、樹木がなく見晴らしがすばらしい。飯盛山は乙女の乳房と形容される形よい姿を富士山とならんで見せてくれる。富士山はニセ八ヶ岳といわれる金ヶ岳(1,764m)、茅ヶ岳(1,704m)と曲岳(1,642m)の間の観音峠に顔を覗かせている。この富士山とニセ八ヶ岳との関係は八ヶ岳高原音楽堂からみた富士山と同じである。ちょうど富士山、ニセ八ヶ岳、飯盛山、八ヶ岳高原音楽堂が一直線に並んでいるためである。

飯盛山と富士山

八ヶ岳を背に飯盛山に向かう道はすばらしいパノラマをみせてくれる。眼下には清里、そのはるか南に甲斐駒ヶ岳と雪化粧した北岳と間の岳が見える。そしてその左には鳳凰三山。清里から登ってきたという御夫人にあう。

八ヶ岳を背に飯盛山に向かう

13:05飯盛山山頂着。山頂よりのぞむ八ヶ岳は最高だ。このすばらしい景色を見ながら下ろうと、平沢山経由の道を戻ることはせず、清里 に向かって下り、途中から林道を平沢峠に登り返す道を選ぶことに衆議一決。

飯盛山山頂より八ヶ岳を望む

飯盛山より北を望めば眼下に野辺山の宇宙・太陽電波観測所が見え、その向こうに明日登る御座山(2,112m)、そして遠く浅間山、妙高、火打山、焼山まで見える。まさにナウマン博士が見たとおりだ。

東に目を転ずれば、国師ヶ岳(2,592m)、金峰山(2,599m)と瑞垣山(2,230m)などの関東山地がまじかに見える。そして東南には眼下に平沢牧場、そして遠方にニセ八ヶ岳と富士山。

飯盛山山頂より平沢牧場と富士山を望む

最近の研究でフォッサマグナは中生代より古い大地が陥没してできた溝で深さ6,000mまでボーリングしてもすべて新生代の洪積地層であったことがわかっている。その溝の西縁はナウマン博士がみつけた糸魚川ー静岡構造線である。しかしその東縁は明確ではなく、実はもっと東にあり 、南部は柏崎ー千葉構造線で北部は新発田ー小出構造線と考えられている。

糸魚川ー静岡構造線以西のユーラシアプレートの下にはフィリピンプレートが東西の南海トラフを作って北方に沈み込み、その東の北米プレートの下には太平洋プレートが日本海溝を作って西方に沈みこんでいる。ユーラシアプレートと北米プレートは比重がほぼおなじなのでどちらかが沈み込むことはなく、ヒマラヤ山脈のようにユーラシアプレートと押し合いへしあい褶曲し、凸部が日本アルプスで凹部がフォッサマグナということになる。 穂高岳は新生代に噴火したスーパーボルケーノであったという。

糸魚川ー静岡構造線の南端、富士川が駿河湾にそそぐあたりにユーラシアプレート、北米プレート、フィリピンプレート の3つのプレートが1ヶ所で交わる三重点(トリプルジャンクション)となっている。学問的に興味のある地点なので、富士川河口から、御前崎にかけては国家予算が投じられて観測網が整備され、 東南海地震が政治的に大々的に喧伝されている。

しかし予想とは裏腹に地震被害は神戸、新潟、宮城など別のところで発生し、学者の予言は予算ほしさではないかと一般庶民は不信の目を向けはじめている。 一番怖い社会現象だ。そして政治的に大々的に喧伝されてというのに浜岡原発はその御前崎の砂丘の後ろに建設されているのだ。そして柏崎刈羽原発は柏崎ー千葉構造線上にあるのだ。

フォッサマグナ全構造の鳥瞰図

本図は御前崎上空230kmから16mm広角レンズで6.3度方向、60度下方に俯瞰したものである

2004年の新潟中越地震は新発田ー小出構造線 に並行に走る断層が 太平洋プレートに押されて動いたものだ。 神戸地震もそうだが、断層線上のほうが海洋プレート沈み込みによる南海地震より怖いということがわかる。たしかに海溝型の地震はマグニチュードが大きいが、遠い海上で発生するため、津波以外の被害は少ない。学者が未発見の断層を探してあるくという地味な研究をきらっていることも学者の信用が地に落ちる要因ではないか。海溝型は地下の構造がわかっているので遠隔で自動的に取得したデータを解析して論文を発表するという安易な方向に流れがちである。

八海山から見えた魚沼丘陵が新発田ー小出構造線を構成していることが分かる。柏崎ー千葉構造線は古利根川が越えられなかった下総台地や猿島台地に現れているのだろう。ということは新潟平野、善光寺平、甲府盆地、関東平野の西部もフォッサマグナ地帯ということになる。フォッサマグナに落ち残ったものが関東山地ということだ。たぶん飯盛山は関東山地の西端なのだ。そしてニセ八ヶ岳も御座山も秩父盆地も関東山地を構成しているのであろう。残る山は全てマグマが噴出した火山だ。このような雄大な地形を満喫して山を下る3人であった。

14:45平沢峠駐車場着。駐車場近くに平賀源心入道の胴塚があった。1536年、武田晴信16才の初陣のとき、海ノ口城(城山)に相木氏らと篭って父信虎が3月かかっても落とせなかった海ノ口城を奇襲によって落とした。このとき死んだ平賀源心の遺体を海ノ口城からここまで運んだが、重いので首だけ切り離し、胴をここに埋めたものという。 平賀源心入道の本城は佐久の平賀城

南相木村の登山口を下見してから立岩荘に移動した。南相木村は海ノ口城に平賀源心と一緒に篭った相木氏の名に由来するようだ。立岩湖をみながら風呂をあびて一杯。来年の計画に話の花が咲くのであった。

第二日2006年11月9日

立岩荘は村営だが客は我々3名と外に1名のみであった。赤字経営だろう。それにしても公民館、村役場、滝見の湯、道路、民家のどれをみても金持ちの村という印象。どういう経済構造をしているのか興味を持つ。立岩荘の前には立岩湖があり 、釣り人が一日釣券を買いに立岩荘に立ち寄る。対岸は別荘地らしい。早朝、黒い犬を連れた夫婦が散歩がてら立岩荘に立ち寄り、新聞を持って自宅に帰った。

立岩荘の窓から見る立岩湖

8:10南相木村栗生林道終点を出発、9:10不動の滝に到達。この山は水を通さない岩盤がほぼ水平に何層か重なり、水を通さない岩盤の上に降る雨が滝となって流れおちているようだ。不動の滝下をトラバースしてこの岩盤を避けてさらに登るとついに鎖場となっている岩盤に到達する。鎖は使わず岩登りの要領で登る。不要となったストックはマーさんが持ってくれた。これを登ると山頂の南にある小ピークに達する。この小ピークと山頂との間にある鞍部に鎖を伝って下り、岩盤の痩せ尾根を伝って山頂にむけて斜面を登りかえすと、避難小屋があった。避難小屋の裏手が オーバーハングした岩盤でそこが山頂であった。

御座山山頂より北八ヶ岳

ここからの景色は絶景。西をみれば北八ヶ岳、北西に北アルプス、そして順に東に焼山、火打山、妙高、浅間山、根子岳、四阿山、湯の丸高原、浅間山、妙義山と見える。その手前には妙義山、そして遠方に武尊山、至仏山、燧ヶ岳などが見える。 妙義山などの関東山地の上を新潟の柏崎原発から群馬に入りそこから50万ボルトの送電線が延々とやってくるのが見える。

御座山山頂にて マーさん撮影

南には昨日飯盛山から見たと同じ風景が見える。

ここで昼食の後、11:55山頂を後にする。10:50山頂着だったのでほぼ1時間ゆっくりしたことになる。鎖場はいやなので北相木村に下るオプションも頭をかすめるが、パーティーを割るのは好ましいことではないので行動を共にする。 再度南の小ピークには鎖場を上り直さねばならない。ここで小ピークの東方の木の間に真新しいロックフィル・ダムを発見する。

御座山南ピークより南相木ダムを望む

尾根に近いところにあり、降雨面積はダム面積の10倍程度で純粋な揚水発電用ダムと見受けた。下山して2005年運転開始した神流川発電所の上のダムと判明。 上のダムは大黒沢をせき止めている。下のダムは群馬県の上野村を流れる神流川をせき止めたものだ。両方のダムは1985年8月12日にJAL123号が墜落した御巣鷹山の下を貫通するトンネルで結ばれている。


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13:10不動の滝着、13:55南相木村栗生林道終点着。今回の登山のパーフォーマンスは登り垂直速度267m/h、下り垂直速度356m/hであった。グリーンウッドモデルによれば勾配が0.2以上の登山においては登りの垂直速度250m/h、下りの垂直速度330m/hで登坂時間を推定して良いことにしているのでそれより多少よかったということになる。

実績では今回登り下りとも昭文社の登山地図記載の標準コースタイムの1.3倍かかっている。今回は登りは少し早かった。wakwakの平均パーフォーマンスはマーさんが整理したように昭文社標準コースタイムの 登りが1.2倍、下りが1.3倍である。

ついでに近くの南相木温泉の「滝見の湯」(Hot spring Serial No.216)で汗を流して、帰途につく。清里から飯盛山が見えることを確認した。

なおこの登山からペンタックスのOptio W20を使った。

November 11, 2006

Rev. April 27, 2010


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