能登半島・若狭湾周遊ドライブ

第6日

渡岸寺、華厳寺

2006年4月28日(金曜日) 朝食後すぐ「気比(けひ)の松原」に向 かう。国有林として保護されてきた松の古木が鬱蒼と茂る林で中に散策路が縦横に通じている。浜も広い。駐車場は浜の見えるところにあって便利だ。しかし直 ぐ横に 松林を矩形に伐採して浜をコンクリートで仕切り、広大な野球場を造ってあるのには失望した。折角の名勝が台無しである。野球場を造るのは良しとしてそのあ まりに無神経で雑なやりかたに絶望感をもつのである。下の写真はその野球場が写らないように苦心した作品である。

司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ4「郡上・白川街道 堺・紀州街道ほ か」によれば、奈良朝末期から平安初期にかけて渤海国の使節が朝貢貿易のためにし ばしば敦賀湾にやってきてこの「気比の松原」の浜に到着したという。能登半島の先から千里浜をドライブして来た体験からさもありなんと感ずる。

気比の松原

北前船の荷を敦賀で荷揚げし、琵琶湖の北岸の塩津まで輸送した塩津街道を使いたかったが時間不足で敦賀ICから木之本 ICまで北陸道を使う。そして高月町の渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音を拝観する。井上靖の小説「星と祭」にでてくる国宝 の十一面観音である。 全国にある十一面観音像の総計201体のうち約40体がこの湖畔にあるというがいずれも信長によって焼かれ、像だけが村人によって救出されたようだ。この 観音も一時地中に埋めて戦火をまぬがれたという。魅力あるお姿を気に入り、井上靖の写真入り解説本 「十一面観音」を買い求める。2006/10/3-12/3の予定でこの十一面観音像が東京国立博物館平成館で展示予定だそうである。>

木之本IC近傍には羽柴秀吉が柴田勝家を破った古戦場の賤ヶ岳(しずがたけ421mがある。また渡岸寺の南東の小谷山(495m)の中腹には信長によって滅ぼされた浅井(あ ざい)の居城だった小谷(おだに)城跡がある。

渡岸寺

旅の最後に養老天命反転地(Theme Park Serial No.233)を訪問 することも考えたが、次回に譲り、西国第33番谷汲山(たにぐみざん)華厳寺を訪ね た。白洲正子の「西国巡礼」 にはこの満願寺と西国第1番那智山青渡岸寺を参拝 して準満願とする人もいるとのことなので我もせんと欲したのである。

渡岸寺から華厳寺に移動するには八草トンネル経由の国道303号を通って揖斐峡経由が良いだろう。第30番がある琵琶湖 の竹生島から33番に向かうかっての巡礼道もこれではないかとにらんだのである。しかしナビが受け付けない。30分悪戦苦闘して国道303号が土砂崩れで 通行不能と判明した。ナビは無線で道路事情を自動受信して知っていたのである。 脱帽!

2022/7/21の84才にTVで揖斐川の上流は徳山村をすべて潰して関西電力の発電ダムとなったいきさつをしった。

やむをえず木之本ICから北陸道に入り、名神自動車道を東に向かった。いまだ山頂に残雪をいだく伊吹山が形の良い山体を 見せている。白洲正子も伊吹山の麓を歩いたと書いてある。関が原を通過し、ナビに従い大垣ICで降りて大垣市内を縦断し、国道22号を東北方向に瑞穂市に 向かう。関が原の前に三成が家康を待っていて家康に無視された大垣城は今はない。

ここで県道23号に入り北上する。やがて右手東方に小高い山が見え、山頂に白亜の天主閣が見えた。これは金華山 (329m)山頂にある岐阜城とみた。長良川を眼下におさめる岩山の上にそびえる岐阜城は、戦国時代に斎藤道三が着手し、織田信長が本格的に築城した。視覚によ る人心掌握を目的とし頁岩の塊の上に樹木を切り払って、建てたため、領地からよく見える。 家康が大垣城を横目に赤坂高地経由関が原に向かう前に攻め落とした城だ。現在の城は、昭和31年に復興された鉄筋コンクリート造り3層4階構造である。

同じように山の上に在る城として国宝犬山城がある。岐阜の東方15kmの木曽川沿いの犬山市にある現存する日本最古の城だ。

県道23号をそのまま北上すると道の名は国道157号に変る。根尾川と樽見鉄道と並行に走りながら山間部に入ってゆく。 本巣市に入ると織部駅という名前や道の駅織部の里も見える。銅緑釉(どうりょくゆう)という釉を使う 織部焼きの創始者古田織部は本巣の生まれだからあやかったのだろう。古田織部は信長、秀吉、 家康、秀忠に仕えた武将でありながら、天下一の数寄者として名を馳せた。利休が完成された「侘び」の精神を継承しながら、「織部好み」とよばれる大胆で自 由な茶の湯を創りだした。山城国西ヶ岡城主となっころより、美濃の陶工を指導。日 本で初めて陶器産業に大量生産、大量消費の仕組みをもたらしたイノベーターでもあった。かってバイクで走った旧中山道の通る美濃の多治 見市近傍 には今でもセラミック工業が集中していて織部の里とか陶芸村志野の里などがある。

国道157号はそのまま直進すれば根尾谷の日本三大桜である樹齢1,500年の天然記念物、淡墨桜に 至るはずである。谷汲山に向かうには 途中で左折し谷汲山大橋を渡ってしばらく西に向かうことになる。

華厳寺は西国33ヶ所の最後の満願霊場だけあって、門前町が発達している。谷汲山の名は近くの谷で油が湧き出ていてこれ を灯明につかったからという。

ここでついに観念して御朱印帳を購入し、朱印もらう。仁王門前の”富岡屋”で満願の前祝としてウナギ定食を注文する。(Restaurant Serial No.278)

西国33番谷汲山華厳寺仁王門

大垣ICにもどる時、なぜかナビは揖斐町の方に門前町を真っ直ぐ南下する別ルートを採用した。 揖斐川(いびがわ)を渡り、右手の丘陵地帯を見ながら南下することになった。この丘陵地帯が赤坂高地といわ れるもので、家康が三成がこもる大垣城を無視して関が原に進む決断をしたところだ。

揖斐川は長良川、木曽川とともに木曽三川と言われ、濃尾平野を作り、日本の近世の先駆けと なる 戦闘集団のゆりかごとなった川である。

小牧Jctは秀吉と家康が雌雄を決する小牧・長久手の合戦をしたところだ。

掛川には今NHKで放映中の山内一豊が大規模な城郭修築を行った掛川城が木造で再建されているはず だが東海道からは見えなかった。厚木IC経由帰宅。

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May 1, 2006

Rev. July 22, 2022


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